第一章 天羽創来は真空に包まれている
第1話 嫌いだ
昼休みの高校。
喧騒の中を突き破り、俺の鼓膜にわざわざ突き刺してくる音。
ピアノだ。
曲はモーツァルトのトルコ行進曲。選曲がよく分らないが、有名ではある。
そして、CDになっていることから、これを弾いているピアニストも有名なのだろう。ただ、よく分からない。
音源になると分からない。
本物はCDでも分かると言う人もいるが、本当だろうか。
些細な呼吸の仕方や力の籠め具合、音の響きまで、完璧に分かるのか。
恐らく“本物”ならば、それすらも利用して俺達の脳を揺さぶって来る。
それ程までのモノに出会ったことが無いのは、生き易そうではある。
俺は――――出会ったことがある。だから、狂った。
ピアノの音が段々と嫌になってきた俺は、意味の分からない音の羅列であるよく知らないロックバンドをイヤホンで聴き始めた。
ワイヤレスイヤホンからは喧しく、何かを罵っている声が聞こえた。俺だったら、何を罵るだろうか。
世界? 自分の才能? 天才?
それとも――――
もうピアノは、人前で弾きたくない。
自分独りで弾いていても、圧倒的な差を見せつけられる。
自分のピアノの音が、嫌いだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
俺は中学の頃、ピアノのコンクールに出ては優勝を取れるような、そこそこ弾ける奴だった。
コンクールと言っても、地方の、田舎の、主催がピアノ教室の先生で、大して人も集まらないようなものばかりだ。
そりゃ、誰だって取ることが出来るかもしれない。
それで俺は弾けると思った。
天才だと。
今にして思えば、簡単に分かる話。
数年前の俺を表現する言葉は幾らでもある。
お山の大将。井の中の蛙。夜郎自大。
俺は当然のように将来はピアニストになろうと思っていたし、実際にそれは簡単なことだと思っていた。
そんな時、俺は少し大きなコンクールに出た。全国から中学生が集う様な、歳によって部が分かれている少々有名なコンクールに。
俺は中学2年生だった。
3年生も数多居る様なコンクールに、少し怯えつつも期待で一杯だった。
俺はどれぐらい出来るのか。
もしかしたら、優勝してしまうかもしれない。
そんな思いが生まれてしまう程に。
そして、コンクールは始まった。
俺の順番はどちらかと言えば早い方であり、すぐに回ってきた。
課題曲を弾く。
演奏するのは、ショパンの幻想即興曲。
これは課題曲の一つで、俺はこれを選んだ。理由は、特に無かった。
舞台の黒く鈍く光るピアノが自分を待っている様な気がして、少し歩くのが早くなったのは、今でも覚えている。
ミスは無かった。自分でも楽しみながら弾いた。いつもよりも楽しく弾いた。感情が昂って、やや走ったような気もするが、それは恐らく自分が興奮して、時間の流れが速かっただけだった。
後の録音を聞けばそうだった。
自分は何ら悪いところは無かった。
ウキウキ顔で席に座っていた俺に待っていたのは、それを絶望に変えるような演奏だった。
五百旗頭煌夜という少年は、俺と同級生だった。少しふわふわとした髪質の俺よりも少し身長が高い、美形の少年だった。きっと百人中百人がイケメンと認めるだろう。
そんな少年は、俺と課題曲の選曲も同じで、ショパンの幻想即興曲。
違いは歴然だった。
音が、重かった。
聞いているとそう思った。
重厚でありながら、繊細。滑らかでありながら、何処か引っ掛かる。矛盾した音を内包していた。正に幻想と言うべき演奏だった。
壇上での彼の動きは、まるで見世物の様に完成されており、自分を魅せるのが上手かった。
俺のはなんて軽いことだろうと。
俺のなんて、所詮ガキのお遊びに過ぎないレベルだと。
そう言われた様な、勘違いまで起こってしまう程の演奏だった。
花の咲いた草原で遊んでいる俺の目の前に唐突に現れた壁に、俺は頻りに困惑するだけで、それを打ち崩すという思考に至ることはなかった。五百旗頭によって創られたその壁は、俺じゃどうすることも出来ないと思うに容易だった。
