第16話 古の豪族
ふぅ、寒い…外からしんしんと冷たい空気が入ってくる。あと、少しだけ、とむしろにくるまった。宇陀から戻って以来、飛鳥の都はこの数日でぐんと気温が下がった。山代王と最後に会ってから何日か過ぎたが連絡はまだない。
運よく
古代の冬だ、寒いはずである。朝の仕事は火起こしから始まる。パチッパチッという乾いた音がし、囲炉裏に火が灯った。少しだけかじかんだ手を温めたあと部屋の外に出た。吐く息は白くタバコの煙のようだ。今日の天気はまさに冬空で厚い灰色の雲がどんよりと漂っている。今にもはらはらと雪が降り出しそうだ。
寒くて寒くて、何もやる気がおきないわ…山代王様からの連絡もないし…そろそろ会いに来て下さるかしら?あぁ…しばらく馬にも乗ってないわね…
部屋の中へ戻り囲炉裏の火がパチッパチッと勢いよく燃え上がるのを眺めながら、熱い茶を飲み手を温めた。
その頃
「誰かいるか?」
「はい」
少し離れた場所で待機していた侍女が言った。
「星宿台の神官、
「承知しました」
侍女は一礼すると急ぎ足で去って行った。
一方
「誰かおるか!」
男のドスのきいた威勢ある声に驚いた
「これは、これは
「
「今からでございますか?」
「そうだ、明日は
「し、しかし、我々も朝廷より新年の準備を任されておりまして…此度の正月は今春の山代王様の婚儀の祝いも含めており、例年にない盛大な宴が催されるそうです。地方からの有力豪族も多数集まるの為、倍の品物を調達しなければなりません、よって…その…私どももここ数日は特に忙しくしておるのです…」
「何を戯けたことを申す!大王家一族も朝廷も、我ら蘇我一族の財力があってこそ栄華を誇っているのだぞ!!」
「は、はい、それは重々に承知しておりますが…その…」
おどおどしながら答えたものの珍しく
「えぇい、つべこべ言わずに従え!!
「
「手間をかけさせるな。急ぎ参れ!」
そう声を荒げて言うと
「
「
事情を知らない
「実は今、
「しかし、新年の宴の準備をすすめないとこちらも間に合いませんよ」
「わかっている!ゆえに困っているのだ!しかしな、
さすがの
「それは、構いませんが…はぁ、承知いたしました」
と、素直に従った。
「良かった。頼んだぞ。とりあえず私は急ぎ男達を連れて桃原墓に向かうゆえ」
「お気をつけて下さい」
「
「どうしたの?」
「実は急用が入ってしまい、今日は市には行けそうもありません」
「急用?」
「はい…」
「そう…では人手が必要ね。私も手伝うわ」
「いえいえ、
「でも、新年を迎える準備だってまだまだ終わっていないでしょう?今年の正月はいつになく盛大に祝うと聞いたわ。手抜かりがあったらそれこそ一大事よ、私も一緒に手伝うわ」
いつも宮の皆に良くしてもらっているので、こんな時こそ微力ではあるが日頃の恩返しも含めて役に立ちたかった。私の熱い思いが伝わったのか、
「面目ありません、ではお言葉に甘えてお願いいたします」
屋敷に残った人間はみな各々の仕事で精いっぱいで手が離せない。私も袖をたくし上げ
「
「こんなに沢山の荷をあなた一人では運べないでしょう?私も共にゆくから」
私はそう言うと大きな荷をひとつ掴みひょいっと肩から背負った。ずっしりと重い。
「
「良いから、急いで向かいましょう。雨が降りだしそうよ」
見上げた空は朝よりも一段とどんよりと薄暗くなっていた。私たちは大きな荷物を抱え歩き出した。嶋の庄という名前は以前に何度か聞いた事があったが、不思議と今までどこにあるかなどを気にしたことはなかった。でも救援を申し込んできたところを見ると
東門をくぐり少し下った先に飛鳥川が流れている、川沿いを上流に向かい歩き始めた。緩い上り坂がしばらく続いたあといつの間にか林の中を歩いていた。生い茂る木々の枝には葉こそなかったが均衡な距離を保ち美しかった。よく見てみると全て桃の木だ。この時、この場所が桃原と言われていることが腑に落ちた。
あの時は散々な目にあったのだ。髪飾りも失くしてしまったし、久しぶりに髪飾りの事を思い出し気分が沈んだ。
更に桃林の中を歩みを進めると、先にきらりと光る水面が見えた。近づいてみるとそれは大きな苑池で正確に測量されているのか綺麗な正方形をしている。中央には中洲が造られていてまるで小さな島が浮いているようだ。
水面には数匹の水鳥が寄り添い羽をブルブルと小刻みに動かし冬空の下この寒さをしのいでいるように見えた。
「ここは?」
息を切らしながら少し前を歩く小彩に尋ねた。
「
ここが
今までは緩い坂を上がってきたが池を過ぎたあたりから今度は急な登り坂へと変わった。
重い荷を包んだ布が肩にくいこみ痛い。何度も立ち止まると前方を仰いだが、当然坂の上の景色は見えない。
「
「
先を進んでいた
「
どんなに深呼吸をしてもなかなか息が整わない。
はぁ、疲れたわ…もう歩けない…
