第26話 春の訪れ、その先へ
その年の冬はいつになく寒く、都は白く深い雪に覆われていた。新年の祝い事や宴もなく朝廷を行きかう人もまばらで都はいつまでたってもひっそりと静まり返っていた。人々はじっと身を潜め春の到来を待っているようだ。
ポタポタ、ポタッポタッ…
軒下から雫の落ちる音が響いている。宮の敷地内を流れる小川も奥飛鳥の山々からの雪解け水で溢れていた。
「
朝から
「ええ、今行くわ」
戸を開けると、朝の陽ざしの中に嬉しそうに
「西側の庭に来てください。紅梅が咲いたのです。春が来ましたよ
早く、早くと急かす彼女に連れられ宮の西側にある庭に行ってみると、明るく紅色をした紅梅が満開だった。小さな葉や枝に着いた夜露が淡い陽ざしを受けキラキラと輝いている。まだ少し雪が残るセピアカラーの世界の中で、その明るい紅色の花びらは一層美しさを増していた。
「いつのまに…」
「そうなのです、私も久ぶりにこの庭に来たので驚きました」
すぐ近くに植えてある蝋梅の蕾も大きく膨らんでいる。
「
「そうね」
冬の始まりから雪が降る日が多く、ここ最近は薬草庫での仕事はほとんどなかった。
山代王は雪解けと共に会いに来てくれるだろうか…今度こそ交わした約束が叶うだろうか…。
ふと、そんな期待が花の蕾と共に膨らんだ。梅の微かな香りを含んだ冷たい空気を胸いっぱい吸い込み、目を閉じた。
ホーホケキョ、ケキョケキョ…
うぐいすの可愛らしい鳴き声があちこちで聞こえる。すっかり寒さは遠のき日ごとに道端の緑が芽吹きだした。薬草庫での仕事も始まり、飛鳥川沿いに生える春の野草も多く見るようになった。
温かな陽気の中、色とりどりの花が咲き乱れ、まるでカラフルなキャンバスの中にいるようで心が躍った。
仕事の帰りに飛鳥川沿いの土手で野草を摘むことが毎日の日課になっていた。そろそろ菜の花が土手一杯に咲き始める頃だ。菜の花は花が咲く前に摘むと花先から茎まで柔らかく美味しく食べることが出来る。私は、少しだけ黄色の蕾を付けた菜の花のタイミングを見て、宮の蔵から大きな籠を持ち出し意気揚々と摘みに向かった。
旬の食材はとにかく美味しく文句のつけようがない。春になり日が伸びたものの、摘むのに夢中で夕暮れになるまで気が付かなかった。欲を出したつもりはないが、予想以上に籠は重くずっしりとしていて肩に紐が食い込んだ。
重い籠を背負いヨロヨロと帰りの道を歩いていると背後から馬の蹄の音が聞こえてきた。この狭い土手道を通る人はめったに居ないのだが音が近づいてくるので道の端に寄った。途端に足元がよろけバランスを崩し前方につんのめった。このままだと土手下まで転がり落ちる、そう思った瞬間、誰かが後ろから籠をひっぱった。なんとか私の体はバランスを取り戻しおかげで転倒することなく、大惨事を免れた。
顔を上げて見ると、
「り、
大声で叫んだ。
「そなたは何故いつもそうなのだ!!何故もっと注意深くいられぬのだ!いつ見ても目が離せぬ、こっちはとばっちりもいいとこだ!!」
今日の
自分がドジだと今まで思った事はないが、慎重な人間だとも言えない。彼の言うとおりかもしれないと思うと恥ずかしさで顔が熱くなった。この時代に大怪我でもしたら命取りだと誰よりも知っているはずなのに…。
「…そんなに大量の菜の花をかついで商売でも始める気か?」
相変わらず意地の悪い言葉ではあったが助けてもらった手前、今日は大人しくしていようと思った。
「い、いえ、今晩湯がいて屋敷の皆と食べようかと…今が旬なので…」
「まったく、欲深い奴だ…」
一瞬の出来事に声を上げる間などなかった。私が驚いた顔をして見ると、
「じき日が沈む、春の底冷えは後に体に障る。
とても気まずい。会話もないし、私はチラチラと彼の顔を見上げたがピクリとも反応しない。気まずさを感じているのは私だけのようだ。
それにしてもこれまでに彼にいくつもの借りを作っているようで気が重い…。とにかくこの気まずい雰囲気を変えたくて、薬草庫で見つけた生薬の事を思い切って聞いてみた。
「
「…当然だ。酔いつぶれたそなたを誰が屋敷まで運んでいったと思うのだ」
「あっ…はい。あの時、私に塗薬を届けてくださったのは…
「…なんの話か分からぬが、迷惑をかけられた上にそなたに薬まで届けるお人よしに見えるか?」
「あっ…いえ…」