壁は、打ち壊そうとしても崩れない程の厚さだろうが、俺はただ急に創られた壁を前に指を咥えて首を傾げることしか出来なかった。
しかも、演奏はどうやら楽譜の指示に完璧に従っているのかと思いきや、時々その指示を無視して自分で演奏している。
自分の解釈を曲に入れることで、さらなる高みへと曲が押し上げられている。
満天の星がちらつく、新月の夜のように、ピアノを弾いている五百旗頭の姿は俺の目に映った。
その瞬間の俺に出来ることは、それを見上げることだけで、天まで昇り切った五百旗頭を凄い凄いと拍手するのみだった。
その後のことは覚えていない。
結果――分からない。
ただ、五百旗頭が遥か先に立っていることは覚えていた。
両親が撮った写真には、俺と五百旗頭が並んで写っていた。
事実としては、そのコンクールで俺は二位。五百旗頭が一位だった。
俺の顔は魂が抜き落ちているような顔だったが、五百旗頭はしっかりと自分の精神を保っていた。
俺はその日を境に、ピアノ教室を辞めた。
先生からは不思議がられた。
何故辞めるのかと聞かれた。あんなに上手いのにと引き止められた。
俺が上手かったなら、あいつは――――五百旗頭はどうなる? 逆立ちしたって勝てないレベルの天才、いや、天災ということになってしまうだろう。
天の災いとは正しく、俺のピアノを俺に捨てさせた。あんなに大好きだったものを。
舞台の上で弾く俺のピアノを捨てさせた。
それからは、家でしか弾いたことはない。
自分だけが聞く。自分の為だけに弾くピアノ。それでも尚、ショパンの幻想即興曲は弾けない。弾こうとすれば、指が震えた。
自然と自分のピアノを疑う様に仕向ける神経毒。
一度演奏を聴いた人からその曲を奪う呪い。
それを起こさせてしまう者こそが天才であり、天災だった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
それからは無味無感動、身を焼かれる様な羨望も無かった。
ピアノを人前で弾く。
そのことさえ無ければ、俺は五百旗頭に嫉妬することはない。
だって、人の心を動かすには、俺の技量が足りないから。あいつは簡単に人の心を揺さぶるのに。
俺じゃ、人に感動は与えられない。
俺は唐突に顔面に痛みを覚えた。
「あっ、わりぃ! ダイジョブか、天羽?」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
見知った男子が俺に謝る。俺は顔の前で手を振り、上の空だったことを謝った。
今の時間は体育だった。体育館でバスケをしていた。どうやら、考え事をしている間に、バスケットボールが顔面に当たってしまった様だった。
「いや、鼻血出てるって! 保健室行こうぜ!」
「大丈夫だから。俺一人で行ってくる。続けてて」
男子は俺の手を引いて保健室へ連れて行こうとする。それを俺はやんわり断って、自分で歩いて行く。
「あ、おい……」
「まぁまぁ。大丈夫そうだったし、良いだろ?」
「ん、まぁそうだけど。当てたの俺だったし……」
「あいつが大丈夫って言ったんだから、続けようぜ。おい! 誰か代わり入れよ!」
背後では、そんな話が聞こえた。少し申し訳なく思ったが、そこまで気にすることではないと思い、鼻を押さえる手の力を強めた。
「あいつ、なんか壁を感じんだよな」
「人当たりは良いんだけどな」
クラスメイトの二人がこう話しているのは、俺の耳に入ることはなかった。
俺の背中に投げられた言葉は、俺まで到達しない。まるで俺の周りだけ空気が無くなっている様だ。
どんな音楽も、俺にまで伝わらない。直前でシャットアウトされ、俺の耳に届かない。
自分の指を動かして奏でた音だとしても。
だから、心が動かない。
保健室目掛けて真っ直ぐ歩き続けるそんな俺の耳には、何故か音楽が聴こえてきた。
ピアノだ。
それもとびっきり下手糞なピアノ。
ベートーヴェンの交響曲第9番。歓喜の歌。
比較的ゆっくりとしたペースだし、左手を緩くすれば簡単な曲だ。
それをどうすればここまで不協和音に出来る……才能だぞ、これ。
