第23話 運命の糸
山代王邸にて
「山代王様、私でございます」
「あぁ、来たか。入りなさい」
「王妃様と
「待ちなさい。そう急ぐでない。わざわざそなたを呼んだのは他でもない、早急に礼を伝えたかったからだ」
「えっ?」
「実は先日そなたが、大唐より取り寄せてくれた煎じ薬が
山代王の隣でにっこりと微笑む
「さようでございますか、良かった。もう食事は取ることが出来ますか?」
「えぇ。そなたの煎じ薬のおかげでつわりもだいぶ治まり、粥も少しずつ取れるようになりました。今では食べ過ぎてしまう位です」
「しかし、そなたに生薬の知識があったとは知らなかったぞ」
「はい、実は先日大唐より帰国されました
「さようであったか、さすが先生は博識であるな、国博士になる日も近いであろう。先進の大唐からの情報は非常に役立つものばかりである。学ぶべきことも多い。さすが、大国であるな」
「はい」
「あっ」
「どうしたのだ⁈」
「今、初めて赤子がお腹を蹴ったような気がしたのです」
「誠か⁈なんと喜ばしいことだ、男児かもしれぬぞ。我らの話を聞きすぐにでもこの世に誕生したいのかも」
「王様なんと気が早いことを」
王妃が少し呆れたように言い笑った。
「話は変わるが、
山代王が
「はい、朝廷の医官の話によると容態は今も尚、思わしくないそうです。近く
「さようか、我々も協力せねばな。手抜かりがないよう入念に準備をしてくれ」
「承知いたしました」
トントン、トントン
戸の向こう側からしわがれた声が聞こえた。
「王様、私でございます。
「入りなさい」
慌てた様子の
「どうしたのだ?」
山代王が聞くと大臣
「はい、今、
「ほう、さようか…近江から戻ったのだな…」
山代王が顎を片手でさすりながら呟いた。
「では、王様私共はこれにて失礼いたします。さぁ、
と、場の流れを察知したのか王妃と側室の
「待ちなさい王妃、そなたも
「はい、大丈夫でございます。
山代王は大きく頷くと再び二人を両側に座らせた。
「よし、
山代王が低い声で言うと、
「ははっ」
と、
「王様、皇子様が参りました」
戸の向こうから
「通しなさい」
山代王が答えると、戸があき
「山代王様にご挨拶申し上げます」
「顔を上げなさい」
二人はゆっくりと顔をあげた。山代王はまじまじと皇子の姿を見たあと、感慨深げにため息をついた。
「皇子よ実に久しぶりであるな、しばらく見ぬうちに随分と立派になった」
「ありがたきお言葉でございます。山代王様のように威厳ある君子にるべく、日々精進に努めております」
山代王は目を細めフンと嬉しそうに頷き微笑んだ。
「王妃様もご無沙汰しております、お元気でお過ごしでしょうか?」
「ああ皇子よ。実に久しぶりであるな、元気に過ごしていたぞ。そなたのその若くはつらつとした気力を私にも分けて欲しいものだ」
「何をおっしゃられるのです、王妃様は初めてお会いした時から何一つ変わっておられません。いつまでもお若くて大変美しいお姿のままでございます」
「まぁ、なんと世辞まで饒舌になったか。成長したなフフッ」
王妃は両手を口に当てまんざらでもないように笑うと山代王を見た。
「世辞などではございません」
皇子は少し顔を赤らめたあと慌てて否定した。
「それと皇子、ここに居るのが昨年娶った側室の
山代王が隣で微笑む
「噂はまことであったのですね。大変高貴で美しい女子をお娶りになられたと聞いたのです。
皇子はもう一度大きなため息をつき、
「まぁ、お恥ずかしい…王妃様へのご寵愛にはかないません」
「王妃も
「ありがたき幸せでございます。王妃様や
「まぁ!」
はっきりと物を言う動じない皇子の態度にその場の全員が笑い、部屋の中は一層和やかな雰囲気へとなった。
「して、そなた、飛鳥の都も久方ぶりであろう。
山代王が皇子に尋ねた。
「はい、それが都の着き次第すぐにでもご挨拶に伺いたかったのですが、体調が優れぬご様子でまだお会い出来ておりません…」
「そうか…」
