第11話 若き乗馬の師

数日が過ぎたある日、朝早くから誰かを呼ぶ大きな声が東門の方から聞こえてきた。


 「燈花とうかはいるか~」


 ちょうど東門の近くで薪割を手伝っていたので、呼び声にはすぐに気がついた。


 「山代王様かしら?」


 急いで向かうと、門はすでに開いていて漢人あやひとと山代王が何やら楽しそうに笑い合っているのが見えた。突然の訪問に驚いたが、何故か胸が弾んだ。


 「山代王様、朝早くにどうされたのですか?」


 「それが…連日そなたの髪飾りを探しているのだが一向に見つからない、詫びに柿を届けに来たのだ」


 見ると山代王の足元に籠一杯に積まれた柿が置いてある。


 「えっ⁉︎まだ探して下さっていたのですか?しかもこんなに沢山の柿を、、」


 「すまぬな」


 山代王はまた申し訳なさそうに言い頭をかいた。


 「とんでもないことでございます、山代王様にご迷惑をかけてまで探す価値ある代物ではございません。どうかもうお忘れください」


 慌てて答えたが、内心すごく感動していた。もうとっくにあきらめていたのに、まさか彼がまだ探しているとは夢にも思っていなかった。


 「なれど…」


 山代王はまだ残念そうな表情でこちらを見ている。彼の誠実な人柄が伝わる。私のせいで悲しませてはいけないと思いとっさに話題を変えた。


 「それよりも、実に美味しそうな柿ですね、山で拾われたのですか?今剥いてまいりますので、一緒に食べましょう」


 山代王は安心したのか肩をなでおろし、


 「そうしよう」


 と、力なく笑った。



 東屋の石に座り飛鳥の都を眺めながら柿を食べた。


 「ん~美味しい!」


 思わず目が丸くなった。古代の柿は見た目こそ小さいが、素朴でほどよい自然な甘味があり想像以上に美味しかった。


 「良かった、そんなに喜んでくれるのなら、またそなたに取ってこよう」


 山代王が嬉しそうに笑って言った。やはり笑うとあどけない少年のようだ。


 「そうだ、明後日駿馬が届くのだ、乗馬を教えるゆえ、昼に法興寺そばの槻木つきのきの広場で待ち合わせしよう、よいか?」


 「はい、もちろんでございます。楽しみにしております」


 内心初めての乗馬に不安だったが、山代王と過ごせると思うとなぜか嬉しく感じた。

 翌日も雲ひとつない快晴だった。


 「燈花とうかさま、もう行かれるのですか?送りの馬車を用意しますか?」


 朝の仕事を終えた小彩こさがやってきて言った。


 「ありがとう、大丈夫よ、天気も良いし歩いてゆくわ」


 「そうですか、気をつけて下さいね。それにしても馬に乗るなんて燈花とうかさまも変わったお方でございます、普通は殿方が乗るものなのに」


 小彩こさが物珍しいものを見るように私を見て言った。


 「あら、そんなこともないわよ東国では淑女も馬に乗り颯爽と野を走るものよ」


 適当に誤魔化そうと思い、嘘も方便のつもりで強めに言ったのだが、


 「燈花とうかさま、随分楽しそうでございますね」


 小彩こさはニヤニヤしながら私を見て言った。私の睨みは全く効かなかった。彼女の方が精神年齢は私よりも上なのかもしれない。待ち合わせの時間はまだ先だったが、早めに橘宮たちばなのみやを出た。


 飛鳥川沿いをゆっくりと歩きながら槻木つきのきの広場を目指した。


 この辺りは欅木が生えているし、ここが広場かしら?飛鳥寺の塔もこんなにまじかで見るのは初めてだわ、朱色が美しいわね…まだ、山代王様は来てないみたいね…


 一度だけ子供の頃、近所にある小さな動物園でポニーに乗った事があったが、それ以来なのでほぼ初めてと同じだ。当然馬になど乗ったことはない。木陰に座って山代王が来るのを待った。


  パカッパカッ、パカッパカッ、ヒヒィーン、、



 「燈花とうか、待たせたな」


 少しすると山代王が毛並みの美しい濃い茶色の馬に乗ってやってきた。後ろには二人の従者らしき男達と冬韻とういんの姿があった。従者の一人が別の小柄な馬の手綱を持っている。


