【完結】ダブルファミリー(作品230717)

菊池昭仁

ダブルファミリー

第一章

第1話 俺に親父はいない

 #蝉時雨__せみしぐれ__#と夏空には入道雲が湧いていた。


 夏の終わりの大学のキャンパスで、信吾は喉を鳴らしてコーラを飲んでいた。

 

 午後の強い日差しを避け、信吾と恋人の舞はヒマラヤ杉の木陰のベンチにいた。


 刈り込まれたばかりの芝生の青臭さが漂っている。


 「信吾、父の日に何かするの?」


 信吾はただスマホをいじっていた。


 「そろそろ午後の講義だよ」

 「俺に父親はいない」

 「えっ、だって信吾、お父さんいるじゃないの?」

 「あんな奴、親父なんかじゃない」


 信吾は残ったコーラを一気に飲み干すとベンチから立ち上がり、自動販売機の脇にある回収ボックスに空になったペットボトルを捨てた。

 飛行機雲を引き摺るように飛ぶ、旅客機の音が聞こえた。





 副社長室。


 「ひっーくしょん!」

 「杉田副社長、風邪ですか?」

 「またどっかのチャンネーが俺の噂をしているな? モテる男はツラいぜ」

 「うつさないで下さいね。今日は彼氏とお泊りデートなんですから」

 「いいなあ、朝までナニするわけだ?」

 「セクハラで倫理委員会に言い付けますよ」

 「優秀な秘書との健全なコミュニケーションだよ」

 「どこが健全ですか? ハイ、風邪薬。

 念のために飲んでおいて下さい。副社長に休まれると会社が大変なんですから。

 私の仕事を増やさないで下さいね」

 「ハイハイ、それじゃあ俺はこれから銀座で「夜の部活」だからクルマを頼む」

 「正面玄関に待機していただいています。5分も前から」

 「本当にお前は気が利く女だよな? もしお前が俺の女房だったら、俺は今頃総理大臣になっていたかもしれねえ」

 「いいえ、アメリカ大統領です」



 #田子倉祥子__たごくらしょうこ__#、32歳。


 彼女は非常に優秀な俺の秘書だ。

 頭はキレるが決して賢ぶらない。出しゃばることもしない。


 表には出ないが強力なリーダーシップのある女だった。

 才色兼備とは祥子のような女を言うのだろう。

 

 俺が祥子に手を出さないのは、彼女は大切な戦友だからだ。

 俺と祥子はビジネスを共に戦うバディなのだ。

 男女を超えた信頼関係と揺るぎない愛情があった。

 俺たちは恋愛よりも深い絆で結ばれていた。

 


 「副社長、明日は朝一番で役員会議ですから銀座での「ミーティング」は早めに切り上げて下さいね?」

 「わーてるよ、いちいちうるせえなあ」

 「お気をつけて」




 俺は正面玄関に待たせてあった社用車に乗り込んだ。


 「角田、銀座の店まで頼む」

 「かしこまりました。副社長、これを秘書の田子倉さんから副社長にお渡しするようにと」


 運転手の角田はソルマックの瓶を俺に差し出した。


 「あんな女が旦那に選ぶ奴って、一体どんな男だろうな?」

 「トム・クルーズか? ニコラス・ケイジじゃないですか?」

 「それかジョニー・デップだろうな? ジャック・スパロー役の」


 角田はゆっくりと静かにアクセルを踏んだ。

 クルマは夕暮れに赤く染まるビルの谷間を、まるで魚のように滑らかに進んで行った。


第2話 夜を纏う女

 秘書の田子倉祥子は俺に関わる人間関係のすべてを把握し、常に気配りを怠らなかった。

 それは身分、性別、年齢に関係なく。


 祥子は徹底して俺を守ってくれていた。

 それは運転手の角田に対してもだった。

 祥子の情報収集力と分析力は的確だった。


 

 所詮、会社の役員などは暇なものだ。

 自分の保身だけを考えてさえいればそれでいい。

 遣り過ぎても駄目、遣らな過ぎても駄目だ。

 そして社長とのコミュニケーションを怠らず、嫌われないことだ。

 「忙しい忙しい」と言っているやつは、自分が無能だと公言しているようなものだ。

 役員の仕事は本来、見込みのある社員を採用し、人財を育てることにある。

 だが実際には業績が上がれば自分の手柄、そして失敗は部下のせいにする輩が多いのが実態だった。

 それが役員の処世術でもある。

 そんな奴はいずれ自滅してゆく。リーダーとしての資質に欠けるからだ。

 最後には会社から、世の中から見捨てられてしまう。


 30年前、社長の岩倉と俺で始めた小さな住宅会社も、今では全国の主要都市に支店を持つ、社員、500人は下らない年商300億の会社に成長していた。


 社長の岩倉は現場を、そして俺は営業を支えてここまでやって来た。

 会社の規模が大きくなるにつれ、それなりに派閥も生まれた。

 俺を担ぐ奴、専務の吉田を担ごうとする奴、割合からすれば7対3と言ったところだろう。

 今度の社長の突然の引退で、吉田は次期社長の椅子を狙っていた。

 だがそんなことに俺は興味が無かった。

 社長の岩倉が辞める時が俺の引き際だと思っていたからだ。

 社長になるには「運」が必要だ。野球の監督と同じで、名選手が必ずしも良い監督になるとは限らないのと似ている。なぜならビジネスの世界にも、野球の試合と同じように予測不能なピンチが必ず襲って来るからだ。

 それはちっぽけな実力では乗り越えられない。実力よりも「運」が大切なのだ。

 吉田には運がない。あるのは野心だけだ。


 専務の吉田が色々と画策していると祥子は心配していた。


 「次期社長には杉田副社長がなって下さいね」

 「いやだよ社長なんて、俺の柄じゃねえ。俺は「副」のままでいいよ、面倒臭えし。

 そうだ!祥子、お前が社長やれ。その方がこの会社がずっと良くなる」


 それは決して冗談で言ったわけではない。

 もちろん祥子はそんなことを望む女ではなかった。


 「吉田専務では会社がなくなります」




 クルマは銀座の店に到着した。


 「副社長、お帰りの際はご連絡をいただければお迎えに上がります」

 「今日は大丈夫だ。遅くなるから帰っていいよ」


 俺は1万円を助手席に置いた。


 「副社長、先日も頂戴いたしました。

 これが私の仕事ですのでお気遣いなく。

 これはいただく訳には参りません」


 角田はそれを固辞した。

 角田はそういう男だった。


 「お前にやるんじゃない、孫の沙也加ちゃんに何か買ってやれ。いつもすまんな」

 「副社長・・・。こちらこそいつもありがとうございます」


 角田は素早くクルマを降りると、いつものように俺のドアを開けてくれた。


 「お気を付けて」


 角田は深々と頭を下げた。

 角田も俺を守ってくれている、誠実な戦友だった。


 

 銀座の並木にあるクラブ『紅の月』は、店内をエルメスレッドに統一した銀座らしい高級店だった。

 チイママの芳恵がすぐにやって来た。


 「こんばんは、ダーリン。随分とお久しぶりね?」


 芳恵は俺を奥のボックス席へと案内した。

 そこが俺と芳恵のいつもの定位置だった。


 芳恵はヘネシーをゆっくりグラスへ注ぎ、私に渡してくれた。


 「ご無沙汰だったわね? どこの子猫ちゃんとお戯れだったのかしら?」

 「仕事だよ、仕事。これでも結構忙しいんだぜ」

 「最近ではベッドでメス猫を可愛がることも「お仕事」って言うようになったのかしら?」

 「馬鹿を言え、勘違いするな」

 「今日は私も可愛がってね? ダーリン? うふふっ」


 芳恵は妖艶な潤んだ瞳で俺を見詰め、俺の腿に手を置いた。


 芳恵は銀座では名の知られた女だった。

 芳恵目当てにこの店にやって来る客も多い。

 だが決して芳恵は八方美人ではない。

 どんなに金を積んでも嫌いな奴は袖にした。


 早稲田の法学部を出て四か国語を操り、法律はもちろん、政治、経済にも精通している。

 中学までは父親の仕事でNYで過ごした帰国子女でもあった。



  

 その夜、久しぶりに芳恵を抱いた。


 「あっ、あ、あ、うん、あっ・・・」


 俺は芳恵の小さな胸が気に入っていた。

 ピンと立った乳首を俺は強く吸った。


 「うーん、それ、好き・・・」


 のけ反る芳恵。私はその行為を続けた。


 女は嫌いではないが、この歳になると性欲よりも気の合う女と一緒にいることの方が楽しかった。

 ただ性欲を満たすだけの行為より、一緒にいることで気持ちが安らぐ女といることが幸福だった。

 SEXはその一部に過ぎない。男を本当に癒してくれる女は意外と少ないものだ。

 芳恵は数少ない「癒しのある女」だった。



 芳恵との1ラウンドが終わり、俺はタバコに火を点けた。


 「そろそろ自分の店が持ちたい頃だろう?」

 「別に・・・。この仕事、好きじゃないし」

 

 芳恵は私からタバコを取りあげて吸った。

 そして優雅に煙を吐くと、


 「このままでいいの。杉田さんの愛人のひとりで」

 「欲のない奴だな?」

 「そうかしら? 私は欲深だと思うけど」


 やはり芳恵はいい女だと思った。

 彼女は常に自分を第三者として冷静に俯瞰していた。

 それは並みの女には出来ない芸当だった。


 

 「今日は朝から会議なんだ。今度、メシでも食いに行こう」

 「あんまり無理しないでね」

 「ああ、ありがとう芳恵」


 俺は芳恵にキスをしてベッドを降りた。



 シティホテルのエレベーターを降りて外へ出ると、東の空が白みかけていた。


第3話 役員会議

 「それでは、先ほど吉田専務からご説明がありました、営業支援システム導入の件についてのご意見、ご質問のある方はお願いします」



 その日の役員会議には張り詰めた緊張感が漂っていた。

 それは岩倉社長の退任に伴う次期社長について、社長の岩倉からなんらかの話があると思われていたからだった。

 それゆえ専務の吉田の話には皆、関心が及ばなかった。



 「では、ご意見、ご質問が無いようですので次の議題に移ります。かねてより懸案事項でござい・・・」

 「ちょっと待て」

 「はい、杉田副社長」

 「意見がねえなんて誰も言っちゃいねえぞ、ただ黙って考えていただけだ。何をそんなに先を急ぐ必要がある?

 そのなんちゃらシステムとやらには一体いくらかかるんだ?」

 「1億2千万円ほどです」


 吉田が苦々しく答えた。

 すると吉田の腰巾着の西村システム部長がそれを擁護した。


 「杉田副社長、これだけのシステムはとてもこの金額では導入出来る物ではありません。

 吉田専務が粘り強く先方と交渉してこの金額が実現したわけです。

 他の業者にも同じシステムで見積りをさせましたが、2億以上の提示が殆どでした。

 このシステムは非常に素晴らしい物です。私は妥当な金額だと思いますが」


 俺は西村を無視して話を続けた。


 「このシステムが営業を支援する? しかも1億2千万円も掛けて?

 おまえら馬鹿か?

 こんなの営業支援じゃなくて、営業妨害システムなんだよ! ふざけるのもいい加減にしろ!

 GPSで今、営業マンがどこで何をしているかって知ってどうすんだよ?

 そんなの知って何になる? ただパソコンの前に座って「おまえ、仕事もしないで喫茶店に入って珈琲なんか飲んで漫画読んでんじゃねえ!」って言うのに1億2千万円も出すアホが何処にいる!

 そしてこの膨大なデータの入力をいったい誰がやるんだよ!

 ただでさえ忙しい営業の連中に、これをやらせるのか?

 そんな暇があるなら、1件でも多くアポを取ることに集中させるべきだ! 営業はシステムじゃねえ! 足で稼ぐんだよ! 足で!

 営業の仕事はな、時間から時間までじゃねえんだ! 労働基準法のまま仕事してメシなんか食えるかバカ!

 営業は年中無休、24時間営業なんだよ!

 コンビニと同じだ、お客さんから呼ばれたらすっ飛んで行く、それが出来なきゃ住宅営業マンは務まらねえ!

 もっとラクな仕事に転職するべきなんだよ!

 営業はルーティンワークじゃねえんだ! 考える時間と行動する時間が必要なんだよ!

 そして考える時間が8割。現に俺はそうやって実績を上げて来た。

 喫茶店で漫画読みながら仕事のヒントを探すのは、寧ろ必要なことだ!

 住宅営業は八百屋じゃねえ! 今日はキャベツが10個、ニンジンが60本、バナナが8房売れましたじゃねえんだ! ゼロか100かなんだよ!

 そして客単価は数千万円だ。つまり、現場1つ1つが会社なんだよ! 

 こんなのは営業支援という名の営業マンのただの監視システムだ!

 こんなことを考えるのはウチの営業マンを信頼していない、アホな管理職のやることだ!

 1億2千万ものカネを稼ぐのに、住宅を何戸売ればいいと思う? 簡単に言うんじゃねえ!

 そのカネは誰が稼いで来るんだよ!

 ウチの営業マンたちは日本一の住宅営業マンたちだと俺は思っている。

 毎年の完工高は前年対比10%増。これに何の不満がある?

 そんなカネがあるなら、営業マンに臨時ボーナスとしてくれてやった方がよっぽど働くぜ、あいつら。

 吉田も西村も営業やってみろよ、おまえらみたいなバカ面じゃあ1棟も売れねえから。

 吉田! 西村! 本末転倒なんだよお前ら!」


 会議室には重い空気が流れた。


 「お言葉ですが杉田副社長、これは営業マンの営業効率を上げるための物なんです。

 営業マンの行動を分析して無駄を省く。

 そして業績を上げている営業マンの行動をみんなで共有することにより、それをベンチマークしてセルフコーチングをしようという物なんです。

 単なる思い付きではありません。

 業績を上げ、早く仕事を終えれば自分や家族との時間が増える、それが悪いとは私は思いません」


 吉田が反論した。


 「効率を上げる? 流石は吉田専務、ウチのメインバンクから出向して来ただけはある。

 そもそも効率ってなんだ? 無駄って悪い事なのか?

 俺たちは人間相手に商売をしてんだ! 勘違いするな!

 工務部の島田、家づくりとは何だ! 言ってみろ!」

 「はい、優れたデザインと快適な居住性能、そして安全性を兼ね備えた家を造ることです」

 「65点。それはどこのポンコツ住宅屋でもやっていることだ。どこもお粗末だがな?

 ウチの会社は違う、お客さんの家族のしあわせを育む家を造っているんだ。

 吉田専務、金八先生って見てたことあるか?

 俺たちは機械や腐ったミカンを作ってんじゃねえ! お客さんの夢のマイホームを心を込めてそのお手伝いをする営業マンを育てているんだ! それを忘れんな!」


 それを見かねた社長の岩倉が助け舟を出した。


 「まあ、それについてはもう少し検討しようじゃないか?

 時間も時間だし、今日はこれでお開きとしよう。

 副社長、後で社長室に来てくれ」

 「わかりました」


 役員たちはホッとして会議室を出て行った。

 専務の吉田を除いて。


 役員たちの前で恥をかかされた吉田は、俺に敵意を剥き出しにしていた。

 ごろつきの経営コンサルタントじゃあるまいに、現場の苦労も知らず、上辺だけのデータで机上の空論を語る、そんな吉田に俺は呆れた。


 「吉田、俺たち住宅屋は銀行じゃねえんだ。人のカネを元手に利鞘を稼ぐ、背広を着たヤクザじゃねえんだよ。

 晴れの日に傘を無理矢理押し付け、雨が降って来ると貸した傘を取り上げる。

 家はな? みんなが汗水垂らして築き上げた物を売る商売なんだ。

 口惜しければお前も家1件、まずは売ってみることだな? 話はそれからだ」


 吉田は無言のまま、会議室を出て行った。


第4話 岩倉の想い

 社長室に入ると、社長の岩倉は手を後ろ手に組んで立ち、窓の外を眺めていた。


 九段下の濠には昼の日射しが揺れ、煌めいていた。

 私も岩倉の隣に立った。



 「お前とふたりで始めたこの会社も、ここまでにすることが出来た。礼を言うよ杉田、よく頑張ってくれた。ありがとう」


 私も岩倉を見ずに、同じように濠を見詰めたまま言った。


 「土砂降りの雨の中、雨合羽を着てスーパーカブをふたり乗りして、1件1件チラシを配りましたよね?

 あの頃はカネも無く、安い焼鳥屋で岩倉さんと生ビールを1つだけ注文して、交互に飲みました。一本の焼鳥を分け合って。

 それが今では銀座でお姉ちゃんと酒が飲めるようになりました。

 礼を言わなければいけないのは、俺の方です」


 私たちはソファに移動した。


 「お前も知っての通り、俺は今期で引退することにした。

 俺が引退したら、会社はお前に渡すつもりだった。

 俺とお前で作った会社だからな?」

 「岩倉さんが社長を辞める時が、私の辞める時だと思っています。

 私たちは一心同体ですから。

 海の見えるところに家を建てて、釣りをしたり畑を耕したりしますよ、のんびりとした老後を送るつもりです」

 「そんな生活、お前には似合わないよ。悪いがそれはもう少し先にしてくれ」

 「岩倉さんのいない会社に、俺がいる意味はないですよ。

 老兵、去るのみです」

 「お前がいないとこの会社はなくなってしまう。杉田、この会社を守ってくれ」

 「社長になりたい奴なんていくらでもいますよ」

 「なりたい奴はいても、任せたい奴はいないよ」


 確かに岩倉の言う通り、将来の社長候補にしたい人材はいるにはいるが、まだ修羅場を経験してはいない。もっとそいつらを鍛える必要はあった。

 せめてあと10年は経験を積ませてやりたいのは事実だった。

 


 「実はな? 俺は末期の膵臓がんなんだ。

 だからすまん、次の人間が育つまで、お前に社長を引き継いでもらいたい」

 「膵臓がん?」

 「ああ、もう手遅れだそうだ」

 「・・・残念です」

 「なーに、未練はないよ。

 俺は十分しあわせな人生だった。感謝しているよ、杉田」


 俺には返す言葉が見つからなかった。

 社長とはあまりにも思い出が多すぎた。


 「岩倉さん、昼飯に『山岡』の鰻を食いに行きましょうよ」

 「どうせ死ぬんだからな? 旨い物でも食って、旨い酒でも飲むか?」

 「はい、たまにはどうです? そして銀座にでも行きましょうよ?」

 「そうだな? 午後は予定をお互いキャンセルして、昔話に花を咲かせるとするか?」

 「社長、酒は駄目でしたね? 膵臓だから。酒は社長の代わりに俺が飲みますから。社長はウーロン茶で。あはははは」

 「そうだな・・・」


 俺と岩倉は笑った。

 泣きながら笑った。


第5話 もうひとつの家族

 それは俺が駅で電車を待っている時の出来事だった。

 高校生らしき女の子と母親が、顔を見合わせて頷き合っていた。


 (心中?)


 俺は悟られないように気配を消して、その母娘の後ろに立った。


 快速電車がホームを通過しようとした時、その親子が手を繋いで電車に飛び込もうとした。

 俺は咄嗟にその母親の腕を掴んだ。


 「何をするんですか! 離して! お願い死なせて!」


 電車は何事も無くホームを走り抜け、風と電車の音だけが残った。

 抱き合い、泣き崩れる娘と母親。


 「どうして助けたんですかあ! あなたには関係ない事でしょう!」

 「目の前で死なれるのを見るこっちの気持ちにもなれよ」

 「だったら見なければいいじゃないですか! 辛い目に遭っている人を見て見ぬふりをする、それが世の中でしょう!」

 「そんなに死にたいなら死体もあがらない、人に迷惑の掛からないところで「ひとり」で死ねよ。富士の樹海とかで。

 あんたが死ぬのは勝手だが、こんな可愛いアイドルみたいな娘まで道連れにすんなよバカ親。

 自分だけが不幸だなんて思ってんじゃねえ! 甘えるな!

 いいか! 生きたくても死んでしまう人間だっているんだ!」


 私は社長の岩倉のことを思い出し、ついムキになってしまった。

 

 「・・・もう、限界なんです。私たち・・・」

 「説教するつもりはねえが、「死ぬより辛いことはない」なんてほざく奴らは死のうとしたことがない連中だ。

 この社会には死ぬより辛いことなんか山ほどある。

 人間の悩みの殆どはカネだ。

 カネがないと生きてはいけないからだ。

 働きたくても働くところがない、あるいはそこでは働きたくない。

 いっそ死んでラクになりたい、この苦しみから解放されたい。

 でもよ、カネの為に大切な人生を捨ててもいいのか?」

 「そんなのキレイ事ですよ。もう誰も頼れないんです。私たち親子は」

 「誰も頼れない? じゃあ俺を頼ればいい」


 俺は財布にあった10万円を母親に握らせ、名刺を渡した。


 「今日はこれで旨い物でも食ってビジネスホテルにでも泊まってゆっくり頭を冷やせ。

 そして明日、九段下のウチの会社に来い。

 仕事と家、そして給料の前借りをさせてやる。いいな?」


 母親と娘は泣いていた。


 「このお金は必ずお返しします。ありがとうございました」

 

 電車がやって来たので俺はその電車に乗った。

 その親子はいつまでも深く頭を下げ、俺を見送っていた。




 翌日、その女が俺を訪ねて来た。

 秘書の田子倉も同席させた。



 「昨日はありがとうございました。娘もとても感謝しておりました。

 一生懸命働きます、何でもします。せっかく副社長さんに頂いたチャンスですから。

 御恩は必ずお返しします」

 「チャンスはな?「チェンジ」なんだよ。自分が変わることなんだ。

 田子倉、この女がさっき俺が話した女だ。面倒を看てやってくれ」

 「かしこまりました」

 「こちらが履歴書になります」


 沢村直子。俺はその女の履歴書を見て驚いた。

 

 「一橋なのか? あんたが出た大学って? すげえじゃねえか?」

 「昔の事です」

 「ご主人とは死別なのか?」

 「はい。会社を経営しておりましたが、事業に失敗しまして・・・。

 自ら・・・」

 「そうだったのか。会社経営なんて本当にクズでどうしようもない奴でも偉そうに金儲けしているが、能力も人望もあっても失敗する奴は失敗する。

 結局、社長に向いているかいないかだけなんだよ。

 過去は忘れろ、これからの人生を明るくイメージするんだ。

 辛いことは考えず、楽しいこと、ワクワクすることだけを考えろ。

 人はな、「我思う 故に我あり」なんだ。人間は自分が思った通りの人間になる。

 「私はダメな女」だと思えばダメな女になるし、「私はいい女」だと思えばいい女になる。

 そして笑え。

 沢村、笑ってみろ」


 すると、意を決したように直子は笑ってみせた。

 ぎこちない笑顔だった。


 「いい笑顔じゃねえか? お前はもう大丈夫だ。

 人生は願えば必ず叶うもんだ。だがそれには注意が必要だ。それはマイナスも実現されてしまうからだ。

 例えばあんたが「失敗したらどうしよう」と考えれば、その思いの通りに失敗をする。

 だからいつも成功をイメージしろ、そして笑え。

 楽しいから笑うんじゃない、笑うから楽しくなるんだ。

 遥ちゃんにもそう伝えろ、オッサンがそう言っていたとな?

