第3話 透明な日々は色付いて
――翌日。
俺はいつも通り学校へ向かった。何も感じられない日々だ。
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日。
繰り返しの行動に、リズムに、光景に。
真空に包まれた俺も、いつもの日常も、何もかも透明だ。透明で、透き通って――――何も無い。
俺の様に、何も無い
クラスメイトの誰かが登校してきた俺に話し掛けてきた。
「昨日、大丈夫だったのか?」
「昨日……、あぁ、大丈夫だった。大したことは無かった」
「なら良かったよ。なんかあれば相談しろよ」
そう言うと、彼は手を振り離れていった。
――何かあったも大有りだ!
そう叫びたい気持ちも無くもないが、なんとか抑え込む。彼に急に相談したところで、彼が困るだけだ。俺は迷惑をかけに学校に来ている訳では無い。
きっと、透明な日々に色を付ける為の絵の具は、そこら中に転がっている。
俺はそれを拾う工程が煩わしくて、実行しないだけなのだ。
――きっと、そうだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――約束の期日。
要するに、一週間経った月曜日。
俺は自室のベッドで目を覚ました。
寝起きが良い方の俺は、するっと制服に着替え、鞄の中を確認した。
指を動かす練習用の楽譜が半分程を占拠していた。
あいつは恐らく授業には出ていないのだろう。なら、練習時間が沢山ある筈だ。だから、こういった簡単な練習用のものを弾くだけでも十分改善していくだろう。
俺は一階に降りて、母さんが作った朝食を食べてさっさと出掛けた。
出掛ける前の顔が、妙に喜ばしそうな笑みを浮かべていた。その点が少し不思議だった。
学校に着いてしまえば、いつも通りあっという間に過ぎてしまった。
殆ど瞬きをしている間のようなものだった。
いつの間にか、放課後だった。
気は進まなかったが、約束は約束。
先週行った旧校舎へと向かった。
渡り廊下を歩いていると、既に下手糞なピアノが聞こえてきた。やはり、それは何処か曲らしき――というよりも、一応歓喜の歌に聞こえなくもないラインを保って弾いていた。
俺はその残念な音を聞き流しながら、その音の源へと向かった。
いったい俺はどれ程の骨を折って彼女に教えることになるのやら……。
そんな風に先を憂いていると、あっという間に部屋に着いてしまった。
仕方なく俺はドアを開ける。
その音で黒いピアノに向き合っていたそいつはこちらを向いた。黒髪が大きくうねりながら煌めきをその場に残した。
それと同時に酷い音が止まった。
彼女は――梵は俺を見ると微笑んだ。それは安心したような雰囲気を感じさせる笑みだった。
実際、そう言葉を口から吐き出していた。
「よかった……来てくれた」
「……約束、だからな」
なんとなく気不味く思い、俺は梵から目を逸らしながらそう返した。そこまで来ないと思われていたらしい。
お互い、自分の第一印象が決して好意を抱かれるものではなかったことは分かっていたのか、その場を沈黙が支配した。
「……」
「……」
俺は首を擦りながら、梵は膝の上に手を置きそこを見つめながら、なんとなく押し黙ってしまった。
先に耐えられなくなったのは俺のようで、俺は咳払いをすると、話を切り込んだ。
「んっ、それでピアノを俺に教わるんだったな」
「は、はいっ!」
俺の言葉に救いを得たような顔をしながら梵は頷く。
彼女もそれなりに沈黙を気不味く思う常識を兼ね備えていたようだった。
俺は鞄からその為の楽譜等を取り出す。
梵は目を輝かせてそんな俺を見守っていた。
「まずお前がやるのはこれだ」
そう言って俺が突き出した冊子を見て、梵は間抜けな顔を俺に見せつけた。そして、俺とその冊子を交互に見た。
「え? よろこびの歌に関して教えてくれるんじゃないんですか?!」
