第10話 一枚の刺繍画
ガサガサ、ガサガサ。
「このあたりで、
「はい、承知しました」
ガサガサッ山代王と
「確か、
しかし、くまなく探してもなかなか見つからない。雨もザーザーと激しく降りだし跳ね返る雫のせいで手元がよく見えない。更に白い霧が立ち込め寒くなってきていた。雨に濡れてかじかんだ手は当然上手く動かない。
「山代王様…これを見てください」
数メートル先にいた
「見つかったか⁉︎」
「いえ、そうではないのですが…」
「なんと…」
「首に絞められた後と鋭利なもので切られたような跡がございます。何者かに殺されたのでしょうが、牙にも血がついているのをみると、恐らく相手にも噛みついたのでしょう」
「うむ…きっと
(まさか
「山代王様このように激しい雨の中では探せません。霧も出てきましたし、天候の回復を待たれては?」
「…そのほうがよさそうだな」
二人は土砂降りの雨の中、なんとか馬まで戻ると再び
「誰かいるか!!」
ドンドン、ドンドンドン
「はい!今参ります」
「あっ、山代王様!びしょ濡れではありませんか!どうぞ屋敷の中にお入り下さい。今、
「良いのだ、無理をさせてはならぬ、部屋で休ませてやりなさい」
「えっ?は…はい…」
「ところで、
心配そうに山代王が聞いた。
「いいえ、噛まれたのではありません。転んだ時に木の枝で傷つけてしまったようです。どうかされました?」
「そうか、いや、それならよいのだ。他に山に入った者はいなかったか?」
「はい、誰もおりません。どうかされたのですか?」
「いや、何でもない、それと
「はい、そのようにお伝えいたします」
「
「はい、承知しました、でも山代王様せめて乾いた衣にお着替えだけでも、、」
「不要だ」
山代王は少しだけ笑うと、さっと馬に乗り
「お風邪をひかれませんように」
トントン、トントン。
「
「ええ」
「中に入ってもかまいませんか?」
「もちろんよ」
「先ほど山代王様が北山からお戻りになられ言付けを頼まれました」
「山代王様がお見えになったの?」
「はい、でももう帰られました。傷を負っている
気まずそうに
「そう…」
「
「え⁉︎まさかこんな時間まで探して下さっていたの?外はどしゃ降りの雨でしょう?風邪でもひいたら大変だわ…」
「私もせめてお召し物だけでもお着替えになって下さいと、申し上げたのですが、聞かずに帰られました」
「そう…」
山代王様には迷惑をかけてばかりだわ、大切な髪飾りではあるけれどあの石一つの為にまた山代王様に苦労をかけてしまった…
「
「はぁ…そうね、早く治さないとね」
私の事はともかく、山代王様が風邪をひかないと良いのだけれど…
そこから数日間雨は降り続いた。この時代一度雨が降ると他になにもやる事がない。部屋の中でじっと過ごし雨が止むのを待つしかなかった。そのかいあってか足の腫れも数日でだいぶひき、傷も良くなった。
チュンチュン、チュンチュン
鳥のさえずりと柔らかな朝の光が差し込んでいる。雨はようやく止み久しぶりに太陽が顔をのぞかせた。外に出てみると、明るい太陽の光を浴びた庭の緑がキラキラと輝いている。
爽やかな秋風に導かれるように、敷地の中をぶらぶらと歩きはじめた。裏山の前を流れる小川は数日降った雨のせいで水かさが増し、ゴーゴーと勢いよく流れてる。水しぶきも朝陽に照らされキラキラと虹色に輝きとても美しかった。
キレイね、飛鳥の都はどこを歩いても水の流れる音が聞こえて、心が安らぐ…
「
振りかえると
「おはよう。久しぶりのお天気だから嬉しくて少し散策していたのよ。雨上がりの景色はまた格別に美しいわね」
「はぁ、全く呑気でございますね。お部屋にいらっしゃらなかったので驚いてあちこち探したのですよ」
少しふてくされた様子で
「ごめんね。勝手に部屋を出て悪かったわ」
「はぁ…
「
「良かった〜安心しました。実はあの塗薬ですが大王様のお屋敷より送られてきたものなんです。どうやら唐から取り寄せた貴重な塗り薬だそうです」
「えっ、
「恐らく山代王様からお話をお聞きになったのかと…」
はぁ…何から何までお世話になってばかりだ。私はため息をついた。
