第25話 雲に隠れゆく時
薬草庫での仕事が始まり、おそらく一か月近くになると思う。特に患者を診れるわけではないので、医官や医女の簡単な手伝いをしていた。毎日のルーティンは入荷される薬草の仕分けと、薬草をもらいに来る人の用途にあったものを処方する位の簡単な作業だ。
薬草の知識は多少はあるが効能や活用方法などの詳しい事はわからない。
一ヶ月前に会って以来、山代王はまだこの薬草庫に来ていない。
きっと忙しいのだろう、期待しない方が楽なので淡々と一日を過ごし時間が過ぎるのを待っていた。最初のうちは目を輝かせながら近況を尋ねてきた
コンコン。部屋の戸が鳴った。
「
「もちろんよ」
「実は今日、
私は返答に困り、そう、とだけ答えた。へたに未来を知っているのも酷な事だ。何もできないもどかしさが本当に心苦しい。
ここ最近、胸騒ぎを感じよく眠れない。なぜこんなに気持ちがざわつくのだろう…山代王に会えない不安からだろうか?それとも先の見えない未来に対してだろうか?
相変わらず朝はあっという間にやってくる。いつも通り支度を済ませて薬草庫へ向かった。毎朝のルーティンを済ませたあと薬棚の整理をしていると外から叫び声が聞こえてきた。
「助けて下さい!助けてください!」
小屋の外に出てみると一人の年老いた男が小屋の前の地べたに横たわっている。彼を運んできたであろう数人の男たちが心配そうに周りを囲み男の様子を見ている。
私が急いで駆け寄ると、隣にいた息子らしき若い男が青ざめた顔で言った。
「
若い男が早口で叫びながら言った。
「まずは落ち着いて、まだ医官が来ていないのよ、私では適切な処置ができないわ」
朝早い時間ということもあり、どの医官も来ていなかった。とはいえ、年老いた男は胸を両手で押さえうーん、うーんと苦しそうにうなっている。しかも転落時に足首を骨折したらしく、足首が大きく赤く腫れている。私は動揺している若い男を落ち着かせるように言った。
「とにかく小屋の中の寝台に運んでちょうだい。私は痛み止めの薬草を調合してくるから。もう少しで医官が来るからそれまでの辛抱よ」
ちょうどこの時、広場の奥から若い医官が歩いてくるのが見えた。私は早くこちらへという風に大きく手を振り彼を呼んだ。若い医官は状況を察したのか走ってくるとすぐに慣れた手つきで処置を始めた。ひとしきり応急処置を終えると年老いた男も安心したのか、調合した薬草を飲みすぐに眠りについた。若い医官にお礼を言うと、命に別状はないが数日後にもう一度来るようにと言い残し小屋から出て行った。
「命に別条がなくて良かったわ」
私はほっと胸をなでおろした。
「ありがとうございました」
息子らしき若い男が頭を軽く下げた。
「どこの
「……」
なぜか若い男は黙ったまま答えない。隠す理由など何もないだろうと不思議に思ったが、それ以上深くは追及しなかった。医療の発達していない古代では軽い怪我さえも命取りになる。細心の注意を払いながら生きなければならない。しつこいようだか私はもう一度念を押すように言った。
「気を付けないと、今回は骨折ですんだけど、内臓を痛めてしまっては命が危ういわ」
「…普段は田畑を耕すだけの農民ですので、危ないことはいたしません。ご心配なく…」
若い男が遠慮がちに答えた。
「農民?なぜ農民が危険な仕事を?」
「……」
若い男は横たわる父親を見つめまた黙りこんでしまった。しばらく眠ると父親は目覚め、若い男に支えられながら家に帰っていった。その日を皮切りに連日のように怪我人が運びこまれるようになった。
「
私は少しイライラとした口調で
「…ふーむ、恐らく…、皆、
「
「はい…なんでも
「
私が大声で叫ぶと、
「
「でもなぜこのような時に武器庫が必要なのですか?」
我慢できず呆れ声を上げ、
「私も詳細はわかりませんが、だいぶお急ぎのようで蘇我家の私兵だけでは足りぬ為、都の兵や農民までも借り出していると聞きました。誰も断われませんので農民は慣れぬ仕事に怪我を負うのでしょう…」
「そんな…」
