第2話 運命
翌日が来た。
母さんに演奏を聴かれていたこと、そしてそれに当たってしまったことが思い出され、俺はベッドの上で歯噛みした。
当たったって何にもならないというのに。
あいつのせいだ。
あの下手くそなピアノを弾いてた、あいつのせいだ。
一度くらい文句を言いたくなるような気分だった。だが、だからといって旧校舎をもう一度訪ねるのも癪だった。
階段を下りて、リビングに向かう。階段の窓から覗くのは、曇り空だった。いい加減に空には情景描写を止めて欲しい。
何だ。
あの女子と出会った時には、俺が喜んでいたのか? 違うだろ。分かり易く俺は苛立っていた。
だから、この空は、情景描写なんかじゃない。
だから、俺は喜んでなんかいない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そして、俺は学校に向かった。いつも通り、何の感動もない、透明な何も無い学校に。
毎日同じことの繰り返し。
駅で電車を待ち、電車に乗り、改札を通り、歩いて向かい、学校の門を通り、靴を履き替え、教室に向かい、自分の席につく。
カバンから荷物を出し、軽い予習と復習をして、授業を受ける。
昼休み。
母さんが作ってくれた弁当を手早く食べると、イヤホンを付けて音楽を流す。寝ようとした時、俄にざわつきが大きくなった。
俺は視線を上げて、イヤホンを外す。
教室の皆の視線は、ドアに向かっていた。
そこには、昨日の女子がいた。ドアに身体を隠すようにして、頭だけを出して佇んでいた。正確には、俺をじっと見つめていた。
だから、俺の耳元まで教室の喧騒が届いた。殆どが俺に向けられた疑念だったからだ。
「なぁ……あれ、知り合いか?」
「あー……、昨日ちょっと話しただけなんだけどな。何なんだろうな」
クラスメイトに話し掛けられた為、素直にちょっとぼかして答えた。間違ってはいない。
「へぇ〜……行かないのか?」
「うーん……そうだな。皆が気になってそうだし、あいつもあそこにずっと居そうだから、ちょっと話してくるよ」
「そうか」
俺が椅子から立ち上がると、クラスメイトは笑って手を振ってくれた。
仕方ない。行くか。
ドアまで近寄ると、またジリジリと後退し出した。俺が一歩踏み出すと、そいつも一歩下がる。
それを繰り返せば、気付けば隣の教室まで来てしまった。
「おい、逃げるな。俺の睡眠時間を奪いたいのか」
「だって……教室、怖い」
流石に少し苛ついた俺が言葉を掛ければ、そいつは身体をビクつかせて俺を見た。正確には、俺の後ろの教室のドア。
先日、地獄の門と形容した、教室のドア。今は門の役割も果たしておらず、開け放たれている。
だから、今は地獄の中身が出て来ている。
俺は思わず溜息を吐いた。俺も地獄の中の一人ってか。
「いいぜ。違う所でも」
「…………」
俺の言葉を聞くと、そいつはコクリと頷いて、身を翻した。
どんどん歩く背中を俺は追う。
速い。
やはり、一人で教室の前まで来るのは酷いストレスだったようだ。
しかし、ならどうしてここまで来たのか……。
説明ぐらいはしてもらおうか。
結局、昨日来た旧校舎まで戻って来てしまった。
こいつ……本当に一貫してんな。
昨日と同じ教室に入り、埃が舞う中を突き進んで、そいつはピアノに向かった椅子に座り込む。こちらも向かずに、ピアノに向かっている体勢だ。
暫くそのまま動かなかった。
俺は埃だらけの部屋の壁に凭れる事も出来ず、ただ直立して待つだけだった。
早く、話を聞いて安定させたいのだ。
そいつが深呼吸するのが聞こえた。
深呼吸するなり、すぐに話し始めた。
「あ、あの、昨日、あなたは下手だから弾くなって言ったんじゃないんですか?」
それは俺への疑問形の形を取った言葉だった。目を凝らして見れば、やはりその肩は震えている。
太陽の光を反射した、室内の埃もまた、キラキラ光りながら震えていた。
「――はぁ……。やっぱり分かってなかったな。俺はピアノの音を聞きたくないって言ったんだ」
俺は首の後ろを触りながら、溜息を吐きつつその質問に返した。
目の前のそいつは、驚いたのか、物凄い勢いで振り向いたかと思えば、すぐに俺から目を逸らして俯いた。
半身だけこちらを向いた不自然な姿勢だ。
「なんで、ピアノの音、聞きたくないんですか?」
そいつは質問を続けた。心底分からないとでも言いたげな顔で。
その真っ黒な目にはキラキラと星の様に輝く何かがあった。
その輝きは、俺の目に吸い込まれる様に俺の網膜を突き刺した。
目の奥が痛かった。
「……俺のピアノじゃ、誰も感動しない。心を動かせないんだ。それに、俺なんかよりも遥かに上手い奴がいたんだ。それ聞いたら、ピアノも楽しめなくなった。だからだよ。
ピアノはもう、嫌いだ」
面と向かって光源の如き目を見ることは出来ず、目を逸らしながらそう答えた。
忌々しい程に、背後の光は眩しい。
そいつは、暫く首を傾げる様にしながら考えると、結局分からなかったのか、ただ視線を送ってくるだけだった。
俺が黙ったままでいると、視線の意味が分からなかったと思ったのか、口を開いた。
「それで、なんでピアノが嫌いになるんですか?」
「いや、だから――」
全くもって、人の話を聞いていない様な質問。俺の苛立ちはヒートアップしていく。
「だから言ってるだろ! 俺のピアノは何処までも下手なんだよ! それこそ、楽譜に逆らって暗い雰囲気を塗り替えてしまうぐらいに! だから上手く弾けない俺が嫌なんだよ!」
