第26話 春の訪れ、その先へ

 その年の冬はいつになく寒く、都は白く深い雪に覆われていた。新年の祝い事や宴もなく朝廷を行きかう人もまばらで都はいつまでたってもひっそりと静まり返っていた。人々はじっと身を潜め春の到来を待っているようだ。



 ポタポタ、ポタッポタッ…



 軒下から雫の落ちる音が響いている。宮の敷地内を流れる小川も奥飛鳥の山々からの雪解け水で溢れていた。


 「燈花とうか様、燈花とうか様起きておいでですか?」


 朝から小彩こさの甲高い声が聞こえてきた。


 「ええ、今行くわ」


 戸を開けると、朝の陽ざしの中に嬉しそうに小彩こさが立っている。


 「西側の庭に来てください。紅梅が咲いたのです。春が来ましたよ燈花とうか様!」


 早く、早くと急かす彼女に連れられ宮の西側にある庭に行ってみると、明るく紅色をした紅梅が満開だった。小さな葉や枝に着いた夜露が淡い陽ざしを受けキラキラと輝いている。まだ少し雪が残るセピアカラーの世界の中で、その明るい紅色の花びらは一層美しさを増していた。


 「いつのまに…」


 「そうなのです、私も久ぶりにこの庭に来たので驚きました」


 すぐ近くに植えてある蝋梅の蕾も大きく膨らんでいる。


 「燈花とうか様、ついに春の訪れですね」


 「そうね」


 冬の始まりから雪が降る日が多く、ここ最近は薬草庫での仕事はほとんどなかった。橘宮たちばなのみやにいても特に何もすることがないので、部屋の戸口ではらはらと降りゆく雪をただぼーっと眺めていた。


 山代王は雪解けと共に会いに来てくれるだろうか…今度こそ交わした約束が叶うだろうか…。


 ふと、そんな期待が花の蕾と共に膨らんだ。梅の微かな香りを含んだ冷たい空気を胸いっぱい吸い込み、目を閉じた。



  ホーホケキョ、ケキョケキョ…


 うぐいすの可愛らしい鳴き声があちこちで聞こえる。すっかり寒さは遠のき日ごとに道端の緑が芽吹きだした。薬草庫での仕事も始まり、飛鳥川沿いに生える春の野草も多く見るようになった。


 温かな陽気の中、色とりどりの花が咲き乱れ、まるでカラフルなキャンバスの中にいるようで心が躍った。


 仕事の帰りに飛鳥川沿いの土手で野草を摘むことが毎日の日課になっていた。そろそろ菜の花が土手一杯に咲き始める頃だ。菜の花は花が咲く前に摘むと花先から茎まで柔らかく美味しく食べることが出来る。私は、少しだけ黄色の蕾を付けた菜の花のタイミングを見て、宮の蔵から大きな籠を持ち出し意気揚々と摘みに向かった。


 旬の食材はとにかく美味しく文句のつけようがない。春になり日が伸びたものの、摘むのに夢中で夕暮れになるまで気が付かなかった。欲を出したつもりはないが、予想以上に籠は重くずっしりとしていて肩に紐が食い込んだ。


 重い籠を背負いヨロヨロと帰りの道を歩いていると背後から馬の蹄の音が聞こえてきた。この狭い土手道を通る人はめったに居ないのだが音が近づいてくるので道の端に寄った。途端に足元がよろけバランスを崩し前方につんのめった。このままだと土手下まで転がり落ちる、そう思った瞬間、誰かが後ろから籠をひっぱった。なんとか私の体はバランスを取り戻しおかげで転倒することなく、大惨事を免れた。


 顔を上げて見ると、林臣りんしんが馬にまたがったまま片手で籠を必死に支えている。


 「り、林臣りんしん様⁉︎」


 大声で叫んだ。林臣りんしんは態勢を立て直し馬から降りるとすごい剣幕で怒鳴り始めた。


 「そなたは何故いつもそうなのだ!!何故もっと注意深くいられぬのだ!いつ見ても目が離せぬ、こっちはとばっちりもいいとこだ!!」


 今日の林臣りんしんは珍しく感情をむき出しご立腹の様子だ。でも、なぜだろう…そんな彼を前にしても不思議と以前のように怖くない。私が素直に謝った事に不意を突かれたのか林臣りんしんはフンっと言ってそっぽを向いた。


