第5話 打ち明けるは過去、続くは明日

 そうして俺と梵は二人だけで放課後のピアノの練習を積み重ねた。

 こう言うと、何故だか後ろめたいことをしているようだが、断じてそのようなことはしていない。


 六月に入り、手の運動だけでなく、簡単な曲――具体的に言えば、キラキラ星とかチューリップとか――を弾き始めた。

 少しずつ慣れていったほうが、圧倒的に後々曲を弾きやすいと俺は思う。


 ましてや、恐らく梵はずっとこれからも弾き続けるつもりなのだろう。

 ならば尚更、基礎はしっかりしていた方が良い。


 母親の為ならば、俺は適当にすることは出来ない。俺よりも不幸ならば――





 俺はベッドの上で上体を起こすと、なんとなくぼーっとしていた。カーテンは昨日閉め忘れていたのか、開けっ放しだった。

 陽は窓から射し込み、眩しかった。


 そんな俺の視線の先、電線に止まった鳥がいた。

 恐らくは鳩とか、そういった類の鳥なのだろうと思う。


 少しそんな鳥に恐怖を覚える。


 気でも狂ったかのように、ずっと嘴で自らの羽を啄んでいるのだ。羽はひらひらと辺りを舞い、下に落ちていく。

 自分の羽を自分で毮っているのだ。

 大空を自由に飛べる羽を。


 何故かは分からない。

 何かの寄生虫でも頭にいるのか、それともその羽が邪魔だったのか。


 俺にはよく分からないことだ。

 天才には、自由の為の翼はいらないとでも言いたいのだろうか。

 この意図を読み取れない俺は、天才ではないのだろう。


 ――こんなことよりも、俺は考えねばならないことがある。

 梵にそろそろよろこびの歌の楽譜をあげても良いかもしれないということだった。


 練習用の楽譜は殆ど弾けるようになっていた。

 練習時間が山程あるのが功を奏したようだった。


 最初と比べれば、信じられないほどの実力だった。しっかりとした指をの動かし方が出来ていて、楽譜を見ながらでも弾けるほど、鍵盤の位置も覚えてきている。

 もうそろそろ渡してもいいかもしれない。


 俺は下に降り、防音室に入ると、よろこびの歌の楽譜を取り出し、一緒に持ってきた鞄に入れた。


 そして、部屋を出て鍵を閉める。

 俺はふと、何故鍵を閉めているのだろうと思った。


 いつの間にか習慣になってしまっている。

 ピアノを置いている部屋に鍵をかけることが。


 鍵を閉めなくても何も出てくることはないのに。

 ならば俺は、何が出てくることを恐れているのだろうか。


 そんな風に思わず立ち止まってしまったが、こんなことをしてしまえば、母さんに怪しまれてしまう。

 さっさと俺はリビングへと向かった。


「おはよう」

「おはよう。今日は早いわね」

「そう?」

「そうよ。それに、なんか淋しそう」

「さびしそう?」


 母さんの言葉に、俺は思わず尋ね返した。

 既に朝食の支度を終えて、ダイニングテーブルについている母さんは、お茶を飲みながら俺を見ていた。

 その目は相も変らず、俺を想っているように思われた。


「そう。ここ最近、なんだか楽しそうだったから。学校、なんかあったんでしょ?」


 母さんは口元に笑みを浮かべながら俺にそう尋ねてきた。どこか嬉しそうだった。

 俺は思わず言葉を濁してしまう。


「無かったとは言わないけども……」

「ほらね。どちらかと言うと、そうは積極的には動かないけど、その分周りの人が動かすからね。今回もどうせ頼まれてやってることなんでしょ?」

「……まぁ」

「あなたが楽しそうなら私はそれで充分。いつからかあなたは、ピアノが楽しくなくなったみたいだから」


 母さんの方が俺よりも悲しそうな目で、ピアノがある防音室の方向を見た。何故だろうか。


 最近は分からないことだらけだ。


 俺の周りの真空が、音を掻き消さなくなったことも分からない。

 俺が未だに、さっさと梵に教えてしまって離れていこうとしないのも分からない。

 そして、よろこびの歌の楽譜を渡そうとしている今が何故悲しそうなのか。


 俺には、分からないんだ。

 いつか、答えは出るのだろうか。










――――――――――――――――――――――――――――――――――――










 そうして、その日の放課後。

 俺は早速よろこびの歌の楽譜を渡しに行った。


 珍しく、俺以外にこの部屋を尋ねる人がいたようで、俺はその人が出てくるのを外で待つことにした。

 梵は既に中にいたのか、その人と話している声が聞こえた。存外、壁も扉も防音性が皆無のようだった。

 中の声は、廊下に響いていた。


「どう、梵さん。教室には行けるようになったかな?」

「……すみません。まだ、ダメそう、です……」

「そう。こればっかりは少しずつやっていくものだからね。焦っちゃ駄目だよ。急いでやったら、本当に二度と行けなくなっちゃうからね」

「はい……」

「僕たちも教室の環境改善には努めるから」

「はい……あ、ありがとうございます」


 どうやら老齢らしい男の声と、梵の話だった。

 これはどう考えても、俺が聞いて良い話ではない。少し外に出ておこうと俺が思っていると、男が梵に尋ねていた。


「ピアノを弾いてるの? 音が聞こえてくるって噂が聞こえてくるけど……」

「あ、すみません……ピアノ、弾いちゃダメでしたか……」

「いや、別に弾いちゃ駄目とは言ってないんだけど。音楽も精神的には良いものだからね。でも、あんまり大きく音を出してると、もしかしたら来ちゃうかもしれないから、気を付けてね」

