第7話 羽を毮る

 梵は俺の前から姿を消した。


 終業式の日もあの部屋を訪れたが、よろこびの歌は響いていなかった。

 だから、俺はあの時何故かあの部屋に来ていた男の人を探した。

 なんとなく、あの人の顔に見覚えがあったからだ。


 職員室を訪れると、その男の教師は机に座っていた。名前が思い出せず、入り口で躊躇っていると先に向こうが気付き、こちらに近付いてきた。


「どうかしたかい?」

「いえ……梵について、何か知らないですかね。いつもあの部屋でピアノを教えてたんですけど……。月曜に別れたきり、一回も会えてなくて」


 こちらを見てくる先生に、俺は取り敢えず事情を説明した。

 先生は頷いて少し返答を迷うような仕草をした。

 やがて決心したように俺を見た。


「あのね。梵さんはもう転校の手続きでしかこの学校には来ないよ。元から出席日数が怪しくなってたから、通信制で少しずつ治していくことを勧めていたんだ。今回、それを決意したようで、火曜日の朝にお父さんと一緒に来たよ」


 先生はただそう言う。

 俺はよく分からなかった。


 あまりにも唐突過ぎて、別れすらも出来ていないのに。何も言われていないのに。

 よろこびの歌だって、あいつはまだ全然上手く弾けていないのに。


「そう、ですか……」

「その感じだと、梵さんから何も言われてないようだね。なんでまた……」


 俺が絞り出す様な声で返答すると、先生は頭の上に手を置いて息を吐いていた。それが少し呆れていることを表している様な気がして、反論したくなった。


「俺は、なんとなく分かるような気がします。月曜の俺はとにかく酷かったですから」


 俺のこの言葉に、何故か先生は首を傾げていた。


「そんな風ではなかったけどね。君が悪いとは一言も言ってなかったよ。ずっと言ってたのは、『私が悪いんです』としか……」


 先生は俺とここには居ない梵を同時に見ているのか、上を見たり俺を見たりしていた。


 俺には何がなんだか分からなかった。

 どうしてお前が悪いんだよ。


 明らかに俺が……。



 先生が俺に声を掛ける。


「連絡先、教えようか?」

「…………いえ、いいです。どうせ向こうも取りたくないでしょうから」


 先生の厚意を俺は断った。

 そのまま礼を言ってその場を辞した。


 先生は引き止めたそうだったが、俺は無視した。


 旧校舎を見た。

 いつも音に満ちていたそこは、何故か静まり返っていて、寧ろそれが当たり前とでも言いたげな表情をしていた。

 その顔は、俺を苛つかせた。


 空は青いが、本当に青いか俺には分からなかった。


 ――――夏休みに入った。










――――――――――――――――――――――――――――――――――――










 夏休みは別段することはなかった。

 家にずっといた。


 母親も専業主婦だから外に出ることは少ないが、俺が防音室に入ったのを見るといつも気を利かせて外出していた。

 申し訳無く思う。


 黒のアップライトピアノの反射した光は、俺のどす黒さを浮かび上がらせているようだった。


 そんな日々に流石に嫌気が差し、俺は外に出た。

 母親に何処に行くか聞かれたが、ちょっと出てくるとしか言わなかった。


 外は暑かった。

 それでも、夏休み前よりも涼しく思えた。

 あの旧校舎の方が俺にとっては熱かったのだ。あの熱源の方がが太陽よりも遥かに。


 適当に歩いていると、鳥居が見えた。

 神社があった。


 それは別にデカい訳でもないが、妙に存在感があった。木々が生い茂り、社を半ば覆い隠しているにも関わらず。

 俺に神頼みをしろということかと思ったが、俺はそもそも神を信じていなかった。


 神は何も救ってくれないのだ。


 俺を救いもせず、俺よりも不幸な梵を救いもしなかった。挙句、俺に会わせた。

 どれだけ鬼畜なのかと、俺は思う。


 余っ程神は悲劇を求めているのだなと思った。

 俺では、悲劇の主人公には向かないみたいだ。


 神社から俺は足を背けた。

 そうして、俺は人の多い駅前に向かった。


 普段なら絶対に行かない様な所だ。

 何故向かったのかは分からない。


