第6話 嵐は不意に
そして、夏休み直前。終業式の日まで残り五日になった。
あの日から調子を取り戻した梵は、みるみる内に弾けるようになっていた。
事情を知らない人が聞けば下手だと思うかもしれないが、もっと壊滅的だったのを知っているが為に、俺は普通に感動してしまった。
その日も放課後になった。
俺はなんとなく机に座ったままだったが、旧校舎に行かなければならないと、思い出し立ち上がった。
すると、いつもわざわざ俺に話し掛けてくるクラスメイトが俺に近付いてきた。
俺はそちらに視線を向ける。
「もうすぐで一学期も終わりだな」
「…………そうだな」
「天羽は楽しかったか?」
「……多少は」
「なら、俺は良かった。出来れば、来学期はもう少し話したいけどな」
「……そうだな」
彼は本当に、笑顔で話し掛けてくる。
愛想よく返される訳でもないのに。俺なんかに、本当に優しく接してくれている。
体育祭の時には本当に助けられたと思う。
殆ど孤立してるも同然の俺は、チーム競技が非常に苦手だった。運動もろくに出来ない。
彼がいなければ、俺はクラス対抗リレーの時にクラスメイト全員から無視されていただろう。
だから、恩返しなんてそんな大層なことは考えていないが、何か返せたらいいなとは思う。
今の俺に返せるものは無いが。
彼と別れて、俺は旧校舎に向かった。
移動中、何やら女子が騒いでいるのが見えた。よく分からないが、「アイツが? マジで?!」と叫んでいたような気がする。
出来れば関わり合いたくないような人たちだった。
旧校舎への渡り廊下で、もう既によろこびの歌は聴こえてきている。やはり、まだ人よりは下手かもしれなかった。同じテンポで弾き続けることが出来ていないようだった。
梵の最初の演奏を聴いていなければ、下手すぎて笑ってしまうかもしれない。
だけど、そのレベルまで到達しているということは、やはり梵は上達しているようだった。
俺は部屋に入った。
「どうだ?」
「あ、天羽くん。大丈夫です。さっきまで少し引っ掛かってたところがありましたが、弾けるようになりました」
「そりゃ良かった」
むん! とでも言いたげな自信満々の顔に、俺は頷いて返した。
余程自分一人で解決出来たことが嬉しかったようだった。懐かしい、小学生時代が思い出された。
そんな報告をするだけすると、梵はすぐに振り返ってまた弾き始めた。
その熱意には、俺は敬意を払う必要があると思った。
――――叶うことなら、少しだけ、俺に分けて欲しかった。
そうしたら、俺はもう一度弾けるようになると思ってしまう程、梵のピアノを弾く姿は輝いて見えていた。
流石にそれは幻覚のようで、外は暗くなっていた。
いかにも、一雨来そうな雰囲気だった。
いつもは静かな旧校舎が何やら騒がしいような気がする。
それは気の所為ではなく、本当に声がした。
それは、廊下で見た女子のような声をしていた。
声を聞く限り、複数人で何かを探しているような雰囲気だった。
やがてその足音は少しずつ近付いてきたが、梵は一向にその手を止めることはなかった。
そして、その扉は開かれた。
現れた姿は、やはり廊下で見た女子だった。
梵は驚いてそちらを見る。
すると、その女子は非常に醜い笑顔で梵を見た。
「みつけた〜っ!!」