 自分がドジだと今まで思った事はないが、慎重な人間だとも言えない。彼の言うとおりかもしれないと思うと恥ずかしさで顔が熱くなった。この時代に大怪我でもしたら命取りだと誰よりも知っているはずなのに…。


 「…そんなに大量の菜の花をかついで商売でも始める気か?」


 相変わらず意地の悪い言葉ではあったが助けてもらった手前、今日は大人しくしていようと思った。


 「い、いえ、今晩湯がいて屋敷の皆と食べようかと…今が旬なので…」


 「まったく、欲深い奴だ…」


 林臣りんしんはそう言い顔を横に振ると私の籠を取り上げ背中に担いだ。そのまま馬にひょいっと乗ると、上から私の腕をつかみ引っ張り上げ自分の前に座らせた。


 一瞬の出来事に声を上げる間などなかった。私が驚いた顔をして見ると、


 「じき日が沈む、春の底冷えは後に体に障る。嶋宮しまのみやに行く途中だからついでに乗せていく」


 林臣りんしんの手が後ろからまわり手綱をつかんだ。馬はパカパカとゆっくりと歩き出した。


 とても気まずい。会話もないし、私はチラチラと彼の顔を見上げたがピクリとも反応しない。気まずさを感じているのは私だけのようだ。


 それにしてもこれまでに彼にいくつもの借りを作っているようで気が重い…。とにかくこの気まずい雰囲気を変えたくて、薬草庫で見つけた生薬の事を思い切って聞いてみた。


 「林臣りんしん様、去年の今頃、嶋宮しまのみやの屋敷にある桃林で私が大怪我したのを覚えていらっしゃいますか?」


 「…当然だ。酔いつぶれたそなたを誰が屋敷まで運んでいったと思うのだ」


 「あっ…はい。あの時、私に塗薬を届けてくださったのは…林臣りんしん様でございますか?」


 「…なんの話か分からぬが、迷惑をかけられた上にそなたに薬まで届けるお人よしに見えるか?」


 「あっ…いえ…」


 私はそう言うと、これ以上聞くのを止めた。まぁ…そうね、とは思ったものの何となく彼がひた隠す不器用な優しさを心のどこかで確信したかった。


 パカッパカッ、パカッパカッ。


 馬の蹄の音だけがさっきから鳴り響いている。馬が東門の前で静かに止まると、門番の漢人あやひとが慌てて駆け付け馬から降ろしてくれた。


 「林臣りんしん様、助けて下さりありがとうございます」


 私が籠を受け取り門をくぐろうとした時、林臣りんしんが背後から言った。


 「明後日、高取山の麓に弓を射に行く、あそこは野草も多く山菜も採れる。一緒についてまいれ」


 「えっ?」


 私はクルッと振り返り、すかさず彼を見た。


 「では、明後日猪手いてを朝迎えによこすゆえ準備しておけ。ハッッ」


 彼は何事も無かったかの様に馬の手綱をひくと、私の返事を待たずに去って行った。

 強引さは健在だ。まぁ、明後日は仕事もないし、気晴らしに彼に付き合うのも悪くないと思った。


 「燈花とうか様、この大量の菜の花お一人で摘まれたのですか⁈」


 林臣りんしんが去ると漢人あやひとが籠の中を見て仰天した。


 「そうよ、欲を出しすぎたせいで林臣りんしん様に助けられてバツが悪いわ」


 私が少しふてくされながら答えると、


 「へぇ…あのぅ以前から思っていたのですが、申し上げても良いですか?」


 漢人あやひとがひかえめに言った。


 「実に林臣りんしん様と燈花とうか様のご関係は不思議なものです。知人なのか友人なのか、気の置けない友人なのか。はたまた全くの赤の他人なのか…でもなぜか燈花とうか様とご一緒されている林臣りんしん様の表情がいつも穏やかに見えるのです」


