第17話 粉雪の舞う中で
ポトン、ポトン、茅葺屋根から水滴の落ちる音が聞こえる。冷たい空気と共に冬の淡い日差しが戸の隙間から入り小屋の隅々まで照らしている。
良かった…今日は晴れている…宮に帰らないと…
「
「ふぁ~…もう朝ですか?まだ眠たいです」
よっぽど昨夜の酒が美味しかったのか
「さぁ、もう起きて戻りましょう」
寝ている
「はぁい…」
帰り道、飛鳥川は水かさを増しじゃぶじゃぶ、ごぼごぼと激しい音を立て流れていた。
それにしても酒を飲みすぎてなどいないのに頭がずしんと重い…そうだ、きっとあの夢のせいだ…
「…ねぇ
「琴の音ですか?風の音ではなかったのですか?」
「えぇ、確かに琴の音よ。透き通るような美しい音色だった、でも…どこか寂しげで儚くてやけに心に沁みたわ…」
「さようでございますか…でも、
「ゆ、幽霊⁉︎そ、そんなわけないと思うわ!」
とは言ったものの、あの時はまだ酔いが残っていたし…おかしいわね、夢でも見ていたのかしら…急に自信がなくなった。
それにしても林臣様が蘇我入鹿だったなんて…今までは憎たらしい奴とさえ思っていたが、今後の彼を待つ壮絶な最後を思うと、少し胸が痛んだ。
でも仕方ない、
自業自得とはまさにこのことなのだから…
「ねぇ、
「え?
「その方が中宮様のご子息?」
「はい…東宮様はずっと斑鳩の地で仏教に傾倒され、布教に熱心に取り組まれておられました…当時は中宮さまも斑鳩寺のすぐ近くに宮をかまえていたのです。ですが…数年前に病にかかってしまって…誰からも敬われ、人徳人望のあるお方でしたのに…。あの時の中宮さまの悲しみようといったら、今でも思い返すと胸が張り裂けそうです」
「そう…」
「東宮様が亡くなったあと、先代の大王様も後を追うようにお亡くなりになられたのです。先代の大王様もまた生前は中宮様を大変助けられ、朝廷の
「そう…」
やはり、
「ところで、…
唐突だったが、思い切って聞いてみた。
「山代王様ですか?」
「ええっと…似ている名だけど、きっと別のお方だと思うわ…」
「そうですか…山代王様ならもちろん存じておりますが、斑鳩の地に住まわれる
「んん…違うの何でもないわ」
慌てて首を横に振りごまかした。よくよく考えれば
それよりも自分がなぜこの世界に来たのかがいまだ謎のままだ。何か意味があるのだろうか?
確実に言えるのはタイムマシーンに乗り、のんきに歴史を見にきた観光客ではないという事だ。まずは自分の運命の心配をしなければと思い気が滅入った。
足のつま先が地面の冷たさでジンジンと痺れてきた。林の中に小さな可愛らしい黄色の蕾を持った
ようやく
山代王だ、、、。
「
山代王は私が答える前に私の腕をぐいとつかむと力強く引き寄せた。温かな腕の中でドキドキと心臓が鳴り一気に鼓動が早くなった。
「朝早くに
少し力の入った腕から山代王の愛情が伝わってくる。随分長い事会っていなかったような懐かしさを覚えた。
「いくら人が足らぬとはいえ、この寒さの中わざわざそなたらが行くことはなかろう」
山代王は怒り半分呆れ半分な様子で言った。よほど心配をかけてしまったらしい。彼の眉はまだ下がったままだ。
「ご心配をおかけして、すみません」
「謝らずとも良い。そなたは何も悪くないのだから。それよりも良い知らせがあるのだ。そなたに伝えたくて朝一番で参った。兄上や朝廷の大臣達から婚姻の許しをもらった」
山代王がとても興奮した様子で言った。
「まことでございますか⁉︎」
「そうなのだ昨晩、朝廷から使いが来てこの木簡を授かった。いち早くそなたに伝えたくて早朝から馬を飛ばしてやってきた」
そう言うと手に握っていた木簡を広げ嬉しそうに微笑み顔を赤らめた。
「私もとても嬉しいです。とりあえず
今まで考えていた余計な不安は嘘のように吹き飛び、春が来たかのように温かな風を感じた。とても穏やかで平和だ。
宮に戻ると私は都中を見渡せる東屋に山代王を案内した。
「
「私も…同じお気持ちです」
妙に恥ずかしくて山代王の顔を見ることが出来ずにうつむいた。久しぶりの高揚感で顔が熱っているのが自分でもわかる。
「新年の宴の席でそなたとの婚約を発表する。婚儀は準備が整い次第、直ぐにでも挙げるつもりだ」
あまりの短期間の間に話がとんとん拍子に進んだことに驚いていた。私の今までの不安はいったいなんだったのだろうかと拍子抜けした。
「なぜ黙っている?気持ちが変わったか?」
山代王は不安気に私を見た。
「い、いえ、そうではありません。あまりにも順調に話が運んだ事に驚き、まるで夢を見ているような気分なのです…」
「ハハッ…夢などではないぞ」
そう言うと山代王は私のほっぺたを両手でつねった。
「痛いっ!山代王様⁉︎」
「ほれみたことか、夢ではないであろう?」