私はそう言うと、これ以上聞くのを止めた。まぁ…そうね、とは思ったものの何となく彼がひた隠す不器用な優しさを心のどこかで確信したかった。
パカッパカッ、パカッパカッ。
馬の蹄の音だけがさっきから鳴り響いている。馬が東門の前で静かに止まると、門番の
「
私が籠を受け取り門をくぐろうとした時、
「明後日、高取山の麓に弓を射に行く、あそこは野草も多く山菜も採れる。一緒についてまいれ」
「えっ?」
私はクルッと振り返り、すかさず彼を見た。
「では、明後日
彼は何事も無かったかの様に馬の手綱をひくと、私の返事を待たずに去って行った。
強引さは健在だ。まぁ、明後日は仕事もないし、気晴らしに彼に付き合うのも悪くないと思った。
「
「そうよ、欲を出しすぎたせいで
私が少しふてくされながら答えると、
「へぇ…あのぅ以前から思っていたのですが、申し上げても良いですか?」
「実に
「え?そう?…まぁ、そうね、不思議と
腐れ縁でもあるのだろうか?私は軽くため息をついたあと
約束の日は朝から空は青く澄み渡り、ポカポカと暖かく穏やかだった。私は動きやすい服装に着替えたあと適当なサイズの籠を探していた。
「
「まぁね、弓は持たないけれど
「はぁ…よりによって
「
「まぁ、それはそうですが…」
「おはようございます。
「馬車?いいえ、私も馬を走らせるわ、せっかくの良い天気だものやっと訪れた春の風を感じたいわ」
「しかし、女人が乗馬だなんて…」
「大丈夫よ、心配いらないわ」
「なれど、
「案ずることはないわ、こう見えても乗馬は得意よ」
私は従者達が連れていた馬に静かに近づくと、少し間を置いて頭をゆっくりと撫でた。馬が慣れてきたところを見計らって手綱をつかみ、すっと背に乗った。良かった、大人しい良い馬だ。山代王から習った乗馬がこんなにも役立つとは思わなかった。
「さぁ、行きましょう」
私が得意げな顔で言うと
「はぁ…仕方ありませんね。ゆっくり参りましょう」
と言い、私達は出発した。朝の風はまだ冷たく頬に当たるとぴりぴりとした。
山と山の間を通り抜けるとのどかな田園風景が広がった。鳥のさえずりがあちこちから聞こえ、田畑は小さな新芽がびっしりと芽吹いている。早春の穏やかな陽ざしの中しばらく進むと、
「
「大丈夫よ!」
私達はそのまま馬を走らせた。山を抜けると目の前が開け、広い野原に出た。
パカッパカッ、
「止まれ!」
先を行く
「若様、今到着いたしました」
「思ったよりも来るのが早かったな」
「はい、
「この土地にはそなたの好む山菜野草がたんまりある、好きなだけ摘んでいくといい」
「はい…」
「
「はっ!!」
野原の奥に藁でできた人形が等間隔で何体か立っている。二人はそれに向かい行ってしまった。私は持ってきた籠を馬から降ろし周りを見渡した。
「あっタラの芽!ふきのとう!こごみもある!」
春の山野は雪解けと共に若々しい新芽でいっぱいだ。この季節しか味わえない食材の宝庫を前に私は嬉しくてぴょんぴょんと飛び上がった。一気にテンションが上がりすぐに大好きな野草摘みを始めた。
どれくらい時間がたったのかわからないが、お腹がグーグーとなり始めた。籠はもちろんもういっぱいだ。中からセリの香りがプーンと漂った。
あぁ、お腹がすいた…なにか食べよう。
適当な平らな場所を見つけたあと、小さなござを広げ食事を始めた。遠くに
「沢山摘んだな、なれど毎日山菜料理では飽きてしまう」
この少し嫌味を含んだ言い方にもだいぶ慣れたのか特になんとも思わなくなった。
「十種類以上あるので沢山の料理方法があるのです。例えばお浸しや、塩漬け、あと天ぷらもあります!」
あっ、天ぷらは無理だ…と心の中で叫んだが
「そなたも、矢を射ってみるか?」
「えっ?」
「普通の女人であれば、馬を乗りこなすことはないし矢を射ることもないが…そなたは他の女人と違い変わり者であるし、何よりも筋が良い。ついてこい」
「えっ?…」
弓道みたいな感じかしら…やったことないけど…。
戸惑いながらも
「一つ一つの動作を正確に、背筋を伸ばし、まずは射る先を見よ。次に正面を向き手元をしっかりみて手を置く。中指と薬指を弦にかけ、人差し指と親指で矢をつまめ、そのまま再び物見をして、ゆっくりと肘を張る…」
背後で
「り、
私が目を丸くし驚いた表情で振り返ると、
「フフッ…」
…