その声と同時に、梵の身体がびくっと跳ねたような気がした。
俺としても、見ていて良い気分になる空気ではなかった。なにやら、その女子はいやだった。
「あ〜、うん。そうそう。旧校舎! 一階の突き当たり!」
女子はスマホで誰かと連絡をし出した。ここの場所を伝えているようだった。
電話を切ると、彼女は梵に近付く。
「こんな所にいたんだ〜、渦綾ちゃん。なんでこんな所に逃げてんの? 悪い子だなぁ〜、大して身体が悪いわけじゃないのに〜」
梵は顔を逸らそうとするが、彼女はその方向に回り込んで、わざわざ梵の視界に入ろうとしていた。
「アタシたち、寂しかったんだよ? 渦綾ちゃんがきてくれなくて。遊び相手がいなくて。渦綾ちゃんも会えなくて寂しかったんじゃない?」
梵の身体はプルプルと震えていた。
彼女は顔をギリギリまで近付けている。
その姿はまるで、蛇に絡み付かれてしまった草食動物のような光景で、俺はやっと梵と彼女の関係性に気が付いた。
梵にとって、教室のドアを地獄の門と捉えさせるに至った人物なのだろう。
つまり、確実にこいつは梵の敵ということだった。
梵からしてみれば、地獄にいる鬼のようなものなのだろう。
まるで彼女は、梵からピアノの熱意を奪うように、梵の熱を奪っているように思えた。
腸が煮えくり返りそうだった。
それはピアノを弾かなきゃならんのだ。
お前のような屑が近づいて良い者じゃない。
よろこびを、空まで高く響かせないといけないんだ。
お前と関わっている暇はないんだよ。
彼女はそうして、梵を言葉責めにする。俺に視線を向けていた。
「彼氏とこんなとこでデートかなぁ? いやらしいね。そんな子だとは思わなかったなぁ。親友の私にくらい、教えてくれてもよかったんじゃない?」
梵はピアノの椅子から動けないでいた。
彼女がただ一人で、梵をその場に縛り付けていたのだ。拘束具を使っても、こんな風に上手くいかないだろう。だから、恐ろしい。
こんな人間が梵に関わって良い筈がない。
引き離さねばと思うが、俺はどうしようもない。
腕っぷしも無ければ、誰かを脅せる迫力もない。
俺に出来るのはピアノだけで、それすらもう出来ないのに、いったい何が今の梵の為に出来るのか。
俺がそんな風に考えていても、彼女は猛攻を止めない。
「渦綾ちゃん、なんで来なくなったのか、アタシずっと考えてたんだよ? 心当たりがなくて。でも、会えてよかったよ! もう一回、仲良くしようよ! そう言えば、ピアノ弾けたの? すっごい下手だったけどぉ……もう少し上手に弾けないの?」
梵は遂に、俯いてスカートを握り締めていた。
目はまだ潤んでいないが、時間の問題の様に思えた。どうか、耐えて欲しいと思った。
そのピアノは、お前が下手だと言ったピアノは、めちゃめちゃ上手くなってるんだよ! 最初を聴いてないから分からないだろうがな! 尤も、お前が聴いてても違いは分からないかもしれないがな。
もう、本当に俺は殴り掛からないか、自分が心配だった。
すぐに動けてしまいそうなほど、俺の足場を脆くて、頼りなかった。どうせなら、俺をその場に縫い止めてしまえばいいのに。
それでも、俺はまだ動けなかった。
更に、人が増えた。
騒音。騒音。騒音。
醜い言葉。醜い光景。醜い人――――人?