「
「
「やっだぁ、、、。
「ありがとう」
思わず胸が熱くなり涙がこみ上げた。
「今、食事の用意をしますね」
本当にありがたかった。
食事を終えると
「今日はお天気も良いので、久しぶりに中宮様にご挨拶に伺おうと思うのですが、
「もちろん行くわ!そうだ、この間、北山で採った薬草がまだ残っているでしょう?蒸した栗に混ぜて饅頭を作るのはどうかしら?」
「妙案ですね!では早速、倉から栗を持ってきます」
饅頭を作るのに予想以上に時間がかかり、
部屋の戸口に中宮が立っているのが見えた。顔色もよく、私たちの突然の訪問にとても嬉しそうだ。
「二人ともよく来てくれたな。さぁ、座りなさい。熱い茶を飲みながら話をしよう」
渡された茶にはうっすらと湯気が立ち中を覗くと黄色い小さな花がいくつも浮いていて金木犀の良い香りがした。
「桂花茶だよ、今年庭に咲いた金木犀の鮮花と茶葉を寝かせておいたのだ、良い香りだろう?」
「はい、とても」
「
「はい、中宮様」
いつにも増して中宮が嬉しそうに見えた。
「聞いた話だと最近山で足に傷を負ったとか、怪我は大丈夫か?」
「はい、
私は立ち上がると、足首をくるくると回しておどけてみせた。それを見ていた
「いえいえ、私ではなく大王様より頂いた薬が良く効いたのです」
「大王が?」
中宮が興味深そうに尋ねた。
「はい」
「そうであったか…でも大事なくて本当に良かったな。そなた先日の宴では、唐からの使者や大臣たちを多いに感服させたと聞いたぞ。きっと大王も例外ではなかろう。またあの子達の力になっておくれ」
「はい、卑しい身の私がお役にたつかわかりませんが、誠心誠意お仕えさせていただきます」
本心だった。あの若き二人の王に敬意を抱き始めていた。
「あっ中宮様、山代王様より頂いた栗を蒸し、薬草と練り合わせ団子を作ったのです、よろしければ召し上がって下さい」
「ほう、これは美味しそうだ」
と中宮は目を細め、一つ手に取り口に頬張った。その後も先日の宴での話や、山で遭遇したイノシシの話をし大いに話に花が咲いた。
「そうだ、この数日間の雨で何もする事がなかったゆえ、暇つぶしに二人に手巾を縫ったのだ。取りに行ってくるゆえ、ここで待ちなさい」
「えっ、では私が代わりに取ってまいります」
「私の部屋にしまってあるのだ。そなたでは場所がわからぬであろう?」
「では、私も共にまいります。もし中宮さまがお転びでもしたら大変ですから」
「ハッハッ、
そう言うと中宮はゆっくり立ち上がった。また別の長い廊下を歩き一番奥の部屋までやってきた。
「さぁ、入りなさい」
「よろしいのですか?」
「構わぬ。さぁ、入りなさい」
ガタガタと戸を開けると、部屋はそれほど広くはない。中は薄暗くひっそりとしていて、想像していたきらびやかな金銀財宝で出来た置物や華美な壁の装飾などもなく、寝台とタンスのようなものと年季の入った机が一つあるだけだ。机の上には木の小箱と小さな仏像が一つ置いてあった。
とても質素な部屋だが、それが逆に洗練され美しく見えた。
ガサガサ、ゴトゴト…
「どこにしまったかのぉ…確かに一番上の引き出しに入れたのだがなぁ…」
中宮は、何度もタンスの引き出しをあけては首をかしげた。しばらくして
「そうだ、思い出したぞ。あの小箱に入れ直したのだ」
そう言い机の上にある木の小箱を取りゆっくりと開けた。
「あったあった」
中宮は、二枚の小さな正方形のハンカチのような布を取り出した。
「この手巾は
「こっちはそなたにだ、私が刺繍したものだから出来は悪いが使っておくれ」
渡された手布を広げ息をのんだ。手巾の角に橘の葉三枚とたわわな実一つの刺繍がほどこされている。
なぜかしら…髪飾りの石の模様に似ている気がする…
私はじっと見つめた。
「なんて美しい梅の花の刺繍でしょう、私は梅の花が一番好きなのです!わ~嬉しい!中宮様、誠にありがとうございます!」
「
「も、もちろんでございまさす。中宮様の温かいお心がこもっているようで大変感激しております。生涯大切に使わせて頂きます」
やっぱり、似ている。偶然かしら…
「そなたらの住む
