第21話 蓮の花が咲く音は
朝の光が部屋の中を照らしている。目を開けたものの、ズキズキと頭が重く起き上がれない。
あぁ…頭が痛い…そんなに飲んだだろうか…昨晩は…どこに居たっけ…
そんなことをウトウトと考えていた時、戸の向こうに
「
「えぇ、入って…」
「ちょうど今、目が覚めたの…喉がカラカラで…」
寝台から起き上がろうとした時だ、
「…イタタ…足首が」
今までに感じた事のない激痛を足首に感じ両手で被った。見ると普段の二倍以上に腫れあがっている。
「
「あぁ、嫌な予感…」
「恐らく折れていらっしゃるかと…」
「はぁ…全く自分が情けないわ…」
両手で顔を覆った。
「あとで都の医官が診察に来てくださりますので、それまでは安静にしていましょう。それと…昨晩の事を覚えていらっしゃいますか?」
「…昨晩は、お酒を少しのんだのよ。…そうしたら、いつのまにか桃林にいて…で、…
思わず両手で口を押えた。終わった…心臓が止まる寸前だ。
「さようでございます。昨晩は
一瞬で背筋が凍りついた。再び布団をかぶり目を固く閉じた。ど、どうしよう…よりによって
「で、
そっと布団から顔をのぞかせて恐る恐る聞いた。
「それが、誠に不思議なのですが、足首が折れているから安静にして見張っておけ。とだけおっしゃったのです。いささか疲れているご様子でしたが、怒っているようには見えませんでした。逆に気味が悪くて…」
あっちゃぁ~どうしよう。でも、もう済んでしまったことだし…まさか、殺されるなんてことないわよね…今からでも謝れば許してくださるかしら…
「とにかく
「…そうね。あっ、それと…昨日…
ためらいがちに伝えた。
「…はい、
「まぁ、もう少し様子を見るわ。山代王様は政務で忙しくてこの宮になど来ないだろうし、お会いしたとしてももう、過去の事だから…」
「
「
「もちろんでございます」
いつの日か彼女には本当の事を話さないと…
足首を骨折してから二か月近くになるだろうか、季節はすっかり春から初夏になり、日に日に蒸し暑さが増している。雨の日も多くなり、庭の緑は更に深く生い茂り、朝晩はカエルの大合唱があちこちの田畑から聞こえた。
人生初の骨折をしてから最初の二週間は本当に退屈だった。ただただ天井を眺めては解決できぬ問題を何度も何度も繰り返し考えた。それでもやはり糸口が見つからず、行き場のない思いに頭の中が爆発しそうだった。
三週間が過ぎると、少し歩けるようになり部屋の外に出て敷地の中をあてもなく歩いた。
四週目以降は敷地の隅々を歩き回りあちこちを散策しては薬草や食用の野草を採る日々に没頭した。気が塞がないようにするのに野草採りは効果てき面だった。
天気が良く美しい夕焼けの日には東屋の石に座り夕陽で染まった都を眺めた。朝廷の重鎮や大臣が橘宮を訪れることはなく、忘れられた宮のようにひっそりと静まり返っていた。
「
いつものように明るい声で
「ありがとう、でももう痛みもないし大丈夫よ」
私はくるくるっと足首を少し大袈裟に回して見せた。
「イタっ…」
ほんの少しだけ、まだ痛みが残っている。心の痛みも傷と同じようにすぐに回復してくれたらいいのに…
「
「ウフフ…母のようだわ。はい、母上おっしゃる通りにいたします」
私はニヤリとし、からかい気味に言った。
「
「…不安にばかりさせて本当にごめんなさい…でももう本当に大丈夫だから…」
まるで自分に言い聞かせるようだった。
…話題をかえよう…
「そうだ、あなたの作ってくれるこの湿布すごく効くわ、何の生薬を使っているの?」
「え?えっとそれが、宮中で働く医官から取り寄せたもので草の名がよくわからないのです。今度お会いした時にでも聞いておきますね」
「いいのよ、ただ興味を持っただけなの。あまり馴染みのない香りだと思ってね」
「そうですか…はい、終わりました。
ふ~もう夏ね、陽ざしが眩しい…。
ドンドン、ドンドン
「誰かいるか」
東門の戸を誰かが叩いている。珍しい…客人だろうか…門番の