私はなんだか妙に感動してしまい、不覚にも彼の笑い顔に見入ってしまった。
「そなた、やはり筋が良い。練習すれば良い弓手となろう」
「り、
「であろう。弓を放てばそなたの憂いも少しは晴れよう。さぁ、見ているからもう一度やってみよ」
心の憂いを彼に話した記憶はないが、この爽快感はこの古代ではなかなか味わえない。乗馬ともまた違う。私は彼に言われるがままに再び弓と矢を持った。
帰りの時間まで
ガタガタと馬車がゆっくり走り始めた。私は擦れて赤くなった指に息を吹きかけながら、
「ねぇ、
去年の夏の朝、
「もちろんいらっしゃいます。正妃の
「…そう」
「それが何か?」
「いえ…大した事ではないのよ。夫人や侍女と一緒にいるのを見たことがなかったから、聞いてみただけよ」
「確かに、若様はめずらしく正妃の
「そう…よほど夫人のことを愛していらっしゃるのね」
「ん~…」
「
…キタ。
「もちろんよ」
「実はわたくしの中でもずっと、そのことが疑問なのです。若様と
「…つまり、女人には関心がない…でもそれの何が問題なの?」
私は眉をひそめ尋ねた。
「い、いえ、そうではないのです…。若様は多くの大臣や大連様達のように女人に惑わされ、それに労力を費やすような無駄なことは一切いたしません。朝廷では小さな失敗でも足を救われますし、苦労して築き上げた地位や権力を一瞬で失うような愚かな行動は間違ってもいたしません。同様に一時の気の迷いで感情的になったり、道を踏み間違えた事も今までに一度もありません…ただ…」
「ただ?」
「ただ…人生に面白みがないというか…生活に彩りがないと言うか…人間味がないというか…す、すみません!決して悪口ではないのです、朝廷や政ばかりに囚われずに生きられれば、もっと自由で楽しく気楽なんじゃないかと思いまして…」
彼もまたとても誠実で主人に忠実な良い臣下だ。
「あなたのような良い臣下を持ち
私が言うと
馬車が
「
「え?」
「また、弓の練習に付き合えと。次は百本射るまで終わらないと、おっしゃっておりました」
「ええ⁉︎」
私が大声を上げると、
「
「ハァ…私は
私は鼻を膨らませ興奮しながら腕の袖をめくりあげた。
「さすが
もはや普通でない女人という言葉が褒め言葉にも感じる。
まったく…何を考えているんだか…こんなに
私はこの時期、
クタクタの体と足に鞭を打ち大きな野草でいっぱいの籠を引きずりながら宮の門をくぐった。門の脇に一本だけ植えられた桃の木に小さなピンクの花がまだ少しだけ残っている。去年、桃林で酔い潰れた夜を思い出しなんだか可笑しくて一人笑った。
田畑や山々は青々と生い茂りいつのまにか季節は初夏を迎えていた。
「
「仕方ないじゃない、
「はぁ…自由奔放な
「大丈夫よ。この先はきっと窮屈な生活だと思うから、今のうちに羽を伸ばしておくわ。私最近弓矢の腕をあげたのよ」
私が言うと
「なんと呑気な…でも、お気を付けください」
と、あきらめた様子でため息まじりに言い部屋から出て行った。
「ハッ!ハッ!」
いつものように
到着するなり猪手が言った。
「
「そうなの?先に言ってくれれば良かったのに、わざわざ迎えに来てもらって悪かったわ」
「いえ、とんでもありません、私の仕事ですので。では、失礼いたします」
腰が痛くなったので立ち上がると野原の奥に一人佇む
「キャーッ!!」
私は驚いて後ろによろけ、運悪く石に躓きそのまま転倒した。叫び声を聞いた
「どうした⁉︎大丈夫か?」
駆けつけた
「イタタ…」
「動くな」
「骨折はしておらぬ。軽い捻挫だ」
そう言うと袖のたもとから蝶番の貝殻を取り出し開いた。貝の内側に薄茶色の軟膏のようなものが見えた。私は彼がいつ怒り出すのだろうとびくびくしたが彼は黙ったまま貝の中の軟膏をすくいだし、少し赤くなっている足首に塗っている。ふっと貝殻からあの薬草の匂いが漂った。
この香り……間違いない…あの時と同じもの。やっぱり
「今日はもう戻ろう、天気も崩れそうだ」
「はい…」
確かに朝は青空だったのに今は薄曇り東の空は更に暗い雲がたちこめている。
少しすると私達のところに見慣れぬ臣下が駆け付けてきて言った。
「大丈夫ですか?お怪我を?本日は
「私が送ってゆく」
「えっ?しかし、若様のお立場では…」
臣下の男が困惑気味に言った。
「かまわぬ。
「はっ、はい!」
