第5話
--江戸の空に浮かぶは、陽炎か、幻か。月明かりが街を柔らかく照らす。
その下のざわめきの中で、うぬの息吹を感じる。遠くにかすかに揺らめく影、
それは確かにわれの心に宿る存在であった。うぬは強き者が好きか?
ああ、どうかそのまま、夜風とともに消えてしまわぬよう。
「あの日、うぬの微笑みが初めてわれを捉えた。忘れ得ぬその瞬間が、
今もわれに刻まれている。」
江戸の街を行くたび、風に乗って届く微かな香り、それは確かにうぬのものだ。
うぬの存在を感じるたびに、愛おしかったと。
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」--
静香がふと目を開けたのは、空が明るくなり始めた時だった。
傷が治るのは相当時間がかかると思っていたのに、なぜか2日目から
傷口から血が滲み出ることもなく、不思議と痛みは感じられないし、
手で触れてみても、すでに傷口は塞がっている様だった。
布団も見たことないほど、ペラペラで傷だけでなく体も
あちこち痛くなるだろうと覚悟していたが、これもなぜかそんな事はなかった。
もう安静にしている必要もなさそうなので、様子を見に来たお咲に頼んで、
午後から町の中を案内してもらうことにした。
静香は長屋の外に踏み出した。何度か
出ていたが夜だったこともあり、あまり別の世界に来た実感がわかなかった。
しかし、日差しは眩しく、風は新鮮な香りを運んできた。町の喧騒が、
彼女の心を今までとは違う形で刺激した。
お咲と肩を並べ、江戸の街を歩き始め、その賑やかさや活気に静香は
心を奪われた。商人たちの声や町人たちの笑顔、すべてが新鮮だった。
「姉様、まるで初めて江戸の町を見るようですね。」
とお咲は楽しそうに言った。
「そりゃあ、何も覚えていないから…。」
と静香はすっとぼける。
「そのうち突然全部思い出したりしないんですかねぇ?」
とお咲が言うと木戸をくぐって、表通りに出た。
「あら、商店がいっぱい。」と静香は驚いた。
さらに、みんな着物を着て、ちょんまげの人がいるのは
時代劇を見ているようだった。
少し埃っぽいし、いろいろ匂いが混ざって決して
洗練されているわけではないが、活気があり人の往来も多い。
八百屋の店先に野菜が並んでいるが、現代の感覚からすると
元気がなく、商品としては美しくないが取れたての
馴染み深い物から、これ食べられるのか?と思うようなものもある。
米屋、うなぎ屋、薬屋、建具屋。と並び
やっぱりあるのね居酒屋、でも意外と飲んだくれている人はいない。
結構真面目な人が多い界隈なのだろうかと、静香は思った。
お咲が、少し先の店の
「姉様、あそこが湯です。男衆がいない昼間に来ると良いですよ。」
と言った。ちょっと静香は考えて、
「え?もしかして混浴?」と静香は目をむいてお咲に言うと。
「ええそうです、だからお昼に…」と恥ずかしそうにお咲は言った。
物凄く大きな声を出しそうになった静香に向かって、
お咲は人差し指を口に当て、「シーッ!」と諭すように言った。
-- おっと!私はくノ一だった。忍ばねば--
などと静香は声を押し殺した。
が、いまだ自覚のない様子をお咲に先回りされた。
商店街の端まで来て、門を通り過ぎようとすると。
「おや、お静さん。元気になりやしたか?」
と門番なのか見張りなのか、イキのいいお兄さんが声をかけてきた。
ビックリした静香は、体が鉛のように重くなった感じがしたが、
お咲がそっと背中から手を当ててくれたので、スッっと冷静になり
体の重さもあっという間に消えた。
「番太さんっていうんですよ。姉様。
長屋の門、木戸を閉めて夜に番をしてくれるから、番太さんです。」
とお咲が丁寧にそっと説明してくれた。
-- おやおや、しっかり町を守っているんだ。
小さい頃に住んでいた京浜工業地帯の長屋と違って隅々まで管理
してる。驚いたのはこれが二百年以上続いてるってことよね。--
と静香は感心した。
「木戸は夜四ツ時[午後10時ごろ]閉めて、明六ツ時[午前6時ごろ]
開ける決まりがあるんですよ。表向きは…」
とお咲が顔を寄せてそっと教えてくれニッコリと笑った。
-- カワイイ!守りたい!今は無理だけど! --
と静香は満面の笑みをお咲に返した。
木戸を出ると、先ほどの商店街よりさらに広い道になっていて、
一軒一軒が非常に大きい店となっていて、表に家紋をあしらった
巨大な
静香が左を向くと、桔梗の家紋が入った暖簾が次の曲り角まで続きていた。
「ここが、私の奉公先で姉様の本来のお家、樽屋です。」
広大な敷地が目に入った。壁伝いに続く店は一劃すべてを占め、豪壮な佇まいは、
この家の娘であることに戸惑いを覚えた。
「こんな大きなお店の娘なのね、私は。見た目にも気を使わないと…。」
とまさか江戸にやってきて良い所の娘になるとは思ってもみなかった。
が、お咲は
「ああ、長屋の皆さんには秘密になってますよ。
へたに良い着物とか着てしまうと目立ってしまいますので、