こんなに連日怪我人をだされてしまったら、ただでさえ医官が少ないのに手当が追いつかない。そのうち命を落としてしまう人も出てしまう、蘇我一族の傍若無人な振る舞いに一気に怒りの感情が沸き起こった。
「
事の成り行きを察したのか、すかさず
「
「心配はいりません、作業の様子を確認してくるだけでございます。無茶はいたしません」
私は冷静にそう言うと最後の怪我人の手当てを済ませ
自分達を天皇一族だとでも勘違いしているのだろうか?そんな怒りの感情を持ちつつ飛鳥川沿いを歩いた。
しばらくすると遠くからカンカンと何かを叩く音が聞こえてきた。前方に数名の男達の姿が見える。その側には大きな大木を担いでいる男達の姿もある。皆よろよろとした足どりで今にも倒れそうだ。遠くからだが男達のやつれた顔や疲労の様子がわかった。
そのまま山の裏側に沿って歩くと少し進んだ林の中に大きな武器庫らしき
「医女様、お待ちください。医女様!」
誰かに呼び止められ振り返ると、見覚えのある若い男が立っていた。数日前に怪我をして薬草庫に運ばれてきた老人の息子だ。
「あ、あの時の…」
「はい、先日父を診ていただいたものです。あの時はお世話になりました」
「お父様の具合はどう?」
「はい、胸の痛みもだいぶひき容態は安定しておりますが、足首も骨折しているので回復するには時間がかかりそうです…」
「そうね、無理は禁物よ。ゆっくり養生してちょうだい」
「はい、でもなぜこんな場所にいらっしゃるのですか?医女様のようなお方が来る所ではございません。木を伐採しており危険ですのでお戻りください」
「大丈夫よ、心配ないわ。何を建てているのか気になってしまって…所でこの現場の責任者は
若い男は急に顔を曇らせて小声で言った。
「…確かに命を出されたのは
「
「さ、さようでございます。ご存知なのですか?」
「えぇ、少しだけね…」
「さようでございますか。今日たまたまお見えになっているのです。丁度今この丘の頂上におられるかと…」
「そうなの?…ありがとう。では、せっかくだから
「違いますが、裏側からですと木々で薄暗くお足元が悪いかと…」
「大丈夫よ、以前に何度か登ったことがあるわ」
「えっ⁈以前にですか?」
しまった!と思い両手で口を押えた。若い男は目をパチパチさせ驚いた表情で私を見ている。
「いえ、以前にも別の山に登った事があるから、山登りは得意なのよ」
「さようでございますか…低い丘ですが、途中蛇などもおりますので、十分気を付けてください」
「ありがとう」
私がそう言うと、若い男は軽く会釈をして、
私はゆっくりと山道を登り登り始めた。
秋はすっかり深まり空から木の葉がはらはらと落ちてきている。飛鳥での秋はこれが二度目だ。時折立ち止まっては風の中を舞う木の葉を眺めた。もう三十分近く登っているだろうか、当然なのだが、舗装されていない山道は想像以上に歩きづらい。息が上がったところでようやく目の前が開け、木々の隙間から眼下に飛鳥の都と集落が見えた。
ふぅ、着いた…疲れた…膝に手をあて体をかがめた時だ。ビュンと鋭い音が耳元をかすめていった。驚いて顔を上げると十メートルくらい先に
「キャーッ」
思わず甲高い声をあげその場にしゃがみ込んだ。
「動くな!!」
掛け声と同時にまたビュンと大きな音が耳元をかすめボトッと鈍い音が背後から聞こえた。飛んで来た矢がどこに当たったのかわからず頭の中はパニックだ。心臓はドクドクと大きく脈打ち自分が生きているのかどうかもわからない。
とにかく体に痛みがない事を確認したあと深呼吸をし落ち着かせた。呼吸が整い恐る恐る後ろを振り返ると、すぐ後ろにある切り株の上に大きな蛇が横たわっている。まだ動いてはいるものの矢は頭と胴体の境目を見事に貫通していた。
全身の力が抜け起き上がれない。手で体を支えるのがやっとだ。前からガサガサと足音が近づき
「な、何⁈」
驚いて叫んだが
「別の蛇の餌食になるか?」
と言い、私を抱え少し離れた見通しのよい広い場所へとうつった。
「なぜここにいる?」