 空海の真言密教の教えに『三密』という教えがある。


      身ぎれいにすること

      心をきれいにすること

      そしてきれいな言葉で話すこと



 それが大切だ。

 あんたなら出来る。

 アパートは会社で借り上げてやるからそこを使え。

 取り敢えず100万を貸してやる、給料から毎月1万円ずつ返済しろ。

 あとは困ったことがあれば、いつでも俺か、この秘書の田子倉に相談しろ」

 「ありがとうございます」

 「じゃあ明日、9時までに会社に来て田子倉の指示に従え」

 「はい、よろしくお願いします」



 直子が俺の部屋を出て行った後、祥子が言った。

 

 「副社長」

 「うん?」

 「綺麗な人ですね? しかも一橋」

 「何が言いたい?」

 「別に。自殺しようとしていた人を助けるなんて、副社長らしいなあと思っただけです」

 「妬いてんのか?」

 「まさか。ただ心配なだけです。これ以上、帰るお家を増やしてどうするおつもりなのかと」

 「馬鹿野郎、心配すんな。俺はそんなにアホじゃねえ」




 そしてそれから三カ月、俺は祥子の予言通り「アホ」になっていた。

 直子と遥と家族のように親しくなっていた。

 


第6話 一夫多妻

  週の半分は直子たち母子と一緒に過ごすようになっていた。


 「遥、お前の好きな和栗のモンブラン、買って来たぞ」

 「わあー、ありがとうございます杉田さん!

 ママーっ、杉田さんからモンブランもらっちゃった。和栗の高いやつだよ」

 「良かったわね? いつもすみません。お風呂が先ですよね?」

 「ああ、ひとっ風呂浴びてくるか?」

 「杉田さん、背中、流してあげようか?」

 「遠慮しておくよ、俺はロリコンじゃねえからな」

 「杉田さんとなら一緒のお風呂でも大丈夫だよ」

 「ありがとう、気持ちだけ貰っておくよ」


 最近になって、ようやく遥も笑えるようになった。遥は俺の娘以上に俺を慕ってくれていた。



 脱衣場に行くと、柔軟剤の良く効いたタオルと下着が用意されていた。

 家に帰る時にはもちろん、本宅での下着にまた着替える。

 それが女房へのマナーだからだ。



 「ああ、さっぱりしたー。

 おお、今日は春巻と酢豚か? ビールに合うな?」

 「熱いうちにどうぞ」

 「ママ、私、お風呂入ってくるね?」

 「シャンプー、新しいの出しておいたから、そっちを使うのよ」

 「うん、わかったー。

 じゃあ杉田さん、ごゆっくり」


 いつも遙は俺たちだけにしようと気を遣ってくれた。


 「遥、大学には行けよ、カネのことなら心配すんな。

 出世払いで俺が貸してやるから」

 「ありがとうございます。でも大丈夫です。

 高校を卒業したら私も働きますから。

 ママにばっかり負担を掛けたくないので」

 「何もくれてやるわけじゃねえ。先行投資だよ。

 遥が大学を出て、女子アナにでもなったら返してもらうよ。

 お前は賢い子だ。母親想いだしな?

 大学に行くことでいろんな奴との出会いがある。様々な考えを持った人間との出会いは必ず自分を成長させてくれる糧になるはずだ。

 それだけでも大学に行く価値はある」

 「ありがとうございます。じゃあ、お風呂、入って来ますね?」


 遙は洗面所に入って行った。


 「副社長、ご心配していただいてすみません」

 「その副社長って言うの止めろよ。会社じゃねえんだから」

 「そうでしたね、つい・・・」

 「何か困ったことはないか?」

 「何もありません、お陰様で今、十分しあわせです」

 「そうか? 会社でも良くやってくれているようだしな? 田子倉も褒めていたぞ、仕事が早くて正確だって」

 「田子倉さんには敵いませんよ」

 

 直子は俺にビールを注いでくれた。


 「俺がここに来て、迷惑じゃねえか?」

 「とんでもありません。ただ・・・」

 「ただ女房に悪いか?」


 直子は黙って頷いた。


 「日本は一夫多妻制じゃねえからな? 直子は嫌か? そんなの?」

 「杉田さんとこうしていられるだけで私は満足です」

 「そうか? ならそれでいいじゃねえか」


 俺は春巻に塩コショウを付けて食べた。


 「旨いなこれ!」

 「ありがとうございます。中の具材は残り物ですけどね」

 「お前も飲めよ」

 「頂戴します」


 グラスを口に運ぶ仕草が色っぽい。

 それは直子の知性と教養に裏打ちされた物だった。

 

 「俺って病気なんだろうな? 惚れ易い病。

 いい女を見るとすぐに手を出しちまう。

 病気だよ病気」

 「杉田さんはやさしいんだと思います。困っている人、寂しい人を放っておけないんだと思います。

 私も同じ病気です。杉田さんに惚れてしまった病です」

 

 俺はタバコに火を点けた。


 「これって不倫だもんな? 俺には家族がいるから。

 嫌な言葉だよ、「不倫」は。「倫理に非ず」だぜ?

 誰が付けたんだろうな? そんな言葉。

 浮気なら笑えるが、不倫には暗くて冷たい穢れを感じてしまう。

 なあ直子、なんで同時に何人もの女を愛しちゃいけねえのかなあ?」

 「男の人の気持ちはわかりませんが、女からすれば、愛した男性は自分だけのものでいて欲しいと思います。私は杉田さんの最後の愛人になりたい」

 「いいのか? 愛人で?」

 「私の身勝手ですけど、私はこのままがいいです。それ以上は望みません」


 直子は私への恩を感じ、色んな形でそれを返そうとしているのも確かだが、私たちの関係は次第に深まっているのも確かだった。


 「どうして男と女は1対1じゃねえとダメなんだろうな?

 飯を食べて話をしたりするのは良くても、裸で抱き合っちゃダメだなんておかしくねえか?

 キリスト教では性的な対象として「見るだけ」でも「汝、姦淫するなかれ」だもんな。

 いい女を見たら「やりてえ」って思うのはおかしいのか? 変態なのか?

 沢山の女を好きだって思うのはいけねえことなのか?

 生涯に抱いていい、愛していい女はひとりだけなのか?

 人生100年といわれている今、仮に50歳で死別した夫婦は、残りの50年を死んだ相手を偲んで半世紀を孤独に耐えて生きることが美徳なのか?」

 「別にそういうことではないと思います。

 フリーになれば、恋愛をしてもいいと思います。

 離婚する人もめずらしくはないですから、新たなパートナーを見つけることは悪いことではないと思います」

 「そもそも結婚に拘る意味ってあるのか? この夫はこの妻は「私の物だから手を出すなよ」ってことだろう?

 じゃあイスラムはどうだ? 一夫多妻を認めているじゃねえか?

 俺は日本もそうならねえかなあって思うんだ。一夫多妻、一妻多夫にな。

 だってそうすれば、あの下劣な「不倫」という言葉がなくなるんだぜ。

 そしてたくさんの愛が生まれる。

 誰の物とか、俺の物とかじゃなくて、自分自身の感情に正直に生きてなぜ悪い?

 愛を共有しちゃ悪いのか?

 ただし、そこに愛があることが前提だけどな?

 ただやりてえ奴は風俗にでも行けばいい。

 俺が言ってんのっておかしい考えか?」

 「私にはわかりません。

 でもわかっているのは、そんなあなたが好きだという事です。

 たとえ奥さんやご家族がいても」


 結局、家族における夫や父親の役割というものは、ある年齢を過ぎてしまうとそこに存在しているだけでいいという事実がある。

 父親として、旦那としてそこに常駐していなくても、存在さえしていればそれでいいのだ。

 つまり、必要な時に頼りになればそれでいい。

 そして経済的な支えであることだ。


 子供の虐待も、離婚によるシングルマザーの問題も解消されるのではないだろうか?

 経済力のある者がその人たちを支える。

 それは恥ずべきことなのだろうか?


 もちろん問題はある。

 甲斐性のない男は家族が持てず、カネのある奴だけしか家族を持てなくなるかもしれない。

 実際、イスラム教の国を訪れると、女をあまり見かけないのも事実だ。

 大富豪や貴族、王様たちが女を独り占めしているからだ。


 サウジアラビアに行った時、街には男同士が手を繋いで歩いているのをよく見かけた。

 女が少ないから、男同士で付き合うしかないのだろう。


 守ってやりたい女は、ひとりずつでなければいけないのだろうか?


 

 遥が風呂から上がってきた。


 「ママ、今日は三人で寝てもいい?」

 「別にいいけど」

 「いいのか? こんなおじさんといっしょで?」

 「はい。ダメですか?」

 「駄目なわけねえじゃねえか?」



 その夜、俺を真ん中にして、俺たちは布団を並べて寝ることにした。

 俺たちは布団に入って、三人で手を繋いでいた。


 「杉田さんの手って大きくて温かい」

 「そうか?」

 「パパ、おやすみなさい」


 直子は遥の話を聞いて、私の手を強く握った。


第7話 社長になる覚悟

 「社長就任の話、お受けになるんですよね?」

 「なあ祥子、こんな出鱈目な俺に社長が務まると思うか? だってだぞ、社長になったら真面目にならなきゃならねえ、そんなの俺には無理だ。

 俺は気楽に暮らしてえからな?」

 「いつもの副社長のままでいいんですよ。雑用は私がやりますから。

 それが会社の為です」

 「祥子、いい家を作るにはどうすればいいと思う?」

 「女性の目線で家を作ることです」

 「その通り。女が主役の家を作ることだ。

 家に長くいるのは女だからな?

 そして女は家が好きだ。

 そんなコンセプトの会社はどこにでもあるが、本当に女の目線で家を作っている会社は殆どない。

 なぜだかわかるか?」

 「女性の立場でそれを理解し、提案出来る人材がいないからです」

 「一級建築士の登録者数は37万人、二級建築士は77万人もいる。

 100万人以上の建築士がいても、日本の建物はこんなにお粗末だ。夢がない。

 それはそいつらの勉強不足と感性の乏しさ、そして家事が出来ない、しないことにある。

 掃除や洗濯、子供のオムツ替えに親の介護。メシも炊いた事がない奴に家が作れるか? 人が住む家だぞ? 楽しく生きることに興味のない奴にそんな家づくりが出来るわけがねえ。

 家は女が主役であり、女の夢だ。

 そして家庭というものは女房で決まる。

 女房がいつも楽しそうに笑っている家にはおかしな旦那も、ヘンな子供も犬猫もいねえ。

 それには奥さんが満足する家が必要なんだ。

 35年間、420回も払い続ける住宅ローン。自分に生命保険まで掛けさせられて作る家だ。

 俺は住宅屋はランジェリーメーカーと同じだと思う。

 女のパンツやブラジャーを、童貞やタバコ臭いキモイおっさんが考えているようなもんだぜ。

 家を建てるのはそいつらでいいが、家を考えて図面を引くのは本来女がやるべきなんだ。

 ただし、家事が出来て美意識の高い女。

 そして自分の考えた家を「物件」と呼ばずに「作品」としての誇りを持ち、「もっといい家を」と常に高見を目指す女の建築士やデザイナーたちに任せるべきなんだ。

 だから祥子、そのトップにはお前みたいな女がやるべきなんだよ」

 「私には建築の知識がありません。私の仕事は副社長のお仕事をやりやすくすることです。そうすればいいお家がたくさん出来て、日本が明るく平和な国になりますから」

 「どうして?」

 「だって副社長は考え方が女ですもの。

 外見はスケベなオッサンですけど」

 「俺は欲深で嫉妬深くて人から褒められんのが大好きだからなあ。あはははは」

 「うふっ。副社長、ですから社長になって下さいね? そして私を社長秘書にして下さい。

 私は嫌ですからね? 「副」なんて付くの」

 「馬鹿だなあ、副がいちばんラクなんだぞ、責任もねえし、カネはもらえるしな?」

 「私は何でもいいんです。でも私の尊敬する人が「副」だなんて許せないだけです。

 杉田さんは「副」ではなく、杉田社長になるべきです。

 杉田さんの他にこの会社に社長になれる適任者はおりません」

 「お前はヘンな女だな?」


 事実、有能な田子倉にとって今の仕事は少し役不足であるのも確かだった。

 もっと祥子を磨いてやりたい。輝かせてやりたいとは思う。


 「社員を家畜や奴隷のように扱うアホな役員は多い。

 誰のお陰でベンツに乗って、キャバクラのねえちゃんのケツを触れると思ってんだろうな?

 『ダモクレスの剣』って話、知ってるか?」

 「ディオニュシオス1世が王位を継承した時の宴席で、廷臣のダモクレスがそれを讃えた時、抜き身の大剣を馬のしっぽの毛1本で吊るした椅子の下に彼を座らせ、王になるとはこういうことだと諭したというギリシャ神話ですよね?」

 「そうだ。それを知らないやつらだよ、社長になりたいなんて寝言をほざく奴らは。

 あの専務の吉田も同じだ」

 「あの人は社長の器ではありません。

 社長になりたいだけで、社長になって何をしたいかというヴィジョンがありません。

 色気がない男は好きじゃないんです、私」

 「俺にはあるのか? その色気とやらが?」

 「さあ、どうでしょう?

 女好きなのには間違いはありませんけど」

 「いいじゃねえか「英雄色を好む」だよ」

 「副社長は英雄です。それは間違いないですよ、お世辞ではなく、この会社の創業者ですから」

 「英雄か・・・」


 

 その時、ドアをノックする音が聞こえた。


 「入れ」


 営業部長の森下だった。


 「副社長、今、よろしいですか?」

 「おお、どうした?」

 「専務たちが導入しようとしている営業支援システムの件です」

 「では、私はこれで」

 「悪いがコーヒーを2つ頼む」

 「かしこまりました」


 森下は俺の腹心の部下だ。

 ゆくゆくはこの森下に俺も社長の岩倉も会社を任せるつもりでいる。


 「絶対に阻止して下さい。よろしくお願いします」

 「心配すんな、俺がいるうちはあいつらの好きにはさせねえよ。

 営業をしたことがねえやつらが、営業に口出しをするから会社がおかしくなる。

 会社なんて家族みてえなもんだ。

 うるせえ母ちゃんがいて、頑固な親父がいて、優しい姉ちゃんに自分を慕う弟や妹がいる。

 その中で一緒に成長していくんじゃねえのか? 会社ってところはよ?」

 「仰る通りです。だから家族のことを何も知らない叔父さんたちに、私たち家族のことに口を出してもらいたくはないんです」

 「だいたい営業マンを管理しようというのが気に入らねえ。

 俺はな、営業なんて会社に来なくてもいいとすら思っているんだ。お前も知ってのとおり、俺がそうだったからな? 住宅の営業マンは年中無休の24時間営業だ。ノルマを与えられなければ働けないような奴には、営業する資格がねえ。

 自分ではちょっと難しいかもしれない目標を自分に課し、その目標達成のために努力する。

 そこに進歩がある。営業マンとしても人間としてもだ。

 いいじゃねえか? パチンコしようが映画を観ようがお姉ちゃんとイチャイチャしようがどうでもいい。

 住宅の営業マンはひとりひとりが経営者なんだ。

 時間から時間までの仕事じゃメシは食えねえ。

 なぜならお客さんは悩むからだ。24時間常に悩んでいる。

 だから住宅営業マンには「ホスピタリティ」が必要なんだ。

 呼ばれたらすぐに駆け付ける。

 食事をしていても、子供の誕生パーティーをしていてもだ。

 森下、お客さんとはなんだ?」

 「家族です」

 「その通りだ。営業支援システムだ? ふざけんじゃねえっていうんだよ、あんなの」

 「副社長」

 「なんだ?」

 「社長になって下さい」

 「お前がやれよ、俺は銀座で飲んだくれているから」


 

 そこへ田子倉が珈琲を持って部屋に入って来た。


 「珈琲をお持ちしました。

 最高のブルーマウンテンですよ、わが社のバリスタ、この田子倉が心を込めて淹れましたから」


 俺たちは笑った。まるで家族のように。


 こんな有能で思い遣りのある社員に俺は守られている。

 こいつら「大切な家族」を俺は守らなければならない。俺は覚悟を決めた。



第8話 アフタヌーンティー

 おそらくは歳のせいだろう。

 柄にもなくセンチメンタルになるのは。

 俺は会社の自分のキャビンでサザンを聴いていた。


『海』『栞のテーマ』そして『いとしのエリー』


 寒冷前線の通過なのか、横殴りの雨に千鳥ヶ淵の桜の枝が揺れている。

 もうすぐ風向きが変わるはずだ。


 花見の季節はとうに過ぎて、この都会のオアシスにも新緑の季節を迎えていた。

 俺はどこに青春を置き忘れて来たのだろう?


 俺がいろんな女と付き合うのは、自分の見失った青春の煌めきを取り戻そうとしているからなのだろうか?

 俺は青春を全力で駆け抜けた。

 振り返るとそこに青春の残骸がある。

 大人でも子供でもない、センシティブなあの頃。

 男子校だったということもあり、恋愛には縁がなかった。


 そんな曖昧で脆弱な時期に、甘くてほろ苦い、ビター・チョコレートのような恋をして傷付き、傷付けて思い悩みながら人は大人になってゆく。

 桑田佳祐の唄にはそれが巧みに表現されている。

 ブルースのような彼独自の世界が広がっていた。


 暴風雨とサザン。

 俺の心は沈んでいた。

 社長になるということは「痛みを伴う改革の断行をする」ということだ。

 俺は今まで社長の岩倉の経営方針に対して、助言を求められない限りは自らの意見を言うことはなかった。

 それは岩倉の経営判断を信頼しているのと、自分はあくまで女房役であるべきだと思っていたからだ。


 だが今度は俺が社長になるには外科的治療が必要になってくる。

 次の世代に会社の将来を託すために、俺は鬼にならなくてはならない。



 「副社長、サザンなんて珍しいですね? いつもは洋楽とか諏訪内晶子が多いのに。

 サザンと一緒にバウムクーヘンはいかがですか?」

 「そんな洒落たやつがあるなら、くれ」

 「先日、銀行の沢田支店長さんからいただいた物です。では、眠気が醒めるような苦いエスプレッソを淹れて来ますね? 甘いバウムクーヘンによく合うでしょうから」

 「田子倉、まさかアプリコットジャムなんてねえよな? オレンジマーマレードでもいいんだが」

 「ございます。どちらも。

 それではお飲み物はダージリンにいたしましょう。アプリコットジャムには相性がピッタリですから」

 「ホントにお前は女神だな? 銀座に店を出してやろうか?」

 「定年退職になったらお願いします。その前に寿退社かも。うふふっ」

 「その頃まで俺は生きてねえよ」

 「失礼じゃありませんか、副社長? 来月結婚するかもしれないじゃないですか?」

 「あの歳下イケメン君とか?」

 「彼は私と結婚したがっていますが、彼はただのペットです。

 結婚相手には到底及びません。役不足です。

 アプリコットジャムはそのままバウムクーヘンにおかけしますかか? それとも別にお持ちしましょうか?」

 「別々に頼む、瓶ごとくれ」

 「かしこまりました。副社長、私もご相伴させていただいてもよろしいですか?」

 「ひとりで食っても旨かねえよ」



 秘書の田子倉はいつも俺が何を考え、どうしたいのか、何をして欲しいのか、あるいは何をどうしようとしているのかを推察し、先回りをして準備してくれていた。

 だから俺は相手との交渉に専念出来る。

 すべて祥子のお陰だった。



 祥子の紅茶の淹れ方は完璧だった。

 これだけでも祥子がこの会社にいる価値は十分にある。

 ひと昔前には「お茶汲みOL」なんて言葉もあったが、本当のお茶が出せる優秀な女子社員は極めて少ない。

 客は誰でどんな目的で来社したか? それによって出す飲物の種類や温度を考えなければならない。センスが要求される。しかも早く美味しく美しく提供しなければならない。

 それが商談の雰囲気を左右することもあるのだ。

 やり手のビジネスマンはそれによりその会社のレベルを測る。

 完璧なお茶出しが出来る社員は仕事にもそつがない。マルチな社員だと言える。


 おそらく祥子は軟水をガラス容器で沸騰させ、100℃になったら火を止めリーフを入れたはずだ。

 茶葉にはタンニンが含まれているから鉄と化合すると色も香りも悪くなる。

 祥子はそれを温めた英国陶器に移し、私の目の前でウエッジウッドのティーカップに注いでくれた。


 俺はアプリコットジャムのほのかな酸味とバウムクーヘンの甘さの残る口の中へ、マーロン・ブランドが飲むようにダージリンを飲んだ。


 「いかがです? 私の淹れた愛情たっぷりのダージリンのお味は?」

 「椿山荘のティールームの紅茶より旨いよ」

 「ありがとうございます」

 「でもなあ、こんな旨い紅茶を淹れられる田子倉は、残念ながら男をダメにする女だ」

 「どうしてですか?」

 「なんでも人の先回りをしちまうからだ。しかもぬかりなく。

 何も言わなくても何でも出て来る。何でもしてあるし、してくれる。

 すると普通の男は自分では何もしなくなってしまう。

 いや、出来なくなる。

 靴下を履くことも、ネクタイを自分で締めることさえもだ。

 つまりお前がいないと何も出来ない男になってしまう。

 付き合うなら年下はやめろよ、修羅場を潜って来た、ハンフリー・ボガードみたいな甘えさせてくれる男にしろ。そうじゃないとお前が苦労する」

 「それは副社長が本当の私をご存じないからですよ。私、今まで付き合ってきた男性はみんな年下ですから。

 しかも彼らはみんな出世しています。

 だって私が教育してあげたんですもの」

 「なるほど」

 「私、男性を見る目だけは確かですよ。

 副社長に副は似合いません。社長になって下さい。会社のために、私たち社員や取引業者さん、お客様のために」


 俺はそれには答えず紅茶を楽しんだ。

 

 「祥子、紅茶のお替りをくれ」

 「はい、少しお待ち下さい」


 雨も止み、西の空が明るくなって来た。

 どうやら前線は過ぎ去ったらしい。



第9話 粛清

 「杉田社長、本日のご予定は10時に横菱銀行新橋支店長、井上様ご来社。12時から同友会、美濃部会長と『紅宮』でご会食。15時より幹部研修。19時より・・・」

 「その社長っていうの、どうもまだ慣れねえなあ」

 「私にはこの方がしっくり来ますけど」

 「まあお前には「社長秘書」の方が合っているからな?」

 「ありがとうございます。では本日もよろしくお願いします」

 「田子倉、横山建材の社長がヘルニアで入院したらしい。メロンと見舞金を用意しておいてくれ」

 「メロンは冷蔵庫に用意してあります。お見舞金は1万円でよろしいですよね?」


 祥子は俺に赤いのし袋を渡した。


 「お前はすげえよ」

 「秘書ですから当然です。凄くて当たり前、凄くなければ社長の秘書なんて務まりません。

 お見舞に伺う時には冷蔵庫のメロンをお忘れなく」

 「忘れた時は俺とお前で食おうぜそのメロン、「半分こ」にして」

 「ではお忘れ下さい。千疋屋の高級メロンですから」

 「あはははは」

 

 

 社長になって2週間が過ぎようとしていた。


 社長になって変わったことは俺の座る椅子と、俺に対する相手の態度が変わったことだ。

 俺を知らない初対面の奴らは別として、今まで俺を社長の「おまけ」のように考えていた連中は、掌を返したようになる奴もいた。

 代表取締役の名前の持つ意味は重い。


 俺と社長の岩倉はいいバッテリーだった。

 俺がピッチャーで岩倉がキャッチャー。岩倉は常に俺が暴投しないようにいつも上手く俺をリードし、俺のどんなボールもしっかりと受け止めてくれた。

 俺は岩倉の指示だけにはいつも従った。

 岩倉の指示はいつもシンプルで的確だった。



 俺も岩倉も、自分の身内を会社へは入れなかった。

 会社は株主、顧客、業者や取引先、そして社員、つまり企業とは社会全体の公器だと俺たちは考えていたからだ。

 同族企業になれば、会社はいずれ腐っていく。

 会社は法人という人格を持った「人」なのだ。

 生まれて成長して大人になり、ピークを過ぎて老人となり、そしてやがて死んでゆく。


    盛者必衰 驕れる者も久しからず


 平家の栄華と滅亡。それと会社は同じだ。



 俺には社長としての大事な仕事が残っていた。

 

 「これから公認会計士の沢田と顧問弁護士の長田が来る。

 ふたりが揃ったら専務の吉田をここへ呼べ。

 そして社長室へは誰も通すな」

 「心得ました」

 「それからお茶もいらねえ。すぐに終わる話だからな?」

 「かしこまりました」


 祥子はそれ以上何も訊こうとしなかった。

 社長秘書として、これから始まる事は既に想定内のことだったからだ。


 スターリン、毛沢東、金日成。

 権力の座に就いた独裁者たちがそうして来たように、自分のやるべき改革を断行するためには邪魔なガン細胞は取り除いておく必要がある。

 俺は岩倉と作ったこの会社を守らなければならないのだ。



 公認会計士と顧問弁護士は、この舞台で演じるべき自分のセリフを頭の中で復唱しているようだった。

 主役の吉田がやって来た。


 「いったい何の騒ぎですか? 来客を待たせているので手短にお願いしますよ」


 俺は「今日は天気が良いですね?」というような口調で吉田に言った。


 「本日付けでお前を懲戒免職処分にする」

 「何ですか? いきなり! そんなことが認められるわけがない!