頬はまだジンとして文句の一つでも言いたかったが、目の前で無邪気に笑う山代王が子供みたいで愛らしかった。そう思ったのも束の間、私の悪い癖なのだろうか、咄嗟にまたいつもの不安に襲われた。
もし、これが長い夢だったらどうしよう…それとも、このあとすぐに未来に戻ってしまったらどうしよう…
私の心を読んでいるかのように山代王が真っすぐな瞳で見つめて言った。
「私は兄上とは違いまだ年若く未熟ではあるが、そなたの事だけは必ず守る。ゆえに安心してほしい」
彼が誠実で愛情深い人間であることが、瞳から伝わる。なんて頼もしいのだろう…
「山代王様…」
山代王は優しく私の頭を撫でると、そっと顔を寄せて口づけをした。裏山からさらさらと音が鳴りどこからともなく山茶花の花びらが冷たい風に乗って飛んできた。
「今日は急ぎそなたに伝えたかったのだ。まだ他にも済ませねばならぬ用事があるゆえ、また明日会いに来よう」
「わかりました」
私が頷くと、山代王はもう一度私の体をきつく抱きしめた。
門を出た山代王は何度も馬を立ち止まらせ振り返るとこちらに向かい手を振った。これではまるで今生の別れのようだと思いクスッと笑ってしまった。
ようやく山代王の後ろ姿が見えなくなった。手足の指が凍てつくように冷たい。朝よりも確実に気温が下がっている。はぁはぁと冷たくなった指に息を吹きかけながら小走りで部屋に戻った。
「中宮様、
「通しなさい」
中宮が静かに言った。
ガタガタと戸があき、大臣と数人の臣下が入ってきた。
「大臣よ急に呼び出してしまいすまぬな、実は…今晩以前話した通りに事を進めて欲しい」
「えっ、今宵でございますか?」
「そうだ今宵だ。すぐに支度をして欲しい」
「しかし、今日は非常に冷え込んでおりまして、今宵は雪が降るかもしれません」
「構わぬ、今宵でなければならぬのだ」
「はぁ…そうですか…承知いたしました。では早速準備いたします」
パカッパカッパカッ、
夕方にさしかかった時一台の馬車が
「誰か、誰かおらぬか!」
「お待ち下さい、今参ります」
門番の
「
「えっ、今でございますか!」
「そうだ、早く呼んできてくれ」
男が切羽詰まった様子で言った。
「は、はい」
コンコン、コンコン。
「
「
「実は今、
「
「はい」
こんな時間に何かしら?まさか中宮様に何かあったとか…
「すぐに支度をして行くからあなたは先に戻っていて」
「承知しました」
門の前に見慣れぬ一台の馬車と男が立っているのが見えた。
「
まさかこんな夕暮れから
「わかりました。
今晩はやけに冷えるわね…かじかむ手にハァと息を吹きかけた。何故だろう、しばらくしても馬車は止まる気配がない。辺りは真っ暗でよくわからない。
ガタガタ、ガタガタ…やはりおかしい…いつもならとうに到着しているはずだ…
しばらくしてようやく、馬車がゆっくりと止まった。
「
男が言った。
「ええ」
辺りは真っ暗闇だったがすぐにここが
「ここはどこなの?」
「この道の先で中宮様がお待ちです」
使いの男が静かに答えた。
「今宵は冷え込んでおりますので、この上着を羽織って下さい。あとこの燈籠をお使い下さい」
男はそう言うと膝丈まであるローブのような温かな上着と小さな燈籠を手渡してくれた。灯籠の中では小さな炎がゆらゆらと揺れている。
「この道の先に行けばいいの?」
「左様でございます。この林の中を少し歩かれると先に松明が灯ってあります。その松明の灯りを頼りにお進み下さい」
使いの男はここまでですと言うように、深々と頭を下げた。
ここがどこかもわからないし何故こんな時間なのかもわからないが、男が嘘をついているようには見えなかった。
まぁいい、行ってみよう…覚悟を決め歩き始めた。渡された小さな燈籠と月の明かりだけが頼りだが、今晩の月はとにかく大きく明るい。足元を照らしてくれるには十分すぎるほどの明るさだ。
冬の夜だけある。林から吹いてくる冷たい風にまつ毛も髪も凍りつくようだ。しばらく道なりを歩いていると少し先に小さな松明の灯りが見えた。その先にも別の松明の灯りがゆらゆらと見える。灯りを頼りにゆっくりと前へ進んだ。
静まり返った林の中にはザクッザクっと霜柱を踏んで歩く音しかしない。心細いが行くしかない…しばらく林の中を歩き続けると木々の向こうにキラキラと輝くものが見えた。ゆっくりと近づくと頭の後ろでバタバタと鳥の羽ばたく音がし驚いて振り返った。
すぐそこに月明かりに照らされた青白い山が見える。見覚えのある山だ。再び正面を向き数歩すすんだところで目の前は開け池が現れた。
池の水面は月明りに照らされキラキラと光り夜空に浮かぶ月は明るく輝いている。とても幻想的で見とれていた。もう一度振り返り山を見た。
あの山…
中宮様だろうか?急ぎ足で近づいた。ゆらゆらと揺れる灯りの下に中宮が一人こちらを向いてぽつんと立っている。
中宮様だわ!!