右手と左手のテンポがあっていない。右手が走り過ぎている。左手は別の鍵を一緒に触っているからか、異音が聞こえる。運指が上手くいっていないのか、何処か辿々しい印象だ。というか、所々音程が違ってる……。楽譜を見ながらやってないのか? そもそも、ゆっくり過ぎる……こんなの小学生でももうちょっと上手く弾けるぞ。
それにこれは何処から聞こえているんだ? 音楽室ならもうちょっと防音されていて、音は滅多に漏れてこない。
体育館にもあるが、今は体育をしている。
思わず俺は保健室に行くのを止めて、その音の正体を探り出した。
鼻を押さえるための手は、外れていた。血も止まっていた。
誰だ、俺のテリトリーでピアノを弾いている奴は。俺は生の演奏は聴きたくないんだよ。音源化してから、何も感じないデジタル記号になってから出直してこい。
そして、そこそこ歩き回り、渡り廊下を抜けた。そこから見た空は、どうにも曇り空だったが、少しの太陽が覗きかけていた。
そうして行き着いたのは、旧校舎だった。音を辿り、遂に音の源に着いた。
教室のドアを開けると、そこにはアップライトピアノがあった。古いのか、少々埃を被り気味だった。
その前に座る女子は、俺の方を見て目をかっ開いていた。
「だ、誰?! 今は授業中だよ?!」
「それはこちらのセリフでもあるんだが……何で授業中に弾いたんだ? 歓喜の歌なんて」
両手を胸の前で組みながら、半ば怯えた様子で俺に注意をした。
その女子は、ぬばたまのと形容すべき腰までの束ねもしない黒髪を携えていた。メガネこそ掛けていないが、前髪は長く、目は半分ぐらい隠れていた。口をわなわなと震わせていた。
荷物でいっぱいの部屋に、日光が射し込んできた。逆光とまではいかないが、何処か彼女の背後は輝いていた。
的外れの注意にツッコみかけたが、なんとか軌道修正を図り、俺は疑問をぶつけた。
「え、だって……この曲好きだから」
「いや……だから授業中だって――」
「私、教室に入れないもん」
「は?」
「私、教室に入れないんです」
俺の質問にややズレて返ってきたのを更に突っ込むと、中々にヘビーな話題が俺に豪速球で返ってきた。思わず聞き直すと、あっさりとした様子で言い直してきた。
どうなってやがる。何でそんな簡単に言っちゃうんだ。
「そらまたどうして……?」
「教室のドアの前に、あのガヤガヤとした空気の前のドアに立つと、どうしても足が動かなくて。何か、無理矢理何かを抑え込んでいる地獄の門みたいな感じがして、余計に怖くて……」
ここまで来たらと、加えて質問を重ねた。すると、質問から少しズレた様な回答が返ってきた。その手は少し震えていた。
よく見れば、身体も震えていた。人が苦手なのか知らんが、俺を見て怯えていた。
「――――すまんが、弾くなら放課後にしてくれ。俺はピアノの音を聴きたくないんだ。特に、ド下手くそなのはな。周りも迷惑だろう」
俺は兎に角、退散することを目標に、手を振りながら教室を出ることに成功した。
よし。これでもう弾かないだろう。まぁ、旧校舎になんて来ないとは思うが、念の為だ。
あ、俺どうやって戻ろう。
まだ高校入って一ヶ月も経ってないし、地理把握してないんだよな。
校舎の名前が辛うじてっていう程度だから――――
俺の体操服が引っ張られ、思わず後ろにのけ反る。誰かと思えば、先程俺を見て泣きそう(?)になっていた女子だった。
何で追い掛けてきたのか、これっぽっちも分からなかった。あんなに怖がっていたのに。よく見れば、肩も、俺の体操服を掴む右手も震えていた。
少し溜息を吐くと、肩が跳ねた。
「何でわざわざ追い掛けてきたんだ?」
俺がそう問い掛けても、黙りこくったまま。
さて……参ったな。女子の扱いには慣れてないんだ。何しろ、ピアノしか触ってきてなかったからな。
「お〜い……。返事ぐらいしてくれよ……頼むから。俺が困る」
「………………ぃ」
「へ?」
「私にピアノを教えて下さい!」
急に大きな声を出して、お願いをされてしまった。最初が小さい声だったのが余計に耳に響いた。
「な、何で俺に……?」
「……だって、あなたは私のピアノが下手って言ったから……。ピアノ、弾けるのかと思って。ピアノ弾けるなら、教えてくれるかなって。上手くなれば弾いても良いんでしょ?」