 それこそ運命としか思えない。


 駅前にストリートピアノがあることは知っていた。

 同時に、俺には無縁のことだと思った。何故なら、俺は人前で弾けないからだ。

 確実に関わることはないと思っていたからだ。


 そんなピアノが人で囲まれていた。


 ピアノを誰かが弾いている。確かに素晴らしい。

 モーツァルト作曲の、きらきら星変奏曲。


 よく知っているメロディから始まり、いきなり全然違う曲へと変貌する。一般人の心を掴むには、非常にピンポイントな選曲だろう。

 指の動きも激しく、目を引くだろう。


 それにしても誰が弾いているのだろうか。


 俺は群衆を少し分け入って、ピアニストを見た。

 それはよく見知った――――というよりも、幾度となく悪夢でその顔を見た男だった。

 端的に言おう。


 五百旗頭煌夜だった。


 俺がじっと視線を送っていると、向こうがこちらを見た。何故か驚いたように目を見開いて、肩を跳ねさせていた。

 それから俺を見て、口パクで『待ってて』と言っていた。多分、そうだと思う。

 五百旗頭は曲を弾き終え、万雷の拍手を頂いたあと、何処からか現れた少女――小さい女の子に手を振って別れてから、俺に歩み寄った。


 五百旗頭は慎重に俺に尋ねてくる。


「えっと……天羽創来くんだよね?」

「あぁ、そうだが。そっちは五百旗頭煌夜だよな」

「うん」


 俺もまた、五百旗頭に尋ね返した。

 五百旗頭も俺と同様に頷いて返す。


 相手の顔を見ると、何を話せば良いのか、よく分からない。会ったら何か言ってやろうと思える程、憎たらしく思っていたのに。


 そう考えていると、五百旗頭が口を開いた。


「天羽くんはまだ、コンクールに出てるの? きっとすごく優勝してるんだろうなぁ……」


 思わずは? と半ギレで言ってしまいそうになった。伏し目がちで、恍惚としたような、憧れの眼差しで言われたからだ。

 流石にほぼほぼ初対面の人にそんな失礼なことはしないが、やりかけたのもしょうがないとは思う。


「いやいや、そっちこそどんぐらい優勝したんだ?

俺なんてもうとっくに出るのは止めてる」

「えっ? ……僕もだよ」

「は?」


 今度こそ、声に出してしまった。

 なんで……出るのを止めてるんだよ

 俺が絶望を感じた演奏を、誰にも聴かせないで、こんな所でやってるって言うのか?


 五百旗頭は少し気不味そうに、俺をチラチラと見ていた。


「正直、僕は君の演奏を聴いて……いや、今ここで言うべきじゃないね。場所を移そう」


 その場にはまだ五百旗頭の演奏に感動し、残っている人が沢山いた。

 どうにも、そういった誤解が集まってしまった話を解きほぐすには適さないみたいだった。


 五百旗頭の提案に、俺は頷いて賛成を示した。

 五百旗頭は「良い所を知ってる」と言って、歩き始めた。俺もそれに黙って従った。


 数分程度の移動だったが、俺達は話すこともなく無言で店内に入った。

 確かに、そこは静かに話し合うのにぴったりな場所だった。


 どちらかと言えば、渋めな喫茶店だった。

 店内を見回しても、いるのは静かにコーヒーを飲んでいる老人ばかりで、落ち着いた雰囲気だった。

 アンティーク調の机や椅子で、お洒落に見えた。


 五百旗頭はテーブル席につくと、ふぅと息を吐き注文を聞きに来た店員に、


「すみません、アイスコーヒーを二つ。ミルクと砂糖も」


 と注文していた。随分手慣れているから、やはりよく来るのだろう。

 ミルクと砂糖も追加する辺り、俺がブラックを飲めなかった時の為の気遣いなのだろう。


 白髪頭のお爺さんはそれを聞くと、静かにまたカウンター席の向こうへと戻った。

 五百旗頭は俺をじっと見る。


「とりあえず、何から話そうか?」

「自分の現状についてじゃないか?」

「あぁ……そうだね」


 俺からの返答に、五百旗頭は納得したように頷く。

 それから五百旗頭は話し始めた。


「僕の現状はさっきも言ったけど、コンクールには出てない。原因は中学二年生の時のコンクール。君の演奏だよ。あれから僕は一人になるとピアノが弾けない。君との演奏の違いがイヤでも耳につくからだ。


