第28話 後宮の掟

  ヒンカララララ、ヒンカラララララ…


 爽やかな風と共に野鳥の鳴き声が戸の隙間から聞こえてきた。


 こまどりだろうか…あの鳥は山の中腹に生息したような…まだまだ醒めぬ夢の中でそんな事を考えいた。




 「燈花とうか様?燈花とうか様?」



 う〜ん、、さっきから誰の声だろう…


 「失礼ですが、お部屋に入らせていただきます」


  パリッとした声と共にガタガタと戸が開いた。


 「燈花とうか様朝になりました。お起きください」


  やっぱりいつもの小彩こさの声と違う…


 「燈花とうか様!」



 ん?…おかしい…部屋も明るいし…ハッ!!


 寝台から飛び起きキョロキョロと部屋の中を見まわした。見慣れぬ広い部屋に明るい陽ざし、充満している花の香り…


   そうだ、後宮に来たんだった…


 一度目を閉じたものの部屋の中に人の気配を感じ目をこすった。目を凝らしよく見てみると見知らぬ中年の女官が戸口の横に立っていた。私はひゃっと小さな声を上げたあと姿勢を正した。


 「おはようございます」


 中年の女官は落ち着いた様子で丁寧に頭を下げた。


 「あ、あなたは?」


 「本日より、燈花とうか様の世話を担当いたします女官の莅用りようと申します。昨晩は夕食をお届けに参りましたが、お眠りになられていたので、そのまま夕食は下げました。空腹ではありませんか?すぐに侍女に食事とお湯の用意をさせます」


 淡々とした事務的な口調だ。彼女は再び会釈をし部屋を出て行こうと背を向けた。


 「あ、お気遣い頂きありがとうございます」


 慌てて答えると部屋の戸に手をかけようとしていた彼女はスッと動きを止め、くるりと振り返ると視線を床に落とし言った。


 「燈花とうか様、失礼ですがご自身よりも身分の低いものに敬語をつかってはなりません」


 「えっ…?」


 「高貴な身分になられるのですから下々の者に敬語を使ってはなりません。主従関係のしめしがつかぬ事は王室の威厳にも関わります。今後は王妃様より後宮で生活するためのご指導があると思いますので、重々にお聞き入れください」


 莅用りようは再び頭を下げ静かに部屋を出て行った。部屋の戸が閉じた瞬間、大きなため息が出た。


 …小彩こさどうしよう…私、王族の一員になれるのかしら…


 今更だが少し後悔にも似た気持ちが沸き起こった。早々にこんな気持ちでは先行きが不安だ。


 部屋の中に漂う甘い花の香りとは裏腹に私の気持ちは朝から暗かった。寝台に横たわっていると若い侍女が温かい食事とお湯を運んできた。食事が済むとまた数名の侍女達がやってきて、美しい濃い桃色の衣を着せてくれた。そして丁寧に髪を結い上げると、小さな真珠がちりばめられた簪を挿し、最後に鮮やかな朱色の紅を唇にさした。


 この間、私は人形のように立ち尽くし全てを侍女達に任せているだけだった。これが王族の生活というものか…


 「燈花とうか様、後宮では毎日王妃様や他の側室の方にご挨拶に伺うのが習わしです」


 一人の若い侍女が言った。


 「そう。わかったわ」


 身支度を終わらせ侍女のあとについて王妃の住む屋敷へと向かった。初夏だが太陽は朝から燦々と輝き後宮を照らしている。じとっと体中が湿っていくのがわかる。必死で額の汗を拭った。


 絹の衣ではあるが何枚も重ねて着ているせいか動きずらく重い。これから夏の盛りになるというのに毎日この服装をする必要があるのだろうか?広い敷地の中を歩きながらそんな事を考えていた。


 「燈花とうか様、こちらが王妃様のお屋敷でございます。どうぞ中へお入りください」


 案内役の侍女が大きな屋敷の前で立ち止まり、中へ進むようにと手を向けた。私は王妃の住む屋敷を見上げ感嘆のため息をついた。風格のある木製の建物が茅渟王ちぬおうと共に行った宇陀の別宮を思い出させた。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、まるで昨日のことのように宇陀で過ごした日々を思い出していた。