 「昨日話した駿馬だ。王妃様が贈って下さったのだ。良い馬であろう?」


 「はい。馬のことはよく存じませんが毛並みに光沢がありつややかで美しいです」


 「そうであろう」


 山代王は、満足気な表情をした後、馬の頭を優しく撫でた。そして馬から降りると駿馬を別の従者に預け、もう一頭の小柄な馬の手綱をひいてきた。


 「さぁ、近くに寄って頭を撫でてみて、怖がらずに」


 「えっ⁉︎は、はぃ」


 恐る恐る近寄り勇気を出してそーっと頭を撫でてみた。馬は少しだけ顔を上げると真っ黒に濡れた瞳で大人しく、じぃっと見つめ返してきた。


 「よし、ここまでは順調だ。早速乗ってみよう」


 「もう、ですか⁉︎」


 「大丈夫、おとなしい馬だし、今までに暴れたことはない。私が支えるゆえ乗ってみなさい」


 「…はぃ」


 やるしかない…恐怖を押し殺し覚悟を決めた。山代王と冬韻とういんに助けてもらいだいぶ苦戦したがなんとか馬の背に乗る事ができた。


 「はぁはぁ、やっと乗れた…」


 乗る前から汗だくだ。一日分の気力を使い果たした。山代王が手綱をゆっくりとひくと、馬は大人しくパカパカと歩きだした。


 「景色はよく見えるか?」


 山代王が呼び掛けてきたが、なにしろ乗馬は初めてだったし、落ちないように必死でしがみついていたので、景色を見るどころではなかった。でも広場を三周位すると少し慣れてきたのか、心に余裕が出来てきた。


 「山代王様、乗馬思ったよりも楽しいですわ!」


 私が叫ぶと、


 「アッハッハッハッ、そうこなくては」


 と山代王は大声で言い、ひょいっと自分の駿馬にまたがると、風のように広場の中を走りだした。


 私達は日暮れまで馬に乗っていた。西の空が真っ赤になり始めると、


 「燈花とうかそろそろ日が暮れるゆえ、今日は終わりにしよう。そなた筋が良いぞ、直ぐに馬も乗りこなすであろう。宮の前まで送るゆえ私の馬の後ろに乗りなさい」


 と、山代王が言い手を差し出した。


 「はい…」


 彼は私の実年齢よりも年下のはずだけど、なんだか頼もしく感じた。そして彼の心遣いに甘え宮の前まで送ってもらった。


 「今日はありがとうございました。また乗馬を教えてください」


 「もちろんだ、では…明後日もまた同じ場所で待ち合わせよう、良いか?」


 「はい、喜んで参ります。では失礼いたします」


 「待って」


 山代王はそう言うと、ポケットからゴソゴソと朱色の絹の袋を取り出した。袋の中からなにやら取り出すと私の手のひらにそれを握らせた。固い…握りしめた手を開いてみると緑色の美しい翡翠ひすいの指輪がキラキラと光った。


 「えっ、これは?」


 私は驚いて尋ねた。


 「そなたの髪飾りを探せなかったであろう?先日、市に行った際に運良く見つけたのだ」


 「でもこの時代…」


 しまった…。私は慌てて手で口を押さえ言い直した。


 「でも、この翡翠ひすいは大変高価で貴重な品のはず。卑しい身分の私には分不相応でございます」


 「ははっ、そう言うと思っていた。これは大唐から来た商人より実に安く買ったのだ。この深く美しい緑がそなたに合うと思って、凄く値切って買ったから安心せよ」


 「しかし、…頂く理由がありません」


 「そなたと私の友好の証だ、持っていておくれ」


 「…しかし」


 「では、明後日にまた会おう」


 そう言うと、山代王は馬にまたがり振り返りもせずに夕焼けの中を帰っていった。


    行ってしまった…


 翡翠ひすいの指輪は見事なまでに私の指にピッタリとはまった。いくら大唐の商人から安く買ったとしても、それなりの値がしたはず…とにかく絶対になくさないように大切にしなくちゃ…