中宮はそう言うと、懐かしそうに手巾を見つめた後、こちらを見てニコリと微笑んだ。
「さぁ、この部屋は冷えるゆえ、戻って熱いお茶でも飲もう」
「はい」
ちょうど部屋を出ようとした時だ。戸口の少し上の壁に白い布に刺繍が施された絵が飾られているのが目に留まった。用紙で言えばA3位の大きさだ。布には数人の大人と数人の子ども達が蹴鞠をする様子が描かれている。
「中宮様、この刺繍画を拝見させて頂いても宜しいですか?」
何故かその刺繍画に心を惹かれてしまい、どうしても手に取りまじかで見たかった。
「ふむ、構わぬが…」
そう言うと中宮は、すぐに使用人を呼びよせ刺繍画を外して見せてくれた。
「ここではよく見えぬから、さっきいた部屋に戻りじっくり見てみよう」
私達はさきほどの部屋に戻った。中宮は用意された熱いお茶を手に取ると、刺繍画をしばらく見つめゆっくりと話し始めた。
「これは十年以上前に宮中の釆女たちに作らせた刺繍画だ。この縁台に座っているのが私で隣で笑っているのが息子の皇子だ。イチョウの木の側で蹴鞠を見ているのが先代の大王で、毬を蹴っているこの若い青年が
中宮が懐かしむように微笑んだ。
「やだ、中宮様、本当でございますね。なれどお二人共愛らしいお姿です」
「今日のように天気の良い清々しい秋の日だった。あとここにいるツンとした童がな…」
と中宮が言いかけた時だ、廊下からバタバタと走る音がし部屋の前でピタッと止まった。
「中宮様よろしいですか?」
「何事だ」
「はい、今、屋敷前に大王様と山代王様がおいでになっております、お会いになられますか?」
「真に大王が来ているのか⁈」
「はい」
「なんという奇遇じゃ…通しておくれ」
中宮の顔は驚きの表情と共に一気にぱぁっと明るくなり、使用人の男と共に部屋を出て行った。
大王様と山代王様がお目えなのね、丁度良かったわ。この場をかりて先日のお礼をしなきゃ…
ほどなくして隣の部屋から声が聞こえてきた。
「中宮様、ご無沙汰しております。ご挨拶が遅れて申し訳ありません、お身体の具合はいかがですか?が
「大丈夫、案ずることはない、それよりも
「はい、熱もひき、粥も食べ、回復しております。ご心配をおかけいたしました」
「そうか、良かったそれを聞いて安心した」
「ところで客人が来ていると聞きました。お邪魔しては申し訳ないのでまた日を改めてご挨拶に参ります」
「ハッハッ~良いのだ、そなた達も知っている者だ。共に熱いお茶を飲もう」
「知っている?」
そう言うと中宮は仕切られていた襖を開けた。大王と山代王が呆然とこちらを見て驚いている。なんだか気恥ずかしくて、思わず下を向いた。
「
山代王が驚いた声で言った。
「山代王様、大王様、先日は危ない所を助けて下さり誠にありがとうございました。お礼のご挨拶が遅くなり申し訳ありません。この場をおかりして心より感謝の気持ちをお伝えいたします」
二人を正面にして深々と拝礼をした。
「何を言うのだ、さぁ立ちなさい」
大王は急いで私の側にくると、手を取り立ち上がらせた。
「そなたこそ山でイノシンに襲われたと聞いたぞ、足の怪我は大丈夫か?」
「はい。大王様が下さった貴重な薬のお陰で、すっかり良くなりました。
「皇子は大丈夫だ。そなたが医官に指示した処方と摘んできてくれた葛根が良く効いたのだ。こちらこそ礼を申すぞ」
「さようでございますか、、良かった…」
大王の後ろで山代王が優しくこちらに向かい微笑んでいるのが見えた。
「山代王様、お風邪などはひいていませんか?心配しておりました」
「私の体は見た目よりも丈夫なのだ。病などかからぬ」
山代王がすまして言ってきたので、思わずクスッと笑ってしまった。
「ところで中宮様、門の外で待っている間に笑い声が聞こえました。何か楽しい話でもされていたのですか?」
大王が尋ねた。
「そうなのだ。そなたらにとっても、懐かしい物を見ていたのだ」
「懐かしいものでございますか?どれどれ?」
二人は刺繍画を覗きこんだ。
「あ~これは懐かしい!秋祭りの時のものですね。山代王見てみろ、お前はまだはな垂れの小僧だぞ」