俺は叫んでしまった。こいつの前で。
あぁ……もう会話は成り立たないだろう。さぞかし俺は怯えられただろうな。
だけど、これで良いんだ。だって、ピアノと必要以上に触れ合わなくて良いんだから。
精々、家の中で触ってるぐらいが良いんだ。人に聞かれずに。隠れてピアノを触るので。
俺は喋る必要も無いと思い、身を翻した。しかし、昨日も感じた服を引っ張られる感覚を覚えた。
振り返れば、またアイツが俺のブレザーを引っ張っていた。
「なんだ? どうせお前、俺が怖いんじゃないのか? 怖いならわざわざ近づかなくても――」
「私に、ピアノを教えてください。あなたが嫌いなのは、あなたのピアノですよね? なら、私のピアノとは違います」
そいつは、俺の言葉を遮ってまで自分の我を通した。本当に、嫌になる。
俺の暗さが浮き彫りにされる様な、輝き。太陽の様な、煌めき。
「なら、私のピアノを巧くさせてくださいよ。そうしたって、別にあなたの嫌いなものとは関係がないでしょう?」
立て続けに、俺に捲し立てる。ブレザーを掴む手の強さは更に増していく。
不味いと思った。
これ以上ここにいれば、戻れなくなってしまう。
そう感じた。
「だから、私にピアノを教えてください」
ある種の信念を感じる様な視線だ。それを一身に浴びてしまった俺はどうなってしまうのか。
――動けなかった。
その目は、何かを発しているのだろうか。
何かが俺の身体に纏わり付く。ある種の魔力だろう。絡み取られて、俺を地面に縫い付ける。
息をすることすらも許されていない様な気がした。
必死で、息を吐く。
それと共に、身体の内側を支配していた何かも外に出た。
真っ直ぐな目の呪縛から、やっと解かれた。
気まずく思って、頭を掻きながら口を開く。
「――――なんで俺なんだよ。もうちょっとあるだろ、なんか」
「いません。私は、運命というものを信じてみたいお年頃なんです」
俺の質問に、そいつはきっと俺を見つめ返した。やはりその眼差しは、俺の目へと一直線に向けられていた。
どうやっても、逃れられない。
そう俺に思わせる目つきだった。
そして、俺は溜息を吐いた。
俺はどうやら、根比べに弱かった様だった。
「――――良いぞ。やってやる。俺がきちんと教えられるか分からないぞ」
「それでも良いです。あなたは少なくとも、私よりも上手そうですから」
俺の明らかに良い表情ではない言葉に、そいつは飽く迄も笑顔だった。
そいつは本当に嬉しそうに顔を輝かせながら、再びピアノに向かった。
――こいつ、二重人格かよ。
最初の怯え具合はどこへ言ったんだよ。
まぁ、なんかこいつの嬉しそうな顔見れば、どうでも良くなってきたな。
そんな風に考えていると、そいつは何かを思い出したのか肩を跳ねさせると、バネ仕掛けの人形の様に振り向いた。
「あ、これから会うんだったら、名前、教えてくださいよ」
そいつはまだ嬉しそうな顔で俺にそう言ってきた。
俺は取り敢えず、教えた方が早そうだと思い、仕方ないと思いながら口を開いた。
「俺は、
俺が顎でそいつを指すと、そいつは笑顔で頷いて、ゆっくりと話した。
「私は、
そいつ――梵はそう言うなり、ペコリと頭を下げた。そして、頭を上げると、俺に目を合わせてニッコリと微笑んだ。
正直なところ、梵がなんでこんな所で一人でピアノを弾いている理由が分からなかった。
さっきの笑顔を見ると、教室で友達と一緒に笑っていそうな雰囲気があると思ったからだ。
だが、誰にだって触れて欲しくない所はある。
梵が話さなければ、俺がその事に触れることは無いだろう。
だって、俺も決して触れられたくない所があるからだ。
完全にお互い様とでも言えるだろう。
こうして、俺は梵にピアノを教えることとなった。
ある意味、運命とでも言いたいところだが。
運命。
お前はどうやっても、ピアノと俺を繋げたい様だな。俺の中でそろそろ恨みが溜まっていっているぞ。
今度やったら、覚えておけ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
梵とは、流石に今日からやるのは俺の気持ちの整理がつかないとだけ言って、一週間後からと話し合って、解散となった。
一週間あれば、足りるだろう。
教える為の知識を蓄えるのに。
別に乗り気な訳では無い。
ただ、ピアノについては妥協したくないだけだ。
ピアノだけは適当ということを許せないだけだ。
家に帰ると、ピアノの初級の楽譜をみたりして、どういったことから教えるかと考えた。
楽譜を引っ張り出しては中を見、引っ張り出しては中を見を繰り返して、いつの間にか俺の周りには楽譜が散らばっていた。
そもそもどういった事が出来ないのかを把握していないのに、どう教えるのかを考えるのは無理ということに気が付き、とりもあえず考えるのは止めにした。
猶予は一週間。
俺はその間、何が出来るだろうか。
恐らく、梵はそこまで本気でやりたい訳では無い。
ただ上手くなりたいだけなのだ。
そこそこの上手さになりたいだけだ。
――――そこまで妥協出来るのは、羨ましいな。俺は、妥協が出来なかったから……――――
いや、考えるのは止めよう。
やはり、ピアノに近付きすぎるのは危ないな。
そして、俺は楽譜を纏めて仕舞う為の籠に収めた。
溜息を吐いて、俺は防音室のドアを閉めた。ついでに鍵も。
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