第2章 バー
第6話
「はぁ……」
そうこうしている内に何とかアルバイトが終わり、更衣室のロッカーの扉を開けると……。
「フフ。お疲れ様」
樹里亜さんは穏やかな笑みと共に私を労った。
「樹里亜さんもお疲れ様です」
でも、私以上に樹里亜さんの方が大変だっただろう。何せそもそもアルバイト事態に慣れていないのだから。
「まさかあんなに人が来るなんてね」
「はい、正直驚きです」
正直、思い出すだけでも思わずげんなりしてしまう。
それこそ「樹里亜さんは新人だし、レジにも慣れて欲しいから出来ればそばにいた方がいいかな?」なんて思っている暇なんてない程だった。
いや、いつもであればそれはとても嬉しい事ではある。ただ、やっぱり時と場合を考えて欲しいと思ってしまう。
本当はありがたい事ではあるのだけど。そもそも売り上げがないとこのカフェ自体が立ち行かなくなってしまうから。
それこそお客様に「こちらの事情も察して欲しい」なんてよっぽどの事がない限り言えない。
「でも、そのおかげでたくさんレジ打ちも出来たし、接客も出来て良い経験になったわ」
「……そうですね」
嬉しそうに前向きな事を言う樹里亜さんはとても健気に見える。
私としても既に接客についてはマスターから「大丈夫」と言われていたから余程のクレーマーがいなければ大丈夫だろうとは思っていた。
レジについても最初こそ「間違えてはいけない」という気持ちが強かったのか、どことなくぎこちないという感じではあったけど、混み始めてからは「そんな事も言っていられない!」と思ったらしく、いい意味で集中力が上がると同時にどんどんスピードが上がっていた様に思う。
そもそもレジについては間違っていなければそれでいいので特に文句もない。
「でも、マスターの息子さんに手伝ってもらってバーの営業が始まるギリギリまでいてもらっちゃったのは申し訳なかったわ」
「それは……まぁ」
どうしても人手が足りなかったのだから仕方ない……と言ってしまえばそれまでではある。
でも、樹里亜さんとしては「バーの営業もあるのに申し訳ない」という気持ちの方が強かった様だ。
当の息子さん本人は忙しい時はよくある事だから気にしていないと思う。それに「じゃあもっとアルバイトを増やせばいいじゃん!」と思う事もあるけど、今の状況では一人増やすのがこのお店では精一杯の様だし。
「でも一応。私も調理師免許は持っているし、厨房の方も教えてもらえば手伝えなくはないかも……」
「え!」
そう遠慮がちに言う樹里亜さんに思わず驚いてしまった。そんな事、全然言っていないかったのに。
「ああでも、下手にあの二人のいる厨房には入れそうにないかも知れないわね。私が入ったら……かえって邪魔になっちゃいそうだもの」
「いや、邪魔って事は……」
しかし、樹里亜さんの言っている事も分かる。それくらいマスターと息子さんはいつも厨房内でせわしなく動いている。
それでもキチンと回っているのはマスターと息子さんの息が合っているのだろう。
「そもそも、そんなに広くないものね。ここの厨房」
「あー、それは……はは」
それに関しても同感だ。
そもそもここのカフェの厨房はマスターと息子さんががせわしなく動いている今の状態でギリギリ。だからこそ、樹里亜さんは「息の合っている二人の間に入る隙間はない」と悟って履歴書には書いたモノの、あえて自分からは言わなかったのだろう。
「でも……」
「ん?」
「驚きました。調理師免許を持っているなんて」
「社長令嬢なのになんでって事かしら?」
素直に感想を言っただけのつもりだったけど、どうやら樹里亜さんはちょっと違う様に受け取った様だ。
「い、いえ。そういう意味ではなく……」
「フフ。分かっているわよ」
今の言葉は……きっと嘘だ。
今のはなかなか見せない数少ない樹里亜さんの本音だ。そう言い切れるくらい。今の言葉だけ明らかにトーンが低かった。
「……ねぇ未麗ちゃん」
「はい」
「今日この後って暇かしら?」
「今日……ですか? 特に予定は……」
せいぜいこの後は家に帰るだけだ。
「じゃあこれからちょっと食べて行かない? ここの二階で」
「えぇ!」
「ちょっと気になっていたのだけど……ダメかしら?」
「い、いえ。ダメと言う事じゃないですよ? ただ意外だと思って」
「あら、どうして?」
「いや、何となく……樹里亜さんはあまり外出をし無さそうだと思っていたので」
これも私の素直な感想だ。
「あらあら、それは……ご期待に添えられなくてごめんなさい?」
ニッコリと笑う樹里亜さんにさっきの様な影は見えず、むしろちょっと私をからかっている様にも見える。
「いや、そうではなく……。そ、そりゃあ樹里亜さんだって外で食べたくなる事くらいありますよね!」
そう言いながら開いていたロッカーの扉を閉めると。
「――ええ。そういう時も……あるのよ。私にもね」
小さく……本当に小さくドアの音にかき消されてしまう程小さく呟いたその声を……私は聞き逃さなかった。
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