大王が意地悪そうに山代王を見て笑った。
「これが私ですか?随分とおぞましい顔に見えますが…」
「私もお前も
「
この口からまた余計な言葉が出た。
「この表情ひとつかえずに毬を持っている童が
「さようでございますか」
「兄上、これは父上ですか?…」
山代王が
「そうだ、そなた達の父上だ」
中宮が間髪入れずに答えた。
「二人ともお父上のような、立派な人間にならなくてはいけないよ」
中宮が優しい眼差しを向けて言った。
「はい、常に肝に命じております」
二人はさっきまでのはしゃいだ顔とは打って変わり真剣な眼差しで中宮を見つめ返した。
「山代王よ、久しぶりに蹴鞠をせぬか、外で待つ臣下達を急いで中庭につれて参れ」
大王はそう言うと、ひらみの裾をめくりはじめた。
「兄上、良いですね」
その時だ。またバタバタと廊下を走る音が聞こえ、男の低い声が戸の向こうから聞こえた。
「中宮様、早急にお伝えしたいのですが、、」
「今度はなんなのだ?」
中宮が少し呆れた声で聞いた。
「その、
「な、なんと!なんと奇遇なのだ!中に通しなさい。こんな日もあるのだな」
中宮が目をパチパチしながら私達を見た。
「はっ」
使用人の男はまたバタバタと廊下を走って戻っていった。
「まさか、
山代王が聞いた。
「そのようだ、申し合わせたように皆が集まるとは、こんな珍しいことがあるのだろうか…」
中宮はポカンと口を開けたまま立ち上がると更に隣の部屋へと移動した。すぐにパタパタと廊下を歩く足音が聞こえ部屋の前で止まった。
私はこの時初めて彼が、世間一般的には
「
戸の向こうで
「入りなさい」
中宮が静かに答えると、戸が開き
「太郎、久しぶりではないか、元気だったか?」
「はい、変わらずでございます。中宮様もお顔の色が良さそうで安心いたしました。屋敷のものが先客が来ていると…」
ピシャッ
「
山代王が大きな声で呼びながら襖を勢いよく開けた。
「
大王が言うと、
「左様でございますか、大王様と山代王様にもご挨拶申し上げます」
さすがの冷淡な彼も思わぬ珍客に動揺したのだろう、かすれ声で答えた。
「よいよい、顔を上げぬか、柄でもないぞ」
大王と山代王もそんな
「そうだ、太郎よ我らの前だからといってかしこまることはない。で、今日はどうしたのだ?」
中宮が言うと、
「はい、それが実は…」
「…近くを通りましたので、ご挨拶に参ったのです」
「それだけか?」
「はい…」
「そうか、丁度良かった。今から中庭に向かう所だ」
中宮が嬉しそうに言った。
「えっ??」
「
「…わかりました」
「あぁ、紹介しよう。
山代王が隣に来いとでもいうように目配せをしながら私を呼んだ。
「は、はい」
私はバツの悪さを感じながらも、山代王のそばに近づいた。
「
「さようですか」
とだけ答えた。
私も一応軽く挨拶を返した。未だ得体の知れぬ若造だが、中宮とも王家の人間とも親しいと知ったらむげにする事は賢明ではないと判断したからだ。
「
「ふんっ」
と横を向き黙ったまま庭を見ている。
やっぱりこの間の事覚えていて根に持っているのね、しつこいわね謝っているのに…
気まずさを感じていると、
「もう知り合いであったか!ならば話は早い、早速蹴鞠をしにゆこう」
大王は立ち上がると、廊下で待つ臣下達を連れて中庭に向かった。
すぐに二つの組に別れて賑やかに蹴鞠が始まった。今でいうサッカーのようなものだ。私達女三人は庭に面した縁側に座りその様子を眺めた。
中宮は蹴鞠の様子を眺めながら、時折目を細めては懐かしんでいるように見えた。
「
中宮はしわしわの手をぎゅっと握って寂しそうに膝の上に広げた刺繍画を見つめた。
「中宮様、そんな…」
それ以上の言葉が見つからなかった。こんな時に限り慰めの言葉が何一つ思いつかない。ただただ静かに共に刺繍画を見つめる事しか出来なかった。
そんな事を考えながら蹴鞠の様子をぼーっと眺めていた。
ドン、
「クッ…」
突然、大きな音と共に目の前の地面に
「若様!丈夫ですか⁉︎」
臣下の
「大丈夫だ…クッ…」
「若様、急ぎ屋敷に戻りましょう」
「大丈夫か
山代王が近寄り言った。私も心配になり横たわる
