第4話 よろこびを

 そうして俺は放課後になると、毎日の様に――本当に平日はいつもあの旧校舎に足を運んだ。

 基本的に行くと、必ず梵はピアノを弾いていた。


 腕がだるくならないのかと聞けば、時々休んでいるからそこまでと返された。


 余程ピアノが弾きたいのだろうと思った。


 そんな日が一ヶ月も続き、俺は梵と話すのがすっかり慣れてしまっていた。

 だから、地雷らしいものを踏み抜いてしまうのだ。


 どんなものだって慣れた頃が一番危険なのだ。


 俺はふと気になったことを梵に尋ねた。


「なぁ、なんでお前はそんなに第九を弾きたいんだ? 曲なら他にも色々あると思うが」


 俺の質問に、梵は珍しくピアノに向かい合っているのに真顔だった。


 俺は梵のその顔を見た時、泣くのではないかと思った。それ程に、崩れ落ちてしまいそうな雰囲気だった。


「母が、よく弾いてたんです。これを弾くと元気が出るから、って。その時、母はこの曲を『よろこびの歌』と」


 梵はそう語った。


 俺はこの過去形で告げられた言葉に、今はもういないのであろう梵の母を俺は梵を透して見た。


 よろこびの歌と言った方が、何気ない幸せを有り難く思えると思うような人だったのだろう。


「何か嬉しいことや楽しいことがあった時に絶対に弾くって笑いながら言ってました。『渦綾が生まれた時にも弾いたんだよ』って」


 先程の泣きそうだった表情は今はもうなく、淡々と話していた。

 俺は口を挟むことも、何か気を利かせて声をかけてやることも出来なかった。


 ひょっとしたら、もう記憶も怪しい程小さな頃の話なのかもしれない。もしかしたら、非常に最近のことで話させてしまったことで傷を抉ったかもしれない。


「――そうか」

「はい」


 俺のなんとか絞り出したような言葉に、梵はただ頷き返した。

 俺は何も喋れなくなってしまった。


 別に俺がこの世で一番不幸とは思ってはいなかった。だが、周りには俺より不幸な人はいないのだろうと、心の何処かで思っていたのが、この瞬間に分かった。

 恥ずかしく思った。


 この程度の不幸で落ち込み、沈んでいた自分が。


 梵は止めていた手を再び動かし始めた。

 まだ、彼女の手は『よろこびの歌』を奏でることはない。俺が止めているからだ。


 梵次第ではあると思うが、なんとなく、俺はこいつに『よろこびの歌』を早く弾かせてやりたいと思った。


 そんな風に考えると、「あっ!」という声と同時に、ズレた音が聞こえてきた。

 運指を間違えたのだろう。


 梵はすっかりいつもの通り、間違えて悔しそうな顔で俺を見た。


「もう俺を頼るのか?」

「……まだやります」


 俺のわざとらしく煽るような言葉に、梵はムッとした顔を見せながら、またピアノに向き合った。


 まだ自分の力でやるらしかった。


 俺としては、早くこんな関係を止めてしまいたい。

 端から乗り気じゃないのだ。

 俺は自分一人で弾いてた方が気楽で、何も気にしないで済むのだ。


 だから、こんな重い話を俺に見せないでくれ。


 俺はそんなにお前と関わりたいと思っていないんだ。


 熱心に動く白い腕をただ眺める。

 その腕には、熱が籠もっているような気がした。


 俺なんかとは比べ物にもならない程の熱量だ。

 俺にこれ程の熱量があったならば、五百旗頭に勝てただろうか。


 いや、これは熱量なんかの問題じゃない。

 熱量で解決出来るなら、俺はとっくにそれを終えてこんなところで梵のピアノを見てなんかいない。コンクールに向けて練習しているに決まっている。


 五百旗頭はどうしているのだろうか。

 もちろん、当然の如くコンクールを総嘗めにしていっているのだろうな。

 俺なんかじゃ出せない音を出して、俺じゃ到底届かない世界に観客を連れて行って。


 俺の思考の世界から無理矢理引き戻したのは、楽しそうに呟く梵の言葉だった。


「音楽って良いですよね」

「……急にどうした」

「だって、今私が弾く側に立ってわかりますが、誰だってやろうと思えばやれるんですよ? これって凄いことだと思うんです! 音楽なら、言語の壁だって文化の壁だって超えられる。人と人との間の溝なんてほんのちょっとですよ」


 梵はそうピアノにキラキラの目を向けながらそう言った。本当に楽しそうだった。


 ――――お前が思っている以上に、人との溝は深い。音楽なんかでは埋められない、何かがある。


 俺がそう言うのは簡単だ。


 かと言って、俺はそんなことが証明出来るほどの実力はない。才能もない。

 俺が出来ることと言ったら、多少は――本当に上っ面だけを――曲を歪めてでも楽しませる程度のことなのだろう。

 それでも俺は心の底から聴いた人を感動させることは出来ない。


 梵はそれにしても、本当に楽しそうにピアノを弾く。まるでずっと我慢させられていたようだ。

 俺はどんな顔をして弾いていたか。


 最近ではもう、顔の筋肉が凝り固まってあんな顔は出来ないだろう。ピアノを弾いている時なんて、顔に何かが迫っているのではないかと言わんばかりに、眉間に皺を寄せているだろう。