 私は大きく深呼吸をしたあと侍女と共に屋敷の中へと入った。屋敷の中は涼しく長い廊下は至る所に生けられた花々の甘い香りで充満していた。廊下の突き当りにある部屋までくると侍女が足を止め、戸の向こう側に向けて静かに言った。


 「王妃様、燈花とうか様がおみえです」


 「通せ」


 侍女は、「はい」と答えると戸をスッと開け挨拶をと言わんばかりの目配せを私にした。


 「お、王妃様、朝のご挨拶に参りました」


 私は慌ててその場に伏せた。


 「よく来た、中に入り座りなさい」


 私はゆっくりと立ち上がり顔を少し伏せたまま部屋の中央へと進み、王妃と適度な距離を置いて再び座った。


 「かしこまらずとも良い、昨日そう言ったであろう。さぁ顔をあげて」


 王妃の明るく朗らかな声に誘われるように顔を上げた。目の前には昨日と変わらない美しい姿の王妃が優しく微笑んでいる。なんと凛として気品がある人なのだろう…私は彼女の美しさからしばらく視線を外すことが出来なかった。


 「で、昨夜はよく寝られたか?」


 「はい、ぐっすりと寝てしまいました」


 「そうか、安心した。食事は済ませたか?」


 「はい」


 「さようか。では少し話そう。誰か!お茶の用意を」


 戸の向こうで侍女が「はい」と答え、すぐにお茶を運んできた。部屋の中に一気に柑橘の香りが漂った。


 「爽やかな香りがいたします」


 「さよう、みかんの皮とショウガを少量擦り合わせて作ったのだ。どうだ?良い香りであろう?」


 「はい」と答え湯呑に口をつけると、王妃は嬉しそうに微笑み話を続けた。


 「そなたに会うのを今日まで楽しみにしていた。実を言うと、そなたの事は随分と前から知っていたのだ…王様が昔話してくれたからな…。正直なところ今回の側室の件も初めは反対だったのだ。なれど王様のお気持ちが強く冬韻とういんも色々とそなたの事を教えてくれたので気が変わった」


 王妃が手に握っていた湯呑を見つめた。


 「…さようでございましたか…不快な思いをさせてしまい申し訳ありません」


 王妃の少し寂しげな姿に突如、罪悪感が沸き起こり下を向いた。


 「何を言うのだ、確かに女人とし一時そなたを羨ましく思った時期もあったが、遥か昔のことだ。私は王様と共に様々な困難を乗り越えてきた。これまでの王様の心労は計りきれない。しかし今はこの苦労が報われ朝廷での地位や権利、権力は盤石なものとなった。多くの富も手に入れ実に豊かで安定した暮らしをしている。ゆえに、今後は更なる王様のお力になれるように尽力してほしい」


 王妃の言葉に嘘偽りはないように感じた。彼女は本気で私を歓迎してくれている。そして山代王を寛大な心で受け入れ理解し支え、なによりも彼を心から愛している。正直私は王妃の大きな愛を前にたじろいでいた。彼女のように私も彼を愛せているだろうか…


 「そなたに、贈りたいものもあるのだ。誰かいるか?」


 王妃は目を輝かせながら弾む声で廊下の侍女を呼んだ。


 「燈花とうかに用意したものを持ってまいれ」


 少女のような純粋な笑顔だ。


 しばらくすると侍女が桐箱を抱え部屋に入って来た。王妃はその桐箱を慎重に受け取ると、そっと蓋を開けた。箱の中に煌びやかな髪飾りや首飾り、指輪など豪華絢爛な宝石の数々が見えた。王妃は一つ一つ丁寧に取り出すと私の前に置いた。


 「そなたへの贈り物だ。すべて持っていきなさい」


 「えっ⁈」


 私が呆気に取られてキョトンとしていると、


 「あと二か月後にはそなたも晴れて王族の仲間になるのだ。高価な装飾品の一つも持ち合わせていないと王族としての面子が保てぬ。ゆえに遠慮はいらぬ、持ってゆきなさい」


 「大変ありがたいお言葉に感謝しております…しかし、私のような身分の者にはこのような高価な物は一つで十分かと…」


 私が少し戸惑いながら答えると、王妃が間髪入れずに返した。


 「だからこそ必要なのだ。そなたは、中宮の大切な客人だと聞いたが王族や豪族の出身ではない。先帝の勅旨により王族入りが認められたものの、未だにその事に疑問を持つ者や否定的な人間が宮中や朝廷におるのだ。今回の婚姻は王様の地位権力が後ろ盾となり叶えられたが、本来王族と関連のない家の女人を側室として娶る事はできない。今こそ王族の力と威厳を見せつけ、そなたが王家にふさわしい女人であると都中の者に認めさせなければならぬ。今後の王様の為にもなるのだ、賢いそなたであればわかるだろう?」