「
「……」
彼は黙ったまま前を向き何も答えない。私も黙ったまま水田の上ギリギリを低空飛行する燕を見つめた。
会話のない時間は長く、何度も背筋を伸ばして道の先を見た。
一体何事だろうか?人だかりの近くまで来ると、私の姿に気づいた
「
「ちょっと、どうしたのよ!何があったの?…」
私は息を切らしている
「や、山代王様が…お見えなのです」
「え?今、なんて…」
「
恐る恐る顔を上げ声の方向を向くと目の前に深紫の絹の衣に身を包んだ山代王とその隣に朝廷の大臣らしき男が立っていた。
大臣らしき男は濃青の衣を羽織り腰には象牙の笏がささっている事から地位が高い事が分かった。さらに男のすぐ後ろにはツユクサのような明るい薄青色の衣を着た若い官吏が立ち、手にはぐるぐると紐で巻かれた紙を持っていた。
「や、山代王様…」
全身から力が抜けるのがわかった。
「
山代王はよろける私を力強く抱きとめ言った。
「随分と遅くなってしまい、すまなかった…」
山代王の隣に立っていた大臣らしき男は私達の目の前に立つと、後ろの若い官吏から手渡された紙を広げコホンと咳払いをし言った。
「そなたが
「はい…」
「先帝の残した勅旨が本日有効になった為、山代王様にせかされ急ぎ届けに参ったのだ。先帝の命により、そなたの王族入りを認める。
「は、…はい」
突然の通達に手と足がガクガクと震え始めた。
「山代王様、私共はこれにて失礼いたします」
大臣らしき男と若い官吏の男は一礼すると周辺の警護に当たらせていた
薄暗い空からぽつぽつと小雨が降り出した。突如足首の痛みを思い出し、その場にうずくまった。山代王は心配げに私を覗き込んだあと、私を抱き上げ屋敷の門へと歩き出した。私は呆然としたまま山代王の横顔を見つめていた。
ついにこの日が来た…
彼の腕の中で温かな体温を感じ頭がボーっとしている。夢の中にいるようだ。
東門をくぐる時、坂の下に雨の中一人佇む
部屋に戻ると、
「
山代王が優しく私の手を握った。相変わらず穏やかで優しい眼差しだ。
「毎日そなたの事を思っていたのだ、これで堂々と毎日会う事ができる」
「はい、私もとても嬉しいです。この日をずっと夢見ていたので…」
山代王は微笑むと静かに私の横に座り直し肩に手を置き体を引き寄せた。
「あと五日後に、私の宮の者が迎えに来るゆえ入宮の準備をしておいておくれ」
私は黙って頷いた。
「私の宮のすぐ近くに後宮がある、向こう数か月は王妃より後宮での生活の規律を学ぶことになるだろうが、そなたのように賢い者であればすぐに習得できよう。秋には正式に婚儀を上げ私の側室になるのだ。楽しみでしかたがない」
山代王が私を優しく抱きしめた。彼から微かに香る沈香が更に夢見ごこちを加速させた。いつまでもこうしていたい…ふっと我に返り気がかりだった事を尋ねた。
「…山代王様、
「うむ…後宮において、全ての権限は王妃にあるのだ。宮には代々専属の采女たちがいて、幼少期より後宮に仕えている。ゆえに
山代王が申し訳なさそうに謝った。覚悟はしていたが、あと数日で
「なれど、後宮には必要なものは全て揃っているし、そなたに合う衣もすぐに新調いたそう。そなたが不便を感じるような事は何もないはず。最初は戸惑うかもしれないが、宮の生活にもすぐに慣れよう。私が必ずそなたを守り力になるゆえ安心してほしい」
「はい」
私が頷くと山代王は安心したのか嬉しそうに微笑み私の頬に手を当て顔を近づけた。温かな唇の感触と共に、昔もこうして結婚の約束をした事を思い出した。彼のまっすぐな澄んだ瞳は、昔と変わらず純粋であどけない少年のようだ。やはり彼は何も変わっていない。彼と共に生きていく事が未来に続く道なのだろう…その過程できっと中宮の意図がわかるはず。
私達の間に静かで穏やかな時間が流れた。山代王が帰ると
「
興奮していた
「泣かないで
震える彼女の肩を抱きしめた。賢い彼女だ、きっと今後について察しているに違いない。だからこそ溢れる喜びと悲しみの両方の感情に挟まれ複雑な心境なのだろう…。
一緒にいられるのもあと数日だと再び実感すると涙がとめどなく溢れた。本当にこの慣れ親しんだ
めでたいはずの夜なのに私達は夜通し泣いた。
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