第20話 花香りと切ない夜

 数日が経ちすっかり気持ちも落ち着きを取り戻した。最近では庭の草木の蕾が一斉に開きはじめ、色とりどりの花々に蝶たちが群がっている。いつもの東屋の石に座り春の霞が薄っすらとかかった都を眺めていた。



 岡本宮おかもとのみやの門の脇にぴったりとつけられた馬車の周りに朝服を着た高官らしき男達が見える。



 山代王様は今どこで何をしているのだろう…ゆっくり目を閉じた。今更どんな顔をして彼に会えばいいのだろう…私が突然いなくなり相当傷ついたはず…会えっこない…首を横に振り想いを打ち消した。

  

 はぁ、、、春の野草でも摘んで気を紛らわそう、少しくらい私も働かないと…。


 思い腰を持ち上げ、倉に寄り適当なサイズの籠を見つけ飛鳥川の土手へと向かった。川沿いの土手は野草の宝庫だ。ノビル、タンポポ、つくしも生えている。食べられる野草を見つけては籠いっぱいに摘んだ。


 何も余計な事を考えずに無我夢中になれる野草採りは楽しかった。まだまだ続けたかったが、籠はもう一杯だ。帰り道、次に来る時はもっと大きな籠を持って来ようと決めそのまま厨房へと向かった。籠を体の前に抱え直し、厨房へ通じる曲がり角で突然誰かとぶつかった。