 王妃の気迫に何も言えなかった。彼女の言うとおりだ。私は自分の王族として生きる事への覚悟や認識の甘さをこの時思い知った。


 「…はい、王妃様、十分に理解しております…謹んで受け取らせて頂きます」


 私は丁寧にお辞儀をしたあと、桐の箱を手に持った。元来煌びやかな装飾品にさほど興味はなく、時に煩わしささえ感じてしまうが、王族に入り後宮で側室として暮らすのだから仕方がない。


 「それでよい。遠慮は不要、全て持っていきなさい」


 「はい…ありがたく頂戴いたします」


 王妃は満足気にうなずくとパチンと両手を叩いた。


 「そうだ、子供達を庭で待たせていたのをすっかり忘れていた。紹介するゆえついてきなさい」


 「は、はい」


 王妃と共に急ぎ足で庭に飛び出した。庭には数人の子供たちが毬をついたり、地面に枝で絵を描いたりしていたが、王妃の姿を見ると一斉に飛んできた。子供達は背の順に一列に整列するとじっと私を見た。


 「母上遅いではないですか!待ちくたびれました」


 一番背の高い年長らしき少年が言った。


 「皇子よ許しておくれ、時間がたつのをすっかり忘れていた」


 「燈花とうか、この子は王様の第二皇子で年は十、隣に居るのは第一皇女で年は八つ、その隣は第二皇女で六つ。一番幼い子が第三皇子で年は三つだ。ここにはおらぬが、第一皇子が斑鳩宮いかるがのみやで勉学に励んでいる、年は十四だ。みんな燈花とうかに挨拶をなさい」


 子供たちが一斉にお辞儀をした。


 「これから私たちと共に暮らすのだ、皆仲良く過ごすように」


 「はい、母上」


 子供たちは元気よく答えるとまた庭の遊びへと戻って行った。


 無邪気に遊ぶ子供たちを見ながら思った。みんな良い子女たちだ。特に男子は山代王様によく似ていて凛々しく賢そうだし、女子たちは王妃様に似てお淑やかで幼いながらに気品がある…こんな素敵な家族に囲まれ生活している彼はさぞ幸せだろう…


 部屋に戻り王妃から贈られた桐箱を棚の上に置いたあとゴロンと寝台に横たわった。天井に吊るしてある布に真っ赤な牡丹の刺繍が施されている。牡丹の花を見ながら今日、目が覚めるような深紅の衣を王妃が着ていた事を思い出した。


 王妃は私が想像していたよりもずっと賢く優しく寛大な女性だ。昔一度、小墾田宮おはりだのみやの廊下ですれ違った事があるが、あの時はまだ幼い少女だった…きっと彼女は覚えてはないだろうが、当時の彼女の可憐な美しさに私は衝撃を受けた。


 本来ならば私が先に山代王に嫁ぐはずではあったのだけど…そんな、たらればの事を考えながら目を閉じた。



 「燈花とうか燈花とうか起きておくれ」


 優しい甘い声と吐息の音が耳元で聞こえる…うっすら瞼を開けるとオレンジ色の光の中で微笑む山代王の顔が見えた。


 「お、王様!!な、何故ここに⁈」


 私は大声を上げ飛び上がった。


 「小一時間ほどそなたの寝顔を眺めていた」


 「えっ⁉︎こ、小一時間⁉︎」


 山代王は頬杖をついたままニヤニヤと私を見ている。思わず両手で顔を覆った。顔が熱くなっていくのが自分でもわかる。一時間も間抜けな寝顔を見られていたのかと思うと絶望しかない。