やっと言葉を発するようになったのか、俺に抗議するようにそう叫んでいた。
そう、俺が突き出した冊子には、ピアノのテクニックだったり、初心者の為の運指練習等と表紙に書いてあるものだった。
個人的には、梵はまだ曲を練習する程の技量が無い。曲を弾くためにもある程度の技術は必要だし、基本的な動かし方を覚えてもらわなければならない。
というわけで俺は、これを持ってきたのだが、あまりにも期待外れですぐに教えてもらえるものと思っていたらしい。
「お前にはそもそものピアノを弾く為の技術が足りてない。綺麗に弾きたいんだろ?」
「そりゃ、そうですけど……」
「じゃあやるしかないよな」
俺の問いかけに、梵は苦い顔で頷いたが納得出来ていなそうだった。俺はそれを特に説得することもなく、押し切った。
梵は渋々と、俺の手の冊子を受け取った。
「お前がこれを弾けて、他の簡単な曲も弾けるようになったら、うちにある歓喜の歌の楽譜をやるよ。多分お前、持ってないよな?」
「い、良いんですか?! というか、その通りですけど……なんで分かったんですか?」
俺からのご褒美に釣られるように、梵は笑顔で俺を見たが、すぐに首を傾げて不思議そうにしていた。
思わず笑ってしまいそうになったが、俺は声のトーンを抑えながらそれに答える。
「いや、最初に聞いた時、弾けないのが音を間違えるのは当たり前なんだが、それにしては多過ぎると思ってな。しかも、初心者に限って楽譜を見ずに弾くことは無いから、多分そうかと思ったんだ」
俺の説明を何故か楽しそうに頷きながら聞いていた。
「なんか、探偵さんみたいですね」
「は?」
「いえ、教室に行けない分、保健室だったり図書室で過ごしたりしてるので、本を読む機会が多いんです。今の天羽君はその小説の探偵さんみたいでした!」
「……そうかよ」
本当に楽しそうに俺に話し掛ける。
光そのものの様な、明るさが俺にあればどれだけ今を楽に生きれるだろうか。
梵はそれで会話は途切れたと思ったのか、俺から受け取った冊子を開き、譜面台に置いてそれを睨んでいた。
やけにその黒髪が目についた。まるでピアノの外側と同じ様な黒。
そして、彼女の指は、白鍵の様に白かった。
ピアノが化けて出てきたのではないかと、一瞬思ってしまった俺を、心の中で殴りながら、梵に近付く。
ドアからピアノまでの道筋はすっかり出来上がっていたのだが、その周りは酷い有様で、ビニール袋に包まれた何かが大量に置かれていた。
扇風機だったり、机だったり。
本当にここは物置のようだった。
このアップライトピアノも、元は音楽室に置いてあったんだろうが、古くなったのでこちらに移されたのだろう。
今の音楽室にあるピアノは真新しいのに加えて、グランドピアノだ。こいつには勝ち目が無いのだろう。
何の因果か、周りに負けてしまったもの達が、ここに集まってしまったようだった。
そんな敗者のアップライトピアノに、嬉々として触れる梵は、きっとこのピアノにとって救世主以外の何者でもないのだろう。
外の青空はやけに眩しく、埃っぽいこの部屋の床や天井がいやに目についた。
梵が急に弾き出して俺は我に返った。
俺は更に足を進めて、梵の背後から楽譜を覗き込んだ。どうやら、一気に飛んで終盤辺りから弾き始めた様子だった。
思わず呆れてしまった。
この冊子は、最初は簡単過ぎてどんどんいけるようなものばかりだが、終盤になってしまえば誰でも少し止まってしまうようなレベルで難しくなる。
練習用の楽譜とは大体そんなものだとは思う。
それを碌にピアノを弾けない奴が初端から最後から弾いても、スキルアップには全く繋がらないだろう。
予想通り、梵は最後まで弾き切る事が出来ず、止まってしまった。
そして、振り返り俺の方を見る。その目は捨てられた子犬のようであり――――まぁ教えてくれっていう意味だろう。
「なんだ」
「あ、あの〜……これ、難しくないですか?」
