第69話 Crescent(9)
彼は朝
誰よりも早く来て
誰よりも遅くまで仕事をこなす。
自分の評論の仕事もあるので、その分仕事は多いのだが
専門家とはいえ初めての仕事に慣れようと頑張っている姿は垣間見える。
「・・斯波さんは。 ひとりで住んでるの?」
何となく初めて彼のプライベートに触れる質問をしてしまった。
「・・ひとりです、」
やはりそっけない答えが帰って来た。
「ひとりだと。 家に帰るのが嫌になっちゃうことがあるのよね。 あたしもよくある。 仕事してたほうがいいかなって、」
「いえ。 気楽でいいです。 ぼくはひとりが好きなので。 仕事以外、することもないし。」
「え? 趣味とか・・ないの?」
何だか急に興味が湧いてしまった。
すると
斯波はようやく顔を上げて香織を見た。
「いいえ。 『クラシック音楽』が趣味です。」
そしてきっぱりとそう言った。
「すごいねー。 本当に・・音楽が好きなんだね、」
嫌味でもなんでもなく
香織は心から感心した。
「好き、というわけではないです。 もう生活のすべてなので。 それでお金を貰えるのなら・・ぼくの生活の理想です。 それだけです、」
そう言った後
「志藤さんから・・誘われた時。 あの北都マサヒロのプロデュースができる、と思いました。 素直にやってみたいと思いました。 そして若いオケも育てていきたい、と思いました。 ぼくがしたいと思っていたことを志藤さんから言われて。 今は・・本当にここにきて良かったと思います。」
無口な彼には珍しく
『長セリフ』
だった。
ほんとに
プロなんだなあ。
この人は。
ぼんやりと
そう感じた。
「では。 明日そちらに伺って、打ち合わせさせていただきます。」
香織は次の定期公演のことで顧問の沢藤真理子と電話をしていた。
しかし
「あ、その件はね。 今週中に斯波さんと打ち合わせすることになったから。 大丈夫よ。」
と、あっさり言われた。
「え・・」
「彼、ほんっとクラシックに関して詳しくて。 私も驚くくらい。 志藤さんにいい人に来てもらったわね、って言ってたの。 佐屋さんも営業に専念できてよかったわね、」
彼女は自分を労ってくれていることはわかっていた。
それでも
それまでは慣れないながらも志藤の助言を得ながら、自分がしていた仕事が
どんどんとなくなっていくことに
心にぽっかりと空洞が空いたようになってしまった。
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