 「冗談だよ、さっき来たばかりだ」


 「ま、まことでございますか⁈」


 「そうだ」


 私の反応を楽しむかのように山代王がクスクスと笑った。


 「あっ、私今日午後は白蘭はくらん様のもとに伺うはずだったのに、もう夕刻でございますか?」


 「さよう。じき日が暮れる」


 「あ~どうしましょう!困ったわ」


 あぁやってしまった…すっかり寝入ってしまった。私は両手でグーを作り頭を叩いた。


 「気にせずともよい。白蘭はくらんより、そなたが疲れているようだから様子を見に行って欲しいと頼まれたのだ。明日また待っていると申していたぞ」


 「はぁ、さようでございますか…白蘭はくらん様には飛んだご無礼をしてしまいました。明日謝らないと…」


 「何を言う、そなたはまだ来たばかりではないか。慣れない環境にいるのだ、さぁ肩の力を抜いて休みなさい」


 「はい…」


 そう答えたものの自分の情けなさに心底落ち込んだ。


 「それよりも、ここに来ればいつでもそなたに会えるなんて夢のようだ…」


 そう言うと山代王は私の体を引き寄せ抱きしめた。彼の上着からほんのりと漂う沈香の香りが私の動揺する心を落ち着かせた。


 「それと、急を要すことがあり明後日より、斑鳩宮いかるがのみやにしばらく行ってくる」


 「い、斑鳩宮いかるがのみやでございますか?…」


 「そなた行ったことがあるのか?!」


 山代王が驚いた顔で言った。


 「いっ、いえ、ありませんが立派な寺院があると噂で聞きしました」


 「さすが、燈花とうか、博識であるな。所用がありしばらく滞在する。そなたが後宮に来たばかりだというのに不在にしてしまいすまない」


 「い、いえ。でも斑鳩宮いかるがのみや…ですか…」


 「どうした、浮かぬ顔だな。私に会えぬのが不満か?」


 「いえ!そうではありません…不満など何もございません…」


 山代王は意地悪く笑ったあと私の頬にそっと手をあて言った。


 「用が済み次第すぐに戻ってくる。何か問題があればすぐに王妃に言いなさい。彼女がそなたの力になる。もう少ししたら、私の部屋においで。夕食を共にとろう」


 私がうなずくと、山代王は優しく微笑み部屋を出て行った。



 山代王様が斑鳩宮いかるがのみやに行かれる?政に関連する事だろうか?それとも仏教関連だろうか?でも古来より斑鳩宮いかるがのみやは飛鳥の都に向かう為の通過地点、迎賓館があり各国の国使も足を止める場所だ。何か諸外国との会合かもしれない…


 長い間考えこんでしまっていたのか気付くと部屋の中は薄暗くなっていた。


 「燈花とうか様、燈花とうか様」


 部屋の外から莅用りようの呼ぶ声がした。


 「夕食のご用意が整いました。山代王様のお部屋まで参りましょう」


 「えぇ」


 私は帯紐を結び直し部屋を出た。夕食では山代王と今までの時間を埋めるようにこれまでの事に話が弾んだ。時折、小彩こさ橘宮たちばなのみやでの日々を思い出し胸が痛んだ。まだ一日しか離れていないのにこんなにも宮のみんなが愛おしい…私は箸を置き袖から手巾を取り出した。


 「燈花とうかどうしたのだ?食事が合わないのか?」


 山代王は席を立つと私の前に来てひざまついた。


 「いっ、いえ、そうではありません。実は…橘宮たちばなのみやのみなを思い出してしまって…」


 私がうつむくと、山代王は私の頬の涙を親指で拭ったあと手を握り真っすぐな瞳で言った。


 「そうか…寂しい思いをさせてすまない。でもこの後宮は、都にあるどの宮よりも豪勢で贅沢な暮らしが出来る。宮の警備も厳重にし腕の良い隼人らにこの宮を守らせている。帝の宮と同じくらい安全だ。そなたの望むものは全て用意しよう。飽きることなく、なんの不自由も不安もなく生涯暮らせるように約束する。今の私は政務に追われ忙しい身ではあるが、時間を作りそなたのもとに訪れるゆえここで王妃や白蘭はくらんとともに安心して楽しく暮らして欲しい」


 「…はい、私には大変勿体ないお言葉です。王妃様や白蘭はくらん様と手を取り合い助け合いながら暮らしていきます」


 私が答えると山代王は安心したように深く頷いた。


 翌々日、山代王は幾人かの臣下と側近である冬韻とういんをつれて、朝早く斑鳩の地へと出発した。私も王妃や白蘭はくらんと共に一行の姿が見えなくなるまで門の前で見送った。その日以降、王妃や白蘭はくらんから後宮での過ごし方や王族としての心構えや教養、振る舞い方や刺繍などの指導を毎日受けている。