俺の疑問に、その女子はやはり少しずれた解答を返した。
違う。俺が言ったのは、ピアノの音を聴きたくないって言ったんだ。誰も下手くその音を聴きたくないとは言ってない。
しかし、俺の口からはその言葉が発されることはなかった。
何故なら、彼女は俺をずっと睨みつけるように見つめたから。気圧されてしまった。
有無を言わせない雰囲気が漂って、俺の喉に絡みついた。
「はぁ……俺はもう、弾いてない。教わるなら、吹奏楽部にでも行けよ。それじゃ」
「え、あ……」
何とか俺は溜息を吐いて、その空気を喉から追い出した。俺は逃げることを選んだ。これが正しい判断だ。引き止めようとする声が聞こえたが、無視した。
旧校舎を出ると、あの女子は止まっていた。旧校舎からは出たくないようだった。
運命を恨みたいところだ。
なんせ、絶対にピアノと関わらずに済むような学校でも、ピアノが纏わりついてくる。
人前では弾けない俺に、ピアノは弾けと言ってくる。心底うんざりだった。
俺と、ピアノを繋げようとするな。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その日は学校から家に帰り、自室に荷物を置いた。ふと、ピアノが気になった。
母さんは台所で夕飯の支度をしている。
今なら……――――
俺はこっそり自分の部屋を出て、階段を降り、別の部屋に入る。そこは、防音の工事がしっかりと施された、アップライトピアノがある部屋だった。
流石に防音工事は出来ても、グランドピアノまでは買えなかった。だから、アップライトピアノだった。寧ろ、アップライトピアノでよかったと思う。防音工事すら、やり過ぎだ。
途中で逃げ出した俺に、グランドピアノは勿体無い。防音工事の方がむしろ高いまであるかもしれないが、これが無ければ俺は心安らかに一人で弾くことが出来ないだろう。
おもむろに近付いて、鍵盤蓋を開ける。
ドの鍵盤を押す。音が鳴る。
そのまま椅子に座り、両手を鍵盤に置く。何を弾こうか。
ラフマニノフの鐘。
足元の楽譜は、その曲だった。
楽譜をセットして、一息を吐く。
弾き始めた。
前半は鐘が鳴っているように、ゆっくりとしたテンポだ。しかし、中盤は頭がおかしくなる程の激しさに変わる。そして、終盤はまた落ち着いた雰囲気を取り戻す。
どうしても明るい雰囲気にはなりようがない曲調。だが、俺が弾けば何故か明るくなってしまう。
弾んだ雰囲気、明るいテンポ。そして、写真でよく見た、曲を弾く時の俺の笑顔。
全てを総合的に判断してしまえば、この曲は明るいと思われてしまう。
本来ならば、もっと厳かに、地の底から鳴るように弾かなければならない。と俺は思っている。
あぁ……ピアノに俺は向いていない。
自分独りで弾けば良い。別に誰にも聴いてもらう必要はないんだ。
弾き終わった。
鍵盤蓋をまた閉じて、ドアを開ける。
母さんがいた。
「な、なんで聴いてんだよ! 俺のを聴くなよ!」
思わず頬がかっと赤くなってしまった。怒っていない。ただ、俺のピアノは聴くに値しない。だから、聴いて欲しくないだけなんだ。
「で、でも……毎日弾いてるじゃない。きちんと楽しそうじゃない」
「楽しそうに弾いちゃ駄目なんだって! だから俺は駄目なんだ!」
母さんは心なしか心配そうに俺を見ていた。俺はまたそんな態度が嫌だった。
ふとこみ上げる吐き気に、俺は急いでトイレへ駆け込んだ。吐いても黄色い液体しか流れてこない。夕食を食べる前だから当たり前だった。
俺は口を洗面所ですすぐと、階段を昇る。
心配そうに見つめてくる母さんを横目に、俺は階段へ向かう。
自室は二階だった。
背中に視線を感じる。
「だって……今日のそうのピアノ……いつもより弾んでたんだもの……」
母さんのその言葉も、俺の耳には届かない。やっぱり、俺は真空に包まれていた。
自分の音さえ分からない。
分からないから、嫌いだ。
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