    「ひゃあっつ!!!」


 ぶつかった拍子に籠を地面に落としてしまった。籠の中から野草が勢いよく飛び出した。


    「す、すみません」


 中年の小太りの男は慌てて謝ると、地面に散らばった野草をかき集めながらチラッとこちらを見た。見たことのない顔だ。


 「大丈夫よ、でもあなたこの宮の者ではないはね?…」


 「はい、私は朝廷の薬草庫で働く者です。春になり近くの山で薬草や山菜が沢山採れたので各お屋敷を回りお届けしている次第です」


 男は竹を編み込んでつくったような筒状の大きな籠を背負っている。中を覗くと半分ほどの野草がまだ残っていた。


 「そうなのね、ありがたいわ、ご苦労さま」


 「厨房に入ってすぐの台の上に置いておきましたので後ほどご確認下さい、では失礼いたします」


 男は軽くお辞儀をすると足早に立ち去った。男が帰り際に立ち止まり、もう一度振り返ったことに全く気がつかなった。

山代王邸では



 「冬韻とういんさま、お出かけでございますか?」


 一番若い臣下が尋ねた。


 「あぁ、水派宮みまたのみやに行ってくる、留守を頼むぞ」


 「承知いたしました。ちょうど今、薬草庫のものが先日頼まれていた薬草を持ってきましたが中身を確認されますか?」


 「もう用意できたのか?良かった。すぐに確認しようカ


 二人は急ぎ足で門へと向かった。門の前で待っていた男が深々とお辞儀をして言った。


 「冬韻とういん様、先日要望されました薬草をお持ちしましたのでご確認下さい。いやぁ、入手するのに少々手惑いました。なんせ大唐からしか手に入らぬ貴重な薬ですので…」


 男は白い包み紙を冬韻とういんに手渡した。


 「せかしてすまない、白蘭はくらん様の体調が優れぬのだ。この薬で落ち着くと良いのだが…」


 「冬韻とういん様、この薬は数種の生薬から出来ており滋養強壮が強く良い薬ですが、その…一般的には身重の女人に処方されるものでして…」


 男が心配げにうかがった。少し間を置いた後冬韻とういんが言った。


 「そうなのだ、白蘭はくらん様がご懐妊だ。初めての懐妊とあり、つわりが重く身動きひとつ出来ぬ。まだ安定しておらぬ為、周りには秘密にしてくれ」


 「さようでございましたか、まずはお祝いを申し上げます。しかしご体調を聞くと不安ですね。今後なにかあれば、すぐにお呼び下さい」


 「ありがとう、助かるぞ」


 「あっ、それとこれは、嶋宮しまのみやより預かりました酒です。冬韻とういん様にお渡しするようにと巨勢こせ様より仰せつかっております」


 男は背中にかついでいた籠をおろすと、底の方から酒の入ったかめを取り出し蓋を開けた。ふわっと梅の香りがあたりに漂った。


 「相変わらず梅の良い香りだ、山代王様がお喜びになる。きっと林臣りんしん様からの差し入れであろう…」


 冬韻とういんかめに蓋をしながら言うと、男が思い出したようにぽそりと呟いた。


 「それと…いやぁ、人違いかもなのですが…」


 薬草庫の男は顎に手をあてう~んとうなり空を見上げた。


 「どうしたのだ?」


 「実は先ほど、嶋宮しまのみやに寄る前に橘宮たちばなのみやにも寄ったのです。屋敷から誰も出てこないので、厨房に山菜を置きにいったのですが、その…そこで…」


 男が口ごもった。


 「どうしたのだ?」


 「以前中宮様にお仕えし、ご寵愛されていた女官様を見ました」


 「なに?橘宮たちばなのみやの女官?中宮様からのご寵愛といえば…」


 「その女官様はだいぶ前に東国に帰ったと風の噂で聞いていたので驚きました。都にお戻りになったのでしょうか?」


 「まさか燈花とうか様が⁈」


 「お名前までは存知ませんが、以前に何度か小墾田宮おはりだのみやの薬草庫でお見受けいたしました」


 (燈花とうか様に違いない。急ぎ確かめねば…)


 「冬韻とういん様?」


 「すまぬな。今話した事も白蘭はくらん様の懐妊の事も他言してはならぬぞ。よいな?」


 「はっ、承知いたしました」


 男が屋敷を去ると、冬韻とういんが臣下に向かい静かに言った。


 「この薬を侍医に渡し急ぎ白蘭はくらん様に処方してもらうように。私は急用ができたので出かけてくる。先ほどの会話は誰にも他言してはならぬぞ。あと、帰りが遅くなると、山代王様に伝えておくれ」


 「はいっ、でも、水派宮みまたのみやに行かれるのですよね?」


 「…行先変更だ」


 冬韻とういんはそう言うと馬の手綱を引き寄せひらりと背に乗り屋敷を後にした。

 橘宮たちばなのみやでは、



ドンドンドン、ドンドンドン


 「誰かおらぬか?」


 バタバタと走る音が聞こえ、へいっという声と共に六鯨むげが門から飛び出して来た。


 「あっ、冬韻とういん様!」


 六鯨むげは驚いた顔を急いで隠すように、すぐさま深く頭を下げた。


 「冬韻とういん様が、急にお越しになるとは…実に長い間ご無沙汰しておりました。で、本日はいったい…」


 六鯨むげはうつむいたまま言った。


 「燈花とうか様にお会いしたいのだ」


 「えっ⁈…その…なんのことでございましょうか…」


 六鯨むげは目を見開きおどおどと震える声で答えた。


 「隠さずともよい、燈花とうか様にお会いしたいだけだ。お願いだ通してくれ」


 冬韻とういんは、六鯨むげに近寄り肩に手をかけ優しくなだめるように言った。六鯨むげは少し迷ったが、冬韻とういんの切実で誠実な眼差しの前に断れないと分かったのかすぐにあきらめた。


 「…はい、少しここでお待ちいただいてもよろしいですか?」


 「もちろんだ」


 六鯨むげはくるっと振り返ると、とぼとぼと敷地の中へと戻っていった。


 トントン、トントン


 「燈花とうか様、おいでですか?」


 「えぇ、」


 戸口に困惑した顔の六鯨むげが立っている。


 「どうしたの⁈顔色が悪いわよ」


 「そ、それが…東門に、冬韻とういん様がお越しになられていて…燈花とうか様にお会いしたいとおっしゃられていますが…いかがされますか?」


 「そう…」


 「も、申し訳ありません、私がうまくはぐらかせば良かったものを…」


 六鯨むげの眉と口はみるみる八の字になり今にも泣き出しそうだ。


 「あなたのせいではないわ、遅かれ早かれいずればれることだったのだから、時間の問題だったのよ。むしろあなたにもこんなに心労をかけてしまい申し訳ないわ」


 「とんでもないことです、本日は小彩こさもあいにくおりませんし、どうしたものか…」


 「いつまでも逃げてはいられない、冬韻とういん様を中庭へとお通ししてくれる?」


 「はい、承知いたしました」


 六鯨むげは軽くうなだれながら門の方へと向かった。


 こんなに早く、冬韻とういん様の耳にはいるとは思っていなかったけれど仕方ないわ…


 深く深呼吸をしたあと中庭へと向かった。


 東屋の横に冬韻とういんが立っている。私が近づくと静かに頭を下げ言った。


 「燈花とうか様、長きにわたりご無沙汰しておりました」


 十数年たった今も優しく穏やかな表情をもつ冬韻とういんにまずは安堵し、そしてなぜか懐かしさを感じた。彼は今や立派な大人の男へと変貌している。優しい眼差しも穏やかな口調も昔のままだ。