「私も毎日気が気ではありませんが、近く執り行われる百済大寺での祈願祭で早期病気回復をお祈り申し上げたいと思っています」
「そうだな…」
山代王が深く頷いた。
「それと山代王様、此度都に戻ってきたのは他にも理由があるのです」
皇子が目をキラキラとさせ興奮気味に言った。
「実は、昨年大唐より戻られました
「さようか、そなたのような若者が学識を深めこの国の将来を担うのだな。なんとも心強い。大いに精進しなさい。なにかあれば私を頼るように」
「はい、ありがたきお言葉。王様のお心使いに感謝いたします」
皇子は深く頭を下げ礼を言った。
「では、これにて失礼いたします」
皇子が体を起こそうと床に手をついた時だ
「うっ」
皇子が左の手首を押えうずくまった。
「どうしたのだ?怪我をしているのか?」
山代王が覗き込んだ。
「はい、先日山に入った際、不注意で負ってしまったのです」
皇子は苦笑いすると衣の袖をめくり手首を押えた。手首に巻かれた手巾が山代王の目に留まった。山代王は一瞬の間をおいたあと、凍り付くような震える声で尋ねた。
「そ、その、手巾は…」
「手巾でございますか?」
皇子は少し困惑したあと、ゆっくりと手巾を外しながら言った。
「怪我はもう治ったのですが、なぜか傷口がまだうずくのです…」
山代王は皇子に近づき手巾を手に取ると、描かれた刺繍を瞬きもせずに食い入るように見つめた。
「こ、これはどうしたのだ?」
「あっ、先日、
「
「はい。薬草に詳しい様子でした。すぐに傷の処置をしてくれたのです。適切な処置のおかげで軽症で済みました。どこの宮の女官かはわかりませんが、丁度その日に
皇子の言葉を遮るように山代王が叫んだ。
「
山代王は手巾を握りしめ青い顔をし呆然と立ちすくんだ。
(確かめねば…)
「皇子よすまぬが、急な用事が出来てしまった。見送りはできぬがかまわぬか?この手巾も預かりたい」
「は、はい。もちろんでございます…」
皇子が呆気にとられた様子できょとんと答えた。山代王のただならぬ様子に一同無言で驚いている。
「山代王様、どうされたのですか?」
手巾を握りしめたまま立ちすくむ山代王に
「
「え?」
「すぐに馬の用意をしろ!」
山代王が声を荒げて言った。
「はっ!」
「王様、もう少しで日暮れになります。明日の朝一番で出かけられた方がよいのでは…」
王妃がとっさになだめるように言いった。
「……急ぎ確かめたいのだ」
山代王はそう言うともう一度手巾に視線を落とした後、部屋から出て行った。門の外では
「王様、急にどうされたのです?間もなく日暮れです」
「確かめたいのだ…」
そう言うと馬にひらりと飛び乗り手綱を引いた。
「どちらに向かわれるのですか?」
「
山代王はそう放つとかけ声と共に勢いよく馬を走らせた。
(
「山代王様、お待ちください!!」
「
都の外れにある市から戻ってきた
「
「そんな…」
「
東門の横にある小さな小屋の前で藁を編んでいた
「…と、
「いえ、午後からお姿を見ておりません…」
「どうしよう…もうすぐ日が暮れるというのに…」
ちょうど庭から出てきた
「どうしたのだ?」
「それが、
「
「確かに最近の
「……もしや、またあの池に…」
「池?どこの池だ?」
「…深田池です」
「深田池か…でも、もう日暮れだぞ」
「
背後からの突然の声に驚き振り返ると、門の入り口前に山代王が立っていた。
「や、や、山代王様…」
「
山代王が険しい顔で言った。彼が握りしめている手巾を見て
「恐らく、深田池かと…」
「ふ、深田池だと?」
山代王は眉をひそめたあと、再び馬にまたがり風のように屋敷を飛び出した。
そろそろ戻らないと、すっかり考えこんでしまった…考えたところで解決などしないのに…。
西の空は美しい茜色にそまり、東の空は緋色に染まっている。秋の草むらから鈴虫の優しい音色が聞こえ心地良かった。美しい夕暮れの空を見ながら中宮を想った。飛鳥の都に戻りもう数か月経っているがどう過ごすべきなのかわからない…自分の未来さえもわからないのに、中宮の想いを果たすことができるだろうか…その真意さえもまだわからないのに…。