訳がわからないまま中宮のもとまで駆け寄った。
「中宮様!かように寒い夜にお呼びになるとは、いったいどうされたのですか⁉︎」
中宮はゆっくり頷くと静かに言った。
「…
何を言っているのか全く状況がつかめない。ただ中宮がいつもよりも憂いを含んだ寂し気な瞳をしている。事情はわからないが、とにかく中宮を連れて馬車まで戻らないと…
「中宮様この寒空の下ではお身体に障ります、すぐに馬車まで戻りましょう」
中宮の手を握ったが氷のように冷たい…。
「構わぬ、もう十分生きたのだ」
中宮が寂しそうに笑った。
「中宮様?」
「
中宮がぽつりと呟いた。
どうしたのだろう…様子がおかしい…
「では春になり桜が咲いたら、一緒に見にきましょう…」
「フフッ、そうしよう…」
中宮はやはり寂しく笑いうつむいた。
「中宮様、もう戻りましょう…手が…」
私の言葉を遮るように中宮が言った。
「そなたとは、大分前に一度会ったな…」
えっ?…
「この世界の者ではないだろう?」
ハッと、思わず息をのみ中宮を見た。中宮は静かに私を見つめたままだ。一瞬であらゆる思考が止まった。
「怖がらなくとも良い。私に会いに来たであろう?…あの時そなたが空から私の陵墓めがけて舞い降りて来るのを見た」
ちょっと待って、全然頭が働かない…中宮様のお墓…えっ⁉︎まさか、あの夢のことだろうか⁉︎ やっぱりあそこ中宮様の陵墓だったんだ…あの時、声を聞いたのは…
言葉が出ない。
「そなたに初めて会った時には大変驚いた…やはり夢ではなかったと確信したのだ…この世は実に無情であるな…」
中宮は深いため息をつくと悲しそうに池の水面を見つめた。
「中宮様…何故そんなに悲しまれるのですか?」
突如そんな言葉が口から出た時、冷たい風が
「
「そ、そんな、何をおっしゃるのです!」
「
中宮は私の手を取るとポロポロと涙を流しはじめた。しわくちゃの冷たい手から中宮の深い悲しみが伝わってくる…
「中宮様どうか泣かないで下さい」
頭の中は訳が分からずぐちゃぐちゃだった。その時、東の空に見える彗星が急に強く輝きあたり一面が昼間のように明るくなった。
何が起こったのだろうか?体は風船のようにふわふわと軽くなりつま先が地面から離れるとプカプカと宙に浮きはじめた。
「中宮様!!」
体はどんどん暗い夜空に吸い込まれていく。必死で中宮の手を握りしめた。
「
「中宮様、一体これはどうなって…中宮様!!中宮様!!」
中宮と強く繋いでいたはずの手が離れてしまった…
「灯花~」
「中宮様~」
必死で叫んだが体はどんどん空高く昇っていく。中宮の姿が段々と小さくなっていく。寒さと眩暈で意識が朦朧としてきた。もはやこれが夢なのか現実なのかもわからない。夜空の星は大きく輝き、粉雪と共にぐるぐると世界が回りはじめた。
中宮様…どうか、悲しまないで…泣かないで…
溢れる涙が頬をつたい意識を失くした。
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