「あっ、これは
「
「あ、はい」
「入るぞ」
「えっ?は、はい…」
シャリシャリと小石を踏む音が聞こえる。振り返るとそこには、久しぶりに見る
「り、り、
予想だにしなかった人物の登場に驚き飛び上がった。挨拶も忘れ
ど、どうしよう…なんの弁解の言葉も出てこない…
「怪我はどうだ」
相変わらず不愛想な声だ。でも、ちゃんとお礼をしないと…
「は、はい。すっかり良くなりました…その、あ、ありがとうございました」
気が動転しているせいか、おどおどとした奇妙な口調になった。
「ん?」
背筋をピンと伸ばし
「…酔っていたとはいえ、
「で…もう歩けるのか?」
「え?あ、はい…」
「では、明日の夜明け寅の刻にあの池にまいれ」
「えっ?」
訳がわからない…呆然とその場に立ちすくんだ。東屋から馬にまたがり颯爽と都に向かう
困った…どうしよう…とにかく
「まことですか⁈
「そうなの、さっきお見えになって怪我の事を聞かれたのだけど…明日の夜明けの寅の刻にまた
「えっ、なんの為ですか⁉︎」
「そんな事知らないわよ、私が聞きたいわ」
ムスッとして答えた。
「さ、さようですか…。理由はわかりませんが一度向かわれてはいかがですか?」
「そ、そんな…まさか私、殺されないわよね?」
「そんな事するはずありません。その気ならとっくに私も
「そうね…けどこの間の私の失態を許せぬのかも…」
「
「そうね…とりあえず行ってみるか…」
気乗りはしなかったがきっとこちらに拒否権などないだろうし、なんとなく危険な目には合わない気がして覚悟を決めた。
「
「ありがとう…」
ため息混じりに言った。
鳥の鳴き声も虫の音も聞こえないひっそりと静まりかえった夜だ。
「
「う~ん、起きる。起きるから…」
適当に言ったものの、まだまだ夢の中にいたい…
「
り、
急ぎ支度を済ませ手持ちの小さな灯籠に灯りをつけ部屋の外に出た。あたりはまだ暗く静寂な空気に包まれシーンとしている。東門に着くとすぐに前方の暗闇の中に小さな灯りが見え、馬のひずめの音が聞こえてきた。馬は東門付近にくるとスピードを落としゆっくり止まった。一人の若い男が松明を片手に馬から降りてきた。
「
「もちろん覚えてるわ」
「良かった、怪しいものだと思われなくて。どうぞこの馬に乗って下さい。若様のところまでお連れいたします」
「
「はい」
「わかったわ。
「承知しました。気を付けてください」
パカパカという馬のひずめの音と飛鳥川のゴボゴボと水が流れる音だけが響いている。夜空には満点の星がキラキラと輝いていた。
「
「ありがとう」
小さな灯籠を右手に持ち直しゆっくりと歩き出した。桃の木の根元に小さな灯籠が置かれている。中の火は風に吹かれゆらゆらと揺れ今にも消えそうだ。あたりに人影はない。
「遅いぞ」
足元の方から急に声がした。
「ひゃゃあ!」
大声で叫んだ。辺りは真っ暗で小さな灯籠をかざしても何も見えない。
「り…
「さようだ」
声の方を見ると池の岸にくくりつけてある小さな船のような乗り物から
「乗れ」
「えっ?そこにですか?」
「二人乗っても沈まぬ、早く乗れ」
「は、はい…」
なんとか小舟に乗りこんだがグラグラとしていて今にも沈みそうで怖かった。舟の端をしっかりつかむと
月の光に照らされた
こんなにじっくりと
そんな事を考えながら
「あっ、
良いチャンスに恵まれたと思いもう一度念のためにあの夜の事を謝った。
「……」
「何も聞いてこないのですね…」
「関係ないからな…着いたぞ」
小船が池の中央のある中洲に止まった。
「
「……」
「
少し大きな声で呼びかけた。
…グウ~…グウ~…
すぐに寝息が聞こえてきた。
・・・嘘でしょう⁈私は自分の耳を疑った。
「
軽く体をゆすったがピクリとも動かない。スヤスヤと気持ち良さげな寝息だけが聞こえる。一人孤島に取り残された感じだ。なんて身勝手な人なのだろう…すぐに怒りの感情が込み上げた。
なんなのよこの男!頭おかしいんじゃないの!どうなってるのよ!