いつも通りの冷めた口調だ。朝の蓮を一度見たくらいで調子に乗るなと冷たい目が言っているようだ。私は服に着いた土を払いながら立ち上がった。
「女人のくる場所ではないぞ」
「…
「会う理由など何もないが…」
私は自分で言うのもなんだが、元来穏やかな性格だ。でも彼の言葉はいつもどこか棘がありカチンと来る。いつも上から目線なのだ。こちらが下手に出ているからって…。
私の怒りは再燃したが、この感情を表に出したら負けだと思いキッと
「では、率直に申し上げます。数日前よりこの
「……そなた、あの真っすぐ横に伸びる大道が見えるか?」
「では、あの大道の先にあるものはなんだ?」
「
「もっと西だ」
「更に西に進んだ所に
「……」
返答に困っていると、
「海を越えればすぐに朝鮮三国、百済、新羅、高句麗がある。今はまだ均衡を保っているが常に互いの国に攻め入る隙を見計らっている。更にその先にあるのは…大唐だ。その昔500年も戦に明け暮れていた大国だ。その者たちが本気でこの国を攻め入れば赤子の首をひねるようなもの、わが国の武力ではなんの太刀打ちもできぬ。あっという間に領土は奪われ、虐殺が始まる。そうなったら、誰が一体この国を守るのだ?今にも命の灯がこと切れそうな帝がこの朝廷と都と民を守るのか?」
考えてもみなかった…私利私欲の為ばかりだと思っていた…そうだった…すっかり忘れていたが今は朝鮮三国と大唐が睨み合う戦国の世……いつこの国だって攻められてもおかしくないんだった…
「今、この国の防御を固めずにいつやるのだ?何人怪我人が出ても構わぬ。替えはいくらでもいるからな」
「……」
何も言い返せない。彼は朝鮮三国と背後にある大唐の脅威を知り尽くしている。大国との力関係をしっかりと把握し冷静に未来を見据えている。井の中の蛙では想像も出来ない世界を彼は知っているのだ。認めたくはないが彼は外交のプロだ。
「わかったのなら、すぐに立ち去れ。次は助けぬぞ」
この国の基盤がつくられ始めた最初の時代にいたんだった…侵略された史実はないと分かっていたから危機感など微塵もなかった…。
そんな事を考えながらとぼとぼと山道を下った。下山中、大蛇に襲われた事などすっかり忘れていた。
薬草庫に戻ると、珍しく怪我人の姿は見えず中は静まりかえっていた。
「
「えぇ、人手が足りないのに抜け出してしまってごめんなさい…」
「いえ、大丈夫です。見ての通り何故か本日は患者が全く居ないのです。今のうちにと思い、薬棚の整理をしていたところです」
「良かった…」
「
「ち、違うのです!久しぶりにあの丘に登ったので少し疲れました…」
私は苦笑いをして答えた。
「さようでございますか…、間もなく夕方になりますしもうお屋敷にお戻りください。明日からまた怪我人が何人運ばれてくるかもわかりませんし、休めるうちにお休みください」
「
私が尋ねると、
「私はせっかくの機会ですので、薬棚の整理を終わらせてから、帰宅いたします」
と言い、手に持った籠の中をガサガサといじり始めた。
「私も手伝います。二人の方が早く終わりますよね?」
「ええ⁈そんな、困ります。私一人で出来ますので…」
私は
「
「あ、それらはその薬棚の奥にもう一つ小さな棚があるのです。少し変わった珍しい生薬ですので、そこに置いておいてください」
「大丈夫、自分で調べてしまいます」
いつも使っている薬棚の奥にもう一つ小振りの小棚があるのが見えた。きっとあの棚だ。ガタガタと棚の間をすり抜けながら奥まで進んだ。
小棚の上には丈夫な作りの小箱がいくつか綺麗に並んで置かれていた。初めて見る小箱だ。中を開けると更に布で包まれた生薬が厳重に保管されていた。
私は一つ一つの包みを丁寧に広げ中の生薬を確認し始めた。どれも珍しい形や色をしていて尚且つ独特な香りだ。一番下の小箱には薬草が入っていた。包みを広げた瞬間に独特の香りが鼻を突いた。でもどこかで嗅いだことがある香りだ。この特徴のある香りはなかなか忘れることは出来ない。どこだっただろう?