 「え?そう?…まぁ、そうね、不思議と林臣りんしん様とお会いする機会はあるのよね…運が良いのか悪いのか…」


 腐れ縁でもあるのだろうか?私は軽くため息をついたあと漢人あやひとと二人で籠いっぱいの菜の花を抱え厨房へと向かった。



 約束の日は朝から空は青く澄み渡り、ポカポカと暖かく穏やかだった。私は動きやすい服装に着替えたあと適当なサイズの籠を探していた。


 「燈花とうか様、誠に林臣りんしん様と弓を射にいかれるのですか?」


 小彩こさが昨日からしつこく聞いてくる。


 「まぁね、弓は持たないけれど林臣りんしん様の話では野草や山菜が豊富に自生しているようなの。ちょうど時間を持て余しているし、とにかく行って見るわ」


 「はぁ…よりによって林臣りんしん様と出かけるなんて、燈花とうか様、怖くはないのですか?もし問題でも起こしたらお命だって危険になりかねませんよ?」


 「小彩こさったら大げさね。今まで何度も林臣りんしん様の逆鱗に触れた機会はあったけれど、まだこうして生きているでしょ?この先もきっとひどい目に会う事はないって何故かそう感じるのよ。しかもあの人…そんなに悪い人ではないわ…もし、山代王様からお呼びがかかったら、こんなに自由な暮らしは二度と出来ないだろうし、今のうちに羽を伸ばしておくわ」


 「まぁ、それはそうですが…」


 小彩こさが呆れ気味に言った。東門に向かうと、すでに猪手いてと数人の従者が待っていた。猪手いてに会うのも久しぶりだ。


 「おはようございます。燈花とうか様、馬車を坂の下に用意しておりますので早速参りましょう」


 「馬車?いいえ、私も馬を走らせるわ、せっかくの良い天気だものやっと訪れた春の風を感じたいわ」


 「しかし、女人が乗馬だなんて…」


 猪手いてがチラッと私を見たあと、ためらいがちに言った。


 「大丈夫よ、心配いらないわ」


 「なれど、燈花とうか様は亡き中宮さまのお身内、落馬でもされたならば私の首が飛んでしまいます…」


 「案ずることはないわ、こう見えても乗馬は得意よ」


 私は従者達が連れていた馬に静かに近づくと、少し間を置いて頭をゆっくりと撫でた。馬が慣れてきたところを見計らって手綱をつかみ、すっと背に乗った。良かった、大人しい良い馬だ。山代王から習った乗馬がこんなにも役立つとは思わなかった。


 「さぁ、行きましょう」


 私が得意げな顔で言うと猪手いては目をパチパチとさせ驚いたが、私が馬をパカパカと歩かせると、


 「はぁ…仕方ありませんね。ゆっくり参りましょう」


 と言い、私達は出発した。朝の風はまだ冷たく頬に当たるとぴりぴりとした。

 山と山の間を通り抜けるとのどかな田園風景が広がった。鳥のさえずりがあちこちから聞こえ、田畑は小さな新芽がびっしりと芽吹いている。早春の穏やかな陽ざしの中しばらく進むと、猪手いてが振り返り大声で叫んだ。


 「燈花とうか様!あの山を越えたらすぐです!休憩しますか?」


 「大丈夫よ!」


 私達はそのまま馬を走らせた。山を抜けると目の前が開け、広い野原に出た。


 


  パカッパカッ、


 「止まれ!」


 先を行く猪手いてが手綱を引き大声で叫ぶと、馬はゆっくりと止まった。遠くに人が集まっているのが見えた。その中には林臣りんしんの姿もある。私は馬を降りると猪手いてと共に彼のもとへと向かった。


 「若様、今到着いたしました」


 猪手いてが言った。私は彼の後ろに立ち軽く頭をさげた。林臣りんしんはチラッと私を見て言った。


 「思ったよりも来るのが早かったな」


 「はい、燈花とうか様が馬に乗ることができましたので…」


 林臣りんしんは私が乗っていた馬を黙って見つめた後言った。


 「この土地にはそなたの好む山菜野草がたんまりある、好きなだけ摘んでいくといい」


 「はい…」


 「猪手いて、弓の準備はできているぞ。早速始めよう」


 「はっ!!」


 野原の奥に藁でできた人形が等間隔で何体か立っている。二人はそれに向かい行ってしまった。私は持ってきた籠を馬から降ろし周りを見渡した。


 「あっタラの芽!ふきのとう!こごみもある!」


 春の山野は雪解けと共に若々しい新芽でいっぱいだ。この季節しか味わえない食材の宝庫を前に私は嬉しくてぴょんぴょんと飛び上がった。一気にテンションが上がりすぐに大好きな野草摘みを始めた。


