第24話 動き始めた歯車
ひんやりとした風が金木犀の香りを乗せて戸口の隙間から入ってきた。宮の敷地に植えてある金木犀の花は満開だ。最近は風が吹くたびに秋の訪れを感じる。飛鳥で過ごす秋はこれで二度目だ。
朝だというのに部屋の中は薄暗い。今日の天気は曇りだとわかり少しだけ気が沈んだ。それにしても何故こんなに早く朝が訪れるのだろう…。温かな明るい陽ざしの中で目覚めたかったと強く思いながらゆっくりと寝台から起き上がった。
今日、山代王は来るだろうか…何から話せばいいのだろう…いっそのこと真実を打ち明けてしまおうか?…もちろん彼に再会出来きてとても嬉しいが、今後の展開の不安がどうしても頭に付きまとう。考えすぎだろうか?…。朝から拉致の明かない思考を巡らせたあと深いため息をつき再び目を閉じた。
トントン、トントン
「
「えぇ…」
私が力なく答えると、
「
「えぇ、そう思うわ…」
私はもう一度大きく金木犀の香りを吸い込んだ後、熱いお茶に口をつけた。
「良かったです。山代王様はお見えになられるでしょうか?」
「そう思いたいけれど、昔と違って自由に出歩けないのでしょ?とにかく待ってみるわ」
彼を信じていないわけではないが、昔とは立場が違う事も重々に理解していたし、例え今日会えなくても焦る必要はないと思った。十三年間の適当な理由を考える必要もあるし、空白の時間はゆっくりと埋めていけばいい…。
「やはり、
山代王邸にて
「
山代王は出かける支度を終えると戸口の横に座る
「王様お待ちください!」
「王様、僭越ながら申し上げます。今行ってはなりません。朝廷が不安定なこの状況で軽はずみな行動は慎むべきです。まずは正当な順序を踏み適切な時期を待つべきかと」
覚悟を決めたような強く低い声が意思の強さを表していた。
「正当な順序を踏み時期を待てだと?」
山代王が声を荒げ言った。
「王様、落ち着いて下さい」
「落ち着いてなどいられるか!十三年だぞ。あの者が突如居なくなり十三年も苦しんだのだぞ!」
山代王が怒鳴った。廊下で待つ侍女たちが顔色を変えて怯えるほどの大きな声だったが
「だからこそです!だからこそ、慎重に事をすすめ
「……くっ…くそっ」
山代王は唇を噛みしめると腰に刺した剣を床に叩きつけた。
「私に妙案がございますので、代わりに
「妙案?」
「はい、とりあえずこの件は私にお任せ下さい。王様は朝廷に出向き
山代王は少し沈黙しため息をついた後、投げ捨てた剣を床から拾い上げ言った。
「…仕方あるまい。ひとまず
「はっ」
ちょうど午前中の仕事を終えて部屋の前に来たところで、門番の
「
「
「はい、中庭にお通しいたしました」
「…そう、すぐに行くわ」
私はそう答えると急いで着替えを済ませ中庭へと向かった。山代王ではなく
庭の端に都を見つめる
「
「こんなことになるなんて思っていなかったのです…」
なぜか彼を裏切ってしまったような罪悪感が沸き起こり思わず言い訳がましく言った。
「
「
「…えぇ」
私は小さな声で答えうつむいた。
「ご存知かと思いますが、
「はい…」
「率直に申し上げますと、しばらくは王様にお会いするのは難しいかと…。朝廷が安定を取り戻した後、正式な順序を踏み大義名分のもと
「仰るとおりに致します」
私が素直に彼の案を受け入れた事にホッとしたのか
張り詰めていた雰囲気を破るように
「では、すぐにでも薬草庫の担当の者に話します。また追ってご連絡いたします」
「わかりました」
私が答えると
あいにくの空模様は意地悪く薄暗い雲で都を覆っている。山代王に会えない切なさが込み上げたが仕方がない。もう彼は以前のように自由な立場ではないし、後宮にも家族がいるのだから当然といえば当然だ。もはや私だけのものではないのだと改めて思い知らされた気がした。
「とりあえず朝廷の薬草庫でしばらく働くわ。