確かにどこかで嗅いだのになかなか思い出せない。過去の記憶を必死でたどった。
…そうだ、あの時の薬だ…間違いない。足首を骨折した時に使った塗薬だ。この塗り薬のおかげで驚くほど早く腫れが引いたのだ。
私は興味津々で部屋の隅で作業している
「
「どれどれ…」
と言って
「あっ!これは、新羅から取り寄せた大変希少な薬草です。全ての怪我や病に万能であると聞いた事がございます、残念ながら我が国では手に入りません。良かった…そんなところにしまってあったとは、あまりにも希少な薬草だったので、厳重にしまったのですがそのあとにどこに保管したのかわからなくなってしまい…探していたのです」
「そんなに貴重な薬草なのですか⁈」
「さようでございます。新羅でしか採れぬ薬草ですが大唐の商人を通し取り寄せるので入手が大変困難なのです。一般庶民では一生使うことのない薬です」
「そう…」
「
「えぇまぁ…これは朝廷で取り寄せたものですか?」
私が答えると、
「いえ、それが違うのです。数か月前に
「…
怪我をした時、この薬の事を
まさか、
体中から一気に力が抜けた。
その時、ゴーンゴーンと飛鳥寺から大きな鐘の音が聞こえてきた。急いで外にでてみると、五重塔の一番上に内官らしき男が白い旗を振っているのが見えた。
「た、
後から出てきた
「えっ⁈」
私は振り返り聞き直した。
「あの白旗の意味はなんなのですか?」
「
「そ、そんな…」
鐘が鳴り続ける中、広い
その日から薬草庫に行くことはなく、
「
「うんん、何もないわよ。
「
「大丈夫よ、きっとまた連絡をくださるはず。今はまだまだ喪に服す時よ」
気丈に言ったものの
しはらくして飛鳥の都はすっかり冬を迎えた。山の落ち葉が北風に乗ってどんよりとした空を舞っている。今朝は特に寒い、薄暗い雲から初雪の音が聞こえそうだ。寒さでかじかむ手に息を吹きかけながら厨房の
「
「え?誰が来たの?まだ朝よ、火を丁度起こしていて…」
「それどころではありません」
「ちょ、ちょっと」
「山代王様がお見えになっているのです」
「え⁉︎」
「山代王様が庭でお待ちになっているのです」
はっきりと大きな声で
いつぶりだろう…頬が少しやつれた山代王がこちらを向いて立っていた。
「や、山代王様…」
山代王は私の側まで走り寄ると私の体を強く抱きしめた。
「すまない、だいぶ遅くなってしまった…」
「山代王様…」
朝の冷気の中、急いで馬を走らせてきたのだろう。彼の体は冷たく冷え切っている。
「すぐに温かい茶をご用意いたしますので、まずはお部屋にお入りください」
「そうしよう」
私が山代王を部屋へ案内すると、中はすでに暖かく囲炉裏の火がパチパチと勢いよく燃えていた。
「良い香りだ」
山代王はふうっと息をひとかけし熱いお茶に口をつけた。
「長い間なんの連絡もせずすまなかった…とにかく身動きが取れずにいたのだ…許してほしい」
山代王が真っ直ぐな瞳で言った。
「当然のことでございます。山代王様は皇族にとっても朝廷にとっても民にとっても尊いお方です。私のような人間をいちいち気にかける必要はありません」
「何をいうのだ、私がどれほどそなたに会いたかったか…」
山代王は優しく私の手を取った。
「今日は
「はは…実は一人夜明けを見計らい屋敷を抜け出してきたのだ。ゆえに長居はできない。ただ、そななたに伝えたいことがあり参った」
山代王は私をじっと見つめて言った。
「この先少なくとも数か月は
突然の山代王からの言葉に驚き、頭の中が真っ白になった…二度目の婚約だ…
「気が進まぬか?」
「いえっ、そんな事はございません。あまりに突然の嬉しいお話に気が動転してしまい…」
「そなたとこれ以上離れ離れで暮らすのは耐えられない。本当ならばすぐにでも入宮させ私の近くに置いておきたい」
「山代王様…」
「そなたも私と同じ気持ちでいてくれていると信じているが、どうであろう?今の気持ちを聞かせ欲しい。私に嫁いでくれるか?」
私は静かにうなずいた。
「良かった、私の生きる希望だ。来月からまた、薬草庫の仕事に復帰してほしい。朝廷に出向いた時には必ず会いにいくゆえ」
「わかりました」
山代王は立ち上がると再び私を抱きしめ屋敷へと帰って行った。
山代王が去るとすぐに
「まぁなんと…こんな時ではございますが、言わせてください。
「ありがとう。これが私の運命、突き進まなくてはならぬ道なのね…」
私は自分自身を奮い立たせるように言った。
「
さっきまで涙を浮かべていた
「だって、
「駄目よ、このことはまだ一部の側近にしかお話になっていないはず。しかも今は先帝の喪中の真っ只中よ。山代王様が公にするまでは私とあなたの二人だけの秘密にしましょう」
「そうでございますね。それにしても本当に嬉しくて嬉しくて…すぐにでも誰かにお話ししたいくらいです」
私達はまた熱い桂花茶を入れなおし話を始めた。外はどんよりとした空から、はらはらと雪が降り始めていた。
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