気を付けてくださいね。いつも何か仕事をしている風を 装ってくださいね。」
と小声で教えてくれた。
「あっ、は、はい。」
と静香はどちらが年上か分からないような返事をした。
住まいのそばまで戻りつつ、お茶屋に寄って饅頭みたいなもの
とカステラみたいなものを食べたが、とても甘くておいしい。
-- やはり、甘いものは大切だよね~ -- と静香は確認し
二人とも笑顔でお店を出ることにした。
しばらく大通りを東方向に歩いていき、似たような長屋に
たどり着くと普通の家に怪しげな暖簾のあるところに入って行った。
「師匠、姉様を連れてきました。」とお咲が言うと。
「あいよ。お静、少しは何か思い出したかい?」
「思い出したと言えば思い出したような気もしますが…」
と静香は言いながら店の中を眺めまわす。
しかし、これと言って不自然な感じはしない。
店を閉めた千代婆は奥の縁側に出て、雨戸を右側から出して締め切った。
そして縁側の一部の板を下へグッと押し込むと右側の壁が、くぐり戸
のように開いた、まるで忍者屋敷だ。忍者だけど。
真っ暗だ。千代婆は慣れた手つきで柱に括り付けてある大きな陶器の
丼のようなも器に、油が入っているのか火をつけて回り明かりを灯した。
「さっ、その辺に適当に座りな。」
千代婆はそういいながら、奥から道具箱のようなものを出してきた。
「すぐに思い出してもらいたいもんだが、また『いろは』の『い』
から始めるかねぇ。」とため息交じりに静香をちらりと見て、
「おまえさんが使っていた手裏剣、
それから忍術の巻物や秘伝書は持ち出すんじゃないよ。」
と千代婆の言葉に静香はうなずく。
--手裏剣は何となく知ってるけど、こんなに重いとは思わなかった。
これホントに投げられるんだろうか?それと、クナイ?使い込んだ
感じで見ただけで冷たい汗が出ちゃうし。--
などと静香は肩をこわばらせていると、
「しばらくは、軽い動き、座禅から始めるさ。
呼吸や歩き、秘伝書も読んで、良くなったら夜にわしと
散歩でもするかねぇ。」
とこれからのリハビリ計画を千代婆は提案してくれた。
千代婆の指導の下、静香は基本的な忍者の技術を学び始めた。午前中は
体を慣らすためと町の構造や位置関係などを把握するために歩き回った。
静香が一番戸惑ったのは、ほとんどの人が手と足を同時に前に出して歩くことだ。
後で聞いた話では、着物の場合はそうすると着崩れないらしい。
それに慣れない静香はまるでロボットかダンスしているようにしか見えなかった
だろう。たまに「クククッ」という忍び笑いをされた。忍だけに。
午後は千代婆の蔵に行き、巻物や秘伝書などを読み漁り、教えてもらった
瞑想の方法をいろいろ試したりしていた。たまに気が付くと千代婆が隣に
座っていて
「なんでおまえさんがここにいるんだい?」
などと怖いことを言い出すので、一層早く習得しないとまずい事になると静は
焦った。
動きの基本を身につける毎日が続いた。そしてある夜、ついに夜間の街歩き
訓練の日がやってきた。緊張のせいか体がかなり重い、夜間は木戸が締まっている
ので屋根伝いに外に出なければいけない。すでに何度か屋根に上る方法は把握して
いるが、時間がかかってしまう。なんとか落ち合う場所までたどり着いたが
全身汗びっしょりだった。
「ずいぶん時間がかかったね~、まだまだというところかのぉ~。」
月も出ていないので、どこにいるか分からないが千代婆がそう言うと。
「お静さん、良くなったんですかい?だいぶ体が重そうですが、
今宵は訓練ですから、気楽にいきましょうや。」
と、これも姿が見えないが若い男性の声がした。
「はぁ。」と誰だか分からない雰囲気を静香が醸し出すと、
「半次だよ。体術にかけては独歩の域に達してる、まぁ次がおまえさん
だったんだがのぉ~。」と少し残念そうに千代婆が言う。
打合せ通り静香は半次の足取りが見えるギリギリに付いて行き、隠れる事が
出来る場所を指先で確認して、広小路にうっかり出ないよう起きている人
に見つからないよう屋根に上ったり、降りたりした。最初はやたらと上がるのに
手間がかかったが、なぜか走っているうちに自然と体が動くようになった。
-- なんだろう?全然自分の体じゃないみたい。半次さんの動きを
コピーするように意識して、後は何も考えずに
意識すると体が勝手に動いてくれる。樽屋静すごい! --
まるで他人事のように思えるが、これがコツなのかもしれないと静香は思った。
が、その瞬間右斜めに何か動くものをとらえた!
と同時に静香の右斜め後ろからも気配が…!
-- あっ!刺される!--
と感じた瞬間、あり得ないほど体が熱く、そして重くなり…
グサッ!ガキーン!
-- 前の方では言葉を発さず息遣いだけで戦闘しているのが分かる。
横ではきっと千代婆が、私を刺した奴を追いかけ始めた音が
ああ!また死ぬのかな… --
静香の意識はそこで切れてしまった。
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