「ぁ…………わ、かりました。気を付けます……」

「うん。あ、あとあのこと考えといてね」


 そう言って男が出てくる気配がした。俺は少し離れた位置で、よろこびの歌の楽譜をペラペラと捲っているふりをした。

 男はすぐに俺に気付いて、話し掛けてきた。


「梵さんに用だったかな」

「まぁ……そうですね」

「君だったか……。ありがとうね」

「……いえ」


 そう言って男を去って行った。果たして、誰だったのか。何故俺にお礼を言ったのか、分からなかった。


 俺はとにかく、梵に楽譜を渡そうと、部屋に入った。梵は俺の方を向いた。

 さっきの男がまた戻ってきたのかと思ったのか、いつもよりか少し固い顔だった。


「よう」

「あ、天羽君でしたか……」

「なんだよ」

「今の話、聞いてましたか……?」

「それこそなんだよ」

「……いえ、別に」


 俺は咄嗟に聞いていなかったふりをした。本当に梵が信じたかどうかは分からないが、どうやらそれで話は終わりらしかった。


 本当は突っ込んで欲しくないところだったのだろう。ひょっとすると、梵の母親の話よりも。


 俺は早く話の流れを変えた方が良いと思い、鞄から楽譜を取り出した。


「ほら、やるよ」

「え?」

「よろこびの歌」

「え?!!」


 俺が取り出した楽譜の曲名を伝えると、梵の顔は明らかに輝き始めた。

 楽譜を貰えることが非常に嬉しかったようだった。 


「え?! もう良いんですか?!」

「あぁ、曲自体は簡単だし、お前もそれを弾くには充分な技術はある。あとは曲に慣れるだけだ」


 俺は確認するような仕草の梵に、頷いて返した。実際、もう弾くには充分だし、初心者は曲に慣れさえすれば、時間はかかるが弾けるようにはなる。

 丁度いいタイミングだろう。


 梵は嬉しそうに楽譜を上に掲げて仰ぎ見ていた。


「わぁ…………」

「どうかしたか?」

「いえ、ただ……そろそろ弾けるように、聴かせてあげられるようになるな、と……」

「……今からもっと頑張らないとだな」

「そうですね!」


 俺が励ますような言葉をかけると、梵は力強く頷いていた。

 玩具を貰った子供のように、目を輝かせていた。


 俺がピアノを真面目に取り組んでいた時、あんな風に曲を教えてもらうことを喜んだことはあっただろうか。

 恐らくは無い。


 俺は色んな曲を弾きたくはあったが、それはどんな曲でも良かった。名曲と言われていようが、駄作と言われていようが。

 端からそんなものには期待していなかった。


 俺自身が弾きこなし、それを昇華して圧倒的な作品にすれば良いと思っていたからだ。


 だから曲に拘ったことは無かった。


 だからだろうか。

 俺のピアノに張り合いがなくなったのは。


 俺がどんな曲を弾いても明るくなるのは、曲を弾いているからではなく、自分を弾いているからではないか。

 だから、あんなにも五百旗頭と差がついているのではないか。


 ――こんなことを今更考えたところで意味はない。


 俺はそう思い、梵を見た。

 既に梵は楽譜を見ながらよろこびの歌を弾き始めていた。それは最初に聴いた通り、まだまだ下手だったが、それでも進歩しているように思えた。


 元々知っていた曲というのもあるだろう。

 年末にも聴くものだ。


 一週間足らずできっと終わるだろう。


 俺はそう思いながら、梵に近付く。


「まだまだ下手だな」

「だから練習してるじゃないですか!」










――――――――――――――――――――――――――――――――――――