 どれくらい時間がたったのかわからないが、お腹がグーグーとなり始めた。籠はもちろんもういっぱいだ。中からセリの香りがプーンと漂った。


 あぁ、お腹がすいた…なにか食べよう。小彩こさから渡された包みを開くと中は玄米の握り飯と横にきゅうりの塩漬けが添えられていた。


 適当な平らな場所を見つけたあと、小さなござを広げ食事を始めた。遠くに林臣りんしん猪手いての姿が見えた。二人は臣下達と共に弓の弦をパチンパチンと引っ張っている。


 林臣りんしんが私の姿に気づいたのかこちらに向かって歩いてくる。私の前までくると足を止め籠いっぱいの山菜に視線を落とした。


 「沢山摘んだな、なれど毎日山菜料理では飽きてしまう」


 この少し嫌味を含んだ言い方にもだいぶ慣れたのか特になんとも思わなくなった。


 「十種類以上あるので沢山の料理方法があるのです。例えばお浸しや、塩漬け、あと天ぷらもあります!」


 あっ、天ぷらは無理だ…と心の中で叫んだが林臣りんしんは全く興味がないのか自分の弓と矢を見つめている。


 「そなたも、矢を射ってみるか?」


 「えっ?」


 「普通の女人であれば、馬を乗りこなすことはないし矢を射ることもないが…そなたは他の女人と違い変わり者であるし、何よりも筋が良い。ついてこい」


 「えっ?…」


 弓道みたいな感じかしら…やったことないけど…。


 戸惑いながらも林臣りんしんの後ろについて行くと草の上に置いてあった小振りの弓と矢を渡された。彼は私の背後に回ると私の両腕を持ち上げた。


 「一つ一つの動作を正確に、背筋を伸ばし、まずは射る先を見よ。次に正面を向き手元をしっかりみて手を置く。中指と薬指を弦にかけ、人差し指と親指で矢をつまめ、そのまま再び物見をして、ゆっくりと肘を張る…」


 背後で林臣りんしんも一緒に弓を引いてくれたが、とにかく重い。弦は固く、矢をつかんでいる指もちぎれそうなほど痛い…限界、もう無理…と、思った瞬間ビュンと音が鳴り矢が前方、野原の上を真っ直ぐに飛んで行った。信じられない…


 「り、林臣りんしん様⁉︎」


 私が目を丸くし驚いた表情で振り返ると、


 「フフッ…」


 林臣りんしんは満面の笑みを浮かべ肩をすくめて笑った。緩んだ口元の口角はキュッと上がり屈託のない少年のような笑顔だ。


  …林臣りんしん様の笑った顔、初めて見た…


 私はなんだか妙に感動してしまい、不覚にも彼の笑い顔に見入ってしまった。


 「そなた、やはり筋が良い。練習すれば良い弓手となろう」


 「り、林臣りんしん様、お忘れかもしれませんが…私も一応…女人でございます。何の為に弓を引く練習をするのかわかりませんが…でもとても気持がすっきりして良い気分です」


 「であろう。弓を放てばそなたの憂いも少しは晴れよう。さぁ、見ているからもう一度やってみよ」


 心の憂いを彼に話した記憶はないが、この爽快感はこの古代ではなかなか味わえない。乗馬ともまた違う。私は彼に言われるがままに再び弓と矢を持った。


 帰りの時間まで林臣りんしんから厳しい手ほどきを受けた。スパルタだ。私を戦にでも連れていくつもりだろうか。帰り道、腕は上がらないし指にも全く力が入らない。当然馬の手綱なんて持てないので猪手いてに馬車で送ってもらう事になった。


 ガタガタと馬車がゆっくり走り始めた。私は擦れて赤くなった指に息を吹きかけながら、猪手いてにとある事を尋ねてみた。


 「ねぇ、猪手いてさん。私、林臣りんしん様が臣下達と一緒にいるか、あなたと一緒か、もしくは一人でいらっしゃる所しか見たことがないのだけれど…確か夫人はいらしたわよね?」


 去年の夏の朝、嶋宮しまのみやの苑池で二人で蓮を見た事を思い出していた。あの時、屋敷の使用人が夫人の名を叫んでいたのを聞いたが姿を一向に見ないので不思議に感じていた。


 「もちろんいらっしゃいます。正妃の月杏げつあん様がおいでです。月杏様は葛城一体を牛耳る豪族の出自で、十六歳の時に若様にもとに嫁がれました。住まいは別々ですが、お子達にも恵まれ健やかにお育ちです」