頭の中は怒りとパニックで混乱している。すぐにでも帰りたいが、一人船を漕いで岸辺まで戻る勇気は到底ない。結局彼が起きるまで待つという選択肢しか残っていない。
愕然としたが仕方がない、こうなったら私も朝になるまでここで寝ようと早々に開き直った。
“ポンッ”
何かが弾ける音を聞いた気がして目が覚めた。う~ん、なんの音だろう…。瞼を閉じていても太陽の光が眩しい。朝の静寂の中、眠い目をこすりながら起き上がった。
目の前の光景に息をのんだ。辺り一面美しい蓮の花に囲まれている。鮮やかで透き通るような桃色の花びらが蕾の中からあらわれた。小さい蕾のものから背の高く大きく開花したものまである。夜の暗闇の中ではここが美しい蓮の池だとは想像もしなかった。
隣では
「
「んん?もう朝か…早いな…ふぁぁ…」
「音を聞いたか?」
「えっ?」
「夜と朝の境目に蓮の蕾が開く音が聞こえるらしい……」
「早朝に咲く蓮の花は格別に美しい…」
「蓮の花がお好きですか?」
「泥が濃ければ濃いほど美しさを増すという、こんなに清らかに咲き誇る神聖な花は他になかろう…」
「えぇ…」
意外だった。この大悪党の汚名を持つ男が蓮の花が好きだなんて思ってもみなかった。これまで見た事のない彼の穏やかな横顔を見て思った。
…歴史書の言う事は本当なのだろうか?
対岸から屋敷の使用人らしき男がこちらに向かって大きく手を振り何か叫んでいる。
「若様!
「すぐに向かう、中に通せ!」
「承知いたしました」
男はそう言うと林の中へと消えていった。
「戻るゆえ、船に乗れ」
「はっ?はい…」
私達を乗せた小船はぐらぐらと不安定に揺れながら、蓮の花の中をすり抜け対へと向かった。船から降りると
「
「えっ?いえ、大丈夫です。一人で戻れますので」
「さようか…」
なんだったのよ…とぼとぼと
「
「たぶんそう思うわ…」
曖昧な感じで答えた。実際何の用だったのかよくわからないが、それよりも疲労と寝不足でフラフラだ。部屋に戻るとすぐに寝台に倒れ込んだ。
「
「大丈夫よ。朝…蓮の花を見ていたのよ」
「蓮の花でございますか?蓮の花なら昼間でも見られますのに…」
「ところが
「さようでございますか…」
「ところで、
「大丈夫よ。それよりも眠くてたまらないから少し寝るわ…お昼過ぎに起こしにきてくれる?」
「承知しました」
「それと、
「もちろんでございます。
「…いえ、会ってはいないわ…ただほんの興味で聞いただけよ。ありがとう」
外はジリジリと夏の陽射しが照り返していたが、部屋には裏山からの涼しい風が入ってきた。
まぁ正室がいるのも当然ね…有力豪族の娘か…蘇我氏らしいわ…はぁ、疲れた…
すぐに深い眠りについた。
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