どんよりとした重い雲で重なる冬空を見ながら目を閉じた。ザクッ、ザクッと誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
私は起き上がらずに目を閉じたまま尋ねた。
「
「……」
……おかしい、返事がない。不審に思った私はのそのそと体を起こし顔を上げた。見ると若い少年が無表情のままじっと私を見ている。
そう、この冷淡な顔立ち…
「
気まずい…彼がなぜここにいるのかはわからないが、私の事など無視してすぐに去って欲しかった。なぜこんなに一秒一秒が長く感じるのだろう…沈黙に耐えかねて自分から話を振った。
「
「数日食を抜いたとて、死にはせぬ」
相変わらず冷たい口調だ。そしていつも上から目線なのが鼻につく。人生の八割をきっと損しているに違いない…そんな事を考えながら衣の袖をぎゅっと握りなおし、静かにきっぱりと言った。
「今日は新年を迎える準備で大変多忙な日でしたが、皆こちらの作業を優先する為にやってまいりました」
「当然だ、主従関係があるからな」
「…
「…ふん」
「
「良かった~」
嬉しさのあまり胸の前で両手をパチパチと叩いた。
「
「さっき、
「
「相変わらず、冷たい感じで嫌だったわ」
私が少し嫌味ったらしく言うと、
「シィー
「さ、ここで休みましょう」
突如目の前が開けると東屋全体が見えた。更にその奥には巨大な小山と石の塊が見えた。下半分は土が盛ってあるが、上は平べったい大きな石の表面が剥き出しになっている。
ここって、石舞台古墳じゃないの⁉︎
一瞬で背筋は氷りつき体中が身震いした。この古墳には以前来たことがある。その巨大な石が横たわる圧巻の姿を今もしっかり思い出せる。間違いない、ここは石舞台古墳だ。しかも造営真っ只中の…
「
「ここは昨年亡くなった大臣蘇我シマさまの桃原墓です」
「シマ?」
そういえば文献で読んだ事がある…シマって…確か、
「先ほど
「えっ!?えっっっっ⁉︎」
思わず自分でも驚くほどの悲鳴に近い声を上げ心臓がドクンと強く脈打った。
「そんなに驚くことですか⁈」
「い、いいえ…もちろん驚いてなど…い、いないわ」
一瞬でカラカラになった喉に唾をのみ込みながら答えたが、明らかに動揺しているのは伝わったと思う。嘘であってほしかった、まさか、
「はぁ…」
深いため息がこぼれた。
「
東屋を出てクタクタの足を引きずりながら歩いていると、雨の中、少し脇道にそれた小道に黒い人影が見えた。笠を被っているし濃い霧雨の中では誰なのかよくわからないが…こちらに近づいて来る。遠目で見ても凛とした美しい歩き姿だ。
すぐ近くまで来ると男は笠を上げこちらを見た、真っすぐな瞳と目が合った…
そう…
なんて日なのだろう…嘘であってほしい…また彼だ…
一気に気分が沈んだ。
今日一日で二度も会うなんて、ツイてなさすぎると思った。しかも
「これまでの私の無礼をお許し下さい!」
などの命乞いなど出来ない…手遅れだ…しかも疲労とかじかむ寒さで声がでない。彼は私の前に立ち黙ったままずぶ濡れの私を見ている…何も話さない。
彼の手が大きく動き私の顔に向かって伸びた。
ぶ、ぶたれる
瞬時にそう思い目をつむった。すぐに、ズッ、という音がし頭の結髪に何かを挿された。
えっ?…
そして、自分の被っていた笠を外すとポンと雑に私の頭の上に置き黙ったまま去って行った。
何が起こったのか全然わからない…わかる事といえば結い上げた髪に感じる違和感だけだ。
恐る恐る笠を外し頭を触ると何か挿っている。そっと抜いて手に取り見てみると、以前あの山で失くした瑪瑙の髪飾りだった。
こ、これ、あのとき山で落とした髪飾り…何故
石を留めていた金具の部分は一度壊れたらしく綺麗に直され
確かに、あの時イノシシが前方に見えて、間違いなく絶対絶命だった…けど、急に姿が見えなくなり、私たちは逃げる事ができた…
頭の中がパニックだったが、同時に中宮の庭で蹴鞠をした日の事も思い出していた。
あの庭で、大王様の臣下が放った毬を、
「そんなに毬が取りたいか⁉︎若いからといって負けん気が強すぎるぞ、ハッハッハッ!」
と笑ったけど、地べたに倒れた
美しく生まれ変わった瑪瑙の
先に到着していた小彩が
しばらくするとパチパチと音がし
「すいません
と言い、小さな切り株を
「
「そうね、その方が安全だわね…」
そう言い終わるやいなや、
母屋に入りすぐに私達に気が付いた
残りの薪も心もとない感じだし果たして朝まで持つだろうか…そう思っていた時、外からパカッパカッと馬のひずめの音がしギギーっと戸が開いた。
戸の向こうの暗闇から
「
「
「こ、これは?」
「
「ありがたき、お心遣いに感謝いたします」
「本当に
「実に珍しい事ではあるが、
良いところも、少しはあるのね…腕の怪我は治ったのかしら…
一口飲むと梅の良い香りが全身を包んだ。そしてウトウトとし、いつのまにか寝てしまった。
深い眠りの中で夢を見ている…
山代王様、どうかお聞きいれ下さい!そのような志は捨てて下さい!