 株主や取締役会の承認は得たんですか! それにメインバンクの横菱だって黙っちゃいない!」

 「承認? そんなことをしたらおめえが困るんじゃねえのか? 

 俺たちは民事で済ませようとしているんだぜ?

 それとも刑事でもいくか? なあ、先生たちよ」

 

 公認会計士の沢田が口火を切った。


 「あなたは自分のペーパー会社に取引業者たちから様々な名目で賄賂を振り込ませていますね?

 しかもこのような古典的な手法で。

 そして更にあなたが指示したと思われる使途不明金が32,586,232円もあります。

 この件についてご説明下さい」

 「知らん! 言い掛かりだ!」


 会計士の沢田は調査報告書を吉田の前にゆっくりと置いた。


 「これが証拠です。ご覧下さい」


 みるみる吉田の顔から血の気が引いて行くのが分かる。


 そこへ弁護士の長田がトドメを刺した。


 「今回の営業支援システム導入計画に当たり、システム部長の西村さんと共謀し、業者から過剰な接待を受けていましたね?

 これらは横領背任に該当します。

 杉田社長に刑事告訴も進言いたしましたが、杉田社長はそれはしないと仰いました」

 「以上だ。解散」



 顧問弁護士と会計士が社長室を出て行き、その後に吉田が続いた。


 「吉田、横領した金は返さなくてもいいぞ。

 退職金としてお前にくれてやるよ」


 吉田は何も言わず、肩を落として部屋を出て行った。


 吉田が秘書の田子倉の前を通った時、田子倉は言った。


 「今までお疲れ様でした」


 吉田は祥子を睨みつけたが、何も言わずにそのまま去って行った。



 「祥子、人事部長の川島を呼べ」

 「かしこまりました」



 システム部長の西村には川島から処分をさせた。

 西村はその場で泣き崩れたという。


 粛清は終わった。



 田子倉がバーボンの入ったウィスキーグラスを持ってやって来た。


 「社長、お茶をお持ちしました」

 「最近のお茶は随分と洒落ているな?」

 「今日のお清めです」

 「祥子、お前はやっぱり銀座に店を出せよ」

 「考えておきます」


 祥子がいる限り、この会社も潰れることはあるまい。

 たとえ俺がいなくなったとしても。


 俺は一気に酒を呷った。


 「ご馳走さん」

 「お粗末様でした」



 今回、吉田や西村、そして奴らの派閥に属していた連中はすべて報復人事の対象とし、社内には適度な緊張感と安堵、そして活気を帯びて明るくなった。


 ひとつ、社長の仕事が終わった。


第二章

第1話 人妻 絹世

 携帯が鳴った。

 田代さんの奥さんからだった。


 「田代さんの奥さん、ご無沙汰しております。

 何かお住まいにトラブル発生ですか?」

 「杉田さん、社長さんになられたんですってね?

 先日、会社からお葉書を頂戴しまして」

 「前社長の岩倉が退任しまして、その代わりです。私は社長という柄じゃないんですけどね?」

 「いかがかしら? 社長ご就任のお祝いにお食事でも?」

 「ありがとうございます、是非ご一緒させて下さい。うれしいなあ、田代さんご夫婦とお食事が出来るなんて。

 ご主人はエリート街道まっしぐらですもんね?」

 「主人は忙しいので今回は私だけなんですけれど、私とふたりではイヤですか?」

 「とんでもない! 奥さんのような美人とお食事なんて夢みたいですよ!」

 「杉田さんは相変わらずお口がお上手ね?」

 「いえいえ、本心ですよ」


 俺は明日、田代さんの奥さんとランチをする約束をした。




 奥さんに指定された店は意外にも汐留にあるホテルの中華レストランだった。

 定刻通りにレストランに着いたが、奥さんは10分ほど遅れて現れた。


 「ごめんなさい、自分からお誘いして遅れるなんて」


 晩秋だった。田代さんの奥さんはカシミアの黒いコートを脱ぐと、ボルドーレッドのニットのワンピースがとても上品だった。

 流石は世田谷夫人だけのことはある。

 仄かに香るアリュールの気品が、俺を狩人に変貌させた。

 


 「社長ご就任、おめでとうございます。まずは乾杯しましょうか?」

 「ありがとうございます」


 俺たちはシャンパンで乾杯をした。


 「おめでとうございます、杉田#社長__・__#」


 田代絹世、32歳。木村多江に似た、少し憂いのある魅惑的な人妻だった。


 夫はメガバンクに勤める慶応出のエリート銀行マンだった。

 夫婦に子供はいない。


 俺は現場の勘を忘れないようにする為に、年に2件ほど、顧客から紹介された引継ぎの出来ない重要なお客さんだけを担当していた。

 田代さんもそんなお客さんのひとりだった。



 「その後、お家の方はいかがですか?」

 「おかげさまで快適ですわ」

 「田代さんの家は私の自信作ですからね?」

 「とても使い易いお家ですよ。住めば住むほどカラダに馴染んで来る感じがします」


 (カラダに馴染む?)


 彼女の服の上からはわからない、白いシーツに横たわる奥さんの白い裸体を俺は妄想した。

 

 「それは良かった。それを伺って安心しました」


 長い中華箸を使い、ルージュの口にアワビ炒めを口に入れる仕草がとても艶めかしかった。

 この清楚な口で、この奥さんはあの田代さんの物を咥えたりするのだろうか?


 俺はそんな不謹慎なことを考えながら、それを打ち消すようにボーイを呼び、生ビールを注文した。


 「今日は私に奥さんを接待させて下さいね。

 美人を前にしていると、なんだ緊張して喉がカラカラになってしまいますよ」

 「今日はわたくしがお誘いしたんですから、お好きなだけどうぞ。お仕事の方に支障がなければいくらでも」

 「社長なんて暇なものですよ。毎日時間を持て余しています。

 会食や夜の接待、ゴルフが私の仕事ですから。

 今日はこの後のスケジュールは入れてありませんので、奥さんのお時間が許す限りご馳走させて下さい」

 「それじゃ私もいただこうかしら? 私、今日は帰らないかもよ? うふっ」


 田代夫人は意味深に私を見詰め、悪戯っぽく微笑んだ。


 (俺を誘っている?)


 「うれしいなあー、冗談でも奥さんみたいな人にそんなことを言われると。

 絹世さんも生ビールでよろしいですか?」


 俺は話の流れを掴むと、彼女を名前で呼ぶことに成功した。

 女を口説く時、俺は呼び名をどんどん変えて行く。

 女の反応を見るのだ。そして最後は親しみを込めて「お前」と呼ぶ。

 俺を気に入っているかどうか? このまま次のステップに進めるかどうかをそれで確認してゆく。


 女がそれに呼応するように俺の呼び名を変え始めたら「脈アリ」だ。

 俺はこの駆け引きが堪らなく好きだった。


 私の戦略戦術に、オセロゲームのように変わってゆく女心。


 「ビールはお腹が膨れちゃうので、温かい紹興酒をいただこうかなあ?」


 言葉遣いも変わりはじめた。

 酔いの回り始めた絹世にチャーミングな色気が加わった。



 俺と絹世はウマが合った。

 それは家を作る打ち合わせの時からそうだった。

 私たちの好みは殆ど一致していた。

 


 次第に絹世は饒舌になっていった。


 「私ね、最近お友だちからよく言われるんですよ。「絹ちゃん、欲求不満なんじゃないの?」って」

 「そんな欲求不満な人妻さんは、我々世の男性の憧れですよ」

 「男の憧れ?」

 「そりゃあそうですよ、絹チャンみたいな美人なら特に」


 俺は遂に「絹世さん」から「絹チャン」に彼女の呼び方を変えることが出来た。彼女はそれが気に入ったようだった。

 男と女の会話とは、回っている縄跳びの中に入るようなものだ。その一瞬のタイミングを逃さずに輪の中に入ることが大切だ。


 「じゃあ#杉サマ__・__#ならその欲求不満の私をどうやって慰めてくれるの?」


 彼女もいつの間にか俺のことを杉良太郎のように、「杉サマ」と呼ぶようになって、俺へのボディータッチも次第に増えていった。


 上目使いに俺を見る潤んだ瞳。前髪をいじりながら話す絹世。


 「杉サマは私としたいの?」


 ロイヤルストレートフラッシュが完成した。




 食事を終え、俺は絹世の欲求不満を解消するために「昼下がりの情事」に没頭した。


第2話 人妻の覚醒

 高層階にあるホテルの部屋からは、夕陽を浴びた東京タワーが見えていた。


 それは夜のロマンチックな夜景とは異なり、どこか切ない乾いた風景だった。


 俺たちは長いキスを交わした。

 お互いの唾液が交換されていく。


 絹世にキスをしたまま、俺は絹世のワンピースの背中のファスナーを下した。

 絹世の下着が黒のレースだったことに俺は少し戸惑った。

 

 (黒?)


 今日の絹世の服装からは少しミスマッチな感じがした。

 どうやら絹世はこうなることを既に想定済みだったようだ。

 いや、もしかすると持て余したストレスのために、俺の社長就任を利用したというのが妥当かもしれない。

 女の心とカラダは必ずしも一致するものではない。

 俺はシナリオを書き換えることにした。

 焦らすような前戯は省き、そのままストッキングに覆われたショーツの中へと手を入れた。

 そこはすでに蜜で溢れ、中に指を入れずとも、クチュクチュと淫らな音を立てていた。


 「大変なことになっていますよ」


 私は絹世の左耳を甘噛みしながら囁くと、ビクンと彼女のカラダが反応し、熱い吐息が洩れた。

 あれだけ饒舌だった絹世は無口になり、敏感なカラダと喘ぎ声で自身の熱い感情を表現していた。

 俺はそのまま絹世をベッドに手をつかせ、後ろからストッキングとパンティーをやや乱暴に一気に引き下ろし、自分もズボンとトランクスを脱ぎ棄て、いきなりそこへ挿入を開始した。

 すでにそこの潤み具合は確認してあるので、挿入は極めてスムーズだったがそこはとても狭く、実に良い感触がペニスに伝わって来る。


 「うわっ、うっ、あ、あん、あ、あ、あ、あ・・・」


 絹世のスタッカートのような艶めかしい声が部屋に響き、音量は次第に大きくなり音程は高くなっていく。


 私はそれに同調することなく、マイペースで自身の出し入れを規則正しく続けた。


 「くうううっー、いきなり、なんて、はじめ、て・・・」

 

 ヌチャ ヌチャ


 「あう、あふんっ、うっ、いっぱい、いっぱいになっているの、すごい、すごいの。

 もっと、もっと下さ、い・・・。

 私の、あん、あん、うううう、奥に、もっと強く、早く激しく・・・」


 俺も夢中だった。

 博多人形のようなすべやかな肌、半開きした絹世の唇。

 久しぶりの快感だった。

 

 俺たちがこれだけ燃えるのは「ダブル不倫」という背徳感があるからだろう。

 絹世には夫がいる。しかもその人物は俺もよく知るご主人だ。

 まるで家の壁に落書きをする子供のように、俺たちはその行為に没頭した。


 「もっと、もっと虐めて、あん、ぐっ、私を・・・。

 いけない私に、もっと、もっと罰を・・・、与えて・・・、はあはあ・・・、下さい!

 ふうん、あう、ダメ、もう・・・、あん、うぐぐ・・・。

 来てるの、すぐそこ、まで・・・、あん、イキ、そう・・・、だめ、イクっ!」

 

 私は絹世の白桃のような尻をスパンキングし、軽く絹世の後ろ髪を掴んだ。


 「それ、それよそれ! もっと私を滅茶苦茶にして! ぐわっ・・・」


 言葉にならない擬音を発したまま、絹世はそのままベッドに伏せてしまった。

 すぐにカラダが痙攣し出し、あそこの収縮が始まっていた。

 どうやらオルガスムスに達したようだった。


 俺は射精はせずに動きを止めた。

 そして絹世の動きが収まると、彼女のそこからゆっくりと自分を引き抜いた。


 「あん・・・」


 それを名残惜しむように絹世が言った。

 彼女はカラダを起こすと、


 「シャワーを浴びて来る」


 彼女の白い尻がバスルームへと消えた。



 俺は思う。不倫とはどこまでを言うのだろう?

 キス? それともSEX?


   「この女とやりてえ」


 そう思った時が「不倫」だ。

 つまり世の中の殆どの男はみんな、不倫をしていると言える。

 それをパートナーに知られていないだけの話だ。

 実行に移すか移さないかではない、「想ったら」それは不倫なのだ。

 生産性のないSEXは汚らわしい行為なのか?

 そもそもSEXとは何だ? ペニスとヴァギナを#擦__こす__#り合わせるだけの行為なのか?


 それは違う。


 食欲、睡眠欲、そして性欲。

 それは命を育み守り、子孫を残すための動物的本能なのだ。

 子供を作るためのSEX、性欲処理のためのSEX。

 

 だがSEXは愛の延長線上に存在するべきなのだ。

 お互いの心とカラダが融合し、ひとつになる。

 それがあるべきSEXの形だと言える。

 もっと相手に近づきたい、相手の中に入って行きたい。

 

 農耕民族としての日本人は狩猟民族である欧米人とは違い、SEXに対して閉鎖的だった。

 性を露骨に表現する者は軽蔑され、異端とされて来た。

 それを秘匿することが美徳だと思われていた。

 SEXは人々が寝静まった夜にするもの。暗い場所でするものだと。


    夜の生活?

 

 今の若者たちは性に対して解放的だ。

 まるで昨日見たテレビの話をするかのように、ためらいなく性を語る。

 淫らな肉欲だけの性が世の中に蔓延していた。


 「不倫は文化だ」と言ったタレントがいたが、あれは誤りだ。

 不倫とは文化ではなく、「芸術」なのだ。


 不倫をするには覚悟がいる。家族や社会から制裁を受ける覚悟がだ。

 だが、不倫される側にも原因がないわけではない。


 被害者と加害者? 


 場合にもよるが、端的に言えば他にその対象者を求めるのは、夫婦の性生活に満足していないからだ。


 俺は女は不倫しても許されると思っている。

 女房をちゃんと愛さない、あるいは愛されない男は自分を恥じるべきだからだ。

 女はいつも正しいのだ。


 性に無頓着なあまり簡単に子供が子供を産み、別れてしまう。

 体の成長に精神が追いついていないのだ。


 その結果、シングルマザーが増え、貧困が生まれる。

 今の日本の労働環境では女手ひとつで子供を育てることは非常に難しい。

 いくつもの仕事を掛け持ちしても追いつかない現実がある。


 俺の場合、女と寝る前提として「一生この女を食わせていく」という自信がなければ手を出すべきではないと考えている。

 キリスト教の伝来と共に、日本人の太古から続いて来た一夫多妻が崩れ、戦後の占領政策の中で一夫一妻制が確立されてしまった。

 いつもの「家庭料理」から、「たまには外食をしてみたい」というちょっとした浮気心は多少は容認されもしていたが、不倫ではそうはいかない。

 そこには家庭崩壊の危険を十分に孕んでいる。



   生涯ひとりの女を伴侶として愛すべき美徳



 英国王室のチャールズ皇太子ですらこう告白している。



  「愛人のいない皇太子に魅力はない」



 経済力のある男が何人もの女を同時に愛することは罪なのだろうか?

 カネのない男が女の弱みに付け込んで、子供が出来たら平気で子供を処分させ、その女を捨ててしまう。


 俺は下半身を露出したまま、いつの間にか照明の灯った東京タワーを眺め、タバコに火を点けた。

 


第3話 その理由

 東京タワーがクリスマスツリーのように煌めいていた。

 ホテルの窓から見える景色は光り輝く摩天楼の森へと変わっていた。


 俺たちはサバンナを駆ける野生動物のように激しく愛し合い、ようやく落ち着いた。

 俺はネコを撫でるように絹世の背中を撫でていた。

 何度もエクスタシーを彷徨い、絹世は#微睡__まどろ__#んでいた。



 「私、SEXがこんなに・・・、いいものだなんて、知らな・・・、かったわ。

 こっそり観るアダルトビデオ・・・、なんて・・・、作り話なのね?

 私を・・・、こんなカラダにして、責任、取ってね? 杉サマ・・・」

 「もちろんですよ。絹チャンをこんなエロい女にした責任はちゃんと取りますよ」



 俺の胸を絹世の黒いネイルが辿る。

 絹世は思った通りの女だった。


 幼少期から親の期待を一身に背負い、あれもダメこれもダメと常に自己否定されて育てられた絹世。

 お嬢様大学を出て、見合いで今の旦那と結婚したらしい。

 親が厳しく、初めての男は今の夫だったと言う。

 絹世は他の男を知らなかった。


 生活には困らないが子宝には恵まれず、義母たちからいつも嫌味を言われていたらしい。


 「絹世さん。病院にはちゃんと行っているの?

 早く私に孫を抱かせて頂戴ね?」


 絹世の心は枯渇していた。

 俺はその乾いた彼女の心にカラダに、雨を降らせたまでの話だ。

 絹世にとって今日の経験は刺激でも、それは普通の男女が営む行為と差ほど変わりはなかった。


 俺は絹世を軽く抱きしめた。


 「すごく良かったよ。SEXの相手はね? 普段の相手からは想像が出来ないような相手が理想なんですよ。

 いつもは清楚でおしとやかなあなたが豹変する様は、とても興奮しました」

 「恥ずかしい・・・。でも好き、杉サマのことが好き」

 「僕でいいんですか?」

 「あなたがいいの、杉サマがいいの。

 私、夫に不満はないのよ。でも今日、あなたに出来たことでも夫には無理」

 「どうして?」

 「愛してないから。好きじゃないの、あの人のことが」

 「俺は好きだけどなあ、田代さん。面倒臭いことは言わないし、紳士だし」

 「私は杉サマが好き」

 「俺も絹チャンが好きだよ」

 「また会ってくれる?」

 「もちろん。私で良ければいつでもお話し相手になるよ」

 「お話しだけじゃイヤ」

 「そろそろご主人が帰って来る時間じゃないの?」

 「大丈夫、今日は大学時代の友人と会って来ると言って来ているから。

 それにいつも遅いのよ、仕事が大変みたいで。

 帰って来ても見もしない深夜のテレビを流したまま、黙って食事をして後はお風呂に入って寝るだけ。

 普通の夫婦ってそんなものなのかしら?

 今夜は興奮して眠れないかも。どうしてくれるの? 杉サマ?」

 「その時は田代さんに慰めてもらえばいいじゃないですか?」

 「杉サマの意地悪。

 私たち、もう寝室は別々なのよ・・・」

 「どうして?

 あんなに広く寝室を作ったのに」

 「私たち夫婦には広すぎたわ」


 (田代さんが浮気を?)


 俺は直観的にそう感じた。


 彼女は女ざかりであり、寂しかったのだろう。

 また俺の悪い癖が始まった。


第4話 虫の知らせ

 「信吾、釣りに行くんだけどお前も来るか?」

 「行かない」

 「そうか」


 想定通りの返事だった。息子の信吾が俺について来ることはない。

 息子は俺を嫌っているからだ。


 小学生の頃までは、どこに行くにも俺と一緒について来た。


 天体望遠鏡を抱えて流星を見に行ったり、登山に温泉、そして釣りにもよく出掛けた。


 「今度の日曜日、パパと岸壁で海釣りをするか?」

 「うん、行く行く」


 小学校低学年だった信吾は、小イワシのサビキ釣りが大のお気に入りだった。

 ゴカイなどの生き餌は苦手で、自分では針に付けることは出来ないが、サビキならオキアミと疑似餌なので、その面倒がない。

 一度に何匹も釣れるので、信吾はとても喜んでいたものだ。

 キャッチボールをしたり、プラモデルを作ったりと、絵に描いたような理想の親子だった。

 そして大学生になった今、信吾は俺と話すことを避けるようになっていた。


 なぜそうなってしまったのか? その原因は分かっている。

 俺には何人もの女がいて、殆ど家には帰らなくなっていたからだ。


 「汚らしいエロ親父」


 俺は息子や家族から、そう思われていた。


 親が子供に物事の道理を教えなければならないのは、男の子も女の子も3歳までだと俺は思う。

 後はくどくど説教などせずに親の背中を見せることだ。

 思春期になれば親の話など聞きはしない。


 あれをするな、これをするな。あれをやれ、これをしろなど、子供に押しつけるべきではない。


 そうして子供はずっと親の後ろ姿を意識的に、あるいは無意識に見ているものだ。


 子供も苦しみ、悩みながら成長していく。

 意見を求められた時にはアドバイスをしてやればそれでいい。

 親は自転車の補助輪のような物だ。転びそうになったら支えてやれば良いのだ。

 自分の夢を子供に託すなど言語道断だ。

 そういう親に限って、言うセリフはいつも決まっている。


 「あなたの為なのよ」

 「お前の為に言っているんだ!」

 「お前なら出来る」

 「ママは信じているのよ。あなたのことを」


 大切なのは自分の子供を信じてやることだ。自分の子供なのだから。


 いくつになっても子供はかわいいものだ。

 動物がそうであるように、人間もまた子離れをしなければならない時がやって来る。

 もちろん子供も親離れをしなければならない。

 そして離れて子供を見守ることだ。

 別に子供から尊敬される親になる必要はない。親という字は「木の上に立って見る」と書くではないか。それが正しい親のあるべき姿だと俺は思う。




 社長になって、ようやく気持ち的にも落ち着いてきた。

 私は久しぶりに浦賀の海に釣りにやって来ていた。


 隧道を抜けると、灰色の海と低く垂れ込めた灰色の空が広がっていた。

 私は釣竿を構えると、出来るだけ遠くに錘を投げた。

 シュルシュルと音を立てて、ナイロン製の釣糸が流れて行く。


 ポチャ


 俺は持参したキャンプチェアに座り、タバコに火を点けた。


 #魚信__あたり__#は中々来なかった。

 何度も餌を付け替え、魚信を待った。



 そこにどこから来たのか、白い顎髭を生やした老人が私の隣りに立っていた。


 「釣れますかな?」

 「ダメですね? 餌を盗られてばかりです。

 いつもなら、形のいいカレイが釣れるんですけどね?」

 「今日はあまり天気が良くないようですからな?

