第18話 深田池のほとりで
ガサガサ、ガサガサ
耳元で乾いた草を踏む音が聞こえる。二人の男が不思議そうに覗き込んでいる。
「誰であろうか?」
「なんだかあやしい女です、放っておきましょう」
「待て、この女の上着の袖を見てみろ…中宮様の紋章が刺繍されているぞ」
「ま、まことですか⁉︎まことであれば大変だ
「いや、待て…この灯籠にも刻印が…
「はっ、はい!」
若い方の男が
「
待っていた男がこっちだと手招きしている。
「なっ、なんと驚いたことか!
「
「はっ、はい」
翌日の昼前、
「
「ま、まさか
「そうなのだ。どう見ても
「なれど、なぜ今…
「いや、私にも何がなんだかわからぬのだ。昨日、深田池の畔で倒れているのが見つかり、宮まで運んだのだ。脈も呼吸も正常だがなぜか目を覚まさぬ…」
「な、なんと…
すすり泣く
また夢を見ている…
中宮様…一体誰の事を案じていらっしゃるのですか?…私はいったい、何をすれば良いのですか?…行かないで中宮様!!…
深い深呼吸を一つして目を開けた。いつもの見慣れた天井がぼんやりと見える。
…夢か、喉が乾いたわ…
「誰か…誰か…」
声を振り絞り言った。
「
誰かが手を握ってくれている…温かい手だ…
「…その声は…
「さようでございます。
いつのまに
「…喉が乾いたわ…お水をくれる?」
「はい、すぐにお持ちいたします!」
いつものようにバタバタっと
すぐに
「
「…体が動かないわ…」
そう言うと、さじを使い水を口に運んでくれた。冷たい水が一気に喉を潤し体中に沁み渡った。
「美味しい…ありがとう…」
かすかに開いた目の前はぼんやりとし、まだぐるぐると回っている。
「
「よっぽど寝てしまったのね…頭が重いわ…」
両手を顔の上に乗せた。
「お疲れなのでしょう、無理しないで下さい」
「私…いつの間にか
大変…中宮を一人深田池に残したままだ…あれ?どうしたんだっけ?まるで思い出せない…
「
「
「と、
「もう少ししたら起きるから支度をしてくれる?中宮様の事が気がかりだわ…妙な事をおっしゃっていたから…」
「…あのう、
「え…?何のこと?」
会話が噛み合わない。でも見上げた天井はさっきよりも鮮明に見える。間違いない…
「
「何を…?」
「…中宮様はもう、お亡くなりになっております…」
「えっ…」
一瞬の間を置いた後、ありったけの力を使い起き上がった。
「…あなたは…誰?」
思わず声に出して聞いた。
「
忘れるも何も飛鳥に来て以来毎日会っている。もちろん昨日も会っている。目の前に立つ女性は見知らぬ大人の女性だが間違いなく
「本当にこ、
もう一度聞いた。
「さようでございます」
一体どういうことなのだろう?まだ夢を見ているのだろうか?自分を落ち着かせながらゆっくりと深呼吸をした。
「もう一度、言ってくれる?中宮様は…」
「はい…中宮様は十三年ほど前にお亡くなりになっています」
深く息を吸い込み両手を胸に置いた。心臓が止まりそうだ。
「十三年前?そ、…そんなはずないわ、私、昨晩お会いしたのよ深田池の畔で」
確かに昨夜、間違いなく中宮に会っている。虚言でもなく寝ぼけているわけでもない。私はいたって正常だ。
「
「
私はぱっと立ち上がると、
「
呼び声は屋敷中に響き渡りすぐに馬小屋の後ろの方から一人の男がひょっこりと顔を出しこちらに向かって走ってきた。
「はぁはぁ、
男の肌は薄黒くあごにはもじゃもじゃの無精ひげが生えている。背はさほど高くはないが中肉中背の体格の良い男だ。この男もまた少年の頃の
「あなたは…」
「馬番の
愕然とした…そんなはずはない、昨日確かに中宮に会っている…私はその場でヘタヘタと座り込みうずくまった。どうしていいかわからない…
そんな…嘘だ…
気がづくと部屋から飛び出し馬小屋から馬を一頭連れ出し、飛び乗っていた。
「
後ろから
夕暮れ時なのか西の空は真っ赤に染まっている。どうしても信じられなかった…中宮様にお会いして、真実を聞かなければ…
ドンドンドン、ドンドンドン、
「開けてちょうだい!誰か!」
大声で何度か叫ぶと一人の中年の女が門から出てきた。女は一瞬疑うように上から下まで舐めるように見たが、目が合うと私の顔を思い出したのかすぐに笑みを浮かべた。
「
「あなたは、この宮の侍女?良かった、中宮様は中にいらっしゃる?お会いしたいのよ、すぐに通してちょうだい」
私が背伸びをして無理やり屋敷の中を覗き込むと女が慌てて答えた。
「
「そ、そんなはず…」
女を押しのけ強引に敷地の中に入ったが、人気はなくひっそりとしていてる。
美しかった中庭には雑草が生い茂っていた。
う、嘘でしょ…何かの間違いよ…私はまた屋敷から飛び出すと再び馬に飛び乗り走り出した。
もしかしたらあの場所にいらっしゃるかも…馬を走らせながら、
「
馬を走らせながら
ヒヒーン、ヒヒーン
はぁはぁ…着いた…
目の前には昨夜と同じように月明かりに照らされた美しい池が広がっている。池の畔にある東屋を目掛けて走り出した。
きっとあの場所にまだおいでのはず…
「中宮様!中宮様!」
池中に響き渡る大声で何度も叫んだ。どれだけ中宮の名前を呼んでも池の周りを見渡しても誰も居ない。大きな月が池の水面に映し出され、ゆらゆらと揺れているだけだ。
暖かい風が優しく吹き出し、ヒラヒラと白いものが舞降りてきた。
…雪?違う…花びらだ…
振り返ると池の畔に沿って植えられている桜の花が満開だ。青白い月の光に照らされた桜の美しさに息を飲んだ。
桜?…なぜ?…き、季節が違う…
また暖かい風が吹き何枚もの桜の花びらがヒラヒラと雪のように飛んできた。
やっと気づいた…これ夢じゃない…
目の前に舞う何枚もの桜の花びらを見ながらその場にしゃがみこんだ。夢ではない…現実なのだ。
春になったら一緒に夜桜を見る約束だったのに…私の本当の正体を知る唯一の方だったのに…中宮様は私一人を残し何も言わずに逝ってしまった…
一気に喪失感と寂しさが押し寄せ涙が溢れ出た。泣き声が静かな夜の池に響き渡っている。
「
遠くで誰かが呼ぶ声が聞こえる。
バタバタ、バタバタ…
「ハアハア
「見つかって本当に安心しました。あちこちお探ししたのです。
冷え切った体はガクガクと震えだし、声を出す事も起き上がることも出来ない。
「
「承知しました」
私の運命を慰めるかのように何枚もの桜の花びらが頭上をひらひらと舞っていた。
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