 部屋に戻ると、急いで小彩こさを呼び一日の出来事を話し山代王からの贈り物の指輪を見せた。小彩こさは目を丸くして、


 「まぁ、なんて美しい翡翠ひすいなのでしょう、はぁ~燈花とうか様が羨ましいです」


  うっとりとため息をついた。


 「でも、翡翠ひすいはとても高価なものでしょ、やっぱり頂けないわよ」


 と、私が答えると、


 「せっかくの山代王様の好意をむげにするなんて大変失礼な事です。山代王様の面子が丸潰れになってしまいますから」


 小彩こさが口を曲げた。


 「でも、なんだか気がひけるわ…」


 「出会った友好の証とおっしゃられたのですから、素直に受け取られるべきです」


 小彩こさが口を尖らせいつになく強く言った。


 確かにその通りではあるのだけど…


 「…でも、本当に市でこのような高級な品が安価に手に入るの?」


 「はい、確かにこのように高級な翡翠ひすいを以前はあまり見ませんでした。でも最近は大唐からの商人達が多数、都に来て商いをしておりますので、流通が開け安価に手に入るようになったのではないでしょうか?」


 「そう…」


 「とりあえず失くしてしまうと大変だから、指には、はめたくないわ」


 と伝えると、


 「では、絹糸でくみ紐を作り、指輪に通して首にかけたらいかがでしょう?」


 「それなら安心ね、組紐の作り方を教えてくれる?」


 「はい、もちろんでございます」


 翌日、出来上がった組紐に指輪を通し、ほどけないようにきつく縛った。そして首にかけて、服の内側に見えないようそっとしまった。


  これなら落とさないし安心だ…


 次の日も天気は良く、乗馬の練習にはもってこいの日だった。その日からしばらく山代王との乗馬の猛練習の日々が始まった。乗れば乗るほど馬も従順になり、だいぶ上達したのが自分でもよく分かる。


 「燈花とうかもだいぶ上達したな、実は数日後に、兄上と王妃様が宇陀うだまで行幸に行かれるのだ。もうじきに冬になる。雪のふる前に体を療養しにゆくのだ。急な話しだが一緒に参らぬか?兄上も王妃様もそなたに会いたがっているし」


 「大王様と王妃様がですか?」


 「…わかりました。では身支度いたします…小彩こさも共に連れていって下さいますか?」


 「もちろんだ、馬車を用意するゆえ、二人で乗ってきなさい」



 宮に戻り小彩こさに話しをすると、


 「まことですか⁉︎大王様の行幸にお供出来るのでございますか?」


 目をパチパチさせて信じられないといわんばかりに喜んでいる。


 「ええ、今日山代王様よりお誘いされたのよ、急な話しだけど、あなたは大丈夫?」


 「もちろんでございます!大王様は毎年この時期になると宇陀うだに行幸されるのです。あの辺りの紅葉がそれはそれは美しいそうです。山の麓には温泉が湧き、湯の効能で体の不調は治まり、傷等の治りも早いそうです。一帯は古代より王族の許しを得ないと立ち入れない神聖な土地になっております。山から流れでる湧き水も実に清らかで不思議な癒しの力があると聞きました」


 「そうなの?いくら招待されたとはいえ、そんな神聖な場所に足を踏み入れて厚かましくないかしら…」


 「大丈夫ですよ、大王様から直々に呼ばれたのですから心配はいりませんよ」


 小彩こさがあっけらかんと言った。


 「あっ私、王妃様にお会いした事がないのよ。、粗相のないような衣を選んでくれる?」


 「はい、明日、市に早速買い出しに参りましょう」


  ウキウキ顔の小彩こさは楽しそうだった。確かに飛鳥の都に来てから一度も遠出をしていない。宇陀うだは現代にも通ずる土地名だが、同じ場所なのだろうか?まぁ、一つ言えるのは法隆寺のある斑鳩ではなさそうだ。そして同時に最大の謎である聖徳太子について思い出したが、もう彼は亡くなっているし、きっと話を聞いても人物の特定までは出来ないだろうと思った。


 まぁ、今はその謎解きよりも自分の奇妙なこの運命の謎解きに集中しようと思った。


 行幸までの数日間は朝から夕方まで市に行ったり荷造りに追われたりとあっという間に過ぎていった。当日は、朝早くから王家からの馬車が迎えにきていた。吐く息は白く、馬車までの道、土の上を歩くとザクザクと霜柱がつぶされる音がした。