 「…そう」


 「それが何か?」


 猪手いてが不思議そうに言った。私は鼻で軽く笑ったあと答えた。


 「いえ…大した事ではないのよ。夫人や侍女と一緒にいるのを見たことがなかったから、聞いてみただけよ」


 「確かに、若様はめずらしく正妃の月杏げつあん様だけを娶っておいでです。普通あれほどに権力があり身分の高いお方ですと、何人も側女がおりますが、若様はなぜか頑なに拒否されるのです」


 「そう…よほど夫人のことを愛していらっしゃるのね」


 「ん~…」


 猪手いては手を顎に置き目をつむり少し考え込んだあと、意味深な声で言った。


 「燈花とうか様、今から話すことは若様には絶対に内緒にして下さいますか?」


 …キタ。猪手いてが目を細め指でシーっと口を押える仕草をした瞬間に怪しい匂いをプンプンと感じた。これで私も彼の弱みを握れるかもしれないと思うと更に心が弾んだ。私は絶好のチャンスに目をキラキラさせて即座に答えた。


 「もちろんよ」


 猪手いては大きく頷くと静かに話を始めた。


 「実はわたくしの中でもずっと、そのことが疑問なのです。若様と月杏げつあん様は互いに生まれた時から婚姻が交わされております。幼き頃より真の兄弟にようにお育ちになっておられます。確かに月杏げつあん様を大切にされておりますが…何と言うか、…感情が…そのぉ…兄と妹のようなものに思えてならないのです。若様は幼少期より勉学に励み十代の時は足しげく僧旻そうみん先生のもとに通われ大唐の学問を学ばれました。若様は大変聡明で、朝鮮三国や大陸の情勢を熟知されており、各国との深い親交を築き上げておいでです。おそらく朝廷で若様の右に出る知識をお持ちの方はいらっしゃらないかと…。政においても寸分の抜かりも妥協もなく完璧なまでに物事を動かしておいでです。私も長い間若様にお仕えしておりますが、その…女人などの浮いた話を聞いたことがなく…若様の目にうつるのはこの国の行く末ばかり。朝廷での政や他国との外交ばかりで…」


 猪手いては軽くため息をつき宙を仰いだ。私はたいした秘密でもない結果に少しガッカリしていた。今後の切り札にと悪知恵を働かせた自分がそもそも情けないのだけど…。


 「…つまり、女人には関心がない…でもそれの何が問題なの?」


 私は眉をひそめ尋ねた。


 「い、いえ、そうではないのです…。若様は多くの大臣や大連様達のように女人に惑わされ、それに労力を費やすような無駄なことは一切いたしません。朝廷では小さな失敗でも足を救われますし、苦労して築き上げた地位や権力を一瞬で失うような愚かな行動は間違ってもいたしません。同様に一時の気の迷いで感情的になったり、道を踏み間違えた事も今までに一度もありません…ただ…」


 猪手いてが再び言葉を濁した。


 「ただ?」


 「ただ…人生に面白みがないというか…生活に彩りがないと言うか…人間味がないというか…す、すみません!決して悪口ではないのです、朝廷や政ばかりに囚われずに生きられれば、もっと自由で楽しく気楽なんじゃないかと思いまして…」


 猪手いてが手をもじもじ擦りながらうつむいた。


 彼もまたとても誠実で主人に忠実な良い臣下だ。


 「あなたのような良い臣下を持ち林臣りんしん様は幸せ者ね」


 私が言うと猪手いては真っ赤になって鼻を擦った。


 馬車が橘宮たちばなのみやに到着した。あたりはもう薄暗く春の冷えた風が頬に当たった。


 「燈花とうか様、そういえば若様より言付けを賜っておりました」


 「え?」


 「また、弓の練習に付き合えと。次は百本射るまで終わらないと、おっしゃっておりました」


 猪手いてが苦笑いをし腰を折り曲げながら言った。


 「ええ⁉︎」


 私が大声を上げると、


 「燈花とうか様とご一緒されている若様は、なんだか楽しそうです」


 猪手いてがクスッと笑って言った。


 「ハァ…私は林臣りんしん様にとって女人ではなく、取るに足らない家臣と一緒なのね。わかったわ、いつの日か林臣りんしん様を弓で負かせるように腕を磨くわ」


 私は鼻を膨らませ興奮しながら腕の袖をめくりあげた。


 「さすが燈花とうか様、やはり普通の女人とはだいぶかけ離れておいでです。では、またお迎えにあがります」


 もはや普通でない女人という言葉が褒め言葉にも感じる。猪手いては嬉しそうに笑うと野草で一杯の籠を地面に置き去っていった。


 まったく…何を考えているんだか…こんなに林臣りんしん様に関わっていて大丈夫だろうかと一瞬不安になったが、今後の山代王との新しい生活が始まればこれも過去の良き思い出となると思い直した。