今持っているポジティブ思考を全力で使い自分に言い聞かせた。
「確かに今の山代王様が理由なくこの宮に来るのは難しいと思います…でもお二人の運命がまた動き始めたのですから」
ポツポツ、ポツポツという音と共にどんよりした暗い雲から雨が降り出した。
「大変!薪を小屋の外に積み上げたままなのです!」
あたりはみるみる暗くなり、ガラガラピシャンと大きな轟くような音と共にいくつもの青光りする稲妻が雲の中に見えた。まるで私の心の中を映し出しているようだ。肩にかけていた
ふと視界の中に動くものが入り目を凝らした。都へと続く道に馬を走らせる男の後ろ姿が見える。馬に乗る後ろ姿が
この雨は予想以上に長く続いた。今日数日ぶりに顔を出した太陽は秋とは思えないほど眩しく煌めいている。ラッキーなことに今日が薬草庫での勤務初日だ。雨上がりの高く青い秋空が清々しい。天気一つでこうも気分が変わるとは…しばらく晴れが続いて欲しいと心から願った。
朝早くから出勤する必要はなかったが、山代王に会えるかもしれないと思うと、たとえ時間を持て余したとしても早く薬草庫に向かいたかった。
「おはようございます
「えぇ、でも緊張するわ」
「大丈夫ですよ、
「ありがとう、そうだと良いのだけど…あれ?朝廷の薬草庫ってどこだったかしら?」
私は急に我に返り即座に
「飛鳥川沿いを下り苑池を通り過ぎると、
そうだ…思い出した。山代王から乗馬を習った広場だ…。胸が一気に熱くなった。
「大丈夫、わかるわ。よくあの広場で乗馬の練習をしたから…」
「そうでございましたね!」
山代王から初めて乗馬を手ほどきされた日の事が鮮明によみがえった。あの日、黒光りする美しい毛並みの駿馬を自慢気に見せてくれたのだ。あの時の彼の誇らしげな顔といったらない。まだまだあどけなかった少年のような笑い顔を思い出していた。
宮を出る直前に
山代王と一緒に何周も馬を走らせた記憶が一気によみがえった。つい一年ほど前の出来事だが、色々あったせいかとても遠い昔のように感じる。
広場を囲むように植えられた柳の葉が秋風に吹かれゆらゆらと揺れている。広場は飛鳥寺の西側に隣接していて、五重塔がすぐ真横にそびえ立っている。壁の向こう側は更に回廊で囲まれていて詳しい中の様子は見えないが、瓦屋根からして五重塔の西、北、東側に金堂があることがわかる。中を覗いてみたい好奇心を抑え再び歩きはじめた。
「あの、こちらの小屋が朝廷の薬草庫ですか?」
「さようでございますが、あなた様は?…」
「はい、
「
男は私の言葉が終わらないうちに返した。
「えぇ」
「大変失礼いたしました。
小屋の中の空気は藁が含んだ雨の匂いと薬草の香りが入り混じり湿った感じだ。この独特なくすんだ匂いが鼻を突いた。私は
小屋の中は外から見るよりも断然広い。壁一面には沢山の小さな木箱がサイズごとに分けられ天井近くまで綺麗に積み重なっている。ひとつひとつの箱には薬草名が墨で書かれていた。遣唐使や商人らが運ぶ大唐からの生薬も多くあり、中には現在も使用されている薬草もいくつかあり驚いた。
一つ一つの棚から薬草を取り出し夢中になって確認していると、後ろで黙って立ってこの様子を見ていた
「お話は
さすが
「
「
目の前に広がる
山代王は今日は朝廷には来ていないのだろうか…美しくそびえ立つ五重塔を眺めながら小さな梨をかじった。
そう簡単に彼に会えるはずがないと頭では分かっていてもどこか期待していた自分がいたのだろう…思いの外落ち込んでいる。手を胸に当てそっと目を閉じた。
温かな日差しの中で爽やかな秋風が
秋の空はどこまでも高い。青空に浮かぶ鱗雲を見ているうちにいつのまにかウトウトと眠ってしまった。
「
優しくて懐かしい声だ…。
「
…この声って現実だろうか…
ぱっと目を開けると目の前に優しく微笑む山代王の顔が見えた。
「きゃっ!」