 「う~寒い、ハッ、ハクション!」


 「燈花とうかさま、大丈夫ですか?」


 小彩こさが心配そうに言った。この冷たい空気、本格的な冬の到来で間違いない。


 「大丈夫よ、温かい羽織ものも持ったし葛根も持ったし、心配いらないわ」


 「そうですかぁ…でも無理なさらないで下さいね」


 「心配性ね、大丈夫よ」


 私たちは迎えの馬車に乗り込んだ。風は冷たく空はどんよりと灰色をしている。


  ゴトゴト、ゴトゴト馬車はゆっくりと走りはじめた。どれくらい経っただろうか?時々外の様子を確認したが、あっという間に飛鳥の都は遠ざかり見渡す限り田畑と連なる山々の景色に変わっていた。今までに体験したことがない位何時間も馬車に揺られているので、腰が痛くてたまらない。もう限界だと思い、馬夫に声をかけようとした時だ。前方が開け大きな建物が見えてきた。ついに目的地付近に到着したようだ。


 宮の前には門があり、その前でいくつもの馬車が長い列を作り入宮を待っている。遠くからでも何人もの使用人や侍女達が門の前に並び寒空の下、来客の迎えの挨拶をしているのがわかった。


 にしても、立派な宮だ。きっと大王の別宮であり湯治用の別邸なのかもしれない。


 馬車から顔を除かせあっけにとられてた時、後ろからパカッパカッと馬の蹄の音が聞こえ名前を呼ばれた。


 「燈花とうかか?」


 見るとと愛馬に乗った山代王だ。


 「山代王様!ここまで馬に乗って来られたのですか?」


 私は驚いて聞きいた。


 「やっと、そなたの馬車をみつけることが出来た」


 長旅にも関わらず元気そうだ。


 「この馬は本当に良い馬で全く疲れを感じぬ、お陰であっという間に行列に追い付いた」


  山代王は嬉しそうに言った。


 本当に普段は凛々しく大人びているのに、笑うとあどけない十代の少年だ。



 山代王が馬から降り近づいてきたので、私も小彩こさも急いで馬車から降りた。


 「山代王様、この度はお招き頂き大変感謝しております」


 小彩こさが嬉しそうに挨拶をした。


 「二人とも長旅で疲れたであろう、すぐに侍女に部屋まで案内させるゆえ、今日はゆっくり休みなさい。兄上と王妃様には明日挨拶に参ろう」


 「はい、承知いたしました」


 「あっ、そなた達空腹であろう?宮に到着次第すぐに食事を用意しよう」


 「ありがとうございます、お心遣いに感謝致します」


 私たちは感謝をしお辞儀をした。しばらくすると、馬の入場の列も減り、無事宮の中に入ることが出来た。入口で待っていた侍女に案内され部屋に入ると、私達はバタンと寝台に寝転んだ。


 「あ~腰が痛い…」


 「燈花とうか様~私もです」


 長い一日にへとへとだった。


 随分と遠くまで来たようだけれど、ここは宇陀のどこかなのだろうか…実は飛鳥に来てから、お湯に浸けた布を固く絞り体を拭くだけで、湯浴びはしていない。天然露天風呂があると聞いたら、今すぐにでもお湯につかり旅の疲れを取りたいと思った。


 「なんだか、体がベタベタと気持ち悪いわ…少しでも湯にあたれるといいのだけど…」


 私が思わずそう言うと、


 「そうですよね…ここ数日間は準備で慌ただしく、ろくに体を拭いてませんでしたね…今、侍女に確認してまいります」


 「悪いわね」


 「いいんですよ」


 小彩こさはそう言うと、よいしょっと立ち上がり部屋から出ていった。しばらくして戻ると、


 「湯浴びが少し歩いた先で出来るそうです。でもその前に夕飯を運んでくださるみたいです、、ふぁぁ…」


 疲れているのだろう、大きなあくびをしながら言った。


 「そう、ありがとう」


 しばらくすると食事が運ばれてきた。珍しい山菜や川魚などのおかずが何種類かあったが、とにかく空腹だったので一目散に口に入れた。慌てて食べてしまったので味は良くわからなかったが薄味なことだけは覚えている。


 「ふぅ~お腹一杯」


 寝台に横たわると、疲労と睡魔で今にも瞼が閉じそうだったが、一日中馬車に乗っていた腰があまりにも痛いし、体はべたつき馬の糞の臭いがプ~ンと髪から漂っているのがなにせ耐えられない。