 私はこの時期、林臣りんしんを知れば知るほど、彼を待ち受ける壮絶な最期が不思議と脳裏から薄れていった。心の奥底では考えないように避けていたのかもしれない。


 クタクタの体と足に鞭を打ち大きな野草でいっぱいの籠を引きずりながら宮の門をくぐった。門の脇に一本だけ植えられた桃の木に小さなピンクの花がまだ少しだけ残っている。去年、桃林で酔い潰れた夜を思い出しなんだか可笑しくて一人笑った。



 林臣りんしんの弓の訓練に付き合い始めてから一か月以上過ぎた。この間私は何度か半強制的に彼の弓の訓練に付き合わされている。もちろん彼は毎回スパルタ方式で私に弓矢を教えてくれた。そのうち弓の名手として戦にかりだされそうだ。


 

 田畑や山々は青々と生い茂りいつのまにか季節は初夏を迎えていた。


 「燈花とうか様、また今日も弓を射に行かれるのですか⁉︎」


 小彩こさが眉間にシワを寄せながら声を荒げた。


 「仕方ないじゃない、林臣りんしん様からの誘いを理由もなく断れないわよ。でも季節ごとの旬の山菜や野草もつめるし、馬を走らせるのも弓を引くのも気分転換になるし好きだわ」


 「はぁ…自由奔放な燈花とうか様が心配です。この先山代王様の後宮に入られるご予定なのに…」


 小彩こさが両手で頭を抱えて言った。


 「大丈夫よ。この先はきっと窮屈な生活だと思うから、今のうちに羽を伸ばしておくわ。私最近弓矢の腕をあげたのよ」


 私が言うと小彩こさは、


 「なんと呑気な…でも、お気を付けください」


と、あきらめた様子でため息まじりに言い部屋から出て行った。



 「ハッ!ハッ!」


 いつものように猪手いてと共に新緑の中、馬を走らせた。今日も晴天だ。青空と美しい田園風景に癒されながら高取山の麓を目指した。


 到着するなり猪手が言った。


 「燈花とうか様。私、本日別の用がありすぐに都に戻らねばならぬのです。帰りは別の者がお供いたしますので」


 「そうなの?先に言ってくれれば良かったのに、わざわざ迎えに来てもらって悪かったわ」


 「いえ、とんでもありません、私の仕事ですので。では、失礼いたします」


 猪手いてはそう言い軽く頭を下げると、また馬にまたがり来た道を戻っていった。


 猪手いてを見送った後、いつものように山菜や野草を探し始めた。季節ごとに違う野草が採れるので、毎回新鮮でとにかく楽しい。籠の中がだいぶいっぱいになったので、少し背の高い草むらの方へと移動した。


 腰が痛くなったので立ち上がると野原の奥に一人佇む林臣りんしんの姿が見えた。考え事をしているのか突っ立ったまま動かない。不思議に思ったが、とにかく昼までにありたけの山菜と野草を摘みたくて再び腰をかがめた。ちょうど草を分けていると、ひょこっとモグラが土の中から顔を出した。


 「キャーッ!!」


 私は驚いて後ろによろけ、運悪く石に躓きそのまま転倒した。叫び声を聞いた林臣りんしんが驚いた表情で駆けつけた。春先に彼から不注意すぎると怒られたばかりな事を思い出し、お説教が始まる前に両手で耳をふさいだ。


 「どうした⁉︎大丈夫か?」


 駆けつけた林臣りんしんはめずらしく心配している様子だ。私は拍子抜けしたあと立ち上がろうとしたが足首が痛くて力が入らない。


 「イタタ…」



 「動くな」


 林臣りんしんはそう言うと私を抱き上げ草むらの中を歩いた。広い野原に出た所で私を降ろし足首を触った。


 「骨折はしておらぬ。軽い捻挫だ」


 そう言うと袖のたもとから蝶番の貝殻を取り出し開いた。貝の内側に薄茶色の軟膏のようなものが見えた。私は彼がいつ怒り出すのだろうとびくびくしたが彼は黙ったまま貝の中の軟膏をすくいだし、少し赤くなっている足首に塗っている。ふっと貝殻からあの薬草の匂いが漂った。