 雨も降って来そうだ」

 「お近くなんですか?」


 老人はそれには答えず、ただ沖を見詰めていた。



 「いい人生でしたよ、ありがとう」


 変な爺さんだなあと振り向くと、そこに老人の姿はなかった。


 突然携帯電話が鳴った。


 それは岩倉が今、亡くなったという知らせだった。


第5話 社葬

 岩倉は自分の余命にまで実直な男だった。

 海で会った老人は、岩倉だったのかもしれない。

 自分の死を知らせる為に、暇乞いにやって来たのだろう。

 医者の宣告通り、岩倉はあの世へ旅立った。



 先週、病院に見舞いに行った時にはラーメン屋の話をした。


「昔、よく食べに行ったよな? 山岸屋のチャーシューワンタン麺。

あれ、また食いたいなあー」

「旨かったですよね? 山岸屋のラーメン。

北海道の十勝に行っちゃいましたから、もう出前は無理ですよ、社長」


 俺は今でも岩倉を社長と呼んでいた。


「死ぬ前に食いてえなあ。山岸屋のチャーシューワンタン麺」

「退院したら行きましょうよ、北海道へ山岸屋のラーメンを食いに」

「そうだな」


 岩倉は寂しそうに笑った。

 人は死期が迫ると寝姿が薄くなる。

 毛布を掛けた岩倉は、かなり薄くなって見えた。


 岩倉は家で死ぬことを望まなかった。

 家族に迷惑を掛けたくなかったからだ。

 岩倉らしいと思った。

 病床で家族に囲まれ、岩倉は静かに息を引き取った。


 


 俺は自宅に戻った岩倉の遺体の前で夜を明かした。

 

 「社長、ダメじゃないですか、退院したら北海道に山岸屋のラーメンを食いに行って約束したじゃないですか?

 寝ている場合じゃないですよ」


 看病からの解放と悲しみに、傍らの夫人も力なく呟いた。


 「そうですよあなた。

 杉田さんの言う通りですよ、早く起きて下さい・・・」


 俺たちに涙はなかった。

 もうすでに涙は枯れていた。


 

 

 岩倉の社葬は盛大に執り行った。

 総務部長の村山がやって来て俺に言った。


 「社長、総務にとって社葬はいちばんの桧舞台です。

 社葬をきちんと取り仕切るのが総務マンとしての誇りなんです。

 すみません、不謹慎なことを言って」

 「村山、俺の時も頼むぞ」

 「長生きして下さいよ、杉田社長は・・・」


 そして村山は号泣した。

 こいつも岩倉のファンだった。


 会社とは総務と女子社員で決まるものだ。

 総務は過酷だ。営業でも現場でもないものは全て総務へ投げ付けられる。


 会社にはどんなボールが、いつどこから飛んで来るか分からない。

 中にはボールではなく、爆弾の場合もある。

 ピンポン玉のような小さくて軽いものもあれば、解体に使うクレーンの重くて巨大な鉄球もやって来るのだ。


 それをこの村山は上手に捌いてくれていた。

 誰に褒められるわけでもなく、淡々と。


 村山と秘書の田子倉がいる限り、この会社は安泰だろう。


第三章

第1話 他人のような家族と 家族のような他人

 俺は直子たちを連れて、福島県の飯坂温泉にやって来た。

 遥は東北新幹線の中でもずっとはしゃいでいた。


 「見て見て、きれいな川! お山も近い!

 東京からあまり出たことなかったから、とても新鮮な気分!」

 「俺は山育ちだから田舎に帰った気がするよ」


 俺は缶ビールを飲んだ。

 新幹線の座席は遥が窓際で通路側が直子。

 俺はいつもこの母娘の真ん中にいた。


 久しぶりの自然の景色に遥と直子は大喜びだった。

 俺たちは福島駅からタクシーで飯坂温泉へと向かった。

 


 「ママ、温泉なんて久しぶりだね? パパ、連れて来てくれてありがとう!」

 「とりあえず旅館に荷物を置いて、チェックインをしてから温泉街を散歩するとしよう」


 すると年配のタクシー運転手が言った。


 「いいですねえ、家族で温泉なんて。

 私なんて家族に声を掛けても誰もついて来ませんからね? あはははは」




 宿に着くと女将が出迎えてくれた。


 「沢村様、本日は東京からの長旅、大変お疲れ様でした。当旅館へのご来館、誠にありがとうございます。

 当館自慢の家族風呂もございますので、ぜひご利用下さいませ」


 俺は敢えて直子たちの名前で予約を入れておいた。

 それは要らぬ問題を避けるためでもあった。


 「ありがとう女将、世話になるよ」

 「ママ、家族風呂だって! みんなで入ろうよ!」

 「そうね」


 遥と直子は嬉しそうに笑っていた。




 俺たちは温泉街を散策した。

 新幹線が出来るまでは、この温泉街も福島競馬のお陰でかなり潤っていたようだが、今では廃業した温泉ホテルが目立ち、寂れていた。

 饅頭屋の店先に湯気が立ち昇っていたので、そこで暖を取ることにした。


 「寒いから饅頭でも食って温まるか?」

 「うんうん、お饅頭大好き!」


 私たちが店に入ると、


 「いらっしゃいませ、今日はご家族で温泉ですか? 天気も快晴で良かったですねえ」


 と、店主らしき老婆が言った。


 「店で食ってもいいのか?」

 「もちろんです。温かいお茶はセルフサービスになっていますのでどうぞ温まっていって下さい」


 俺たちは名物だという黒糖饅頭を食べながら、お茶を啜った。


 「美味しい! 美味しいねママ?」

 「甘さが控え目で皮が美味しいわね?」

 「パパがお饅頭なんてカワイイ」

 「温泉地で食べる饅頭は旨いな?

 女将、その3,000円のやつを1つと、1,000円のを3つくれ」

 「かしこまりました」


 俺は田子倉と絹世、銀座の芳恵。そしてこの、もう一つのこの俺の「家族」に饅頭のみやげを買った。




 宿に戻ると遥が言った。


 「ねえ、みんなでお風呂に入ろうよ」

 「そうね? 折角女将さんが勧めて下さったからね?」

 

 直子は私をチラリと見た。


 「パパ、背中流してあげるね?」

 


 私たちは家族風呂に入ることにした。


 「あなた、お先にどうぞ。

 私と遥は後から行きますから」

 「ああ、じゃあ先に入っているぞ」

 「パパ、すぐ行くから待っててね?」


 遥はよく「パパ」という言葉を連発する。

 やはり父親がいない寂しさは否めないのか、あるいは俺を慕ってくれているのか。


 温泉に浸かっていると、遥と直子が入って来た。


 「パパ、お待たせー」


 遥はタオルで前を隠すこともなく、かけ湯をしてそのまま私の隣に入って来た。


 母親譲りの白く美しいカラダだったが、もちろん女を感じることはない。

 遥は高校三年生、もう大人だ。


 「パパ、背中流してあげる」

 「悪いな」

 「ううん、全然。私たち親子だもん」


 俺は長い間「親子」という言葉を忘れていた。


 タオルにボディソープを付けると、遥は俺の背中を擦りはじめた。


 「パパの背中って広いね? ママとは違う」

 「そりゃそうだ。一応、俺も男だからな?」

 「男の人の背中って好き」

 

 遥は俺の背中に額をつけた。

    

 「パパ、ママと私を助けてくれてありがとう・・・」

 「助けたわけじゃねえよ、助けられたのは俺の方だ」

 

 遥は再び俺の背中を流してくれた。


 「前の方はママが洗ってあげてね。あはははは」

 

 遥はタオルを直子に渡した。


 「じゃあ万歳して下さい」

 

 直子は俺の脇の下を洗い始めた。

 他人のような家族と家族のような他人。

 俺は今、しあわせの中にいた。

 


 食事はありきたりの温泉旅館の夕食だったが、それでも遥はとても喜んでいた。


 「美味しいー、もうサイコー!」

 「俺の刺身もやるよ」


 私は遥のお膳に自分の刺身をそっと置いた。


 「いいの? パパありがとう、パパ大好き!」


 今日は直子も少し酒を飲み、温泉の効果もあるのか、肌艶が色っぽく上気していた。



 部屋での食事を終えると仲居がやって来た。


 「お布団はどのようにお敷きしますか?」


 すると遥が言った。


 「三つ並べて敷いて下さい」

 「かしこまりました」



 俺を真ん中にして、俺たちは床に就いた。


 「私たち、みんなから家族に見られちゃったね? 

 パパ、今日は本当にありがとう、とっても楽しかった。寝るのがもったいないくらい」

 「ありがとう、あなた」

 「また三人で来ような?」

 「うん」

 「ある修行僧が高僧に訊ねたそうだ。禅とは何かと。

 そしてその高僧は言ったそうだ。


    お茶飲むときはお茶飲みなされ

    メシ食うときはメシ食いなされ


 とな? 生きるとはそういう事だと俺は思う。

 それをしている時には他のことは考えず、目の前の事に全力で向き合うことだと。

 人間はしあわせにならなければならない。それは権利ではなく人間の義務だ。

 遥は来年大学生になれ、そしてしあわせになるんだ。色々な事を知ることは人生を豊かにしてくれる」

 「ありがとう、パパ」

 

 遥は私に頬を寄せた。

 浴衣越しに遥の乳房が俺の腕に触れた。


 私は遥の肩を抱いた。

 それは父親としての愛情としてだった。


 直子も私にカラダを寄せ、自分の足を俺の足に入れて来た。


 そしていつの間にか俺たち#家族__・__#は川のせせらぎの音を聞きながら、深い眠りに落ちていった。



第2話 失った宝石

 東京に帰って来た。


 「これ、ふたりで食べるといい」


 俺は遥に飯坂温泉で買った饅頭の箱を渡した。


 「実は狙っていたの。ありがとうパパ!」


 遥はうれしそうに饅頭の箱を抱き締めた。


 「いいんですか? 他にお届けする物だったのでは?」

 「いや、あまりにもお前と遥が旨そうに食べていたからな?」

 「すみません、お気遣いいただいて」

 「気を付けて帰るんだぞ」

 「はーい。パパ、今度はいつ来るの?」

 「来週の水曜日かな? 夜、肉でも食いに行こう」

 「うん、楽しみにしてるね?」


 そんな遥を見て、直子は寂しそうに笑っていた。

 どうやら今回の温泉旅行で、直子には思うところがあったようだ。




 翌日の夕方、会社に出社して田子倉に饅頭のみやげを渡した。


 「これ」

 「いつもありがとうございます」

 「饅頭は嫌いか?」

 「いいえ、大好きです。特にここのお饅頭は。

 飯坂温泉に行かれたんですね? 女性と」

 「いいだろう、たまには温泉に行ったって」

 「悪くはありませんよ、ただ、私の存じ上げない#普通の__・__#女性とならですけど」

 「出掛けて来る。クルマを頼む」

 「社長、お饅頭ありがとうございます。みんなで美味しくいただきます」


 祥子は勘のいい女だ。俺が直子たちと温泉旅行に行ったことが面白くはない様子だった。




 俺は銀座の芳恵の店に出掛けたが、芳恵はいなかった。


 「ママ、今夜は芳恵は休みかい?」

 「辞めたのよ、突然。今日は別な女の子をご紹介するわね?」


 俺はママに饅頭の箱を渡した。


 「あら福島に? 懐かしいわ、私、生まれが福島なの。ありがとう、杉田社長」


 俺は先週、芳恵との会話を想い出していた。



 セックスを終えて、芳恵は言った。


 「私、結婚しようと思うの?」

 「いいんじゃねえか? お前がそれでしあわせなら」

 「やっぱり杉田さんは大人ね? 若い男なら「誰と?」と訊くものなのに」

 「そんなの訊いてもしょうがねえだろう? お前の決めた男なら、いい奴に決まっている」

 「愛人が結婚しても平気なの?」

 「平気ではないが、それは俺のせいでもある。 

 芳恵のしあわせを俺に阻む権利はないからな」


 芳恵は煙草に火を点けた。

 タバコの灯りが芳恵の美しい顔を仄かに浮かび上がらせた。


 「なんてね、冗談よ。結婚なんてしないわ」


 (芳恵は俺と別れようとしているのか?)


 女と付き合うには俺流の掟があった。

 それは自分から離れていく女を決して引き留めないことだ。

 なぜならそれは止むを得ないことだからだ。

 別れたいと思われるような付き合いはしないつもりだ。

 それは俺のために別れなければいけないという、女の苦渋の選択だからだ。


 芳恵のようないい女はそうはいない。

 芳恵に群がる男は多い。

 事実、俺がそうだった。

 芳恵と付き合うようになって、もう3年になる。


 「俺と別れたいのか?」

 「どうかしら? でも、一緒にいると辛い時もあるわ・・・」


 芳恵はタバコの煙を細く吐き出した。


 「このままじゃイヤだということか?」

 「ううん、いいの、いいのよ、これがずっと続くのならそれで。

 最近、奥さんの匂いじゃない別の女のいい匂いがする。

 私にもプライドがあるわ。私は二番じゃなきゃイヤ、三番目はイヤなの。

 奥さんに負けても他の女には負けたくない。

 もし私があなたから捨てられるようなことがあれば、私は自分からあなたの元を去るわ」

 「俺がお前を捨てる? 俺がお前に捨てられることはあっても、俺が芳恵を捨てることは絶対にない」

 

 芳恵はタバコを消して俺にキスをした。

 それは冷たいキスだった。




 俺は芳恵に電話を掛けた。


 「お掛けになった電話番号は、現在、使われておりません・・・」


 予想通りだった。

 俺は美しい宝石を失くしてしまった。



 「はじめまして杉田社長。チイママの「すみれ」です。

 ご贔屓にお願いしますね?」


 和服を着て小首を傾げたすみれは、芳恵の代わりにチイママになったホステスだった。


 「すみれちゃん、シャンパンを頼む。

 銘柄は任せるよ。このあとアフターはどうだ?」

 「もちろんです。杉田社長」

 「俺は胸の大きい女は苦手なんだ」

 「良かった、それなら私、合格ですね? 後でじっくり検査して下さい」



 すみれとホテルに行った。

 

 「芳恵はどうして店を辞めたんだ?」

 「なんだかアメリカに行くらしいですよ」

 「そうか・・・」

 「今度は私をかわいがって下さいね? 杉田社長」



 その夜、俺はすみれを激しく抱いた。

 芳恵を失った悲しみを、すみれで埋めようとしたのだ。


 それ以来、俺はすみれと会うことはしなかった。

 そして店も替えた。


 芳恵のいない店には、もう行く理由がなくなったからだ。



第3話 夫の策略

 夫の田代は絹世の下着の入った引き出しを開けると、その中から赤いTバックのショーツを手に取り、呟いた。


 「こんな淫らな下着を付けてしているのか? あの男と・・・」


 田代は下着をきちんと畳み直すと元の場所にそれを戻した。



 田代も自分の部下の聡美と不倫をしていた。

 だが、自分の女房である絹世が浮気をしているのは許せなかった。


 子供が産めない絹世ではあるが、田代は絹世を愛していたのだ。

 不妊治療に疲れた田代は絹世を抱くことが出来なくなり、性欲のはけ口を聡美に求めるようになっていた。




 仕事を終えた田代は聡美のマンションで行為に及んでいた。


 「んっ、んっつ、はっはっはっ・・・。今日は、駄目な日、だか、ら、あんっ、はうっ・・・、外に・・・、出してね・・・」


 田代はそれを無視して聡美の尻を抱えると、後背位で攻め続けた。


 シーツを掴む聡美の手に力が入り、ガクンガクンと震え、エクスタシーに落ちて行った。


 そして同時に田代は聡美の中に自分の精子を放出した。


 ドクンドクン


 「きゃっ!」


 飛び起きる聡美に田代のペニスが外れてしまった。


 「中は駄目だって言ったでしょ!」


 聡美のそこから白濁した精液が流れて来た。


 「聡美、結婚しよう」

 「えっ、何?」

 「女房とは離婚することにしたんだ。俺の子供を産んでくれ」

 「・・・奥さんはそれで大丈夫なの?」

 「女房には男がいる」

 「奥さん、浮気しているの?」


 田代は無言で聡美をそのままベッドに仰向けにさせると、強く聡美を抱き締め、耳元で囁いた。


 「今日が危険日なんだな?」

 「うん、出来ちゃうよ、赤ちゃん。あなたと私のかわいい赤ちゃんが」


 聡美は体をずらし、田代のそこを愛おしむように丁寧に舐め始めた。


 「今日は帰らないでね?」

 「ああ」


 田代は絹世との別れを決めた。

 出来るだけ残酷な方法で。




 都内のいつもの立体駐車場にクルマを停め、俺は絹世が来るのを待っていた。

 小走りに走ってくる絹世が見えた。


 コートを脱いで助手席に滑り込んだ絹世は俺にキスをした。

 

 「待った?」

 「今日は何時まで大丈夫ですか?」

 「18時くらいかな?」

 「じゃあ早速行きましょうか?」

 「うん!」


 シートベルトをした絹世のスカートの中に、俺は手を入れた。


 「少し開いて」

 「はい・・・」


 俺は絹世の中心にある布を、ストッキングの上から触りながらクルマを発進させた。


 「前戯をしながら行こうか? ホテルですぐに出来るように」

 

 絹世は恥ずかしそうに頷いた。

 俺は片手でハンドルを操作しながら絹世に命じた。


 「ストッキングとパンティを脱ぐんだ」


 絹世はすっかり俺の性の虜になっていた。

 俺は徐々に言葉を命令口調に変えて行った。


 「こんなところでそんなことしたら、クルマのシートがシミになっちゃう」

 「お前のマーキングになるな? ほら、もうこんなになってるぞ」


 絹世は下半身を露出したまま、俺が触りやすいように俺にそこを向けて座り直した。


 車内には絹世のそこからクチュクチュと卑猥な音が拡がっていった。

 私はその中に指を1本だけ入れ、出し入れを繰り返した。

 絹世は淫らな人妻に変貌して行った。




 ホテルでの逢瀬を終え、俺は飯坂温泉で買ったみやげの饅頭の箱を絹世に渡した。


 「これ、出張で行った福島の饅頭です。

 よかったら食べて下さい。冷蔵庫で冷凍すれば日持ちしますから。

 饅頭は平気ですか?」

 「ありがとう、大好きです!」


 余程俺の気遣いが嬉しかったのか、絹世は俺に抱き付いた。



 

 絹世が家に戻ると、めずらしく夫が先に帰宅していた。


 「お帰りなさい、早かったのね?

 すぐお食事の用意をしますね?」

 「買物して来たのか?」

 「うん、ついでに良子とお茶して来たの。これ、福島に行った時のおみやげだって」


 絹世はテーブルに杉田から貰った饅頭の箱を置いた。


 「そうか。今度の日曜日、杉田さんを呼んで庭でBBQでもしないか?」

 

 絹世の顔が強張った。


 (バレたのかしら?)


 「めずらしいわね? あなたが杉田さんを家に招くなんて?」

 「杉田さん、社長になったんだろう? ウチの銀行も使ってくれないかと思ってね?」

 「そう」

 「君から杉田さんに連絡しておいてくれないか?」

 「あなたがすればいいじゃない。だってもう何年もお話ししていないし」

 「いいのか? ボクが彼に電話しても?」

 「ヘンな事言うわね? いいに決まっているじゃない」


 絹世は背中に冷たい汗をかいた。


 「そうか、じゃあボクから電話しておくよ」

 「そうして頂戴。着替えてくるわね?」



 その夜、夫の田代は絹世を抱こうとした。


 「ごめんなさい、今日は疲れているの」

 「そうか・・・」


 絹世はその夜、中々寝付くことが出来なかった。

 しばらくすると夫の寝息が聞こえて来た。

 絹世はなんとか眠ろうと、今日の杉田との戯れを思い出し、自分を慰めた。

 声を押し殺し、絹世は強いオルガスムスを感じた。




 そして翌朝、夫が家を出るとすぐに杉田にLINEをした。

 すぐに杉田から電話が掛かって来た。


 「用事があるからと断って」

 「大丈夫ですよ、自然に振る舞いましょう。お互いに」


 俺はついにその日が来たかと覚悟を決めた。

 後は絹世をいかに守るだけだと。


第4話 春の宴

 3月初旬としては比較的暖かい日曜の昼だった。

 桜はまだ固い蕾のままだった。


 田代と絹世は庭でバーベキューの準備をしていた。

 エプロン姿の絹世は眩しいほど美しかった。


 俺は田子倉の選んでくれた、赤と白のワインを手土産に持参した。


 「本日はお招きいただいてありがとうございます。

 大変ご無沙汰しております、田代様。

 三寒四温とは申しますが、今日は暖かくて気持ちのいい春の日で何よりです。

 これで桜の開花も早まることでしょう。

 確かワインがお好きだと記憶しておりましたので、今日は赤と白をお持ちしました。

 銘柄は私の秘書が詳しので、彼女に選んでもらいました。

 田代様のお口に合いますかどうか?」

 「ようこそ杉田さん。折角お休みのところ、お呼び立てして申し訳ありません。

 妻から杉田さんが社長になられたと聞いたものですから、そのご就任のお祝いも兼ねましてささやかな春の宴を催した次第です。

 すみません、このような高価なワインまでいただいて。

 『ルイ・ロデレール・クリスタル』の2009年と『シャトー・レオヴィル』の2003年ですか? すばらしいチョイスです。

 その秘書さんによろしくお伝え下さい」



 私は敢えて高級ワインを選ぶように祥子に命じた。


 「祥子、ワインを買って来てくれねえか。家に食事に招待された手土産としてだ」

 「ご予算は?」

 「2本で10万だ」

 「かしこまりました。そのクラスだと比較的ワイン通の方でも納得のいく物が揃うかと思います」

 「よろしく頼む」

 「贈る相手様は?」

 「数年前、世田谷に建てた田代さんだ」

 「あの奥様のお綺麗な?」

 「そうだ。覚えているか?」

 「もちろんですよ。社長の好みの奥様は特に」


 祥子は笑っていた。彼女はすべてお見通しのようだった。

 そうでなければ10万円のワインなど、いくら施主とは言え、手土産にするはずがないと考えているようだった。




 「それは良かったです。喜んでいただいて。秘書にもそう伝えます、合格だったと。あはははは」

 「では、早速乾杯いたしましょう。絹世、杉田社長にシャンパンをお注ぎして」

 「はい。杉田さん、お久しぶりです。社長さんに出世なさったそうですね? おめでとうございます」

 「ただ渾名が変わっただけですよ」

 

 絹世はシャンパンを開け、グラスに注ぐとそれを俺に渡した。

 その時軽く、絹世の手が俺の手に触れ、絹世はチラリと私を見た。


 「それでは乾杯いたしましょうか? 杉田さん、社長ご就任、おめでとうございます!」

 「おめでとうございます」

 「ありがとうございます。田代様、奥様」

 

 私たちはグラスを合わせた。


 「さあどんどん召し上がって下さいね? ジャンジャン焼きますから」


 BBQコンロの炭の状態は安定していた。

 田代は肉や野菜、海鮮類などを次々と網に載せた。


 「肉は昨日から特製のタレに漬け込んでおきました。僕は隠し味にコーラも入れるんですよ。

 アメリカに留学していた時に覚えました。肉に甘味も出るし、やわらかくなるんですよ」


 ほどよく焼けたリブロースを田代がトングで拾い上げると、それを俺の皿に乗せようとした時、肉が芝生の上に落ちた。

 それは落ちたのではなく、正確にはわざと「落とした」というべき行為だった。


 「ああ、せっかく杉田社長に差し上げようとした肉が落ちてしまいました。この悪い肉め!」


 田代は靴で何度もその肉を踏みつけた。


 「絹世、お前のせいだぞ、この肉はお前が喰え」


 その場の雰囲気が一瞬で凍り付いた。

 絹世はただ立ち尽くしたまま無言だった。


 私はその肉を拾い上げ、タレに付けて肉を食べてみせた。


 「かなりワイルドな味がしますね? これは絶品だ!」

 「ではもっといかがですか?」

 「いえ、もう腹が一杯です」

 「そうですか? その肉と私の妻、どちらが美味でしたか?」

 「失礼、私はパーティジョークに不慣れなもので。こんな時はどのように切り返すのがお洒落なのですか?」

 「簡単ですよ、僕にそこで土下座をすればいい。「奥さんはたいへん美味しい人妻でした」とね?」


 私は膝を折り、田代に土下座をした。

 すると田代は土足で私の頭を無言で踏みつけた。


 「辞めてあなた!」


 絹世は叫び、田代に縋った。


 「お前もこの間男と一緒に土下座しろよ、この淫売!」

 「奥さんは関係ありません! 奥さんを口説いたのは私の方です! どんな罰もお受けします! 奥さんを私に下さい!」


 私は思わず「私に下さい」と言ってしまったが後悔はなかった。


 「下さい? この淫乱女を? いいですよ、タダで差し上げます。どうせこの女にもう未練はありませんから」


 その時、庭にひとりの若い女性が入って来た。


 「紹介しますよ、ボクの新しい妻になる女性です」

 「はじめまして、聡美です。

 私、田代さんにプロポーズされました」

 「そういうことだから絹世、お前は今日限りでこの家から出て行ってもらう。

 俺の子供も産めないお前にもう用はない」


 田代はジャケットの内ポケットから離婚届けを出して絹世に叩きつけた。  


 「お前の荷物は明日、俺がいない間にすべて運び出せ。

 さあ、これで茶番は終わりだ。

 ふたりともここから出て行ってくれ。今すぐに!