 「ねぇ小彩こさ少しだけでもお湯を浴びに行かない?」


 「……」


 返事はない。


 「小彩こさ…?」


 起き上がり隣を見ると、小彩こさ既に仰向けでぐーぐーと爆睡中だ。いくら年若い彼女でも慌ただしい準備の日々が続いた上に今日の長旅で疲れたのだろう。


 当然よね…仕方ないわね、一人で行こう…


 私は布団を小彩こさにかけ静かに部屋を出た。


 見上げた空は昼間のどんよりとした空とはうって変わり、満点の星空に変わっている。月も明るく山々を照らし辺り一面月の光だけの真っ青な世界だ。侍女に教えてもらった場所は距離こそあるものの単調な道のりだ。しばらく道沿いを歩いていると、草むらの奥の方に白い湯煙が上がっているのが見えた。近づくとポコポコと水の音も聞こえてきた。


      この辺りかしら…


 草むらが少し開けると大小の岩が無造作に並びその奥から湯気が上がっているのが見えた。きっとここで間違いない。暗い足元はぬかるみ、注意しないと足を取られそうだ。ポコっポコっという音が大きくなった。大小の岩でぐるりとかこまれた自然の天然露天風呂だ。恐る恐る湯に手を入れると少し熱めだが、この寒い夜と冷えた体には最適の温度だ。


  良かった。ここで間違いない。


 辺りはひっそりとしていて当然人の気配はない。急いで服を脱ぎチャポーンと熱い湯に片足を入れた。すっかり冷えたつまさきがジンジンとしている。そのまま一気に肩まで浸かった。


 なんて気持ちが良いのだろう、、すっかりお風呂の感覚を忘れていた。まさか、この時代に温泉に入れるとは想像もしていなかったのでなんともいえない幸福感だった。熱いお湯が身体中の疲労を癒してくれた。


 なんて美しい夜なのだろう。見上げた夜空にはいくせんもの星が輝いている。明日の夜こそ小彩こさを連れてこよう。こんな美しい夜を独り占めなんて最高すぎる。しばらくうっとりと満天の星たちを眺めていた。


 十分体も温まったところで湯から出た。誰もいない事を確認して素早く着替え時だ、


 ザクッザクッと何人もの歩く音が聞こえてくる。

 

 すぐに側にある大きな石の影に隠れた。時間も時間であったし、一人だし心臓がドキドキと緊張で鳴っていた。


 「大王様、着きました!こちらの湯になります」


  えっ、大王…茅渟王ちぬおう様?!


 男の声が聞こえる。そぉっーと草陰に隠れ見ると松明を持った数人の男と、暗い中だったか大王の姿がうっすらと見えた。


 困った…出られない…しかも事もあろうことに小さな岩の上に山代王から頂いた指輪を置きっぱなしにしている…しかも先日中宮からもらった橘の刺繍が施された布に指輪をくるんでいるのだ。二つもの超貴重品を置きっぱなしにしている事に愕然とした。


 「大王様、こちらは足元がぬかるんでいて滑りますのでお気をつけ下さい」


 臣下の一人が言った時だ、


 「わっ!!」


 ズルッと滑る音と共にドシンと大きな音がして同時にボッチャーンと水の中に何かが落ちる大きな音がした。


 「た、大変だ!大王さまが湯に落ちたぞ直ぐに引き上げろ」


 臣下達はみなパニック状態だ。


 「大王様!大王様!」


 幾人もの臣下が湯に向かって声を声をかけているが返事もなく大王の姿も見えない。臣下達が一斉に湯に飛び込んだ。


 「どうしたのだ、早くお助けしろ!」


 湯のそばで年老いた側近らしき男が大声で叫んでいる。湯は濁っている上に夜ということもあり更に見えない。肉眼で探すのは難しい。


 「いらっしゃいました!!」


 若い男の臣下が大王を湯の中で見つけ、みなで掴んで引き上げた。草むらに横たわった大王に臣下達が一生懸命に呼びかけている。


 「大王様、大王様!しっかりしてください!」


 臣下が大きな声で何度も呼びかけるが反応がない。しばらくしても反応がないので、皆いよいよ慌て始めた。


 「なんてことだ、誰か急いで医官を呼んでまいれ」


 年老いた男が声を荒げて叫んだ。


 「なれど三輪みわ様、医官のいるやしきまで片道20分はかかります、このまま皆で大王さまを寝所までお運びし、医官を待機させておいた方が良いのではありませんか?」


 「ダメだ、ここまでの道も悪路であった。ましてやこの暗闇、灯りをともしても足元がよく見えぬ、余計に時間がかかってしまうではないか。いいから大至急医官を連れてまいれ!」