 「冬韻とういん様、ご無沙汰しております」


 いつになく丁寧な挨拶をし二人で東屋の石に座った。緊張で指先が震えている。何を話せばいいのかわからない…。


 沈黙が続いた所に、六鯨むげが茶器を乗せたおぼんをグラグラとさせながらおぼつかない足取りでやってきた。六鯨むげが慣れない手つきで茶を注ぐとコポコポと音がなり茶の湯気とともに金木犀の香りが広がった。冬韻とういんは一口、口に含んだあと静かに話し始めた。


 「実に甘く良い香りのお茶です。昔、中宮様のお屋敷でよく頂いたのを思い出しました」


 「えぇ…」


 「燈花とうか様、お久しぶりでございます。お元気でいらっしゃいましたか?」


 冬韻とういんが何事もなかったかのように涼しい顔で言ったので驚いた。


 「えっ?えぇ…」


 聞こえるか聞こえないかの小さな声で答えた。


 「…東国からはいつお戻りに?」


 「つい、一か月ほど前でございます…」



 「さようでございましたか、私はてっきりもう都には戻らぬものだと…」


 冬韻とういんが茶をすすりながら言った。


 


 何も答えられない…黙ったままうつむいた。


 「で、此度はいつまで都に滞在されるのですか?」


 冬韻とういんは穏やかな口調だが、彼の目は笑っていない。


 「それが、まだはっきりとは…」


 曖昧な感じで答えた。


 「小彩こさ橘宮たちばなのみやに戻っているのですか?」


 「えぇ…」


 更に小さな声で答えた…。次に何を話してくるのかは、おおよそ分かる…。


 「…では、山代王様の事は小彩こさから聞いていますか?」


 「はい、聞いております。茅渟王ちぬおう様の事も…」


 私が答えると冬韻の表情が一瞬曇った。


 「さようですか…では僭越ながら、単刀直入に申し上げます。今の都や朝廷は、田村皇子たむらのみこ様のご病気も回復しないことから、大変不安定な状態が続いております。現在、唯一山代王様だけが都や朝廷、全てを掌握し平穏に保つことの出来るお方です。先代の大王さまの悲劇を乗り越えやっとここまで登りつめられたのです。後宮にも紅衣こうい様をはじめ、数名の側室と昨年入宮された白蘭はくらん様もいらっしゃりお子達にも恵まれておいでです…その…申し上げづらいのですが、今お心を乱すわけにはゆかぬかと…」


 「…山代王様はまだご存知ないのですね?」


 「さようでございます」


 「それなら良かった…承知しております。冬韻とういん様のおっしゃりたいことは十分承知しておりますので、ご心配には及びません」


 「さ、さようでございますか…申し訳ありません。出過ぎた真似をいたしました。しかし朝廷には未だ野心や野望を持つ者も数多くひそんでおり、いつ足をすくわれるかとヒヤヒヤしております。一瞬たりとも油断出来ぬ恐ろしい世界です。山代王様の行く末を考えると、未然に最善の策を取らねばなりません、例えそれが意に添わずとも…」



 「山代王様は幸せものですね。あなたのような真の忠臣がお側で支えているのですから」


 「そ…そんな、恐縮でございます」


 冬韻とういんは少し照れて顔を赤らめた。彼のように優秀で忠実な臣下が側にいれば山代王様も道を誤る事はないはず…


 「安心してください。私も亡き中宮様との約束を果たしましたら、都を離れるつもりです」


 「中宮様とのお約束ですか…承知いたしました…」


 冬韻とういんは静かに頷くと、残りのお茶を飲み干し立ち上がった。


 「では、失礼いたします」


 冬韻とういんは深くお辞儀したあと門に向かい歩き出した。そして途中立ち止まると振り返り言った。


 「それにしても燈花とうか様は昔と変わらず美しいお姿のままですね」


 そう言うと、少し寂し気な表情をして再び背を向けた。


  ダメだ…立っていられない…。


 その場でしゃがみこんだ。覚悟もしていたはずなのに、こんなに胸が痛むとは…ちょうど遠くに六鯨むげが歩いているのが見え必死で名前を呼んだ。


 「燈花とうか様、お呼びですか?あれっ、冬韻とういん様はもうお帰りになられたのですか?」


 「六鯨むげお酒はある?」


 「えぇ、でも誰が飲むのですか?まさか燈花とうか様が飲まれるのですか?お酒は飲めないではありませんか?」


 六鯨むげが目を丸くしながら言った。


 「お願い、なんでもいいから持ってきて頂戴。どうしても飲みたい気分なのよ」


 「そ、そうですか。ではすぐにお持ちいたします」


 ふらふらと部屋に戻り寝台に倒れ込んだ。すぐに六鯨むげが酒を持ってきてくれた。本当に酒には弱いがとにかく全てを忘れて飲みたい気分だった。私も安上がりな女だ。飲み始めてすぐに記憶が飛んだ。