そんな、山代王様…
ドサッ…矢が刺さったのだろうか…
『ヒャア!!』
自分の声に驚き目を覚ました。額も手も身体中汗をびっしょりとかいている。
なんなのいったい…嫌な夢を見てしまったわ…喉が乾いた、水が飲みたい…確か外に水飲み場があったわね…
小屋の中を見渡すと、皆すっかり酔って寝静まっている。起こさないように忍び足で歩き戸を開けた。ツーンとした冷たい空気を一気に吸い込んだ。体中の臓器が一瞬で凍りつきそうだ。
あぁ…寒い…見上げた夜空には昼間のような厚い雲はなく、北極星や北斗七星がまばゆいばかりにキラキラと輝いている。
水を飲み終えた時だ、どこからかボロン、ボロンという音が微かに聞こえてきた。こんな夜更けに、いったいなんの音だろうか…それとも私の聞き間違いだろうか…
少し怖かったが、勇気を出して音の鳴る方へと歩き出した。月明りに照らされた桃林は幻想的に青白く光っている。遠くに桃の木の下に座る人影が見えた。足元に置かれた細長い物が月明りに照らされてキラキラと光っている。形はぼんやりとしか見えずわからない。
しばらく立ち止まり様子を見ていると、再び音が鳴り始めた…間違いない琴の音色だ。ボロン…ボロン…冷たい澄んだ空気に溶け込むように琴の音色が優しく静かに響き渡っている。
こんな冬の寒い夜にいったい誰が奏でているのだろうか?美しい旋律だが、どこか寂しげで儚い…胸がきゅっと締め付けられる感じがした。寒さも忘れしばらくその場に立ち、美しい琴の音を聞いていた。
「中宮様、夜更けに申し訳ありません。まだ起きておいでですか?」
「ん?誰だ」
中宮は眠っていたが、侍女の慌てた口調を察しすぐに床から起き上がった。
「先ほど、星宿台の神官の
「そうか…すぐに支度をして参るゆえ、奥の部屋に案内しなさい」
「はい、承知しました」
「
「中宮様、こちらこそ夜更けに大変申し訳ありません。ですが至急外に出て星の動きを確認して頂きたいのです」
「中宮様、あれをご覧下さい」
そう言うと
「な、なんと…」
見上げた東の夜空に青白く光る彗星が見える。尾は東から西へと長く伸び北斗七星に向かっている。
「文献によると、あの彗星は古代より過去、現在、未来を結ぶ不思議な力があるそうです。古代人はこの摩訶不思議な力を忌み嫌い、祈祷師を幾人も集め魔除けをしたとあります。私自身この光景を見るまでは半信半疑でしたが、今宵はっきりと北斗星に向かい彗星が現れたということは、中宮様が以前より予知し危惧されていたとおりなのかもしれません。明らかに不吉な予兆です。すぐに、星宿台の者達全員を集め祈祷を始めます。恐らく明日の夜あたりに、一番彗星がこの飛鳥の地に近づくかと…」
「明日の夜にか⁉︎急であるな…わかった…仕方あるまい。悪いがすぐに祈祷を初めておくれ。あと、朝一番に
「はっ、承知しました」
中宮は部屋に戻るとタンスの奥にしまってあった黄色の絹布にくるまれた小箱を取り出した。もう何年も何年も長いこと開けていない、まるでパンドラの箱だ。蝋燭一本の明かりのもと布をほどき、ゆっくりと小箱の蓋を開けた。
そして箱の中から丸く美しい瑪瑙の石を取り出した。石には橘の実と葉が刻まれている。
そなた、こんなに早くに行ってしまうのか…
取り出した瑪瑙の石をじっと見つめながら中宮は深いため息をついた。
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