 ある日、いつものように白蘭はくらんの屋敷に刺繍を習いに行くと戸口の前で彼女は小さな赤子を抱え立っていた。よく見ると隣には山代王によく似た可愛らしい幼子が口を尖らせてひっついている。先日王妃の屋敷の庭でみた子だ。皇子のそばには別の侍女がしゃがみこみ必死で皇子を引き離そうと庭へと誘っていた。私に気が付くと白蘭はくらんが苦笑いをしながら言った。


 「せっかく来てもらったのにすまぬな、この皇子は王妃様の子女だが私にたいそうなついていてな、なかなか私から離れる事ができぬ。今日は赤子をあやしているせいか、駄々をこねてこうしてひっついている」


 白蘭はくらんがぐずる赤子をあやしながら困った表情で皇子を見ると、彼は口を尖らせそっぽを向いた。姉の子供達の世話をずっとしていた私にとっては懐かしく微笑ましい光景だが白蘭はくらんにしてみたらにっちもさっちも行かぬ状況に困り果てているだろう。私は皇子の前にゆっくりと膝をつき目線を合わせた。


 「若君、先日王妃様のお庭でお会いした燈花とうかです。覚えておいでですか?私は宮中に来たばかりでわからないことばかりなのです。白蘭はくらん様と若君が色々教えてくれたらとても助かります。一緒に刺繍をしてみませんか?」


 私が顔を覗き込むと皇子はぷいっと膨れっ面をし、舌を出しまたそっぽを向いた。


 「皇子様無礼ですよ!王様に申さなければ」


 白蘭はくらんが眉をしかめて言うと、


 「白蘭はくらんが悪いのです~」


 と泣き出し庭に向かって駆け出した。慌てて侍女が皇子を追いかけた。


 「すまぬな、まだまだ幼いゆえ無礼を許してほしい」


 白蘭はくらんが申し訳なさそうに言った。


 「とんでもありません。大好きな白蘭はくらん様を赤子だけでなく私にも取られてしまい悔しいのでしょう。刺繍の一つも出来ずに、白蘭はくらん様の手を患わせてしまう私自身が情けなくて、お恥ずかしいです…」


 「ふふっ…」


 私が頬を赤らめながら恥じらったのが面白かったのか白蘭はくらんは赤子をあやしながらクスクスと笑った。


 「この赤子も時期生まれて半年たつのだが、この子を身ごもっている間はつわりが酷く、食事どころか水を飲む事さえままならなかったのだ。なれど、王様が大唐より取り寄せてくれた良薬のおかげで体調も安定しこの子を無事出産出来た。全て、王様のおかげだ」


 白蘭はくらんはぐずる赤子を愛おしそうに見つめた。


 「王様の白蘭はくらん様への格別な愛情の現れでございましょう」


 彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめた

 私はそんな彼女を見ながら、先日侍女から聞いた話を思い出していた。白蘭はくらんにはもともと別の許婚がいたが、彼女に一目惚れした王様が強い希望で後宮に娶った。入宮後も王様のご寵愛をふんだんに受けていて他の側室達とは別格な存在であると…


 その通りだ…白蘭はくらんを目の前にして改めてそう思った。若いのに奥ゆかしく芯の強さも垣間見られる。そして何よりも美しい…


 彼女の少し寂し気な瞳はいつもキラキラと潤んでいて儚げなのだ。いつも薄い桜色や薄い藤色の衣を着ていて彼女の色白の肌と華奢な体によく合い美しさを引き立てている。さらに穏やかな口調と大らかな性格には絶大な癒し効果がある。こんな完璧な女性がこの世界にいたのか…王様がご寵愛するはずだ…


 「ここでの暮らしは規則も制限も多い。なれど、じき慣れるであろう」


 「は、はい」


 慌てて挨拶をし自分の部屋に帰ろうとしたが、せっかく来たのだから刺繍はせずともお茶を飲もうと白蘭はくらんが誘ってきた。刺繍の練習をしない事がわかりホッとしたので、喜んでその誘いに応じた。