 ワインはいただいておくよ、折角の高級ワインだからね?」

 「着替えてくるから少し待っていて下さい」

 「着替える? またあの下品な下着にか? あはははは」



 そして私と絹世は田代邸を後にした。 



第5話 卒業

 俺と絹世は走った。

 映画『卒業』のダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスのように、手を繋いで笑って走った。

 頭の中でサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』が鳴っていた。


 俺は嬉しかった。絹世を牢獄から救い出せたことに。


 誰も追っては来ない。走る必要などなかった。

 だが走った。

 とっくに忘れていた青春を取り戻したような爽快な気分だった。



 駅に着いた俺たちは、人目を憚ることなく強く抱き合った。

 

 「はあはあ、なんで走ったんだろう? 俺たち」

 「ホントね? なんでだろう? 別にあの人が追いかけて来るわけでもないのにね?」

 「腹が減っただろう? 何か食べるか?」

 「ううん、それよりも・・・」

 「じゃあ#その後__・__#に食事にしよう」


 絹世は小さくコクリと頷いた。



 切符を買って改札を抜け、俺たちはホームへの階段を手を繋いで登った。


 行き先は決めてはいなかったが、早くふたりだけになりたかった。

 私たちは初めて関係を持った思い出の汐留のホテルへと向かった。




 部屋に入り、俺たちは何も言わず、ただお互いの肉体を貪った。


 

 俺たちは激しく愛し合い、クタクタになって心地良い解放感に包まれていた。

 それは絹世の首輪と鎖が外れたことへの安堵でもあった。

 絹世は本当の自由を手に入れたのだ。


 「ありがとう、私を守ってくれて」

 「守ったのは俺のプライドだよ。絹を助けたいという俺のプライド」

 「あんなお肉を食べさせて、そして頭まであの人に踏みつけられて、本当にゴメンなさい・・・。

 私も相手の女をビンタしてやれば良かった」

 「憎しみからは憎しみしか生まれない。たとえ赦せなくてもいいんだ、忘れるだけで。

 そうすればラクになれる」


 俺は絹世を強く抱き締めた。


 「これからの君の人生は俺が責任を持つよ。君の住むマンションは俺が用意する。

 それと月々30万円の生活費を渡す。

 マンションが見つかるまで、このホテルでのんびりすればいい。絹世はよく頑張ったよ」

 「今度はあなたが私の飼い主になってくれるというの? 私はあなたの愛人になるの?」

 「イヤか?」

 「愛人じゃなくて恋人になりたいの。あなたと恋愛がしたい。対等の恋愛が。

 お金のことは心配しないで。父の会社を手伝うから大丈夫、何とかなるわ」


 絹世は俺を杉サマとは呼ばず、「あなた」と呼んだ。

 取り敢えず、面倒な裁判沙汰にはならずに済んだことは不幸中の幸いだった。


 「今まで通りでいいの。それ以上は何も望まないわ。

 ただ時々でいいから一緒に居て欲しい」

 「いいのか? それで?」

 「結婚はもうたくさん。自分でお金を稼いであなたと自由に恋愛がしたい。 

 だって、私は私だから。

 私はあなたを好きな自分が好き」


 絹世は芯のある強い女だと思った。


 「メシ、食べに行こうか? 肉でもいいか?

 さっきは不味い肉を食べさせられたからな? 今度は旨い肉を食べよう」

 「私もお腹空いた。いっぱい「運動」した後だから」


 俺たちは銀座の鉄板焼きの店で食事をすることにした。



 「いらっしゃいませ、杉田社長。いつもありがとうございます」

 「美味い肉が喰いたくてね? 今日の昼に食べた肉がチャップリンの靴みたいな肉だったから」

 「それは大変でした。どうぞこちらへ。お飲み物はいかがいたしましょう?」

 「ボルドーのフルボディを頼む。銘柄は任せるよ、俺はワインは素人だから」

 「かしこまりました」



 シェフは見事な手捌きでシャトーブリアンを焼き始めた。


 「フランベの青い炎って大好き」

 「ブランデーの香り付けの効果もあるが、腹を空かせたお客の期待値は上がるからな?」


 シェフは箸で食べやすい大きさに肉を切り分けてくれた。


 俺は初めは岩塩で食べた。

 絹世も同じだった。

 食べる行為は性行為と似ている。

 男と女が長続きするかどうかはカラダの相性によるものだ。

 よく離婚の理由に「性格の不一致」という元夫婦がいるが、それは性格ではなく「セックスの不一致」だ。

 抱かれたくない妻と、抱きたくない夫。


 カラダの相性を確かめるには、一緒に食事をするのが一番だ。

 アレルギーなどは別にして、異常に好き嫌いが多いとか、食べ物に対して批評する人間は論外だ。

 スタッフに対する態度も同じ。

 そして重要なのは食べ方だ。

 箸やナイフ、フォークの使い方には人柄と品格が出る。

 絹世の食事の作法には育ちの良さが窺える。


 食事の作法は一朝一夕には習得出来る物ではない。

 俺は絹世の優雅な食事に見惚れていた。



第6話 愛のない家

 家の玄関を開けると、女房の珠江と子供たちの笑い声がリビングから聞こえた。


 私がリビングに入ると、子供たちは私を避けるようにリビングから出て行き、自室に籠ってしまった。

 それはいつものことだった。


 「ご飯、食べるの?」

 「食べて来たからいい」

 「そう、じゃあ先に寝るわね? 明日、子供たちのお弁当を作らなきゃいけないから」

 「ああ」


 そして珠江も自分の部屋に消えていった。

 娘の華蓮が生まれてからは、俺たちは別々に寝るのが習慣になっていた。

 もちろんカラダを合わせることもない。

 

 一度、俺は性欲を持て余し、珠江を誘ったことがあった。

 すると、珠江は言った。


 「ゴメンなさい、悪いけどそういう気分じゃないの。浮気してもいいわよ、私たちにわからないようにしてくれるならそれで」


 俺はそれ以来、珠江を抱くことはなかった。


 毎日家に帰るのは深夜の2時、3時。休みなく俺は働いた。

 家族にもっといい生活、ラクな暮らしをさせたかった。

 そんな俺に会社の女子社員たちからのアプローチもあったが、俺は相手にしなかった。

 それでも珠江を愛していたからだ。


 だがその女房の一言で、俺の考えは変わった。


 「カネさえ運んでくれば、俺はこの家にいなくてもいい存在なのだ」と。


 まだ30代だった俺は、片っ端から身近な女を口説き始めた。

 まるでゲームでも楽しむかのように。


 当然、会社の女とも関係を持った。

 

 「杉田専務、おいしいご飯に連れて行って下さいよう」とモーションを掛けて来る女もいた。

 そして酔ったフリをして、女は俺にボディータッチを繰り返す。


 「もうヤダー、杉田専務のエッチ~」

 「ホテルに行くか?」

 

 コクリと頷く女。

 面白いように女は俺に付いて来た。


 ホテルに向かうタクシーの中で、お互いをまさぐり、キスをした。

 そしてそのままラブホへ直行するというのがお決まりのルーティーンだった。


 いつの間には俺は、家に寝に帰るだけの「ATM」になっていた。



 ある日、それを観兼ねた社長の岩倉が俺に言った。


 「専務、お前に女遊びをするなとは言わん。だが、会社の女だけは止めておけ。会社の雰囲気が怪しくなるからな? 社外の女にしておけ」

 「わかりました」


 俺は仕事や家族とのストレスを、女を抱くことで解消しようとしていたのかもしれない。




 

 俺が決済する書類に判を押していると、ドアが4回ノックされた。


 コンコンコンコン


 「田子倉です」

 「入れ」

 「失礼します」


 まるでモニターで俺を監視しているかのように、田子倉はいつも絶妙なタイミングで俺に声を掛けてくれる。


 「社長、少し休憩されてはいかがですか?」

 「何か甘い物はあるか?」

 「コンビニで何か買ってきます。何がいいですか?」

 「プリン。デカいやつな」

 「かしこまりました」


 俺は祥子に千円札を渡した。


 「お前も好きなのを買って来い」

 「ありがとうございます。では遠慮なく」


 祥子が部屋を出て行くと、私は書類から目を離し、千鳥ヶ淵の武道館の屋根を眺めた。

 てっぺんに金色に輝く魔尼宝珠。


 俺は直子や絹世、そして珠江のことを考えていた。




 田子倉が戻ってきた。


 「はい社長、大きいプリンを買って来ましたよ!」

 「おう、本当にデカイな? このプリン?」

 「一番大きいのを買って来ました」


 俺と祥子はプリンを食べ始めた。


 「おいしいですね? このプリン」

 「プリンに不味いプリンなんてねえよ」

 「それはそうですけど、その中でも特に美味しいのってあるじゃないですか?」

 「そうか? 俺のこだわりは量だけだけどな?

 女が食べる、あの小さいプリンでは食った気がしねえよ」

 「女の子は甘い物は好きですけど、太るのはイヤですからね?」

 「どうして太るとイヤなんだ?」

 「それは綺麗でいたいからですよ」

 「なるほど、そして彼氏に「キレイだよ、祥子」とか言われてヤルわけだ?」

 「その言い方、セクハラですよ」


 田子倉はそのまま旨そうにプリンを食べた。

 

 「なあ、どうして日本は一夫多妻を辞めたんだ?」

 「不公平だからじゃないですか? 男性ばかりが優遇されるなんておかしいですよ」

 「じゃあ一妻多夫にすればいいじゃねえか?」

 「日本人の女性では無理でしょうね? 貞操観念が白人女性とは違いますから」

 「フランスのボーボワールとサルトルみたいにはいかねえのかなあ?」

 「社長だけじゃないですか? そんなこと真剣に考えているのって?」

 「俺は女は好きだ。でもそれはカラダだけが目的じゃねえ、平等に女を守ってやりたいんだ。しあわせにしてやりてえんだよ。

 殆どの人間の悩みはカネだ。

 カネがあれば生きて行く悩みは減る。

 だがそれをすればあの下劣な言葉が絶えず付き纏う、それは「不倫」だとな?

 なあ祥子、結婚している男女は、他の異性と付き合っちゃダメなのか?」

 「自分を抱いたその手で、他の女を抱くのはイヤですよ。ましてや他の女を抱いた手で私に触れて欲しくはないですね」

 「この歳になるとな、SEXにはあまり貪欲ではなくなるものだ。カラダはどんどん衰えていくしな?

 だが逆に「この女を守ってやりたい、しあわせにしてやりたい」とは思うんだ。

 しかもそんな悲し気な女を見るとすぐにだ。

 俺は病気なのかもしれねえな? 惚れやすい病」


 すると田子倉はプリンを持ったまま俺の隣にやって来ると、俺の頬に軽くキスをした。

 田子倉の髪が俺の頬に触れ、いい香りがした。


 「そんな社長に私からお薬を処方して差し上げました。プリンを食べながらそんなことを言う社長は病気ですよ。もうこれ以上その病気を他の女性に移さないで下さいね? 私までうつりそうですから。うふっ」


 田子倉が俺の一番の理解者なのかもしれない。


 俺たちは社長室から見える千鳥ヶ淵を眺めながら、再びプリンを食べ始めた。


第7話 愛すればこそ

 「沢村さん、帰りに軽くどう? ご馳走するわ」


 秘書課長の田子倉は直子を飲みに誘った。


 「はい。喜んでご相伴いたします」


 直子はなぜ田子倉に誘われたのか、その理由はおよそ推測がついていた。

 決して上司と部下の飲み会ではないことを。



 

 そこは上品な和食の店の個室だった。


 「コースなんだけど、嫌いな物があれば残してもいいわよ。私が食べるから。

 このお店、なんでも美味しいのよ」

 「残念ですが好き嫌いはありません」

 「そう。ごめんなさいね、急に誘って。

 お嬢さんはひとりで留守番大丈夫?」

 「もう高校生ですから」

 「そうよね? 大人だもんね? とりあえず、ビールで乾杯しましょうか?

 ふたりで飲むなんて、沢村さんの歓迎会以来ね?」

 「そうですね? 誘っていただいて、ありがとうございます」

 「じゃあ、乾杯」

 「乾杯。お疲れ様でした」


 先付けから始まり、ビールから冷酒へと変わった。


 「お付き合いしているんでしょう? 社長と?」

 「・・・」


 やはり、直子の予想は当たった。


 「お世話にはなっていますが、特別な関係ではありません」


 田子倉は上目遣いに直子をまっすぐに見た。


 「そう。ならいいんだけど。

 社長はやさしい人よ、誰にでもね?」


 「誰にでも」という言葉が直子の耳に残った。


 「社長のこと、好き?」

 「はい。人間として尊敬しています。私と娘の命の恩人ですから」

 「そう、私も好き。出来ることなら抱かれてもいいくらいに好き。

 でも、それはしないの。お互いに。

 なぜだかわかる?」

 「いえ」


 私だって愛している。あなたに負けないくらいに。


 「それはね、あまりにも近いから。

 歳の離れた兄妹のように。

 近親相姦になっちゃうでしょう? あはははは」

 「課長は長いですものね? 社長と」

 「そして戦友でもあるわ。私、ウチの会社が好きだから」

 「みんな言っています。この会社が発展したのは田子倉課長が杉田社長を支えて来たからだって」

 「会社をここまでにしたのは杉田社長。私は傍で社長を見ていただけ。

 男だから女好きなのは仕方がないわ。

 でもね、会社の女は駄目。わかるわよね?」

 「はい・・・」

 「はっきり言うわね? もし、社長を愛しているのなら、会社を辞めて欲しいの。

 仕事は私が紹介してあげるから」

 「そうでなければお付き合いを止めなさいということですね?」


 田子倉は冷酒を一気に飲み干した。


 「私は杉田を守りたいの。会社を守りたい。

 杉田社長がいなければ会社は潰れてしまうから」

 「会社は辞めません。でも、社長とのお付き合いは辞めます」

 「そう。わかった。私、あなたのそういうところが好きよ。同じ杉田を愛する女同士として。

 じゃあ、飲み直しましょう。同じものでいいかしら?」

 「はい」


 その夜、ふたりの女は親友になった。





 会合が早く終わったので、俺は直子に電話をした。


 「たまには遥と3人で晩飯でもどうだ?」

 「今、仕事が終わって電車に乗るところでした。

 お仕事、よろしいんですか?」

 「会合が早く終わったんだ。肉でも食いに行こう。遥のやつ、肉が好きだからな?」




 焼肉屋では遥ははしゃいでいた。


 「美味しくてほっぺが落ちそう!

 パパ、ありがとう!」

 「たくさん食べろよ」

 「うん!」


 俺は美味しそうに肉を頬張る遥を、目を細めて眺めていた。

 だが、直子はどことなく寂しそうだった。


 「直子、具合でも悪いのか?」

 「いいえ、美味しくいただいています」

 「そうか? 無理はするなよ」


 そう言った時、直子は急に泣き出してしまった。

 

 「どうした?」

 「いえ、ただうれしくて・・・。

 私たち、守られているんだなあって」

 「あははは、そんなことで泣く奴があるか?」

 「ごめんなさい」

 「もう、ママはすぐ感動するんだから。

 テレビのドラマでもすぐ泣くんだもんね、ママ?」

 「・・・」



 食事を終え、その日、俺たちは別々に帰えることにした。


 「パパ、今日は泊まっていけないの?」

 「これから大阪に出張なんだ。来週、泊りに行くよ」

 「うん、約束だよ」

 「ああ、約束だ」

 「じゃあ指切り」


 俺と遥は指切りをした。




 帰り道、直子は遥に言った。


 「もう、パパはウチには来ないわ」

 「どうして!」

 「どうしてもよ」


 直子はまた泣いていた。


 満月の美しい夜だった。



第8話 直子の決意

 「そんなのイヤだよ」


 遥が言った。


 「パパはね、社長さんなの。だからお別れするの」

 「どうして社長さんだと会ってはいけないの?」

 「あなたも大人になれば分かるわ」

 「ママはそれでいいの? パパとお別れしても?」


 直子は遂に言ってしまった。


 「パパは私たちだけのパパじゃないのよ」

 「分かってるよ、そんなこと」

 「大丈夫。大学には行きなさい。ママが頑張るから」

 「大学なんて行かなくてもいいよ。

 でも、パパと会えなくなるのはイヤ!」

 「遥・・・」

 「ママだって同じでしょ? パパを愛しているんでしょう?」

 「会社の人から言われたのよ。

 社長を好きなら会社を辞めて欲しいと。

 仕事は紹介してあげるからって」

 「だったら会社を辞めればいいじゃない。

 そうすればお別れしなくてもいいんでしょう?」

 「それでいいの? 遥は?」


 直子は杉田の傍にいたかった。

 たとえ個人的な関係を捨てても。


 「パパと別れたくないわ。でもね、いつもパパの傍にいてあげたいの」

 「ママ・・・」


 直子は遥を強く抱き締めた。




 翌日の昼休み、直子は田子倉を近くのコーヒーショップに誘った。


 「田子倉課長、先日のお話なんですが」

 「会社を辞めるのね?」

 「すみません。やはり諦め切れません、あの人の事が」

 「そう言うと思ってたわ」


 田子倉はミントの浮いたアイスティをストローで混ぜた。


 「会社は辞めます。仕事は自分で探します。色々お世話になりました」

 「大変だったらいつでも言ってね?

 あなたの気持ち、私にも分かる。私もあの人を愛しているから」

 「ライバルですね? 私たち」

 「いいえ、姉妹よ。同じ男を愛した姉妹」

 「じゃあ年令的には私がお姉ちゃんですね?」

 「それはどうかしら? 私の方が彼との付き合いは長いわよ?」

 「愛は長さじゃなくて、深さだと思いますけど」

 「やっぱりライバルかもね? あなたと私、恋のライバル」


 直子と祥子は笑った。





 久しぶりに直子を抱いた。

 ホテルということもあり、直子はいつもより積極的になり、大きな声で喘いでいた。


 「あ、あ、あ、あ、下さ、い。もっと・・・激しく・・・」

 

 直子はすでに閉経していたので、俺はいつものようにそのまま中に放出した。


 彼女も俺に合わせてイッたようだった。

 精子が流れ出し、慌ててティッシュを股間に当てる直子。



 俺がタバコを咥えると、直子が火を点けてくれた。


 「お水、飲んで来ますね? もう喉がカラカラ」

 「俺にもくれ」

 「はい」


 直子の白い桃尻が、冷蔵庫の前に突き出ている。

 完熟された甘美な美しい尻だった。


 俺は喉を鳴らしてミネラルウオーターを飲んだ。

 直子も旨そうにそれを飲んでいた。


 「私、会社を辞めようと思うんです」

 「どうして?」

 「本気であなたを好きになってしまったからです」

 「だったらこのままウチで働けばいい」

 「いつかバレますよ。私たちの関係が」

 

 俺はタバコの煙を吸い、溜息を吐くように煙を吐いた。


 「仕事の宛てはあるのか?」

 「いいえ。ですから決まるまで会社において下さい」

 「どうした? 急に?