 「はっ、承知しました!」


 脈を診ていた別の男が言いました。


 「三輪みわ様、大王様の脈が弱くなっていらっしゃるようです…」


 「誠か!なんてことなのだ…どうしたものか…」


 側近の男は慌てふためきおろおろとしている。



  「私が診ます」


 気づくと石影から飛び出しそう叫んでいた。


 はぁ…また余計なお節介を、と思いつつも、やはり見て見ぬふりは出来ない。しかもあきらかに非常事態だ。


 「何者だ!このような夜分に怪しいものめ!この神聖な土地に入るとはなんたる無礼者!」


 年老いた側近の男が凄い剣幕で怒鳴ったが、私はいたって冷静だった。


 「いえ、断じて怪しいものではございません。私は此度の行幸で参りました侍女でございます。医術には少しだけ心得がございます。どうか大王さまのご容態を確認させて下さい。一刻を争うものかもしれません、どうか大王さまのお体に触れる事をお許し下さい」


 「えい!何を戯けた事を申すのだ!会ったばかりの見ず知らずの者を信じられるわけがあるまい!」


 「しかし三輪みわ様、大王様の脈が確認できません一刻を争うものです」


 脈をみていた男がうろたえた声で叫んだ。


 「くそっ!え~い緊急事態だ仕方あるまい、そなた怪しい動きをしたら容赦せぬぞ!妖女とみなし即処刑だからな!わかったな!」


 


 私は黙ってうなずくと急いで大王の呼吸を確認した。やはり呼吸が止まっている。きっと湯に落ちた時に頭を打ち、そのまま気を失い大量の湯を飲んだのだのだろう。まずは呼吸を促さないと…


 横たわる大王の顎を持ち上げ、鼻をつまむと意を決っし、そして心の中で叫んだ。


(大王様どうか私の無礼をお許し下さい!!)


 「貴様何をするつもりだ!」


 側近の男がまた怒鳴った。


 「お静かに!今から胸にたまった水を出し呼吸を促します」


 私も負けずにピシャリと言った。



 「どうするだ⁉︎」


 まわりを囲んでいた男達がざわついたが、迷うことなく大きく息を吸い込みヒューーと大王の口めがけて息を吹き込んだ。人工呼吸の練習は人形を使って何度もした事があった。現代ならAEDがあり、ほどなく救急救命士が飛び込んでくる…なんて現代はありがたい世界なのだろう、こんな非常事態に人工呼吸をしながらこの間まで生きていた現代に感謝をしていた。大きく二度呼吸を送っては馬乗りになり胸を十数回押す。これを何度か繰り返したあと、


      ゴボッゴボッ…


 と、運良く大王は口から大量の水を吐き出し呼吸を始めた。


    良かった、呼吸が戻った!


 「大王様!大王様!しっかりしてください!」


 私は大王の頬に手をあて必死で呼び掛けた。


 「うーん…」


 うっすらと目を開けたが、まだ意識が朦朧としている様子だ。


 「大王様!ご無事ですか!良かった」


 心配そうに見守っていた臣下達が、一斉に安堵の表情を浮かべ、へたへたとその場にしゃがみ込んだ。


 「意識が戻られたら、体が冷えぬように乾いた衣に着替え温めて下さい。やしきに戻りすぐに医官に診てもらってください。ではこれで失礼いたします」


 私は側近の年老いた男にそう告げると、すっとその場から逃げるように立ち去った。


 「そなた待つのだ!」


 男の呼び止める声も無視をして暗闇の中を走った。帰る途中なんどか後ろを振り返り追われていないことを確認した。


 とにかく驚いた。救命救急の講習は毎年受けている。まさか飛鳥時代で人工呼吸を実践するとは夢にも思わなかった。しかし緊急事態とはいえ、あんな方法はこの時代では通用しない。しかもよりによって尊い身分の茅渟王ちぬおうさま、大王だ…。どうしよう…もし私だとわかったら…ついに切腹だろうか?神様どうか茅渟王ちぬおう様が私だと気付きませんように!山代王様から頂いた指輪も置いてきてしまったし今更もう戻れない。ツイてなさすぎる、、仕方ない。また明日取りにゆこう…しかし来るときはこんなに歩いただろうか?…


 あまり覚えてないがフラフラしながら部屋に戻ったと思う。月は空高く昇り、体はすっかりと冷えてしまっていた。

 


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