 偶然当たった足元の段ボール箱は、驚く程重くて、硬かった。書類でも入っているのだろう。

 寧ろ当たった俺の足が痛かった。


 音は止まずに鳴り続ける。


 再び、音が外れる。

 またもや運指ミス、もしくは純粋に弾き間違えなのだろう。

 梵がこちらを振り返った。腕が疲れたのか、休憩するのだろう。


「天羽君は逆に、なんでピアノを弾きたいくないんですか?」


 梵は何も考えていなさそうにそう俺に尋ねる。

 先に重い話を出されてしまえば、俺は素直に答えるしか無い。俺なんかの話、梵と比べれば本当に羽のように軽くて阿呆らしくなるが。


「正確には、俺はピアノを人前で弾きたくない――というか、弾けないんだ」


 正直に白状すると、梵は不思議そうに首を傾げる。


「えっと……ピアノが下手とか?」

「お前に下手とか言われたくないな。お前よりもよっぽど俺の方が巧いわ」


 恍けた返答に、思わず真面目なトーンを無くしてしまった。どうやっても俺はツッコミ側らしい。

 尚更といった感じで梵は逆方向に首を捻った。


「え、じゃあどういうことですか?」

「俺の場合、人前で弾くと吐き気がする。冗談抜きでな。人に聞かれてると分かった瞬間だな。親でもこれはダメだった。だから基本的に俺は一人で家の部屋で弾いてる」


 俺の詳しい説明に、なんとなく納得したようなしてないような微妙な顔をしていた。


「天羽くんは、結局ピアノは好きなんですか?」

「……もう分からなくなったな。そんなのはとっくに置いてきたかもしれない」


 俺はそう言って、梵の背後のピアノに視線を向けた。黒いそれは、もう俺の思い通りの音を返してくれなくなっているような気がする。

 楽しんで弾くような人でなければ、それは誠意を返してくれないのだ。


 楽しむ人でなければ、ピアノも楽しんでくれない。音が跳ねないのだ。


 俺なんかではもう、ピアノは応えてくれないのだろう。こんなピアノを楽しんで弾けない、自分の音を曝け出せない臆病者には。


 きっと、ピアノには、梵みたいな自分を出して楽しんで弾けるような人がお似合いなのだ。

 俺は細々と家で弾く。


「もったいないですね。ピアノって楽しいじゃないですか。楽しいものを楽しまないのは、それはとても残念なことだと私は思います」


 梵はそういいながら、初心者がピアノに触るようにドの音だけをポンと鳴らした。

 とてもピアノを触ったことがあるとは思えない、手荒な扱いだった。


「私としては、楽しめるものは楽しみたいですし、やりたいことはやりたいです。だからこそ、今は天羽君にピアノの指導をお願いしてます」


 梵はいつもとは違う、堂々とした態度でそう言う。

 ピアノに関する時だけ積極的になるのは、恐らくはこういった自分の精神指針が影響しているのだろうと、俺は思った。

 普段があまりにも気弱な分、こちらに回されているという面もあるのだろう。


「私は、この『よろこびの歌』だけはいつまでも弾けるような自分でありたいんです。その為にも、どうか協力して下さい」


「……あぁ、良いぞ」


 真っ直ぐに俺へ向けられた視線は、俺の動きを拘束して、逃げるという選択肢を消してしまった。

 今更逃げようとも思っていなかったが、やはり途中で放り出す訳にはいかないようだった。


 梵は信念らしきものを持っているようだった。

 俺には足りないかもしれないものだった。


 俺は家のアップライトピアノを思い出した。

 小さな頃からずっと弾いているピアノだ。今にして思えば、よく買ってくれたと思う。

 やめるかもしれない子供の一時の戯れを親は本気にした。それで防音工事までして……いや、したのは本当に熱が入っていた中学校の一年生だったか。


 だとしても、今の俺は幸福な環境にいるにも関わらず、それを自ら捨てているのではないか。

 こいつにとって、俺は非常に失礼なことをしているのではないか。


 そんな風に考えることそのものが、なんだか梵を冒涜しているように思えて、俺はその思考を頭から追い出した。


 そして、ピアノに向き合う梵に近付く。

 またテンポがズレる。


 俺は思わず頭を掻く。


「お前、どれだけ運指が下手なんだ?」

「しょうがないじゃないですか! 難しいんですよ! これ!」


 梵はそう俺に食ってかかる。


 これでは俺が悪いようではないか。


 よろこびの歌を弾けないのはお前のせいだ。


 結局何故よろこびの歌を弾きたいのか、俺は分かっていない。 

 なんとなく思うのは、こいつはよろこびの歌を天国まで響かせたいのではないか、ということだ。


 梵とは、そんなことを考えるような人間なのではないか。

 世間からズレていて、アホみたいで、本当に馬鹿で。きっと、誰も思い付かないようなことをしでかすような。


 ――たかが一ヶ月の付き合いの俺が言うべきことではないな。


 きっと、俺も梵もお互いのことをこれっぽっちも分かってなんかいないんだ。これから本当に分かり合うことがあるかさえも分からない。

 俺はそこまで近付く必要はないとは思う。


 それでも近付いてしまったのなら、俺はそれを運命と呼ぼう。


 俺は梵の運指を見る。


 下手糞に練習曲を弾いている。だが、その音はどうも跳ねていて、俺の心に飛んでくる。柔らかいそれは、俺の心をびしびしと弱い衝撃で殴り付けてくるのだ。

 身体を包む真空は何処かへ消えてしまったようだ。でなければ、音がこちらに伝わるなんてこと、ある筈がない。


 まだそれは拙い。

 だけど確かに、よろこびを掴みそうではあった。














 ――どうか、二人に幸福とよろこびを。














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