 「六鯨むげもうないわよ~もっと持ってきて頂戴!!」


 「燈花とうか様、あまり飲まれるとお体に障ります…もうこの辺でおやめになっては…」


 六鯨むげは私を止めようと必死だが、今日は好きなようにすると決めていた。


 「いいから、今日だけはどうしても飲みたいのよ、あと少しだけ…あと少し」


 「では、あとほんの少しだけ持ってまいります」


 六鯨むげが部屋の外でなにやら大声で叫んでいる。


 「小帆こほ小帆こほはいるか!」


 小帆こほがあわてて裏の厨房から飛んできた。


 「六鯨むげ様、どうされたのですか?なんだか、お酒の匂いがプンプンしますが…」


 小帆こほが袖で鼻を押えた。


 「わしが飲んでいるわけではないのだ。所で小彩こさはどこにいる?いつ戻ってくるのだ?」


 六鯨むげが切羽詰まった様子で言った。


 「確か、小彩こさ様は、百済大寺に行かれているはず…もう夕刻なのでそろそろお戻りになる時間だと思いますが…」


 「そうか、困ったことになってしまった。いやはや、どうしたものか…そうだ、小帆こほこれを燈花とうか様にお出ししておいておくれ」


 六鯨むげは小さな酒の瓶を小帆こほに手渡した。


 「お酒ですか⁈」


 「酒の入れ物だが中は水だ、事情はわからぬが飲み過ぎていらっしゃる。もう十分に酔っておられるから水でも気が付かないだろう…」


 「はぁ…」


 小帆こほも呆れたようにため息をついた。


 「私は急いで小彩こさを迎えに行くからそれまで燈花とうか様を頼んだぞ」


 「はい、承知しました」


 小帆こほが答えると、六鯨むげはあ~困ったという具合に頭をぼりぼりとかきながら馬小屋へと向かった。


 「燈花とうか様~お酒をお持ちいたしました。中に入ってもよろしいですか?」


 小帆こほがガタガタと戸を開けだが部屋の中はガランとして誰も居ない。


 「どうしよう、燈花とうか様がいらっしゃらない!燈花とうか様!燈花とうか様!」


 小帆こほは部屋を飛び出し屋敷中を駆け回り大声で叫んだか、春の風がその声を全て打ち消した。




 夕暮れの中、どこに行くわけでもなくふらふらと飛鳥川沿いを歩いていた。酔い覚ましに外に出たのはいいが、逆に酔いが回ったようで一向に冷めない。にしても山からの風が気持ち良い…


 しばらく歩くと、夕暮れの空から風に運ばれた花びらがひらひらと舞い降りてきた。雪だと思い手をかざすと一枚の花びらが手のひらに落ちた。ぼやけていてよく見えない、目を凝らした。


    桜?違う…桃の花びらだ…


 そして遠くから、ボロンボロンと琴の音が聞こえてきた。以前に聞いた音色によく似ている。引き寄せられるかのように、音の方へと歩き出した。


 林の中を歩いている。琴の音がだんだんと近づくのがわかる…なんて心地の良い音色だろう…。木の根につまずきながらもなんとかバランスを取り、少し歩いた先で地べたにゴロンと寝転がった。見上げた空に濃いピンクの花が見える。風に吹かれゆらゆらと揺れている。その奥に薄っすらと三日月が見えた。