 職場で何か言われたのか?」

 「いいえ、みなさんいい方ばかりです。

 せっかく助けていただいたのに、すみません・・・」

 「仕事は俺が紹介してやるから心配するな」

 「ありがとうございます。助かります」


 直子は俺にカラダを寄せた。


 おそらく直子に退職を迫ったのは祥子だろう。

 それは俺も考えていた事だった。

 死んだ岩倉が言うように、社内に女がいるのは問題だった。


 だが、近くに置いて置きたいのも事実だった。

 この女を手放したくはないと。もちろん娘の遥もだ。


 「そうすれば、このままあなたを好きでいいですよね?」


 俺は直子を抱き締めた。


 「いいのか? このままで? 女好きの俺で?」

 「このままがいいんです、このままが。

 あなたはモテるから独り占めには出来ません。奥様やご家族には申し訳ないのですが、それでもあなたが好き」

 「すまないな? 辛い思いをさせて」

 「いいえ、好きになった私が悪いんですから」

 「声を掛けたのは俺の方だぞ」

 「忘れました。もうそんなことは・・・」


 そしてまた、俺たちの長い夜が始まった。


第四章

第1話 吉田の逆襲

 「祥子、沢村が会社を辞めたいそうだが、何か聞いているか?」

 「いいえ、何も」

 「そうか?」

 「残念ですが、そんな沢村さん、私は嫌いじゃありません」

 「祥子」

 「何でしょう?」

 「ありがとな」

 「何のことでしょう? 失礼します」


 祥子はそのまま女子トイレに駆け込み、周囲に誰もいないことを確認して泣いた。

 ブースに籠り、声を殺して泣いた。

 その涙は、本当は直子を傍に置いておきたい杉田の想いと、会社の安泰と杉田を守りたいという苦渋の選択、そして杉田をそれほどまでに深く愛している直子への嫉妬の涙だった。

 



 総務部長の村山と証券会社の常務、木戸が暗い面持ちでやって来た。


 「社長、大変です。うちの会社の株が何者かによって大量に買い進められています。すでに15%の株が取得されてしまいました」

 「この勢いで買い進められていくと51%に達し、経営権を奪われることも時間の問題です」

 「乗っ取りか? そんなアホなことをするのはアイツくらいなもんだろうな?」

 「社長はご存知なんですか?」

 「吉田だよ。ヘビみたいな野郎だな?」

 「TOBになる可能性があるかと」

 「公開買付か? そんなに欲しけりゃくれてやるのにな?

 アイツの目的は俺を社長の座から引き摺り下ろし、この会社を自由にしたいだけだ。俺への復讐だよ」

 「社長、そんな呑気なことを!」


 岩倉がこの木戸常務に勧められ、10年前に東証二部に株式を上場させたが、俺はその時だけは反対した。

 今回のように乗っ取りの危険や、株主たちの顔色を見て会社経営をするのが面倒だったからだ。

 だが、業務拡大の為にはカネが必要だった。


 証券会社の木戸は慌てていたが、村山は冷静だった。

 俺に何か策があるのだろうと踏んでいるようだ。




 数日後、吉田が会社へやって来た。

 受付から田子倉に連絡が入った。


 「秘書課長、吉田前専務が社長にお会いしたいと仰っていますが」

 「ちょっと待ってて」


 田子倉は内線で杉田にその旨を伝えた。

 

 「社長、吉田が社長にお会いしたいと下に来ておりますが、いかがなさいますか?」

 「来たか? 通してくれ」

 「かしこまりました」


 

 吉田が秘書室の祥子の前にやってくると、


 「お久しぶりです、田子倉社長秘書さん。

 相変わらずお美しい」

 「吉田さんも相変わらず悪い人相をされていますね? コソコソと泥棒でもされているのですか? それとも強盗かしら?」


 田子倉は立ち上がり、社長室のドアを3回ノックした。


 「吉田さんがお見えになりました」

 「通せ」


 吉田は勝ち誇ったような表情で、悠然とソファに座った。


 「ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです、杉田さん」

 「株を買い占めているんだってな?」

 「はい、大分集まりました。

 あとはTOBで一気に行かせていただきます。

 杉田さん、あなたは甘い。

 敵は最後まで息の根を止めておかないと、私のようにしぶとい獰猛で有能なライオンもおりますからなあ」

 「ライオンじゃなくて、間抜けな野良ネコじゃねえのか? そんなに欲しけりゃくれてやるよ、この『イワスギホーム』をよ。

 お前の好きにすればいい、どうせすぐに潰れてしまうだろうがな?」


 吉田の表情が変わった。


 「好きにさせてもらいますよ、あなたには散々煮え湯を飲まされましたからね? あなたはもう終わりだ。いくらあなたでも今度ばかりは無理ですよ。資金力が違う。それとも気の利いたホワイトナイトでも呼びますか?」


 そこへ田子倉が珈琲を持ってやって来た。


 「失礼いたします」


 田子倉は吉田の前にそれを静かに置いた。

 吉田は緊張のせいか、すぐにその珈琲に手をつけた。


 「うっ、何だこれは!」

 「お砂糖の代わりにお塩を入れておきました。お清めです。

 あら、少なかったですか? そのまま直にお掛けしますか?」

 「おまえたちはもう終わりだ! ジ・エンドだよ!」


 吉田は激怒して帰って行った。



 祥子が塩を撒き始めた。


 「社長、お清めしましょうね?」

 「祥子、メシでも食いながら作戦会議だ。村山も呼べ」

 「かしこまりました。『桔梗茶寮』を予約しておきます」

 「頼む」


 祥子はうれしそうに笑ったが、俺は笑わなかった。



第2話 会社は誰の物か?

 俺たち三人は、料亭の離れの部屋で食事をしていた。

 庭の水琴窟の音が、俺たちの沈黙を支えてくれた。


 村山も祥子も、酒には手を付けてはいなかった。

 俺からの言葉を待っているのだろう。

 会社を守るための策略を。



 「お前らも飲めよ。遠慮すんな」


 俺は盃をふたりに勧めた。


 「社長。どうするおつもりですか?」

 「村山。会社は誰のためにあると思う?」

 「お客様と株主様、それから業者さんやウチの取引先、そして創業者である社長と、岩倉社長のご遺族のためです」

 「一番大切なものが抜けてるな?」

 「社会のためですか?」

 「それもあるが会社とは、社員のためにある。

 社員は家族だ。いい仕事をして、みんなに喜ばれ、税金を沢山払う。

 それには社員が必要だ。

 社長なんかいなくても、お前ら社員がいれば『イワスギホーム』は安泰だ。

 社長なんて誰がなっても同じだよ。

 できた社員がいればそれでいい。

 俺は社員にカネを配り、適材適所に人を配置し、ゴルフをしておねえちゃんのケツを触っているだけだからな? あはははは。

 それが出来るのも、お前たちのお陰だ」

 

 祥子は吸い物の椀を置いた。


 「会社をあの人たちには絶対に渡したくはありません」

 「そうだな? 課長、お前も飲め」

 「頂戴します」


 祥子は盃を呷った



 「村山、ウチの株価は今いくらだ?」

 「今日の終値で1,380円です」

 「公開買付の予想は1,700円と言ったところか?」

 「おそらく」

 「吉田のことだから戦いを急ぐはずだ。明日には記者会見を開くだろう」

 「一気に売りが進み、向こうに株が流れるでしょうね?」

 「明後日、俺も記者会見をするから段取りを頼む。

 だがそれは木戸常務には言うな」

 「なぜですか?」

 「おそらく木戸は吉田と繋がっている。

 あの証券会社の親会社は、吉田が元いた銀行だからな」

 「なるほど」

 「だから木戸には嘘の情報を流せ」

 「どんな情報を?」

 「それは追って指示する。

 今、俺が持っている株式が20%。岩倉さん一族が20%。そして5%を佐田の婆ちゃんが持っている。

 つまり45%は安泰というわけだ」

 「では増資をお考えですか?」

 「それはしない」

 「ではどのように?」

 「俺の考えはこうだ」


 俺は村山と祥子に計画の概要を伝えた。




 「田子倉課長。吉田の女とお前、同期だったよな?」

 「はい」

 「お前はあの女に俺がかなり参っているので、買収を考え直して欲しいと、泣き言を言っていたと伝えてくれ」

 「かしこまりました」

 「話しは以上だ。課長、酒を頼む」

 「はい、喜んで!」


 その日、俺たちはかなり呑んだ。

 旨い酒だった。





 密談を終え、俺は久しぶりに絹世のマンションを訪れた。



 「今晩、泊めてくれ」

 「ご機嫌ですね? 誰と飲んでいらしたのかしら?」

 「俺のかわいい部下ふたりとな。いい酒だった」

 「どこか他の子猫ちゃんかと思いました。

 それなら大歓迎です」

 「すまんが、風呂を沸かしてもらえるか?」

 「わかりました。少しお待ち下さいね」


 絹世は俺に氷の入った水を差し出してくれた。

 

 「ありがとう。どうだ? 何か困ったことはないか?」

 「毎日楽しいですよ。

 でも最近、あなたがあまり来てくれないのが不満かも?」

 「ごめんな、寂しい思いをさせて」

 「何か召し上がりますか?」

 「いや、何もいらない。お前がいれば」


 絹世は満足そうに微笑んだ。


 

 洗面所に行くと、俺と絹世の歯ブラシが並んでいた。

 入浴剤を入れた白濁した浴槽に浸かり、俺は目を閉じ、溜息を吐いた。


 (俺はしあわせ者だ)


 祥子に村山、直子に遥、そして絹世。

 本当の家族は俺には冷たいが、俺には「他人の家族」がいる。


 バスルームの扉が開き、絹世が様子を見に来てくれた。


 「大丈夫ですか?」

 「ああ。いい風呂だよ」

 「そうですか? あまり長湯しないで下さいね?

 お酒を飲んでいらっしゃるから」

 「もうすぐ上がるよ」

 「下着とパジャマはここに置いて置きましたから」

 「ありがとう」

 


 

 俺は絹世を抱いた。

 酒をかなり飲んだこともあり、あそこは柔らかいままだったが、俺は性技を駆使した。


 絹世を背中から抱き締め、首筋に舌を這わせ、左手は乳房を、そして右手は潤んだ蜜壺へと入れた。


 「うっ、はあはあ、あっ、いや・・・」

 「久しぶりだからな? 溜まっていたのか?」

 「あっ、うっ・・・、もう自分、で、するのは、イヤ・・・」

  

 俺は中心に入れた指で、Gスポットを刺激した。


 「子宮まで、お願い・・・」

 「こうか?」

 「そこ、もっと、早く、あ、あ、んっ・・・」

 

 絹世は弓なりになり、ガクンと落ちた。

 指に内部の収縮が伝わる。




 そのまま俺は、いつの間にか寝落ちしていたらしい。

 時計を見ると午前4時だった。

 酒が抜けた後のペニスはかなり固く、勃起していた。

 俺は眠っている絹世のショーツを下ろし、丁寧にクンニを始めた。


 すると絹世も目を覚まし、シックスナインの体位を取った。


 「ふふっ、硬くて大きくなってる・・・」


 絹世の口の温かい感触、舌が絡み付いて来る。


 「バックでやるぞ」


 頷く絹世。

 絹世の美しい白い尻を抱え、俺は絹世の中に挿入した。

 メリメリと入って行く感覚が心地いい。


 俺はゆっくりと出し入れを継続した。

 それに合わせてベッドが軋み、絹世の喘ぎ声が高まっていった。


 「そのまま、中にお願い、頂戴!」


 俺は絹世の中に精子を放出した。

 短い叫び声をあげ、絹世は果てた。

 

 絹世のそこからは愛液と混じった白濁液が流れて来た。


 絹世はそれを拭こうともせず、俺に抱きつき甘えた。


 俺たちはそのまま朝を迎えた。



第3話 それぞれの男を守ろうとする女たち

 田子倉は吉田の愛人、島田薫子と客で賑わう居酒屋にいた。

 話の内容が内容だけに、静かな店より話し易かったからだ。



 「めずらしいわね? 祥子が私に会いたいなんて? 昔、私が誘っても冷たくあしらったくせに」


 薫子はハイボールを飲んだ。


 「アンタは嫌いじゃないわよ。仕事は#そこそこ__・__#出来るし、かわいいし。それにあざとくて。

 でも社内不倫をしているアンタは嫌いだった。

 ただそれだけのことよ」

 「でももう社内恋愛じゃないけどね?

 私も彼も、会社を追い出されちゃったから。

 祥子のボスに」

 「しょうがないでしょう? アンタのこれが犯罪を犯したんだから。

 警察に被害届を出さなかったこと、感謝して欲しいわよ」


 祥子は親指を立て、動かして見せた。


 「それで何が聞きたいの? こんな安い居酒屋に呼んで」

 「あの男と、まだつきあっているの?」

 「さあどうかしら? 週一では#している__・__#けど」

 「そう。相変わらず不倫続行中なんだ」

 「不倫じゃないわ。あの件で奥さんと子供たちは彼を見捨てたから。

 だから今は愛人じゃない、恋人よ。ただの恋人」


 田子倉は冷酒を優雅に飲み干して言った。


 「アンタに訊きたいことはないわ。でも、お願いがあるの」

 「どんなお願い?」

 「会社を盗まないで欲しい」

 「盗む? 人聞きが悪いわね? 盗むんじゃなくて「買う」のよ。

 あの人は会社を買うの、あなたたちが大切にして来たあの会社を」

 「だったら別の会社にすればいいでしょう?」

 「別の会社じゃダメよ。それじゃあ「復讐」にならないじゃない。あはははは」

 「社長は今回のことで酷く疲れているわ。

 傍で見てはいられないのよ、そんな社長の姿が。

 あの人を助けたいの。

 だからお願い、私たちの会社から手を引いて欲しいの」


 田子倉は杉田に言われた通り、泣き言を言って見せた。



 「そんなの知らないわよ。私たちはすべてを失った。あなたたちのせいでね?」


 田子倉はその言葉にはらわたが煮えくりかえったが、耐えた。


 「そう、じゃあ好きにすれば。

 私たちにはもう、どうすることも出来ないわ。

 私たちはもう終わりよ」

 「祥子、あなたもわかるでしょう? 好きな男が堕ちてゆく様が、いかに悲しく辛いものかが」

 「仕方がないわよ。社長にその才覚がなかっただけ。でも私は社長について行くわ」

 「社長と寝たの?」

 「まさか」

 「どうして? どうしてそこまでするの? あの男はもう終わりなのよ」

 「愛しているからよ、彼のことを。

 薫子、アンタの愛は本当の愛じゃない。アンタはただの都合のいい女。セフレよ」


 薫子の顔つきが変わった。


 「なんとでも言いなさいよ。あなたたちは負けたの。

 楽しみだわ、あの会社からあなたたちが追い出される日が待ち遠しい。

 じゃあ帰るわね? 今日はあなたの驕りよね?

 ごちそうさまでした。

 美味しいお酒をありがとう! もう会うこともないでしょうけど。バイバイ、元気でね? あはははは」


 薫子は勝ち誇ったように帰って行った。



 「すみませーん、冷酒お替りー。

 それからこの『ホタルイカの沖漬け』も頂戴」


 すると酔ったサラリーマンが祥子に声を掛けて来た。


 「美人なお姉さん! ひとりで飲んでるの? どう? オレと一緒に飲もうよ」

 

 田子倉はその男を睨み付けて言った。


 「私は今、ひとりで『勝利の美酒』に酔っているの。邪魔しないで」

 「ちぇっ、つれねえ女」


 男はふてくされて去って行った。



 「ごめんね薫子。あなたが悪いのよ、あんなオツムの悪い男なんかを好きになるから。あはははは」


 田子倉は杉田にLINEを送った。




   ミッション成功です




 するとすぐに杉田から返事が届いた。



              ご苦労様でした

              ありがとう



   こちらこそです

   おやすみなさい



 田子倉はスマホを抱き締めた。



第4話 妻の存在

 吉田たちは予想通り、TOBの記者会見を開いた。



 「わたくしたち、『キャピタル・インヴェストメント』は本日、『イワスギホーム』さんに対してTOBを行うことといたします。買入金額は1株1,700円をご提示させていただきます」

 「吉田代表。今なぜあなたたち外資のファンドが『イワスギホーム』なんですか? その根拠をお聞かせ下さい?」

 「単純なことですよ。勿体ないからです。

 今の経営陣を刷新することで、『イワスギホーム』は少なくとも今の10倍の利益が見込めると我々は判断しました。高性能住宅の技術と優れたデザイン、そして価格。

 折角の商品価値を有効に活用していない。

 これは社長の杉田氏を始め、経営陣の怠慢に他なりません。

 私たちには独自に開発をした『営業支援システム・ファニックス』があります。

 これにより、『イワスギホーム』は飛躍的に業績を伸ばすことになるでしょう」

 「吉田さんは以前、横領、背任の疑いで『イワスギホーム』を追われたとか? それは真実ですか?」

 「そのような事実はございません。

 仮にそのような事実があるとすれば、私は今頃刑務所の中です」

 「以上で記者会見を終了いたします」




 役員会議室で吉田の記者会見を見ていた役員たちは動揺していた。


 「乗っ取りだ。我々も終わりだな?」

 「何でもっと早く気付けなかったんだ!」

 「社長! どのようにお考えですか?」


 役員たちは騒然とした。



 「しょうがねえだろう? ウチを買いたいって言うんだから。

 俺たちは無能な経営陣らしいからな? あはははは」

 「吉田のやつ、社長の恩を仇で返しおって!

 社長! 笑い事ではありませんぞ!

 メインバンクと幹事証券会社と対抗策を考えるべきです!」

 「そう慌てるな。慌てる乞食は何とかって言うじゃねえか? 戦にはそれ相応の準備が必要だ」

 「準備も何も、すでにTOBを仕掛けられているんですよ」

 「だから?」

 「だからって社長・・・」

 「株主は1,700円で売ると思か?」

 「・・・」

 「俺なら売らねえな?

 お前らはこの『イワスギホーム』にそれしか価値がないと思っているのか?」

 「まずはもっと株価を吊り上げさせることだ。

 話はそれからだ。

 その前にお前らの覚悟が知りたい。

 村山、配れ」


 総務部長の村山は役員ひとり一人に書類を配った。



 「見ての通り、それは誓約書だ。

 俺と一緒に運命を共にする覚悟があるか? それとも吉田に付くか?

 俺に命を預ける奴だけサインしろ」


 すると全役員は誓約書にスラスラとサインをした。


 「村山君、ナイフはないのかね? これには血判が必要だろう?」

 「あはははは、みんな、ありがとう。

 気持ちだけ貰っておくよ。

 これからが決戦だ。みんなの力を貸して欲しい」


 俺は役員全員に向かって頭を下げた。



 「社長! 会社を守りましょう!」

 「そうだ! ハイエナやハゲタカに食われてたまるか!」

 「社長! どこまでも付いて行きます!」


 私は役員から寄せられた誓約書を手に取ると、それをふたつに破り捨てた。


 「おおっ!」

 「お前らの気持ちはよくわかった。よろしく頼む。散会」


 村山は泣いていた。





 深夜、家に帰ると女房の珠江がまだ起きていた。


 「おかえりなさい。大変なことになったわね? 大丈夫なの?」

 「ああ、別にどうってことはないよ。

 会社がデカくなると色んなことも起きて来るものだ」

 「カラダ、大丈夫なの?」

 「おかげさまでな? 医者には時々チェックしてもらっているよ」

 「ごめんなさいね、何も力になれなくて」

 「心配するな。お前たちの生活は俺が守る。

 これでもこの家族の主だからな?」

 「華蓮も信吾もあなたのことは好きなのよ。でもあなたは変わってしまった。

 それは私のせいだということも分かっているわ。

 でもね、私たちにはあなたが必要なの。

 あなたが外でどんな女を抱こうと。

 華蓮を産んでから、私はあなたを受け入れられなくなった。

 だからそれは仕方がないと思っている。

 あなたは男だから。

 私にそれを咎める資格はないわ。

 でも愛しているの。ずっと。

 何を失ってもいい。あなたが健康でいてさえくれれば。

 いざとなればみんなで働けばご飯くらい食べていけるもの。

 だから無理だけはしないでね?」


 意外だった。

 珠江がそんな風に想ってくれていたなんて。


 「若い頃は好きだの嫌いだのって浮かれていたが、結婚すれば現実が見えてくる。

 子供が生まれれば、育てていかなければならない。

 そしていつの間にか「お父さん」と「お母さん」になってしまう。

 それは仕方のないことだ。

 やがて子供たちはこの家を出て行く。

 そして俺たちは夫と妻に戻る。

 俺がどんな生き方をしようと、お前と別れて再婚する気はないし、外に俺の子供もいないし作る気もない。

 後にも先にも、女房はお前だけだ。

 それがイヤなら仕方がないけどな?」

 「ズルいひと。でも、いつでも私を頼ってね?」

 「その時はな。風呂に入ってくる」

 「何か食べる?」

 「大丈夫だ、明日も早いんだろう? 心配しなくてもいいから早く寝ろ」

 



 俺が寝床に就くと、珠江が俺の布団に入って来た。


 「不安で眠れないの」

 「そうか」

 「どうして今まで、こんな風に出来なかったのかしら? あなたに甘えることが出来なかった」

 「これから甘えればいい」

 「何不自由のない生活に慣れていたのかもしれないわね? あなたのお陰だということも忘れて」

 「それが旦那の役目だ。

 そして俺がここまでこれたのも、珠江、お前のおかげだ」

 

 珠江が唇を重ねて来た。


 それは長い間忘れていた、妻のキスの味だった。


 その夜、俺は妻という女を抱いた。



第5話 ただのセフレ

 吉田たちの仕掛けたTOBは、意外にも不発に終わった。



 「2,000円まで引き上げろ!」


 吉田はかなり苛立っていた。

 予想外だったからである。


 「欲たかりな株主どもめ! 足元を見やがって! あるいは杉田の会社の将来性を信じているとでも言うのか! 馬鹿馬鹿しい!」





 その夜、吉田は激しく薫子を抱いた。


 「杉田の野郎! いい気になりやがって!」

 「うっううう、あ、あ、あ、はうっ・・・」


 吉田は前戯もそこそこに、薫子に腰を打ち付けていた。


 「イクっ・・・」


 薫子がエクスタシーを迎えても吉田は動きを止めなかった。



 少し遅れて射精すると、すぐに吉田は薫子からペニスを引き抜き、精液の溜まったコンドームを外して口元を縛り、ティシュに包んで無造作にゴミ箱に捨てた。

 吉田はシャワーを浴びるため、薫子を放置したままベッドを降りた。


 吉田の薫子とのセックスはいつもこうだった。

 相手のことはお構いなしに、自分勝手にコトを始め、終えてしまう。

 SEXの余韻を楽しみながらのピロートークもない。

 まるで人形を抱くような、「愛のないセックス」だった。


 だが薫子はそれで満足だった。

 寧ろ吉田のそんな冷酷なところにすら、惹かれていた。


 

 シャワーを終えた吉田は、自分だけ冷蔵庫から缶ビールを取り出し、喉を鳴らしてそれを飲んでいた。


 

 ベッドで腹這いになった薫子が言った。


 「夕べ、祥子と会ったの。安い居酒屋に誘われた・・・」


 吉田は缶ビールを飲むのを止めた。


 「それで?」

 「会社を盗らないでって言われたわ」

 「そうか? アイツら相当参っているようだな?」

 「あんな弱気な祥子を見たのは初めてだった」


 吉田はうれしそうに再びビールを飲んだ。


 「あはは、そうか? あのやり手の田子倉がそんなことを?