 ――――そして、二週間が経過した。


 俺はまだ、旧校舎に通っていた。

 一向に梵がよろこびの歌を弾けるようにならなかったからだ。

 正直なところ、俺がわざわざ行かなくても一人で出来るようにはなっているとは思っている。

 そうして、いつの間にか世の中では梅雨は明け、夏休みが近づいているようだった。


 期末試験は終わって、七月に入っている。


 本心を打ち明ければ、何故まだ俺は通っているのだろうとは思う。

 それと同時に、何故かまだこうして渡り廊下を渡っている俺にホッとしている感情もある。


 よく分からなかった。


 いつも通り――もう既に違和感があるが――下手なよろこびの歌が聴こえてくる。


 俺は部屋に入って、梵に話し掛けた。


「どうだ」

「……だ、ダメです。弾けるようになりません……」

「そうか」


 梵は申し訳無さそうに目を伏せていた。

 別に俺は責めているつもりはなく、ただ答えた。


 この楽譜は難しくはない。

 簡単に言えば、有名なあのフレーズのところだけを切り取り、ピアノ風に落とし込まれているだけなのだ。十何分だったり、五分以上もかかるような長さではない。

 ただ、それでも梵のよろこびの歌は、上達しなかった。


 だから、こんなにも梵が弾けないのは不思議だった。怪しいとまでは俺でも言わない。

 俺にだって、マナーもデリカシーもあるのだ。


 のんびりとやっていこうと、俺は思っていた。

 ただ、梵はそれでも許せなかったのか、いつも以上に弾き続けていた。


 段々とその手は荒くなり、しまいには鍵盤に指を叩き付けるような弾き方になっていた。長い黒髪が激しく動いている。顔が隠れて見えないが恐らくは唇を強く噛んでいるのだろう。苦しそうな印象が見て取れた。

 俺は思わずその腕を掴んだ。


「おい! 止めろって!」


 俺がそう叫んで顔を上げさせると、梵は何かが胸につかえたように顔を歪めていた。

 その顔を見て、俺は少し驚く。思わず手を離すと、俯いてしまった。


「おい……本当にどうした?」


 俺は尋ねるが、梵は答えない。何故か黙ったままだ。こういう時に、俺は物凄く今までを後悔する。

 俺に対人関係の経験があれば、こういう時に対処が出来たのだろうか。

 俺が周りとの関係づくりを諦めていなければ、相手の気持ちを汲み取ることが出来ただろうか。


 タラレバを言っていても、現実は変わらない。そんな幻想を許してくれない現在を生きていくのだ。


 だから、俺は俺なりのやり方で梵に話しかける。


「いつだったか、お前に俺は人前でピアノが弾けないって言ったな」

「…………」

「あれの理由を話してやる」


 無言のままの梵を無視して、俺は自分のことについて話し始めた。

 話そうとは思っていなかった筈が、いつの間にか話そうとしている。自分でもしていることが分からない。


 兎に角、俺はそれを話すべきだと思ったんだ。


「俺はちっちゃい頃からピアノが上手かった。習いたいって言ったのは自分の意志だったし、それを叶えてくれる程度には裕福だったうちの親には感謝しかない」


「……」


「そこそこの上手さがあれば、先生からはすぐにコンクールに出るよう勧められた。俺はそれをきっかけに、色々とコンクールに出るようになったんだ」


「…………」


「俺は結構な数、最優秀賞を受賞した。全国区とまでは出なかったが、地方でも有名なところには何回か言って優勝かそれに次ぐところには付けたんだ。大抵俺より上の順位の奴は歳上だった」