思わず大きな声で叫んだ。山代王は片手で口を押えクスクスと笑っている。恥ずかしさで顔が熱くなっていくのが自分でもわかった。よりにもよって寝顔なんて見られたくなかった…。
私は勢いよく立ち上がると真っ赤な顔を隠したくて深々と頭を下げた。
「まだ、そなたがいてくれて良かった。午後一番にここに来るつもりだったが、思いのほか朝議が長引いてしまい、遅くなってしまったのだ。もう帰ってしまったと思っていたからそなたに会えて実に嬉しい」
「山代王様…」
「まだ薬草庫に
山代王が一番大きな小屋を指差した。中に
「
「はっ」
山代王の少し後ろで見守っていた
「久しぶりだな」
「はい…」
山代王の真っ直ぐに私を見つめる視線が妙に恥ずかしくて顔をそらした。十三年前は彼の方が年下だったからどこか弟のような気もしていて気さくに接する事が出来たけれど、今の彼は見た目も実年齢も私より歳上の大人の男性だ。威厳と自信に満ち溢れた姿は誇らしいし頼もしいが、どことなく遠い存在になってしまったような気もしていた。
「改めてそなたと話すことができて嬉しい。まさかこんな日は来るとは夢にも思わなかった…この十三年間は辛い日々だった…」
そう言うと、山代王様は視線を床に落とした。
「正直そなたへの思いは完全に断ち切ったと思っていた。しかし深田池で再会し、そなたへの想いがまだあると改めて気づいたのだ」
「山代王様…」
私は両手をぎゅっと握りしめた。
「…
私がうなずくと山代王は優しく私を抱きしめた。気のせいだろうか
二人だけの穏やかな時間がしばらく流れた。
「宮までおくろう」
「はい」
幸せな時間は一瞬で過ぎる。重い足取りのまま小屋の前で待つ馬車に乗り込んだ。馬は私の心を察したのかゆっくりゆっくりと歩き始めた。
「
どこか寂しげな横顔だ。以前にも
「…
山代王は遠くを見つめ少し沈黙した後、重い口を開いた。
「…兄上の無念を晴らす為に、私はここまで生きてきた…いつか、必ず…」
山代王が唇をキュッと噛んだ後、握った拳にもう一度力を込めたのがわかった。私も黙ったまま山代王の横顔を見つめた。馬車のガタガタという音だけが響いた。山代王は深く深呼吸を一つして言った。
「そなたも今の都の状況を知っているはず、しばらくは会う事が難しいかもしれぬが、出来る限り機会を見つけそなたに会いに行くゆえ、もう少しだけ待っていて欲しい」
「はい…」
馬車はいつのまにか
「では、また…」
私はそう言い軽く一礼をしたあと馬車を降りた。別れの時間を長引かせたくなんかない。
「何かあれば
山代王が言った。私が頷くと彼は微笑み、掛け声をあげ馬車を出発させた。徐々に馬車が遠く小さくなっていく。次はいつ会えるのだろう…
真っ赤に染まった空を見上げながら宮の門へと歩いた。
東門に近づくと門の横で薪を割っていた
「
「送ってもらったのよ」
「さようでございますか、やはり
「そうね…」
「
「え?いいえ、お腹空いたのよ」
「そうですよね、すぐに夕飯を運びますので、部屋で休まれて下さい」
「ありがとう」
慌てて誤魔化すように答えたが、そんなに思い詰めた顔でもしていたのだろうか?満たされた幸せな気持ちでいるのに…
部屋に戻るとすぐに
「
「違うのよ。…帰りがけに山代王様とお会いしたのよ」
「ま、まことでございますか?初日からお会いできたのですか?」
「まぁね…」
今日の一日の出来事全てを
「安心いたしました。王様に十三年前の事を責められるかもしれないと少し心配していたのです。
「そうね、何があったかはわからないけど、きっと時がくれば話して下さるわね。それよりも今は離れていた時間を埋めていくつもりよ」
「良かった、本当に安心しました」
その晩、私は
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