 実に愉快だ! 頭を抱える杉田の顔が目に浮かぶぞ! あはははは」


 吉田はさっさとスーツに着替え、薫子のマンションを出て行った。



 「私はただのセフレか・・・」


 薫子はベッドから起き上がり、そのまま熱いシャワーを浴びた。





 

 田子倉と村山を社長室に呼び、俺は準備の状況を確認した。


 「ミツワ銀行から言われたよ。「杉田社長、お困りのようですね? 当行がホワイト・ナイトになって差し上げてもかまいませんよ」とな?」

 「そうですか?」

 「そうですかって、村山、それだけか?」

 「そんな提案、社長がお受けになるわけがないからです。銀行の飼い犬になる社長ではありませんから」


 俺はいい部下を持ったと思った。


 「株価が1,700円になっても動いたのは僅か8%。吉田の奴、今度は株価を2,000円にするはずだ。

 準備の方は出来ているか?」

 「はい。記者会見にはプリンスホテルの大広間を抑えました」

 「こ っちの方も揃いました」

 「よし、本日13時、予定通り記者会見を行う」

 「午前中に行わなくても大丈夫ですか?」

 「2,000円に株価を吊り上げるには本国の決済がいる筈だ。そして今、吉田は油断している。

 田子倉課長の演技を信じた、吉田の愛人によってな?」

 「では予定通り」

 「ああ、やる。俺たちの夢を守るために」

 「はい!」

 「ワクワクして来ましたね?」

 「では役員たちとアイツらにも伝えろ。遅れずに会場に来るようにとな」

 「かしこまりました」


 杉田の逆襲が始まろうとしていた。



第6話 決戦

 広々とした記者会見会場には多くのマスコミが集まっていたが、それでも用意した大広間は閑散としていた。

 だが、記者会見の場をここにしたのには理由があった。



 ホテルの司会者が進行を始めた。


 「それでは定刻となりましたので、『イワスギホーム』の杉田社長の記者会見を始めさせていただきます」



 吉田たちも自分たちのオフィスで、薄ら笑いを浮かべてそのテレビ中継を見ていた。


 「ふん、万策尽きたか? 杉田」




 俺はマイクの前に立った。


 「みなさん、本日はお忙しい中、ここにお集まりいただき、誠にありがとうございます。社長の杉田でございます。

 結論から申しますと、この度の吉田氏の企業買収の件につきましては、我々はそれを黙殺することといたしました」


 会見場が騒然となった。


 「ということは杉田社長! 会社を明け渡すということですか!」

 「いいえ、#無視__・__#するということです」

 

 会場に再びどよめきが起こった。


 「敵対的買収に何の策も講じないとは、あまりにも無責任じゃありませんか!」

 「そうだ、無責任だぞ!」

 「やっぱりアンタは無能な経営者だ!」


 マスコミの怒号が飛んだ。

 会場に静寂が戻るのを待って俺は続けた。



 「こういうアホなカネの亡者も出て来ることを鑑み、この『イワスギホーム』は私が個人で商標登録をしております。

 そして私は仮に100億積まれても、それを譲る気持ちはありません」

 「吉田さんは「社名は変える」と言っていましたよ!」

 「そうでしょうね? 価値が上がればどうせまた売り飛ばすんでしょうから。

 でもどうでしょう? もし、会社に社員がいなくなってしまったとしたら?」

 「どういう事ですか!」

 「こういう事です」


 俺は演台の下に隠しておいた、ふたつのダンボールに入った社員全員の退職届をテーブルの上に置いた。


 「これは全社員から預かった退職願です。

 もし、会社が彼らの手に渡るようなことがあれば、社員全員、この会社を去るというものです。

 「企業は人なり」です。

 社員あってこその会社なのです。

 会社に価値があるんじゃない、そこで働く社員に価値がある。

 そして会社は家族、ファミリーなんです。

 ここにいる役員たちをはじめ、ウチの社員たちは美味い餌をもらえればホイホイついて行くような、尻軽社員ではない。



       All for one One for all 



 誰のために働くか? それが生甲斐なのです」

 「それは社長、杉田さんのためにということですかあ!」

 「そんなの詭弁だ!」


 俺はその記者たちを睨み付けて言った。



 「馬鹿野郎! 会社は俺のためにあるんじゃねえ! お客さん、株主さん。銀行さんや職人さん。取引先の人たちや社員、そしてその家族のためにあるんだ! 社長を代われというならいつでも代わってやるよ!」


 その時、会場の扉が開き、社員や汗で汚れた作業服を着た業者さん、顧客、株主さんたちが会場を埋め尽くした。

 会場に入りきれず、ロビーや廊下も『イワスギホーム』の関係者でいっぱいになっていた。



 「ス、ギ、タ! ス、ギ、タ! ス、ギ、タ! ス、ギ、タ!・・・」


 鳴り止まない杉田コールに会場は包まれた。


 「みなさん! ありがとうございます!

 本当にありがとう!」


 俺は深々と頭を下げた。


 「これから当社は新株を発行をし、増資を行います。

 私たちと共に、より良い家を作りませんか!

 どうか、私たちを応援して下さい!

 家は家族のための『船』ですから!」


 また大きな歓声とシュプレヒコールが巻き起こった。


 杉田には計算があった。このタイミングで新株を発行すれば、『キャピタル・インヴェストメント社』はどうせ買い取った株を売るだろうが、仮に保有されたままでも、その占有率を下げることが出来た。

 会社には潤沢な資金が集まり、店舗展開を充実させ、研究部門、デザイン部門にもより優秀な人材を集めて会社を強化することが出来る。

 『イワスギホーム』は大きく躍進することになるだろう。




 珠江も華蓮も、そして信吾もテレビの中継を見ていた。

 もちろん、絹世も直子も遥もだ。

 そしてクラブのチイママだった芳恵も、LAで同じ大学の恋人、デビットとネット中継を見ていた。



 「ヨシエ。彼が君の元恋人かい? なんて言っているんだい?」


 芳恵は笑って彼に答えた。


 「今でも君を愛してるって」

 「ジェラシーを感じるよ」


 


 娘の華蓮が言った。


 「ママ、パパってカッコいいね?」

 「そうね?」


 珠江と華蓮は泣いていた。



 「俺、出掛けて来るよ。晩飯はいらない」

 「気をつけて行くのよ」

 「うん」


 

 家を出ると、信吾は恋人の舞に電話を掛けた。


 「今、ヒマか?」

 「私も今、信吾にLINEしようとしていたところ。すごいね? 信吾のパパさん!」

 「驕るよ、一緒にメシでも食おうぜ」

 「うん! 喜んで!」





 吉田たちは言葉もなく、ただ呆然としていた。


 「ボス、本国からチャットが繋がっています」

 「わかっているよ、どうせ「お前はクビだ」ってことだろう・・・」


 吉田は静かにオフィスを出て行った。


 その後、吉田を見かけた者はいない。



 

 「運のない、かわいそうな人・・・」


 愛人だった薫子にも何も告げず、吉田は消えた。



第7話 一夜限りの夢

 会見を終え、会社の連中は街に祝杯を挙げに繰り出したが、俺はひとり、会社に戻った。


 俺にはこの難関を切り抜けたという満足感も、喜びもなかった。

 ただ疲れた。

 そしてこれからまた、新たな戦いが始まる。

 会社経営とは、毎日が問題解決の連続なのだ。

 俺は携帯を機内モードに設定し、社長室の椅子に座り、放心していた。


 その時、開け放したままのドアに立ち、微笑む祥子がいた。


 「社長、お邪魔してもよろしいですか?」

 「みんなと飲みに行かなかったのか?」

 「途中で抜け出して来ちゃいました」

 「どうして?」

 「社長秘書ですから、私」

 「ありがとう祥子。お前のおかげで会社を守ることが出来た」

 「私はただ、社長から言われたことをしただけです。会社を救ったのは社長です」

 「何か礼をしなくちゃな? 何が欲しい?」

 「だったらお願いがあります」

 「なんだ?」

 「お酒、飲みに連れて行って下さい。

 今夜は社長と飲みたい気分なんです。秘書としてではなく、ひとりの女として」




 俺たちは会社を出て、俺の行きつけの小さなJAZZ・BAR、『Wild Cat』にタクシーで向かった。


 タクシーの中で、祥子は俺の肩に自分の顔を載せた。


 「今夜だけ、私の止まり木になって下さい」

  

 俺はそのまま祥子の肩を抱いた。




 銀座の外れのその店には、ささやかな明かりが灯っていた。


 「よう、こんばんは」

 「あらどうしたの? めずらしいわね? 今や有名人の杉ちゃんが、こんな美人さんをウチに連れて来るなんて。ここにはいつも一人でしか来ないのに」


 オーナーのみすずママはそう言って笑うと、外のマットを店の中に仕舞ってドアに鍵を掛けた。


 「今日は平日だし、杉ちゃんたちの貸し切りにしてあげる」

 「ありがとう、ママ」

 「今日は私の奢り。記者会見、水戸黄門みたいでスカッとしたからそのお祝い」

 「水戸黄門は爺さんだぜ。せめて吉宗にしてくれよ」

 「そうね、杉ちゃんは『暴れん坊将軍』だもんね? あそこが。あはははは」

 「ママさんって、杉田さんとお付き合いしていたんですか?」

 「まさか! お客さんよお客さん。でも、特別なお客さんね? 私、杉さんのファンだから。お嬢さんは何にする?」

 「じゃあ、マルガリータを」

 「杉さんはいつものでいい?」

 「ああ、それを頼む」


 みすずママはコルトレーンからマイルスデイビスにレコードを変えると、見事なシェイカー捌きでマルガリータを作り、俺にはラフロイグのロックを出してくれた。


 「お邪魔でしょうから、私はあがらせてもらうわね? 後は勝手に飲んでいいから。

 これ、勝手口の鍵。戸締りだけはお願いね?

 ではどうぞごゆっくり」


 みすずママはそう言って帰って行った。



 「随分信用されているんですね?」

 「信用しているのは俺の方だ。まずは乾杯するか? ご苦労様、祥子。

 ありがとう」

 「社長、お疲れ様でした」


 俺たちはグラスを合わせた。


 「おいしいー。今日のお酒は格別です。

 今夜だけ、甘えさせてもらってもいいですか?」

 「今夜だけな?」

 「はい、今夜だけ。私たち、バディですから」

 「バディか・・・」


 俺はタバコに火を点けた。


 「そのタバコ、私もいただいていいですか?」


 咥えていた俺のタバコを祥子の口に咥えさせ、俺は新たに別のタバコに火を点けた。


 「不良になった気分です」

 「酒とタバコでか?」

 「今夜はその先もあるかもしれません」


 俺は横顔で笑った。

 気怠い帝王のトランペットが心地いい。

 こんなに旨い酒は社長になってから一度もなかった。

 社長になるとメシを食っても味がしない。

 酒を飲んでも酔えない。

 そして女を抱いても本当の快感は得られなくなっていた。

 だが今夜はとても安らかな、満ち足りた気分だった。


 俺たちは何も言わずに寄り添い、タバコを吸い、酒を飲んだ。


 祥子がふいにキスをして来た。

 甘く、蕩けるようなキスだった。

 突き抜けるようなマイルスのトランペットの高音が聴こえた。


 「もっと不良になりたい・・・」


 俺たちは激しく抱き合い、口づけを交わした。




 店を出ると、そのままホテルに入った。


 一夜限りの夢を求めて。



第8話 愛すればこそ

 祥子は俺に優しくキスをして、部屋の灯りを消した。


 「約束して下さい、これが最初で最後だと」

 「どうして?」

 「社長のことを、ずっと愛していたいからです」

 

 俺は祥子を抱き締めた。


 「お前は俺の#会社での女房__・__#だからな? 祥子は他の誰よりも俺を理解してくれている。そしてどの女よりも祥子といることの方が長い」

 「会社での女房ですか? うれしい・・・」

 

 俺と祥子は薄明りの中でソファに並んで座った。

 エアコンの音と冷蔵庫の音。

 そして祥子の甘い吐息が漏れて来た。

 長いキスの後、俺たちは服を脱ぎ始めた。


 下着姿になった祥子は洗面所へ消え、彼女がシャワーを浴びる音が聞こえて来た。


 窓のないラブホテル。

 俺はトランクスだけになり、そのままベッドで彼女が来るのを待った。



 「お待たせ・・・」

 「俺もシャワーを浴びて来るよ」

 「浴びなくていいの。そのままで。

 あなたの香りを覚えておきたいから」


 バスタオルを巻いた祥子が俺の隣に横たわった。


 口づけを交わしながら俺は下着を脱ぎ捨て、祥子のバスタオルを剥いだ。


 滑らかな素肌の感触。

 まだ祥子の体はシャワーを浴びたばかりで、しっとりとしていた。

 俺たちは五感のすべてを使い、お互いのカラダを確かめ合った。


 「あっ、あん、んっ、あ・・・」


 祥子の喘ぐ声と俺の呼吸が次第に荒くなってゆく。


 「ハアハアハアハア、祥子・・・」

 「すぎ、た、さん!」



 今までにない快感が、俺たちのカラダを何度も貫いた。

 そして俺たちは心地良い解放感に包まれていた。



 「今日の杉田さん、とっても素敵でした。外国映画のヒーローみたいでした。

 だから今日、どうしても杉田さんとこうなりたかった」

 「お前のお陰だよ、祥子」

 

 俺は祥子を抱き寄せた。


 「私なんです、直子さんに決断を迫ったの。 

 会社に残りたいなら社長と別れなさいって。 

 そしてもし、社長を諦め切れないなら、その時は会社を辞めて欲しいって。

 そうしたら彼女、会社を辞める道を選びました。

 私、彼女に嫉妬しました。

 杉田さんを盗られてしまったって」

 「知ってたよ。社長の俺には社内恋愛は許されないからな?」

 「間違っていますよ、それ。社内恋愛じゃなくて#社内不倫__・__#です」


 祥子は俺の肩を甘噛みした。


 「そして直子さんは私に訊きました。

 「課長は社長を愛しているんですね?」って?」

 「それで? 何と答えたんだ?」

 「愛しているわよ。だからお付き合いはしないって答えました」


 祥子は秘書課長の目をしていた。


 「俺は女癖が悪いからなあ」

 「杉田さんはやさしいんですよ。スケベでやさしくて、罪な人・・・」

 「千葉辺りの海沿いに、デカイ屋敷を建てて、みんなで仲良く暮らせたらいいのになあ」

 「ハーレムですね? 今日は奥さんとして、明日は直子さん? その次の日には絹世さんで、そして最後が私・・・。

 大変ですね? カラダが持ちますか?」

 「なあ祥子、どうして日本は一夫多妻や一妻多夫が駄目なんだろうな?」

 「それは女も男も、自分の好きな相手を独り占めしたいからですよ。自分以外の異性といるなんてイヤだからです」

 「一般的には一緒の食事は許せても、セックスはダメだと言う。

 俺は同じ事だと思うんだ。メシを食うのもセックスをするのも同じだ。

 どちらも五感で楽しむ物だからな?

 俺は女が食べている姿にエロスを感じる」

 「でもSEXはお互いを裸のままで結合させるんですよ? 素肌のままで」

 「じゃあ手を繫ぐのも駄目なのか?」

 「駄目に決まっているじゃないですか。それは浮気です」

 「そうか・・・。男と女のカラダって、合体するように出来てるじゃねえか? そして子供が出来る。

 セックスってそんなに特別な事なのか?

 俺はエロとエロスは違うと思う。

 エロは猥雑だがエロスは愛だ。

 愛のあるSEXは罪ではない。

 アダムとエヴァが人類の起源なら、みんな兄妹じゃねえのかなあ? 近親相姦の繰り返し。

 つまり俺たちは「ファミリー」じゃねのか?

 だったら一緒に暮らしたり、魅力的な女や男がいれば、何人と付き合ってもいいんじゃねえのか?

 俺っておかしいのか?」


 祥子は俺にキスをして言った。


 「おかしくはないですけど、ヘンです」

 「そうか? お前でもそう思うか・・・」

 「ヘンですけど、好きです。あなたの事が・・・」


 もう朝が近づいているはずだ。

 俺たちの一夜限りの夢が消えようとしていた。


 「忘れないよ、今日の日のことは」

 「私も忘れません。絶対に」


 最後の口づけは、甘く切ない余韻を残して。



第9話 家族との朝食

 早朝、家に帰ると珠江が出迎えてくれた。


 「お風呂、沸いているわよ。それとも他で入って来た?」

 「朝メシを頼む。風呂に入って着替えてすぐに出掛ける」

 「わかったわ。あなた?・・・」

 「何だ?」

 「昨日、素敵だったわよ」

 「風呂に入って来る」


 罪悪感は不思議となかった。

 祥子とのそれは最初で最後であり、愛ある別れだったからだ。




 風呂から上がると華蓮と信吾も起きて来た。


 「パパ、おはよう。昨日のパパ、マジ、イケてたよ」

 「おはよう華蓮。いつもと変わらねえよ」

 「クラスのみんなから、「華蓮のパパって凄いね! 私も華蓮のパパさんの会社で働きたい」って褒められちゃった」


 久しぶりに娘と話しをした。

 うれしかった。


 朝食には俺の好物が並んでいた。

 ブリの照り焼きになめこおろし。ほうれん草の胡麻和えに甘い出汁巻き卵。そして赤出汁の味噌汁。

 珠江は料理が得意だった。

  

 「いただきます」

 「いただきまーす」

 「あなた、お疲れ様でした。

 体だけは気を付けて下さいね?」

 「ああ、まだ死ぬわけにはいかねえからな」


 家族で朝食を囲むなんて何年ぶりだろう。

 朝食がこんなにも旨い物だということを、俺はすっかり忘れていた。

 食事をしながら信吾が言った。


 「親父、今度、釣りに連れて行ってくれよ」

 「当分は無理だが、そのうちな」

 「うん」


 信吾とはもう何年も口をきいていなかった。

 私は「家族」を実感していた。


 その日、俺は珍しくメシをお替りした。


 「お替りをくれ」

 「はい」


 珠江が笑っていた。華蓮も信吾も笑っていた。

 俺は家族を取り戻した。






 「杉田社長、おはようございます」


 何事もなかったかのように祥子が社長室に入って来た。


 「おう、おはよう」


 俺は内心ドキドキしていた。

 昨夜の祥子を想い出してしまったからだ。



 「本日10時より大岡証券、原田専務様と打ち合わせ。14時からOMG三友銀行頭取と会談、その後は赤坂でご会食の予定となっております」

 「しばらくはこんな調子だな?」

 「忙しくなりますね?」


 祥子はいつものように笑った。

 輝くような笑顔だった。

 男の器量は自分に付く女で決まる。

 女は男にとってのパワー・ジュエリーであり、華なのだ。


 お互いの想いに封印をして、俺たちはいつものように社長と秘書を演じた。

 俺もこれでいいと思った。

 俺と祥子にとって会社は子供であり、祥子はまだ若く美しい。

 俺のようなオヤジが、祥子の女としてのしあわせを妨げるべきではないのだ。



 LINEやメールが洪水のように押し寄せて来る。

 アポイントはすべて祥子が上手く、プライオリティを決めて調整してくれていた。


 直子と遥、絹世からもLINEが届いていた。

 どれも内容は同じだった。



   会いたい いつ会える?

            

               後で連絡するよ



 さらに着信メールを検索していくと、見慣れぬアドレスを見つけた。

 それは銀座の高級クラブ、『紅の月』のチイママ、芳恵からだった。


   おつかれさま

   ネットで観てました

   杉ちゃんの雄姿

   お正月には帰国します

   その時 お祝いしたい



 俺はすぐに返信した。

 


              俺がそっちに行っても

              いいぞ



 芳恵から返信が来た。



   とりあえず日本でいい

   体に気をつけて 無理

   しちゃダメよ



 俺は次のアポまでの間、机に溜まった書類を片っ端から片付け始めた。



第10話 もうひとりの娘

 遥からLINEが届いた。



   パパ 回転寿司を

   ごちそうして


            いいぞ 今どこだ?


   パパの会社の近く


            迎えに行ってやるから

            待ってろ


   はーい♡




 俺は遥を角田の運転する社用車ですぐに迎えに行った。


 「乗りなさい」

 

 高校の制服を着た遥はアイドルのようで、かなり目立っていた。


 「忙しいのにごめんなさい。どうしてもパパの顔が見たくなっちゃって」

 「ごめんな? メシにも誘ってやれずに。

 19時までは時間があるから大丈夫だ。鮨なら回らねえ鮨屋でもいいぞ」

 「ううん、回るお寿司でいいの。一度パパと行きたかったんだ」

 「そうか? 角田、一番近い回転寿司屋に頼む」

 「かしこまりました」




 店は夕方ということもあり、混んでいた。

 俺と遥は並んでカウンターに座った。

 遥はうれしそうだった。



 「私、回転寿司って大好き!

 安いし、いろんな物が流れてくるからワクワクしちゃう。

 茶碗蒸し、食べてもいい?」

 「好きな物を食え」

 「パパは?」

 「俺も頼む」

 「すいませーん、茶碗蒸し2つ下さーい!」



 子供たちがまだ小学生の頃までは、回転寿司にもよく連れて行ったが、大きくなってからは外で一緒にメシを食うこともなくなっていた。

 俺は旨そうに寿司を頬張っていた華蓮や信吾を思い出していた。


 「はいパパ、お茶どうぞ」

 「おお、ありがとう」

 「ママも誘ったんだけど、ママ、今日は残業だからよろしくって言ってた。

 今日はパパを独り占めだね?」

 「今日は遥とデートだな? さあ、どんどん食べろ。腹減っただろう?」

 「じゃあ遠慮なく」


 遥はマグロに手を伸ばした。

 

 「パパもマグロ、食べる?」

 「ああ」


 遥はマグロの皿をふたつ取ると、ひとつを俺の前に置いてくれた。


 「はい、どうぞ」

 「ありがとう」


 俺は少し照れ臭かった。

 遥を本当の自分の娘のように感じていたからだ。


 「この前のパパ、すごく格好良かったよ。ママとふたりで泣いちゃった」

 「ママは元気か?」

 「うん、毎日がんばってるよ」

 「そうか?」

 「でもね、パパに会えなくて寂しそう。

 時間が出来たらママを旅行に連れて行ってあげて欲しいなあ」

 「遥も一緒にな?」

 「私はいいよ、お邪魔だから」

 「そんなことはねえよ、俺たちは家族じゃねえか?」

 

 遥の箸が止まった。

 遥は泣いていた。

 遥は紙のおしぼりを取り、涙を拭いた。


 「・・・うれしい・・・」

 「お前たちは俺の家族だ。たとえ離れていてもな?