「お前が悪い。それは練習用とは言ったが、全部簡単だとは言ってない。それ一冊終わったらおおよそは弾けるようになるんだ。そりゃ勿論、最後は難しいだろうさ」
「え! 先にそれを言って下さいよ! ルンルンで後ろから弾き始めた私がバカみたいじゃないですか!」
「いや、実際にバカだなと思って見てた」
「ヒドイ!」
梵は若干涙目で、頬を赤く染めながら俺に文句を言う。それなりに弾けると思っていた自分を恥ずかしく思っているのだろうか。
まぁあるよな。
自分には割と根拠の無い自信がかなり大きなものとして存在していることって。
それが過大なものであればある程、気付いた時には落差が大きくなる。
沈めば沈む程、俺という存在に価値は無くなっていく。なら、いっそ自信なんてものは無い方が良い。
俺が黙り込んでしまったのを不思議に思ったのか、梵がいつの間にか近寄って来ていた。
「天羽君?」
「……なんだ」
「いえ、眉間に皺が寄っていたので。何かありましたか? は! もしかして私がなにかやっちゃいましたか……?」
「いや、別に。ほら、それの最初からまたやり直せよ。そうじゃなきゃ歓喜の歌の楽譜、やらないぞ」
少し不安気な梵に、俺は軽く話を逸らしつつ指示を出した。梵は慌ててページを捲って最初の方に戻していたが、何かが気にかかったのか俺の方を再び振り向いていた。
「歓喜の歌って天羽君は言うんですか?」
「ん? あぁ……どちらかと言うと第九か歓喜の歌って言わないか?」
「私はよろこびの歌って言います。歓喜の歌とか言ってしまうと、宗教意識が強いというか……仰々しいような感じがするんです。でも、よろこびの歌って言うと、なんかぽっと心が温まるような気がしませんか?」
梵は俺にそう尋ねる。
なんとなく言いたいことは分かる。
喜びを歓喜等と言ってしまうと、やけに重苦しい印象が付き纏うが、本来の喜びとは噛み締めて心の中で仄かに起こるようなものだと言いたいのだろう。
喜びの歌とすれば、誰にでもあるような幸福を喜んでいるように感じられる。
俺がそう考えていると、梵は俺の顔を指差した。
「あ、初めて笑いましたね」
「え……?」
「顔ですよ、顔。今の天羽君、笑顔ですよ?」
梵の指摘に、思わず俺は口元を手で覆って確認した。確かに、その口は弧を描いているような気がする。
笑ってる?
なんか面白いことがあったか?
いや、そもそも笑ったのはいつぶりだ? 記憶に無いな。長らく真顔で過ごしていたような気がする。
決して、断じてこれが楽しかった訳では無い。
俺はそう言い聞かせて、梵の背後の楽譜を指差す。
「ほら、とりあえずやれよ。これの他にまだまだ練習用のがあるんだから」
「え、そんなにあるんですか……?」
「見たいか?」
「――いえ、見たくないです……。頑張ります」
「どうせ授業にも出てないんだろ?」
「まぁそうですね」
「じゃあこれからは、こっちをやっとけよ。俺のをもう渡しとく。指が動かせるようになってからだ。飛ばしたりするなよ?」
「もうやりませんよ!」
俺からのからかうような視線に、梵は抗議するように言い返していた。
俺は緩みそうになった口を手で押さえながら、教室を出て行った。
ドアを開けると、背後から言葉が飛んできた。
「あ、また明日!」
思わず何かに撃たれたように立ち止まってしまったが、俺は返事をしようと振り返った。
「あぁ……」
生返事になってしまったのは、綺麗だと思ったから。
色が飛び込んできたから。
紺のセーラー服。
赤のリボン。
黒の髪とピアノ。
白の肌と鍵盤。
緑の植物に、青い空。
透明だった筈が、いつの間にか色で支配されている。
俺が放っておいた絵の具を拾うという工程は、知らぬ間に行われていたようだった。
その中心で輝く笑顔は、何よりも美しいものなのだろうと、俺は思った。
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