 しかし私達が部屋の中へと入った途端に赤子がスヤスヤと寝始めた。白蘭はくらんはラッキーだと言わんばかりに笑顔を見せ別の侍女に赤子を預け、私を刺繡台の前に座らせた。


 彼女のやる気満々な様子に私は大きく肩を落とした。結局この日も夕方になるまで彼女から刺繍を習いそのまま共に夕食を取った。


 部屋に戻った時にはあたりは暗く空には満点の星が輝いていた。私は寝台に横たわり、細かい針仕事でガチガチになった肩をもみながら目を閉じた。


 山代王が斑鳩宮いかるがのみやへ旅立ってからもう随分と日が過ぎている。彼は無事過ごしているだろうか?体調など崩していないだろうか?そろそろ戻るだろうか…


 携帯電話のないこの世界では気軽にチャットも出来ない。ひたすら相手からの便りを待つだけだ。なんてもどかしいのだろう…


 部屋の外から夜風と共にジージーと虫たちの合唱が聞こえてくる。キリギリスだろうか…虫の鳴き声でさえも楽しそうで羨ましかった。深いため息をついたあと夜空の星をぼんやりと見上げた。


 数日後のある昼下がり、門番の男から報告を受けた侍女が王妃の屋敷へと走っていった。


 「王妃様、王様が本日お戻りになられるようです、恐らく午後には到着されるかと」


 「さようか?では急ぎ王様を迎える準備をしなさい」


 「はい」


 「それと、この事を燈花とうかにも伝えなさい」


 「承知しました」



 コンコン、コンコン


 いつもよりも大きめに莅用りようが戸を叩いた。


 「燈花とうか様、莅用りようです。お部屋に入ってもかまいませんか?」


 「ええ」


 「燈花とうか様、本日王様がお戻りになられるそうです」


 「誠か⁈」


 「はい。今晩は皆で夕飯をお取りになられると」


 「そう…わかった。では私も今から厨房に出向き夕飯の支度を手伝うわ」


 「え?な、何をおっしゃるのです!王族の方は仕事などいたしません、ましてや厨房など下女の仕事でございます。全て下女達にお任せください」


 「そ、そう…では、裏山に行き百合でも摘んでくるわ」


 「そ、そのような大それた事はとんでもないことでございます!この敷地からは誰も王様の許可なく出る事は出来ません。安全の保障がどこにもないのですから」



 「でも、私も王様を喜ばせたい。何本か花を摘んだらすぐに戻ってくるから、いいでしょう?」


 「なりません。百合であれば裏庭にも少し咲いておりますし、もっと必要であれば下女たちに取りに行かせますので、燈花とうか様はお部屋でお仕度の時間までお待ちください。先日、白蘭はくらん様より頼まれた刺繍をお仕上げになってはいかがですか?」


 莅用りようは眉をしかめ顔を真っ赤にして鼻息荒く言った。きっとこのまま会話を続けても埒があかない…


 「…そうね…そうするわ…」


 私が沈んだ声でそう言うと、莅用りようは「それが良いかと」と、言い残し部屋を出た。私は彼女が部屋を去った瞬間に深いため息をついた。


 自由が利かない事は覚悟していたけれど、やっぱり息がつまる。早く山代王に会って顔を見ながら話がしたい。私は手に持っていたまだ途中の刺繍を台の上に置きそのまま頭を伏せた。

 コンコン、コンコン


 「燈花とうか様?」


 莅用りようの声が遠くに聞こえる。


 コンコン、コンコン


 「燈花とうか様?燈花とうか様?」


 あぁしまった!眠ってしまった!しかも椅子に座りながら…私が腰をさすっていると部屋の外から莅用りようが早口で言った。


 「燈花とうか様、王様が先ほどお戻りになられました。王妃様のお屋敷で夕飯をお召し上がりになられますので、すぐにご準備を」


 「わ、わかったわ」


 返事と同時に数人の侍女達が部屋に入ってきて手際よく私を着換えさせた。そして慌ただしく部屋を飛び出し王妃の屋敷へと向かった。屋敷の外からでも中の賑やかな声が聞こえた。一気に鼓動が早くなり、緊張とはやる気持ちを抑えながら侍女の後に続いた。