 君は本当に楽しそうにピアノを弾くんだ。僕なんか、すぐに楽譜通りに従って、面白くない演奏になってしまう。でも、君は確固たる自分を持ってるんだ。自分の世界を。


 僕とは違う、僕が欲しいものを君は持ってるんだ。だから、最近はストリートピアノのある所を巡っては、そこで弾いて回ってるよ」


 五百旗頭はそう語った。そこで丁度アイスコーヒーが来て、二人でお礼を言う。

 五百旗頭がアイスコーヒーを飲んだのを見て、俺をそれに手を付ける。非常に美味しかった様な気がするが、何故だか冷たさだけが口に残った。


 俺はその冷気を溜息と一緒に外に出して、口の中を温めた。

 そして、先程の五百旗頭同様、俺も話し始める。


「俺は逆だ。人前ではピアノが弾けない。吐き気がする。あの時のお前の演奏で叩き潰されて、俺はあんな風に弾けないと分かったからだ。


 俺のやっていたピアノは、お遊びだったと俺は気付いた。最近、何故か一回だけ人前で弾いたが、やっぱり吐き気がした。


 お前は俺が欲しいものを持ってるよ。俺は楽曲の雰囲気を壊してしまうからな。その通りに、一度は弾いてみたいもんだよ」


 俺はそこで語るのを終わった。

 実際、その程度のことでしかないし、それ以上語る必要もなかった。

 二人して黙り込んだ為に、その場は静まり返った。


 俺はその時、初めて小さい音量でジャズが流れていた事に気が付いた。

 だからなんだとは言わない。


 ただ、何でも分かっているようで、分かってないことは多かった。


 五百旗頭は俺の演奏で絶望し、俺は五百旗頭の演奏でピアノを諦めた。

 言葉にすれば明快だが、そんな簡単なことではない。


 俺達は勝手にお互いが物凄いものと勘違いし、結果的にお互いにピアノというものから遠ざかったのだ。

 本当に馬鹿みたいだ。


 だから、今のお通夜みたいな雰囲気は許して欲しい。自分自身に二人とも、絶望しているのだ。


 すると、五百旗頭が口を開いた。


「そっか……僕たち、もしかしてバカだった?」

「もしかしなくとも、な」

「あぁ、そっか。でも、まだ間に合うよね?」

「ん? どういうことだ」

「今から音大に行って、ピアニストになろう!」

「そんな小説家みたいな感じで言われても……簡単なことじゃないんだぞ?」


「それを僕が分かってないとでも思ってるのかい?」

「…………」


 五百旗頭の反論に、思わず黙り込んだ。

 当然の如く、分かっている筈だ。


「それ以前に、俺は人前では弾けないんだ。だから無理だぞ」

「いや、それは今から治すんだよ」


 五百旗頭は立ち上がった。

 そして、カウンターに向かうと、あっという間に会計を済ませてしまった。


 そして、俺の方を見る。


「ほら、行くよ」

「え……?」


 思わず呆然としているが、そのまま五百旗頭は俺を引っ張っていく。


 少し小走りで、熱い空気の中を突き進む。

 本当に、夏は暑く思う。


 来た場所は――というか戻ってきたのはストリートピアノだった。

 これはもしや――――


「お前、もしかして……」

「その通り! 荒療治のお時間です」


 堂々と横で胸を張る五百旗頭。

 既に吐き気が込み上がる俺。


 並んでいる人もいない為に、五百旗頭はさっさと座った。先程見ていた人がまだ残っていたのか、どんどんと集まっていく。

 尚更、吐き気は込み上げる。


 思わず胸を押さえて俯く俺に、五百旗頭は近付いて無理矢理顔を上げさせた。


「大丈夫! 僕だけに集中するんだ!」

「……お前、本当に後から覚えとけよ」


 自信満々の五百旗頭に、恨み言を吐いてしまったが何処吹く風である。

 五百旗頭に連れられ、俺は着席する。

 二人で並ぶということは、連弾らしい。


「何弾くんだ?」

「そうだね……やっぱり、連弾と言えばの」