 この香り……間違いない…あの時と同じもの。やっぱり林臣りんしん様のものだったのね…。


 「今日はもう戻ろう、天気も崩れそうだ」


 「はい…」


 確かに朝は青空だったのに今は薄曇り東の空は更に暗い雲がたちこめている。


 少しすると私達のところに見慣れぬ臣下が駆け付けてきて言った。


 「大丈夫ですか?お怪我を?本日は猪手いて様が不在なので私が橘宮たちばなのみやまでお送りいたします」


 「私が送ってゆく」


 林臣りんしんが静かに言った。


 「えっ?しかし、若様のお立場では…」


 臣下の男が困惑気味に言った。


 「かまわぬ。燈花とうか、屋敷に戻るぞ。お前はこの籠を後で宮まで届けよ」


 「はっ、はい!」


 林臣りんしんは男に籠を預け口笛を吹いた。遠くから彼の馬が走ってきた。林臣りんしんは私を持ち上げ馬の背に乗せるとさっと後ろに飛び乗った。彼の掛け声とともにゆっくりと馬が走り始めた。たいした怪我ではないと知っているはずなのに、今日の彼はいつになく無口だ。


 「林臣りんしん様、今日はなぜかいつもと違うような…何かあったのですか?」


 「……」


 彼は黙ったまま前を向き何も答えない。私も黙ったまま水田の上ギリギリを低空飛行する燕を見つめた。


 会話のない時間は長く、何度も背筋を伸ばして道の先を見た。橘宮たちばなのみやの三重塔が見えるところまで来ると、なぜか門へと続く坂の下に大勢の人だかりが見えた。しかも朝廷に勤める役人と甲冑で武装した数人の隼人はやとの姿も見える。


 一体何事だろうか?人だかりの近くまで来ると、私の姿に気づいた小彩こさが両手を大きく振り東門を飛び出した。小彩こさは人だかりを押しのけながらこちらに向かってきている。私も急いで馬を降り群衆をくぐり抜けながら彼女の方へと向かった。


 「燈花とうか様!はぁはぁ急いで…」


 「ちょっと、どうしたのよ!何があったの?…」


 私は息を切らしている小彩こさの手を握った。


 「や、山代王様が…お見えなのです」


 「え?今、なんて…」


 「燈花とうか…」


 恐る恐る顔を上げ声の方向を向くと目の前に深紫の絹の衣に身を包んだ山代王とその隣に朝廷の大臣らしき男が立っていた。

 

 大臣らしき男は濃青の衣を羽織り腰には象牙の笏がささっている事から地位が高い事が分かった。さらに男のすぐ後ろにはツユクサのような明るい薄青色の衣を着た若い官吏が立ち、手にはぐるぐると紐で巻かれた紙を持っていた。


 「や、山代王様…」


 全身から力が抜けるのがわかった。


 「燈花とうか!」


 山代王はよろける私を力強く抱きとめ言った。


 「随分と遅くなってしまい、すまなかった…」


 山代王の隣に立っていた大臣らしき男は私達の目の前に立つと、後ろの若い官吏から手渡された紙を広げコホンと咳払いをし言った。


 「そなたが橘宮たちばのみやの宮女の燈花とうかであるか?」


 「はい…」


 「先帝の残した勅旨が本日有効になった為、山代王様にせかされ急ぎ届けに参ったのだ。先帝の命により、そなたの王族入りを認める。北上之宮きたかみのみやの後宮入りの許可を申し渡す。婚儀は神無月に挙げるものとする。五日後に後宮入りの輿をよこすゆえ、準備をしておくように。謹んで受けられよ、良いな」


 「は、…はい」


 突然の通達に手と足がガクガクと震え始めた。


 「山代王様、私共はこれにて失礼いたします」


 大臣らしき男と若い官吏の男は一礼すると周辺の警護に当たらせていた隼人はやとらを引き上げ帰っていった。それに伴い見物で溢れていた人だかりもなくなり、坂の下はいつもどおりガランと静かになった。