それは静かに俺の中に積み重なる。
怒りだったのだろうと思う。
そして、確かに聞こえた、絶対に言ってはいけない言葉。
「アンタがそんなんで、死んだ母親も心配でしょうがないんじゃない?」
怒りは一定量を超えてしまえば、それはすっかり別物になってしまった。
何か鬱憤は溜まっているが、どうしようもない。
かといって、これを晴らさずにはいられない。
ここにいる人は梵だけだ。
梵の前でなら……もしかしたら。
俺は梵を取り囲む四人に近付いた。
「なぁ」
「なに?」
俺が声を掛けると、興が削がれたとでも言いたげな顔が四つ並んだ。
俺はただ、言葉を発する。どうせ通じないと思いながら。
「退け」
「……は?」
「退け」
意味不明そうな四つの顔に、俺は続けて言う。
何故か退いてくれた。どうやら言葉は通じたようだった。
続いて、俯く梵に近付く。
「すまんが、そこを譲ってくれるか?」
俺の言葉に、梵はバッと顔を上げた。
驚きと困惑が見えた。
俺だってよく分かってない。
なんでピアノの椅子に座ろうとしているかなんて。
それでも、梵は立ち上がってくれた。
俺は着席する。
ピアノに向かい合って、譜面台をただなぞる。
後ろのナニカ達は、何か騒ぎ立てている。
言葉が違うのか、よく分からない。
ナニカを怯ませるには、ナニカに迫力を与えて脅かすにはどんな曲が良いだろうか。
俺は息を吐きながら、鍵盤に指を下ろした。
最初の一音は絶対に強く弾く。
決してそんな曲ではない。
これは、音で殴る為だ。
俺が選んだのは、ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ第十七番。通称、テンペスト。その第三楽章だった。
迫力をあれに与える為に。
アイツラを脅かす為に、選んだ曲だった。
穏やかに慎重に。
圧倒的実力差で、嬲っているように。
アイツラを高い壁から見下ろすように。
優しく、明るくなんて絶対に弾いてなんかやらない。俺は今度こそ、強い音で暗い音でアイツラを殴る。
心を動かしてやる。
俺は何も出来ない。
運動は出来ない。気を利かせてやることも出来ない。慰めることも、励ましてやることも出来ない。
出来るのは、ピアノだけ。
なら、得意で不得意を補うしかない。
喧嘩は出来なくとも、音で喧嘩は出来る。
腕で殴れなくても、音で殴る。
罵倒する語彙が無くても、音で罵る。
俺は絶対にコイツラを許しはしない。
梵のピアノと母親を侮辱したからだ。
それは絶対に侵してはならない禁忌の領域だ。俺さえも、手は出さない。
それもいともあっさりと踏み荒らした。
お前等は、二度と梵と関わるな。
俺の音――――どうか明るくなるな。優しくなるな。コイツラに慈悲はいらない。
ただ、俺と一緒に、コイツラを殴ってくれ。
コイツラを何処かへ飛ばしてくれ。
俺は最後の一音を、叩き付ける様に弾き終えた。
思わず荒い呼吸で後ろを振り向いたが、そこにはヤツらの姿は無かった。逃げたらしかった。
開けっ放しの扉から少し離れて、梵が立っていた。
俺を見て、身体を震わせていた。
最初に会った時のように。
怖がられていることに、少しショックを覚えつつも、そりゃそうだよなと納得している自分もいた。
そんな思考も束の間、俺は梵に演奏を聴かれていたことに考えが至った。
胃の辺りがむかついてくる。
何かが食道を迫り上がってくるのを感じ、急いで部屋を飛び出た。
急いでトイレに駆け込むと、口の中に溜まったものを一気に便器に吐き出した。
胸のむかつきとは裏腹に、俺の頭は妙に霧が晴れたようにスッキリしていた。
今までは人に聴かれている、見られていると分かっていれば、椅子に座った時点で吐き気が込み上げてきた。だけど、今回はそうと分かった上で弾き切れた。
個人的には大きな進歩だ。
最後に吐き気こそ込み上げてしまったが――というか吐いてしまったが、もしかしたら人前で弾けるようになるのも近いかもしれない。
俺は水道で口をすすぎ、部屋に戻ると、そこには誰もいなかった。
梵は帰ってしまったようだった。
俺は思い出した。
梵の前で、よりによって一番苛立ちをぶつけた様な演奏をしてしまったことを。
――――怖がられてしまっただろうか。
いや、きっとピアノの為に、よろこびの歌の為に、明日はこの部屋で弾いているだろう。
そして、俺に報告してくるのだ。
『ここが弾けるようになったんです』と。
――――それから俺は、梵の姿を見ていない。
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