ゆらゆらと水面に映る自分の姿をじっと見つめていた。一瞬水面に人影が映った気がしたが、気のせいだろうと思い小石をつかみ投げようとした瞬間、水鳥が一斉に空へと飛び立った。直後に人の気配を背後に感じた。
誰かがいる…おそるおそる立ち上がりゆっくり振り返った。目の前に山代王が静かに立っていた。大人の男になった山代王だ。麻布の上に深紫色の絹の薄い衣を羽織り、頭には細かい装飾が施された金の冠を乗せている。幻でも見ているのだろうか…一瞬で時が止まった。
…ま、まさか…こんな事が…
全身の力が抜けその場に崩れ落ちた。突然の出来事に頭の中は真っ白になり何も考えられない。それとも夢でも見ているのだろうか…。
「と、
山代王は静かに私の前に立つと肩に手をかけ立ち上がらせたが、私は顔を上げられなかった。山代王は黙ったままうつむく私の体を強く抱き寄せ言った。
「
十三年前と変わらない優しい声だ…。
「や、山代王様…」
山代王はしばらく私を抱きしめたあと、感慨深げに見つめ言った。
「そなた、何も変わっておらぬ。なぜ、急に私のもとから去ったのだ…」
山代王の目に涙が溢れた。真っすぐな澄んだ瞳は昔と一つも変わらない。
「山代王様、これには訳が…」
「何も言わなくていい…こうして私のもとに戻ったのだ。もう二度とどこにも行かせまい…」
山代王はもう一度強く私を抱きしめた。
日はすっかり落ち月明かりだけが池の水面と私達を照らしていた。
「宮に戻ろう…」
山代王は先に馬の背に乗ると私の手を掴み引き上げ彼の前に座らせた。
「私の馬が…」
「大丈夫、後で誰かに取りにこさせる」
「はっ!」
暗闇の中、私達を乗せた馬は
宮の前では松明を持った
「お、王様、宮の者達が見ております…」
「かまわぬ」
山代王は
「や、山代王様、あ、歩けますので…」
「こうしたいのだ」
山代王はそう言うとそのまま宮の中を歩き続けた。
「今晩はこの宮に滞在する、そなたが消えてしまわぬようにな」
山代王が私を真っ直ぐに見つめながら背後にいる
「王様、それはなりません、今夜は屋敷に戻られるべきです。王妃様や
山代王は唇を噛みしめながら振り返り、一瞬
ドラマのワンシーンでも見ているのだろうか…この重苦しい沈黙が耐えられない…とにかく落ち着いて、冷静に、冷静にと心の中で必死に自分に言い聞かせたあと、意を決して口をひらいた。
「山代王様、私はどこにも消えません。明日も明後日も、その次の日もこの宮におります。今日は王宮に戻られて下さい」
精一杯の言葉を並べうつむいた。本当なら彼に飛びつきたい所だがそうすべきではない事は重々理解していた。正直、私自身も突然の出来事に混乱している。まずは気持ちの整理が必要だと思ったし、そして何よりも以前
「僭越ながら王様、理由なく、
「くそっ…」
山代王はそう言うと、私の手を握り言った。
「また、明日まいるゆえ、ゆっくり休みなさい」
十三年前に別れた時も、同じ言葉を聞いた事を思い出していた。でも今回はそうならないだろう…きっと全て上手くいく…
私が深く頷くと、山代王は少し寂しそうに微笑み
「
「えぇ、大丈夫。ただ…驚いてしまって…」
部屋の天井を見つめながら呆然として答えると
「山代王様が
「手巾?…そういえば、
手巾の事など全く気に留めていなかった。まさかあの手巾がきっかけとなり再び山代王を引き寄せるとは想像もしていなかった。状況がどうであれ、もう逃げも隠れもできない…。これが運命なら流れに身を任せるしかない…きっと避けられない宿命でもあるのだろう…。
「
風もなくひっそりと静まりかえった夜にリーンリーンと鈴虫の優しい音色だけがいつまでも響いていた。
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