 薄暗い空からぽつぽつと小雨が降り出した。突如足首の痛みを思い出し、その場にうずくまった。山代王は心配げに私を覗き込んだあと、私を抱き上げ屋敷の門へと歩き出した。私は呆然としたまま山代王の横顔を見つめていた。


 ついにこの日が来た…


 彼の腕の中で温かな体温を感じ頭がボーっとしている。夢の中にいるようだ。


東門をくぐる時、坂の下に雨の中一人佇む林臣りんしんの姿を一瞬見た気がした。今日のお礼を言ってなかったと思い少し胸が痛んだが、また次の機会に伝えれば良いと思った。


 部屋に戻ると、小彩こさがすぐに温かい桂花茶を運んでくれた。夏でも雨が降ると飛鳥は少し冷える。


 「燈花とうか突然の事で驚いただろう?やっと先帝の勅旨が有効になったので、急ぎ迎えに来たのだ。各、宮や大臣屋敷には事前に通達しておいたのだが、そなたの驚く顔が見たくて内緒にしていた。随分と長く待たせてしまい、すまなかった」


 山代王が優しく私の手を握った。相変わらず穏やかで優しい眼差しだ。


 「毎日そなたの事を思っていたのだ、これで堂々と毎日会う事ができる」


 「はい、私もとても嬉しいです。この日をずっと夢見ていたので…」


 山代王は微笑むと静かに私の横に座り直し肩に手を置き体を引き寄せた。


 「あと五日後に、私の宮の者が迎えに来るゆえ入宮の準備をしておいておくれ」


 私は黙って頷いた。


 「私の宮のすぐ近くに後宮がある、向こう数か月は王妃より後宮での生活の規律を学ぶことになるだろうが、そなたのように賢い者であればすぐに習得できよう。秋には正式に婚儀を上げ私の側室になるのだ。楽しみでしかたがない」


 山代王が私を優しく抱きしめた。彼から微かに香る沈香が更に夢見ごこちを加速させた。いつまでもこうしていたい…ふっと我に返り気がかりだった事を尋ねた。


 「…山代王様、小彩こさも一緒に来てもかまいませんか?」


 「うむ…後宮において、全ての権限は王妃にあるのだ。宮には代々専属の采女たちがいて、幼少期より後宮に仕えている。ゆえに小彩こさを側に置くのは難しかろう…すまぬな」


 山代王が申し訳なさそうに謝った。覚悟はしていたが、あと数日で小彩こさとも橘宮たちばなのみやの皆とも別れると思うと急に現実味がわき寂しさで胸がいっぱいになった。こんな調子ではすぐにホームシックになりそうだ。


 「なれど、後宮には必要なものは全て揃っているし、そなたに合う衣もすぐに新調いたそう。そなたが不便を感じるような事は何もないはず。最初は戸惑うかもしれないが、宮の生活にもすぐに慣れよう。私が必ずそなたを守り力になるゆえ安心してほしい」


 「はい」


 私が頷くと山代王は安心したのか嬉しそうに微笑み私の頬に手を当て顔を近づけた。温かな唇の感触と共に、昔もこうして結婚の約束をした事を思い出した。彼のまっすぐな澄んだ瞳は、昔と変わらず純粋であどけない少年のようだ。やはり彼は何も変わっていない。彼と共に生きていく事が未来に続く道なのだろう…その過程できっと中宮の意図がわかるはず。


 私達の間に静かで穏やかな時間が流れた。山代王が帰ると小彩こさがいつものように部屋に飛び込んできた。


 「燈花とうか様、おめでとうございます!!心よりお祝い申し上げます。私もこの上ない幸せな気持ちでございます。本当に燈花とうか様の想いが届いて良かった…」


 興奮していた小彩こさが子供のように声を上げて泣き始めた。長い間本当に彼女には支えてもらい実の姉妹のような絆で結ばれていた。


 「泣かないで小彩こさ、あなたがいつも支えてくれたから、ここまでこられたのよ。あなたの助けなしでは今の私はいないわ…」


 震える彼女の肩を抱きしめた。賢い彼女だ、きっと今後について察しているに違いない。だからこそ溢れる喜びと悲しみの両方の感情に挟まれ複雑な心境なのだろう…。


 一緒にいられるのもあと数日だと再び実感すると涙がとめどなく溢れた。本当にこの慣れ親しんだ橘宮たちばなのみやを離れる事が出来るのだろうか…。


めでたいはずの夜なのに私達は夜通し泣いた。



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