 「なんて美しい夜なの!!はぁ…」


 やけなのか解放感からなのかわからないが、大声で叫び目を閉じた。ガサッガサッと足音が聞こえぴたりと耳元で止まった。



  「そなた…なぜ、ここにいる?」


 男の声だ…。目をうっすら開けると暗がりの中に見覚えのある顔が見えた。


    あれっ、誰だっけ…えっと…


 「そなた、人の敷地で勝手に寝転がっているのか?」


    思い出した…嫌な奴だ…


 ガバッっと起き上がりよく目を凝らして見ると、目の前に立派な男の姿をした林臣太郎りんしんたろうがこちらを見ていた。


 「あれ⁉︎…大人の入鹿いるか…でなくて蘇我入鹿そがのいるか…」


 自分でも何を言っているのか理解できない。ろれつの回らない私を察したのか、林臣りんしんがいつもの冷ややかな口調で言った。


 「酒の匂いがすごいな。どれだけ飲んだのだ?」


 「少しだけ…ほんの、すこ~し…アハハハハ」


 林臣りんしんはしかめ面をしたが、不思議と怖くはなく、むしろ可笑しくなりケラケラと笑った。


 「女子がこれほどまでに酔うとは、恥じらいはないのか?」


 「いえ、全然酔っぱらってなどいませ~ん…あまりにも良い夜で……美しい琴の音が…あれ、聞こえない…」


 「全く愚かな奴だ、ふん」



 林臣りんしんはそう言うと琴を持ち上げ林の中へと消えて行った。彼の後ろ姿を見ながら思った。


 相変わらず冷たい奴…あれって琴?…まぁどうでもいいわ…


 林臣りんしんが去ると再びその場に寝転がった。辺りはすっかり暗くなっている。何時かもわからない。冷えた夜の空気が気持ちいい。でもそろそろ帰らないと、こんな野外で一夜は過ごせない…。そう思いなんとか起き上がったものの木の根につまずき豪快に前へと転んだ。目の前には池が広がり、水面は月明かりに照らされキラキラと光っている。


 池…?危なかった……もう一度起き上がって…あれ?おかしいわね…なぜ、立てないのかしら…


 なんとか立ち上がったものの足の感覚がない。そのままよろよろと池の水面めがけて倒れ込んだ。


 その時だ、誰かに腕を強くつかまれ池の淵へと引き戻された。


       えっ…?


 「死ぬのなら、別の池でしろ」


 腕の中で声が聞こえた…見上げると、林臣りんしんが冷淡な眼差しで見ている。


      …戻ってきた…


 林臣りんしんはそのままひょいっと私を担ぎ上げると背に乗せ林の中を歩き始めた。いわゆるおんぶだ。


   「思ったより重いな…」


 背中からかすかに花の香りが漂ってきた…桃の香り…。


 林臣りんしんは黙ったまま何も話さない。暗い夜道をモクモクと歩くだけだ。


 あ~いい気分…。私は彼に背負われながら、 のんきにそんな風に思っていた。


  途中、夜空の三日月を指さし言った。


 「林臣りんしん様、あの月まで行けると思いますか?」


 「……」


 当然彼は何も答えない。私はなぜかこのタイミングで気が大きくなった。


 「林臣りんしん様には特別に秘密を教えて差し上げましょう…私は、この世界の人間ではないのです…フフッ…」


 「フン、酔っ払いが…」


 林臣りんしんが相変わらずの冷たい口調で言った。


 「では、ついでに…あなたの名は入鹿いるか蘇我入鹿そがのいるか…天下の大悪党、無慈悲で冷酷な男。千年たっても子々孫々にいたるまでこの国の歴史書に名が残る…。でも…もし…もし私が元の世界に戻れたら皆を説得してもいいわ…そんなに悪い人間でもなかったと…ハハッ…」


 「戯けを…」


 ピューと優しい春の夜風が横を通り過ぎた。


 「はぁ、眠い…このまま消えて…忘れたい…山代王様…」


 溢れた涙が頬を流れ林臣りんしんの肩に伝わった。


 


      (泥酔の原因か…)



 橘宮たちばなのみやの東門の前では松明をもった小彩こさ六鯨むげの姿があった。二人は私達の姿に気づくと大慌てで飛んできた。


 「これは、なんと、林臣りんしん様!!」


 小彩こさ六鯨むげは腰を抜かしたように驚いたあと深く頭を下げた。


 「この者の部屋はどこだ?」


 「へっ?」


 二人は目を丸くし互いを見合った。


 「良いから、早く案内しろ!」


 「はっ、はい!」


 林臣りんしんは私を部屋に運び入れると、ふう~っと肩を大きく回し部屋から出ていった。その様子を宮の皆が信じられないという表情でひっそりと物陰から見ていた。


 「林臣りんしん様、なんとお礼を申し上げればよいのか…」


 門の前で六鯨むげが深々と頭を下げた。


 「フン、うちの敷地内で死なれたら困るからな。それと、あの者の足首だが折れているぞ。安静にさせて見張っておけ」


 「はっ、はい此度は助けていただき誠にありがとうございました」


 六鯨むげが再びお礼を言い顔を上げた時には、もう林臣りんしんの姿はなかった。


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