「………………」


「そんな俺が、幼い過剰な自信を持った俺が全国区レベルのコンクールに出ることになった。県大会は良かった。普通に俺が勝つだけだった。問題は地方だった。それまではあんまり見たことがない奴だった」


「……………………」


「俺はそいつに負けた。観客席で聴いてて俺は分かったんだ。こいつには負けるだろって」


「………………」


「本当にレベルの違いを叩きつけられた。俺は今まで遊びで弾いてたんだって思ったよ。その頃俺は、本気でピアニストになることを目指していた。目指してたんだよ……」


「…………」


「俺はそれで酷く心を揺さぶられた。びっくりするぐらい揺れた。それで俺は気付いたんだ。俺じゃ曲が変わる。指示に従っていてもそれは俺の曲に変わってしまうんだ」


「……」


「ピアニストとして、それはあるまじきことだ。それと同時に、俺はそいつに夢を見た。こいつが絶対にこれから賞を総嘗めにしてプロのピアニストになっていくサクセスストーリーを。

 そいつと比べれば、俺は軽い演奏で誰の心も揺さぶれない。だから俺は必ず人前で弾くと比べてしまうんだ。あいつのように心を動かせるか、あいつのように人を惹きつけたかって。でもそれは無理な相談だ。

 だって俺には才能が無い。人を惹き付けることが出来ない。心を動かせない。だから、俺は人前でピアノを弾かない、弾けない」


 俺はそう語り終えた。

 梵はすっかり黙り込んで、俯いてしまっていた。


 俺は部屋の壁に寄りかかると、一息吐いた。

 俺が話す分は終わった。後は梵がどうするかだ。俺なりのやり方はきっと、下手で人によっては何だコイツと思われてしまうのだろう。

 それでもどうか、俺の思考だけは、気持ちだけは伝わって欲しい。


「私は……」


 梵から唐突に声がして、俺はそちらを向く。

 梵は下を向いていた。俺と目が合うことはなく、そのまま語り続けた。


「私は……きっと、よろこびの歌は、喜びの為にあると思っていました。それを聞けば、誰もが元気になるような、そんな素晴らしいものだと思っていました。いえ、多分本当はそうだったんでしょう。でも、もう私にとってそれは変わってしまった……」


 梵はそう言う。


「この音を聴いて思い出すのは、全部光景なんです。冷えてて、暗くて、いつだってあの匂いが立ち籠めている……光景なんです。この曲はそこで流れていました。母が好きだったから……」


 梵は一向に顔を上げないまま、語り続けた。


 これははっきり言われないでも分かる。

 きっと――母親の……。


 よろこびの歌がトリガーとなって思い出されたのだろう。プルースト効果の音楽バージョンといったところだろうか。

 いずれにしても、あまり良いものではない。


 俺が幻想即興曲を未だに弾けないのと同じだろう。


 気持ちは分かる――なんて言えるような経験じゃない。俺と同じと捉えることさえ、烏滸がましいぐらいだ。


 しかし、現象は同じ。

 俺はそれを治せてはいないし、梵も治せていない。


 本当に、運命なのか?

 同じ事に悩まされる二人が出会うというのは、いったいどういう確率なのだろうか。


 考えても仕方ない。


 俺は息を吐いた。

 その瞬間、纏わりついていたような何かがあったことに、俺は肩が軽くなったことで気付いた。

 そのついでに、俺は口を開く。


「母親が好きだったなら、思い出の曲ならば尚更弾くべきなんじゃないか? 未だに悩んでる俺が言うべきではないが……」


 尻すぼみの様に俺の声は段々と小さくなっていったが、どうやら言いたいことは伝わったようだった。

 梵は顔を上げて俺を見た。


「そりゃ思い出すのは辛いんだろう。俺だってまだ弾けない曲くらいある。まぁ精々頑張っていこうぜ」


 そんな梵に、少しぶっきらぼうかもしれないが、適当にそう励ました。

 やっぱり俺は励ますのが下手らしい。


 それでも、梵には少しは届いたらしい。


「そう……ですね。これからもよろしくお願いします」

「……おう」


 梵がそう言って頭を下げるのに、俺はただ頷くだけだった。


 外はすっかり紅くなっていた。

 今の時間の夕日はさぞかし綺麗なことだろうと、俺は思った。

 きっと、梵もそう思うだろう。

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