 「王妃様、燈花とうか様がお見えになりました」


 「通しなさい」


 戸が開くと、正面の席に山代王の姿が見えた。隣には側近の冬韻とういんや臣下達の姿も見えその周りを囲むように王妃や白蘭はくらん、その他の側室や子供達が座っていた。


 「燈花とうか来たか!遅かったではないか、待ちわびたぞ」


 山代王は立ち上がると早歩きで私のもとに近寄った。


 「王様、遅くなり申し訳ありません」


 「いいから座りなさい」


 山代王は私の手をひき隣に座らせた。


 「さぁ、みな今日はご苦労であった。全員揃ったことだし、改めて祝杯をあげよう」


 部屋の中の全員が一斉に手に掲げ酒を飲み始めた。


 「燈花とうか久しぶりであるな、元気で過ごせていたか?」


 山代王が私の手を強く握り直し言った。


 「はい、王様」


 「そうか、良かった。後宮での暮らしはどうだ?少しは慣れたか?」


 「…はい」


 小さな声で答え下を向いた。


 「どうした?食事が合わぬか?何か不都合なことでもあったのか?」


 心配そうに山代王が私の顔を覗き込んだ。


 「…そうではないのです。何の不自由もなく過ごしております。本当に感謝しております…ただ…」


 「…ただ?」


 「正直に言ってもかまいませんか?」


 「もちろんだ」


 「その…自由に宮の外に出られないのが…少し窮屈に感じております」


 「そうか、今まで自由に暮らしてきたそなたには慣れぬ環境だな…なれど、仕方がないのだ。王族である以上、外の世界からいつ誰が我らを狙ってくるかわからない。ゆえに、この後宮で過ごすのが最も安全だ。時期そなたもここでの暮らしに慣れよう。そなたの歓迎の為に舞に長けた伎楽の少年らを、近々屋敷に招こうと思っている。地方からの旬の高級食材を取り寄せて最高に豪勢な宴を催すつもりだ。きっとそなたも楽しめるはず」


 山代王が無邪気な子供のように目を輝かせながら言った。


 「さようでございますか…お気遣いに感謝します。楽しみです」


 山代王は嬉しそうに頷くと、臣下達のいる席へと戻っていった。王妃や白蘭はくらん、他の側室達も酒を飲み楽しそうに談笑している。私は新鮮な空気が吸いたくなりこっそりと外に出た。


 真っ暗な夜空に満天の星が輝いている。私は大きく深呼吸をした。夏ではあるが夜の山のひんやりとした空気が心と体に沁み渡った。


 はぁ、気持ちが良い…時間が経つのは早い。もうここにきて二週間以上たつ。橘宮たちばなのみやのみんなは何をしているだろうか…去年の夏はみんなで飛鳥川沿いにホタルを見に行った。漢人あやひとが調子に乗りホタルを取ろうと足を滑らせ川に落ちみんなで大笑いしたんだった…


 自然と涙が頬をつたった。いつになったらこのホームシックは治るのだろうか…


 