「大した事はない」
「動かないで下さい。今動いたら傷口が広がり悪化してしまいます。すぐに消毒をして布で傷口をふさがないと…」
あまりにも腕から出血している。深い傷を負っているのは一目瞭然だった。相手が誰であろうと見て見ぬふりをするのは私の信条ではない。余計な事だと知りつつも
「触るな」
ギロっと
「出過ぎた真似を…申し訳ありません…」
小さな震える声で言うのが精一杯だった。
「しかし
大王がピシャリと言った。
「お心遣いに感謝致しますが、その必要はございません。中宮様、大王様、山代王様、長居しすぎたようです。これにて失礼いたします。
「はっ、はい」
「全く頑なな困った奴だ…」
山代王がその後ろ姿を見ながら呆れたように言った。しばらくして皆で屋敷に戻ろうとした時だ、庭の奥に
「どうしたのだ?」
「はぁはぁはぁ、、ぶ、無礼を承知の上で申し上げます。中宮さま、実は今日、その、…薬草を分けて頂きたく参ったのです」
「薬草だと?」
列の後ろにいた中宮が前に出てきて言った。
「実は若様が数日前に山に入られた際、獣に襲われたようなのです。いつもは用心深く慎重なお方で無理はされないのですが…思いの外、傷が深く悪化しているのです。こちらの
「何故それを早く言わぬのだ!怪我をしている体で蹴鞠など、あの子も無茶なことを…」
中宮が言った。
「はい、申し上げたかったのですが若様が拒まれたので、どうすることも出来ませんでした。せめて薬草だけでも頂きたく、私の独断でこのように戻って参りました」
「…数日前?…どこの山だ?」
山代王が聞いた。
「詳しい事はわかりませんが、確かその日、若様は一人朝早くから稲淵方面へと向かっておりました。おそらくどこかの山の麓の道を通られたと思います…」
「まさか北山か?」
山代王が即座に聞いた。
「それがわからぬのです。若様に聞いても何故か答えてくれぬのです。しかし、北山の前をいつも通りますが、山に入る事はありません」
「そうか…」
山代王が静かに頷くと、
「どうしたのだ?」
中宮が心配そうに山代王を見た。
「いえ、先日、
「軽い傷とはいえ、傷口を侮ってはいけない。化膿でもしたら大変だからな、今、薬草庫を確認させるゆえ、ここで待ちなさい」
中宮が使用人達に急いで薬袋を持ってこさせた。
「感謝いたします」
「そうだ、
山代王が優しく私に言った。
「とんでもないお言葉です、雨の中、探し物をさせてしまい大変申し訳なく思っております。風邪をひかれたのではないかと、ずっと気がきではありませんでした。髪飾りはもう良いのです。また縁があればこの手に戻ってくることでしょう。ですから心配無用です。この時期に山に入るのはやはり危険ですからお止めください」
「そうか…では今度、共に市に行こう。そなたに似合う髪飾りを贈りたいのだ」
「お心遣いに感謝申し上げますが、お気持ちだけで十分でございます」
私はその申し出を丁寧に断った。もらう理由がないからだ。
「そなたは実に欲のない珍しい女人だ」
そう言って大王と山代王は顔を見合わせた後、私を見て大笑いしはじめた。横でこのやりとりを見ていた
「
しみじみと中宮が私に言った。
「はい、また会いに参ります」
「そうしておくれ」
私と
「
「いいえ、もちろんありませんよ!林臣様はいつも無表情で近寄りがたいですし、この間の橋での出来事もございますので、恐ろしい限りです…」
「ねぇ…北山での時は私達二人だけだったわよね?」
「はい、そう思います。あの山は稲淵に通じておりますが、私達が行った場所は少し奥まっていてさらに獣道よりも少し外れていますので、通りすがりの人間はめったに居ないはずです」
「そうよね…」
でも思い返せば妙だった。北山でのあの時、確かにイノシシが十数メートル先にいて、こっちを見ていた。でも急に姿がなくなり私達は助かった。どこか腑に落ちなかった。
すっかり暗くなった夜空を眺めているうちに馬車の揺れが心地よくなり、いつものように寝てしまった。
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