「ハンガリー舞曲か? 第5番」

「その通り! それじゃ、僕がセコンドをやるから、天羽くんはプリモね」

「おいおい……」

「それじゃ行くよ! せーの!」


 俺達は深く息を吸って、タイミングを合わせた。


 弾くのは、ブラームス作曲、ハンガリー舞曲第五番。ピアノの連弾と言えば、これが出てくるほど有名な曲だ。

 大半は聴いたことあるだろう。


 弾き始めたが、周りの目を感じる。

 聴いたことがあるメロディだからか、どんどん視線は多くなっている。吐き気を感じ、顔を顰めると五百旗頭が音を強めた。

 五百旗頭を見ると、笑顔だった。


 そして、更にギアを上げて演奏し始めた。

 『僕を見ろ!』ってか?


 苛つくな……やっぱり。


 俺はもう周りを気にせず、五百旗頭と対決することにした。

 決して外から聞けば分からないだろう。

 苛つきながら、俺達が弾いていることに。


 テンポをお互いにずらし合い、相手が合わせられるか試したり、音の強弱を変えまくったり。


 ただ、これはあまりにも短い。

 この曲は、二分強で終わる。


 特に俺達は遊び合いながら弾いている。

 余計に進みが速いのだ。


 曲が終盤になるにつれて、俺は名残惜しくなる。

 スピードを段々と落とす。


 確かに、この曲はテンポが沢山変わる。だけど、敢えて変えずにそのままゴリ押す。

 技術と表現力が問われるだろう。


 その点に関しては、俺より一枚も二枚も上手な五百旗頭がいる。

 安心して俺は弾く。


 最後の和音を、俺達は力強く弾き切った。


 額には汗が滲み、少し息も荒くなっている。

 それと同時に、周りからは拍手が送られた。


 吐き気が込み上げてくるかと思ったが、来なかった。それよりも何故か、今は胸がいっぱいだった。


 あの五百旗頭と弾けたことが嬉しかったのだろう。


 この時間は何よりも空気が熱く、チリチリと灼けていく様な気がした。


 五百旗頭は満面の笑みで俺に話し掛ける。


「凄いよ! 僕だけで弾いてるときよりも拍手が大きい! やっぱり天羽くんは凄いよ!」

「……そうかよ。今度はお前だ。一人で弾ける様にならないとな」

「が、ガンバるよ……」


 俺からのやり返しに、五百旗頭は眉を下げていた。引き攣った笑いだった。

 思わず俺は笑いがこみ上げて、腹から笑ってしまった。


 今なら、梵にだって、誰にだってピアノを聴かせてやれそうだった。

 いつか、俺の音を聴かせてやりたいと思った。











――――――――――――――――――――――――――――――――――――










 俺は帰路についた。

 少し夢見心地だ。先程まであんなに拍手に対してお辞儀をしていた。


 人前で弾きこなせなかった俺が、人からの拍手を真正面から受け取っていたのだ。

 衝撃過ぎて、まだ現実味がない。


 見上げると、電線に鳥が止まっている。

 それはいつの日かの朝、自分の羽を毮っていた鳥だった。


 やはり今も、羽を毮っている。


 俺は今更気付いた。

 あの鳥は天才なんかではないと。


 あれは俺だった。

 天才に出会ったから自分の未来を、宙を自由に舞う為の羽を、自ら捨てた。

 勝手に未来に絶望して、未来の為に積み上げて来た、生え揃えて来たものを捨てたのだ。


 五百旗頭だってそうだ。

 勝手に俺を天才と崇め、自分に諦めをつけた。


 俺達は相手を天才――天災だと思い込み、自ら自殺したようなものだった。

 要するにただの馬鹿だったんだ。


 でも、まだ全ての羽を毮ってしまった訳では無い。まだ間に合うのだ。





 ――――まだ残った羽で、俺達は舞えるのだ。





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