 「後悔されているのですか?」


 突然背後から男の声がした。振り返ると小さな灯篭を持った冬韻とういんが立っていた。


 「と、冬韻とういん様…」


 私が慌てて袖で目を拭うと冬韻とういんは軽く会釈をし言った。


 「こんな風に燈花とうか様とお話するのも久しぶりですね…泣いてらっしゃったのですか?」


 「あっええ…少しホームシックのようです」


 「ホームシックとは?」


 冬韻とういんが目を丸くして聞き返した。


 「あっ、橘宮たちばなのみやでの暮らしが少しだけ恋しいという意味です」


 「さようでございますか…東国では可笑しな言葉を使われるのですね…きっとすぐにお慣れになれます、山代王様もお側にいらっしゃるのですから」


 冬韻とういんは優しく励ますように言うと、袖に手を突っ込みゴソゴソと何かを取り出した。


 「それと、此度の斑鳩での滞在で小彩こさより燈花とうか様に渡して欲しいとお預かりしたものがあるのです」


 「小彩こさから?」


 冬韻とういんの手のヒラの上に見覚えのある貝殻があった。貝を開いてみると中から独特な薬草の香りがした。昔林臣りんしんからもらった塗り薬だ。


 「小彩こさが私に?」


 「はい。燈花とうか様の持ち物だから渡して欲しいと頼まれました」


 「さようですか…実は…」


 本当の事を言いかけたものの、気が変わり貝を見つめた。


  これは林臣りんしん様のもの…


 「斑鳩宮いかるがのみや小彩こさに会われたのですか」


 「はい」


 「どうして彼女が…」


 「付き添いで来ていたようです。どうやら近江皇子おうみのみこ様の身の回りの世話役を受け同行していたようです」


 「近江皇子おうみのみこ様ですか?」


 「はい」


 「そうですか…」


 鼓動が早くなり私はとっさに胸を押さえた。


 「急遽必要になった会合でしたが、朝廷の大臣や僧侶、仏門を学ぶ学徒、大陸からの留学生など様々な人間が集まりました」


 「何について話し合われたのですか?」


 「えっ?」


 冬韻がとても驚いた様子でこちらを見た。


 「あっ、いや、つい興味があったもので…」


 「今後のこの倭国の発展についてです。大陸からの文化や知識、技術を取り入れ活用すること。中央主権国家に向けた新しい政治改革の重要性などです。もちろん仏の道についても同様です」


 「…さようですか」


 私が相づちを打ちながらいかにも国際情勢に精通している風に話を聞いていたので、冬韻とういんはしばらく不思議そうな顔していたが、突如思い出したように口を開いた。


 「あっ、あと小彩こさ燈花とうか様がどのように過ごしているか、不便はないか、後宮の侍女たちから酷いことをされてはないかと、食事は合っているかなど、色々としつこく聞かれました」


 冬韻とういんが苦笑いをしながら頭をかいた。私は、困った人ねと冷静を装いながら答えたが内心泣きたかった。でもここで、弱音を吐いたらまた彼女を困らせてしまう…私のせいで彼女の自由を奪うなんて耐えられない。


 私は必死で泣き出したい感情をこらえ、一度深呼吸をしたあと、勇気を出してかねてから確認したかった事を尋ねた。


 「あと、一つお聞きしたいのですが、冬韻とういん様は…山背大兄王やましろのおおえのおう様をご存知ですか?」


 「山背大兄王やましろのおおえのおう王様?いえ、お聞きしたことのない名前です。山代王様のことですか?」


 「あっ、いえ別の方なのです…斑鳩宮いかるがのみや周辺に居を構えていらっしゃるのですが、、お会いしませんでしたか?」


 冬韻とういんはうーん、と言うと首をかしげ顎に手を当て空を見上げた。


 居て欲しい。別人の存在がわかれば、ひとまず山代王の疑いは晴れ安心することが出来る。私は冬韻とういんが考え込んでいる間、両手を胸の前で固く握っていた。


 「さぁ、沢山の人がおりましたし…わかりません」


 「そうですか…」


 私の落胆した様子に驚いた冬韻とういんがすかさず言った。


 「その方をお探しなのですか?大切な方であるならば、今一度早馬を斑鳩いかるがに向けて出し確認いたしましょう」


 「い、いえ、そうではないのです…どうか気に留めないでください」


 慌てて誤魔化したものの、胸の鼓動が治らない。山背大兄王やましろのおおえのおう斑鳩いかるがの地で生活している事は間違いないはず、でも身分も地位も高いはずなのに、なぜか見つからないの?


 「燈花とうか様、…燈花とうか様!」


 「は、はい!」


 「大丈夫ですか?」


 冬韻とういんが心配そうに覗き込んだ。私は必死で笑顔を取り繕い大丈夫よと気丈に答えた。彼は少し安堵した表情を見せて言った。


 「そろそろ戻りましょう、王様がきっとお探しです」


 「えぇ…」


 二人で屋敷の中へと戻ろうとした時、冬韻とういんが突然足を止め振り返った。


 「最後に、燈花とうか様はもう身内も同然、私の主と言っても過言ではございません。何かあれば遠慮なくお呼び下さい」


 「あ、ありがとうございます」


 「それと、私に敬語をお使いになるのはお止めください。王室の威厳が失われてしまいますし、主従関係をはっきりと分けなければなりません。身分が違いますので、ご理解下さい」


 「そうね…わ、わかったわ」


 ぎこちない私の態度がおかしいのか冬韻とういんの口元が緩み笑っている。


 「それにしても、燈花とうか様は今どきの女人とは少し異なるので新鮮です」


 「え⁈」


 「普通の女人にはない魅力が、王様を魅了するのでしょう」


 「そ、そう?あ、ありがとう」


 私が頭をかきながらドギマギと答えると、冬韻とういんは軽く笑い、私に何か言おうとしたが何も言わずに背を向け屋敷の中へと入っていった。




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