 いいからたくさん食え。イカ、好きか?」

 「うん」


 今度は俺がイカの皿をふたつ取り、ひとつを遥に渡した。


 「ほら」

 「ありがとう、パパ」

 「今度は沖縄にでも行くか?」

 「飛行機で?」

 「電車じゃ行けねえだろう?」

 「そうだね? あははは」


 その後、俺と遥はまるで父娘のように寿司を食べ、締めにはプリンを頼んだ。




 店を出ると、角田が外で待っていてくれた。

 どうやら寿司屋の近くをグルグルと回っていてくれたようだった。


 「駅まで送ってやるから乗りなさい」

 「大丈夫だよ、近くに地下鉄もあるし」

 「そうか?」


 俺は財布から1万円を取り出し、遥に渡そうとしたが遥はそれを受け取ろうとはしなかった。

 遥はいつも、俺からのカネを拒む。


 「いいよ、私もバイトしてお金あるから」

 「遠慮するな、帰りに本でも買え。お母さんによろしくな?」


 俺は無理矢理、遥にカネを渡した。


 「ありがとうパパ。今日はごちそうさまでした。

 すごく美味しかった」

 「腹が減ったらいつでも連絡しろよ。

 仕事がなければごちそうしてやるからな?」

 「ありがとうございます。今度はママと一緒にね? 家族で」

 「ああ、家族でな?」


 俺は手を振りながら雑踏に紛れて遠ざかっていく遥を見送った。

 角田もクルマから降りて遥に頭を下げた。


 「社長、いいお嬢さんですね?」

 「角田、お前は出来たドライバーだよ」

 「社長の運転手ですから」

 「そうだな? あはははは」


 角田と俺は笑った。


 角田は娘の花蓮を知っていた。



第11話 女ともだち

 祥子と直子は銀座の路地裏にある、小さな焼鳥屋で呑んでいた。


 「大将、熱燗もう一本ちょうだい」

 

 祥子は杉田から貰った銀のシガレットケースを開くと、直子にも煙草を勧めた。


 「私はいいわ」

 「そう」


 祥子はタバコを1本取り出すと、カルチェの赤いライターで火を点け、薄っすらと煙を吐いた。


 「このシガレットケースとライター、社長から貰った物なの。どう? いいでしょう?」

 「愛されているのね? 杉田さんから」

 「直子は彼から何を貰ったの?」


 直子はコップ酒を呷って言った。


 「私は物じゃなく、希望を貰った。

 生きる希望を・・・」

 「希望かあ? なんだかムカつく。

 物じゃなく、それはお金では買えない物だから」


 祥子はネギ間を食べ、熱燗を飲んだ。


 「私は愛人のままで十分しあわせなの。彼を独り占めしようなんて思わないわ」


 直子は日本酒からレモンサワーに変えた。


 「この前の記者会見の夜、私、杉田に抱かれたわ」

 「嘘つき」

 「知らなかった? 私は嘘吐きよ。

 直子のせいよ、私を嘘吐きにさせたのは。

 アンタが会社を辞めてまで彼を愛そうとしたから、だから私、気が変わったの」

 「でも祥子なら許す」

 「それはどうも」

 「どうして惹かれちゃうんだろうね? 彼に」

 「あんなに浮気者なのにね?」

 「祥子はわかっているんでしょう? 杉田さんと付き合いが長いから」

 「直子と同じよ。私たちの恋愛は、恋じゃなくて愛だから」

 「あんなにスケベなオヤジなのにね?」

 「そうそう。でも惚れちゃうんだよねえー」

 「仕事をしている時の彼は別人だもんね?

 仕事をしている時の鋭い眼差し、血管の浮き出たゴツゴツとした大きな手。

 口は悪いけどやさしい人・・・」

 「そして寂しがり屋さんで、時々すごく悲しそうな眼をしている・・・」

 「守ってあげたくなるのよねー」

 「癒してあげたくなる」


 祥子はタバコをふかした。

 

 「でも安心して、杉田とは約束したから」

 「どんな約束?」

 「もうエッチはしないという約束」

 「別にすればいいのに。好きなんでしょう? 彼のことが?」

 「好きよ、直子よりもずっとずっと大好き!」

 「私はもっともっともっと大好き!」

 「いいわね? 直子は?」

 「どうして?」

 「彼と適度な距離感があるから。私はダメ、奥さんよりも一緒にいる時間が長いから。

 愛人というより妹ね?」

 「近親相姦じゃないの? 変態!」

 「杉田に言われたの、「お前は俺の会社での女房だ」って。うれしかった」

 「会社での奥さんかあー。なんだか羨ましいなあー」

 「私は直子が羨ましい。私は杉田が好きだけど会社も好き。だから彼とはSEXはしないと決めたの。彼と会社を守るために」

 「そういう祥子、嫌いじゃないよ。寧ろ好き」

 「あらやだ、私はノーマルよ。男が好きだもん」

 「女同士もいいものよ」

 「直子ってレズなの?」

 「嘘よ。祥子が嘘吐いたからそのお返し」

 「もう、ビックリさせないでよねえ」


 その時、直子が祥子に軽くキスをした。


 「会社と彼をよろしくね?」

 「直子、愛人ナンバーワンになってよね?」

 「もちろん!」

 「おじさん、お酒、もう一本!」

 「私もお替わりー」

 「あいよ」


 ふたりは夜更けまで飲んだ。楽しい酒だった。




 「じゃあ気を付けて帰ってね?」

 「祥子もね?」

 「また飲もうね?」

 「もちろん!」


 

 直子は祥子と別れてからすぐ、杉田に電話をした。

 杉田はすぐに電話に出た。


 「どうした?」

 「さっきまで田子倉さんと飲んでたの。銀座の焼鳥屋さんで」

 「そうか? 大分ご機嫌だな?」

 「会いたい、今すぐに」

 「まだ銀座か?」

 「うん」

 「1時間でそっちに行くから『銀次』で待ってろ」

 「待ってる。ねえ?」

 「何だ?」

 「愛してる?」

 「当たり前だ」

 「当たり前じゃなくて、愛してるって言って」

 「そんなこと、軽々しく言うもんじゃねえだろう? 価値が下がる」

 「いいから言って! お願い!」

 「月がキレイだな?」

 「馬鹿! ふざけないで!」

 「後で言うよ」

 「ダメ、今言って!」

 「愛してるよ・・・、直子」

 「嘘でもうれしい・・・。

 じゃあ、待ってる」

 「気を付けてな」


 直子は泣きながら『銀次』へと向かった。


 深夜の銀座の並木通りには、夜の女の香りがした。



第12話 愛すれど切なく

 俺が『銀次』に着くと、めずらしく直子は泥酔していた。


 「遅ーい! いつまで私を待たせ るつもりー!」


 理知的で俺の前ではあまり酒を飲まない直子がだ。


 「随分とご機嫌だな? 何かいいことでもあったのか?」

 「ありましたよーだ。とってもうれしいことが! あはははは」


 そう言って直子が冷酒を飲もうとした時、俺はその酒を取り上げ、飲み干した。


 「何をするのよ! 私のお酒を!」


 銀次が詫びた。


 「すみません社長、どうしても飲みたいと仰るもので。

 社長がお迎えに来るからと」

 「迷惑を掛けてすまなかった。

 勘定をしてくれ、コイツを連れて帰るから」

 「いつもありがとうございます」


 銀次とは長い付き合いだった。

 この男も運転手の角田と同様、俺をいつも守ってくれる。


 「私、帰らないわよー。今日はまだ飲むんだから!」

 「いいから来い」


 俺は直子の手を引いて、待たせて置いたタクシーに乗せた。

 俺が時々仕事部屋に使っている、汐留のホテルに向かった。


 「ごめんなさい・・・、あなたに凄く会いたくて・・・」

 「ずっと会えなかったからな? ごめんな?」


 直子は俺の肩に凭れ、泣いた。




 部屋に入ると冷蔵庫からミネラルウォーターを出して直子に渡した。


 「ありがとう、ございます」

 「それを一気に飲んで、トイレで吐いて来い。

 そうすれば少しはラクになるから」

 

 直子は水を飲むと、すぐにトイレに駆け込んだ。

 気持ち悪いのを我慢していたのだろう。

 私はトイレを抱えて嘔吐している直子の背中を摩ってやった。


 「すみません、もう、大丈夫です」


 直子は口をすすぎ、歯を磨いた。



 直子はソファの俺の隣に座り、残った水をゆっくりと飲んだ。

 大体の話は察しがついていた。

 おそらく祥子が俺と寝たことを直子に話したせいだろう。

 女房や他の女なら許せても、祥子は許せなかったはずだ。

 それはお互いがよく似ていたからだ。



 「祥子と寝たんですってね? 祥子が自慢していました」

 「そうか? 俺は誰の物でもねえけどな? でも直子は俺の物だ」

 「私、都合のいい女ですか?」

 「放ってはおけない女だ」

 「どうして?」

 「俺に必要な女だからだ」

 「たまにしか会えなくてもですか?」

 「それじゃイヤか?」

 「寂しいです・・・」

 

 直子は俺に跪き、太腿に顔を載せた。


 「それでも好き、あなたのことが・・・」

 

 俺は直子の頭をやさしく撫でた。


 「抱いて、思いっきり。祥子の時よりも」


 直子は服を脱ぎ捨てると下着姿のまま、シャワーを浴びに行こうとした。

 俺はそれを制した。


 「シャワーは浴びなくていい、そのままのお前が欲しい」

 「だって今日は汗も掻いたし・・・」

 「激しく抱いて欲しいんだろう?」

 

 俺はそのまま少し乱暴に、直子をベッドに押し倒した。

 そしてネクタイで直子の両手を万歳させて縛り上げた。

 黒のブラジャーを荒々しくたくし上げると乳首を吸い、少し強めに噛んでみせた。


 「はあ、はあ、はあ、はあ・・・、あっ」


 俺は直子の本当の女を覚醒させてみたい衝動に駆られた。

 この上品な女を穢してみたくなったのだ。


 俺も服を脱ぎ、直子のカラダに跨った。

 直子はこれからの行為を期待し、目を閉じた。


 俺は彼女のブラを外し、直子の胸を鷲掴みに強く揉んだ。

 直子の顔が快感に歪む。

 痛い様子はなかった。


 俺はキスをし、入念に直子のカラダを舐め続けた。

 すでにショーツは蜜で濡れていた。

 ショーツを乱暴に脱がせ、熟した桃にしゃぶり付くように直子の蜜口を吸い、陰核を舐めた。


 「あん、はうっ、いい、すごく・・・、はあ、はあ・・・、あ、あ、あっ」


 スタッカートのような喘ぎ声が次第にハイトーン・ボイスに変わっていった。

 前戯もそこそこに俺は自身を挿入し、律動を開始した。


 「あん、あん・・・、ねえ?」

 「どうした?」

 「愛してる?」

 「ああ」

 「愛してるって言って! 約束した、じゃ、ない、ですか!」

 

 直子が俺を睨んで眉をしかめた。

 俺は直子の腕を縛ったネクタイを外した。


 直子は俺に腕を回し、俺は腰を動かしたまま直子の耳元で囁いた。


 「愛しているよ、直子」

 「うれしい・・・、私も愛してるわ。今日は中にちょうだい。あ、あ、あ、あ・・・。

 イキそうなの、一緒に、お願い・・・」


 直子のカラダが硬直し、震え出した。

 私は射精の寸前でペニスを抜き取り、直子の腹部にそれを放出した。

 直子の痙攣はより強くなった。



 「中に欲しいって言ったのに・・・」

 「俺は女としても子供は作らないことにしている。生まれて来る子供が気の毒だからだ」

 「じゃあ遥は?」

 「遥は特別だ。遥は大切な俺の娘だ」

 「ありがとう。でも私はあなたの子供が欲しい。

 それは祥子も、他の人たちも同じだと思う。

 現実的に私はもう無理かもしれないけれど、それでもあなたと私の子供が欲しい。

 認知なんて望まない。

 ただ大好きなあなたの子供が欲しい・・・」

 

 俺は直子を強く抱き締めた。


 「ありがとう、直子」


 俺たちはそのまま、深い眠りに落ちて行った。



第13話 姉妹

 遥が校門を出ると呼び止められた。

  

 「沢村遥だよね?」

 「誰?」

 「杉田華蓮。杉田の娘よ」

 「!」

 「ちょっと話しがあるんだけど」




 遥と華蓮はマックへ移動した。


 「私から誘ったから驕るわね?

 何がいい?」

 「いいです、自分で払いますから」

 「自分で? 私のお父さんのお金の間違いでしょう?」

 「違う、私がバイトしたお金です・・・」


 遥は蚊の鳴くような声で言った。


 「マックシェイクのバニラのSを下さい」

 「私はポテトとコーラ、どっちもMサイズで」



 ふたりは奥の窓際の席に座った。



 「うちのお父さん、あなたたち親子の面倒を看ているんだってね?」


 華蓮は親指と細くて長い人差し指でポテトを摘まみ、それを口にした。


 「・・・」

 「どうなのよ。黙ってないで何とか言いなさいよ」

 「お金は借りているだけです。私が働いて必ず返します」

 「べつに返してもらわなくてもいいわよ。お父さんはそういう人だから。お父さんの働いたお金だし。

 お金はどうでもいいの、人助けだから。

 でもね? 父にはもう会わないで欲しいの。

 父は私のお父さんだから」


 (私のお父さん・・・)


 その言葉の重みに遥は打ちのめされた。

 遥は返す言葉が見つからなかった。

 遥には「はい」とも「イヤです」とも言う勇気がなかった。

 

 「あんなオッサンのどこがいいの?」

 「全部です」

 「全部? あんたファザコンなの?」

 「そうかもしれません。私の父は仕事仕事の毎日で、家にもあまり寄り付きませんでしたから。

 私は父親が欲しかったんだと思います。

 父は会社経営に失敗して自殺しました。

 私には父との良い思い出が殆どありません。

 毎日毎日、家には債権者の人たちが押し寄せ、私と母は玄関のチャイムの音が鳴る度に、家の電気を消して布団を被って震えていました。

 もう限界でした。

 私と母は電車に飛び込んで死のうとしました。

 そして電車がホームに入って来た時、あなたのお父さんに母は腕を掴まれました。

 生きる希望をあなたのお父さんに与えて貰ったんです」

 「そうだったんだ。・・・アンタも苦労したんだね? そんな風には見えないけど」


 華蓮は再びポテトを食べた。

 そしてストローを咥え、コーラを飲んで言った。


 「私はね? ずっと父が嫌いだった。

 私の兄もそう。何でだか分かる?

 それは父が浮気ばかりして、母と私たちを放っておいたからよ。

 父は家族を捨てたんだと思った。

 私たちはそんな父をずっと無視していたわ。

 あんな人、家族じゃないと思ってた。

 この前の記者会見を見るまではね?

 でもあの時の父を見て思ったの。やっぱり私たちのお父さんは凄い人なんだって。

 自分のことより、みんなのことなんだなあってね?

 そしてやっと私たちは家族に戻れた気がした。

 あなたたちのことは母から聞いたの。

 でもそんな事情があるなんて知らなかった。

 お父さんのお金だけが目当てだと思ってた。

 でも父は私たち家族の物だから、返して欲しいと思った」

 「ごめんなさい」

 「どうして謝るの? 好きなんでしょう? お父さんのことが?」

 「あなたのお父さんのことが好きです。

 私と母がこうして今生きていられるのも、あなたのお父さんのお陰だから。

 精神的にも金銭的にも支えて貰っています。

 私、そんな大人に会ったことが無かったから。

 いい気になってゴメンなさい。

 もう、お父さんとは会いません。

 もちろん母にもそう伝えます」

 

 華蓮はじっと店の外を眺めていた。

 目の前をいろんな人が通り過ぎて行った。


 「遥って正直だよね?」

 「本当は私も母もあなたのお父さんを諦めたくはありません。

 あなたたちから杉田さんを奪おうとは思いません。でも、少しでいい、少しの時間でもいいからあなたのお父さんと一緒に居たかっ・・・」


 遥は泣いた。


 「じゃあそうすればいいじゃない」

 「えっ?」

 「あの人は私のお父さんで、遥の「パパ」でいいよ」


 (パパ?)


 「いいよ、遥なら。

 お父さんのファンクラブに入れてあげる。

 でも会長は私だよ。分かった?」

 「ファンクラブ?」

 「お兄ちゃんもいるから遥は3番目ね? 会員番号3番。それでもいい?」

 「ありがとう。私何番目でもいい」

 「遥。LINE交換しようよ」

 「うん」

 「それから私のことは「華蓮」でいいからね?」

 「わかったわ、華蓮」

 「遥はこれから私の妹よ。いいわね?」

 「妹?」

 「そう。私たち、ダブルファミリーだから」

 「ダブルファミリー?」

 「後はエロ親父の愛人たちだけだから、もうひとつの家族は遥のところだけよ」


 遥と華蓮は笑った。

 まるで本当の姉妹のように。



第14話 さよならをするために

 穏やかな正月だった。

 元日には年始の挨拶は不要だと言ってあるので、家を訪ねて来る客もなく、信吾は彼女と初詣に出掛け、珠江と華蓮は義母の家に年始に行っていた。 

 私は独り、観もしない出涸らしの正月番組を点けたまま、ビールを飲んでいた。

 携帯に芳恵からLINEが届いた。



    今 電話しても大丈夫?



 俺はすぐに彼女に電話を掛けた。


 「杉ちゃん、あけましておめでとうございます」

 「おめでとう。いつ日本に帰国したんだ?」

 「年末の30日よ」

 「そうか。やはり日本はいいだろう?」

 「そうね、私も一応日本人だから。ふふっ」

 「いつまで日本にいるんだ?」

 「明日の飛行機で帰るの。明日、少し会えない?」

 「今からでもいいぞ」

 「ううん、明日でいいの。

 明日、成田で一緒にお食事がしたい」

 「何時に?」

 「13時に日本食レストランの『友膳』でどうかしら?」

 「わかった。13時に『友膳』だな?」

 「ごめんなさいね、新年早々に」

 「うれしいよ。芳恵にまた会えるなんて」

 「じゃあ明日、待ってるね」

 「気を付けてな」

 「杉田さんも」

 「ああ」


 電話が切れた。

 俺はもっと芳恵と話したかったが、芳恵はそれを避けているようだった。

 日本に帰国して、すぐにトンボ返りでまたロサンジェルスに戻るという。

 聡明な芳恵のことだ、彼女の考えていることはおよそ想像がついていた。





 正月2日の成田空港は閑散としていた。

 空港には搭乗を告げる英語のアナウンスが流れ、ここが日本であることを忘れさせる。


 芳恵は既にレストランの中にいた。

 手を挙げて微笑む芳恵。



 「一段とキレイになったんじゃねえか?」


 芳恵は少し瘠せたようにも見えた。

 

 「お世辞を言うなんて、似合わないわよ。

 杉田さんはよりダンディになったみたいね?

 いつも夜の杉ちゃんしか見ていないから、昼間の杉ちゃんも素敵。うふっ」 


 思えば芳恵とこうして昼間に会うことはなかった。

 昼間の芳恵は女医か? ファッション誌の編集者のように見えた。


 「オッサンだよ、ただの」


 俺はウエイトレスを呼び、


 「俺も生ビール。それとこの刺身の盛り合わせをくれ」

 「私もビールお替わり。それからこのお寿司膳もお願いします」

 「かしこまりました」



 ビールが運ばれて来た。


 「乾杯しましょ」

 「何に?」

 「私たちの再会と」

 「・・・別れにか?」

 「そう、再会とお別れに乾杯」


 俺たちはグラスを合わせ、寂しく笑った。

 

 「ごめんなさいね? 突然あなたの前から姿を消してしまって。

 本当はもう会わないつもりだった」

 「でも俺は謝らねえぞ。謝るということはお前を捨てることになるからな?」

 「この前の記者会見、杉ちゃんらしいと思って見てた。

 もう会うのは辞めようと思ったのに、すごく会いたくなっちゃった」

 

 俺たちは飛行機を眺めながらビールを飲んだ。


 「芳恵、色んな女を好きになる俺は頭がおかしいんだろうな?」

 「そうかもね? ただSEXだけが目的ならね? でもあなたは本気で女を愛してしまう。

 それが辛い・・・」

 「同性の親友はいくら作ってもいいが、どうして男と女は1組だけなんだろうな?」

 「それは本能にまかせてしまえば、誰の子供だか分からなくなるからじゃないの?

 この子はあなたと私の子供なのよって分かるから」

 「男は一日に何度も出来るが、女は一度身籠ると10カ月以上も他の男と受胎は出来なくなるからな?」

 「女はね、自分が愛した男の子供を産みたいものなのよ」


 俺はタバコを吸おうとしたが、ここが禁煙であることに気付き、タバコを仕舞った。


 「男と女は子供を作り、育てるために愛し合うのか?」

 「それが普通でしょう?

 ただ、私とあなたは普通じゃなかっただけ」

 「俺たち、普通じゃなかったのか? 少なくとも俺はお前を愛していた」

 「でもそれは女の理想。私はそれで良かったはずだった」

 「若い時の男の恋愛はな? ただ好きなんだよ、理由もなく感覚的に好きなんだ。ただやりたい。あははは。

 だが、年齢を重ねていくと顔や容姿にではなく、相手の性格、つまり考え方や生き方に惹かれていく。

 性別に関係なく、人間として好きになるんだ。

 やがて性欲は衰えてはゆくが、代わりに人間愛が深くなってゆく。

 デビィ夫人はインドネシアのスカルノ元大統領の第三夫人だった。

 大工の家に生まれ、裕福ではなかったが懸命に生きた人だ。

 その卓越した美貌と波乱に満ちた人生。

 パーティーで自分を侮辱したミニー元フィリピン大統領をシャンパングラスで殴りつけ、37針も縫う大怪我を負わせ、傷害罪で収監されたこともある豪傑だ。

 勉強熱心で曲がったことが大嫌い。

 まるで芳恵のようだな?」

 「私はあなたの第三夫人ではないわ。

 ただのセフレでしょ?」

 「ただのではない。俺が惚れたセフレだ」

 「カラダだけの関係なら良かったのに、それが愛情になったら別れるしかないでしょう? セフレなんだから。

 私はあなたを自分だけの物にしたくなってしまったの。だから別れを決めた」


 俺にはその芳恵の言葉に対する妥当なセリフが思いつかなかった。


 「日本の寿司と天ぷら、沢山食べろよ。

 向こうの寿司は高いし、それなりだからな?」

 「そうだね・・・」


 芳恵は力なくウニを口にした。


 「おいしい・・・。ワサビが効いてる」


 芳恵は泣いていた。


 「芳恵は人生の味がわかる女だな?」

 「ゲーテだっけ? 泪と共にパンを食べた者でなければ人生の味はわからない。

 もう私は人生の味をたくさん味わって来たわ」

 「俺はまだ、人生の味というヤツを知らねえ」

 「今、あなたが飲んでいる、そのビールの味が人生の味でしょう?」

 「なんだか塩っぺえな? 少し苦いし。

 人生の味というやつは」

 「そうよ、人生の味はね、甘くて苦くて塩っぱいのよ」


 俺も涙が止まらなかった。

 俺は紙ナプキンで目頭を必死に押さえた。

 芳恵も俺も泣いた。






 「それじゃあ元気でね?」

 「芳恵もな?」

 

 芳恵は黙って頷いき、振り返らずに出国手続きのエスカレーターに向って歩き始めた。


 俺は芳恵を呼び止め、後ろから芳恵を抱き締めた。


 「芳恵!」

 「止めて、別れられなくなるじゃないの・・・」

 「お前が好きだ! これからもずっと!」

 「私もよ! 私もあなたがずっと好き!」

 「いつでも戻って来い!」

 「ありがとう、でも大丈夫。私、強い女だから」


 芳恵は振り向き、俺に抱きつき長く濃厚なキスをした。

 炎のように燃える熱いキスだった。


 「さようなら、杉田さん」


 芳恵はエスカレーターを駆け下りて行った。


 「芳恵! 芳恵ーーーっ!」


 俺は彼女の姿が見えなくなるまで名前を呼び続けた。

 それは彼女へのエールでもあった。


 彼女のこれからの人生に幸多かれと。



第15話 結婚の意義

 芳恵は旅立って行ってしまった。

 本当は行かせたくはなかったが、俺にはその権利はなかった。

 彼女は俺を求め、そしてそれを断念した。

 愛は芳恵にとって1対1のものなのだ。


 最初は遊びのつもりだった。銀座のホステスと性欲を持て余した男の戯れ。

 しかし、俺はいつの間にか芳恵のすべてに惹かれて行った。

 彼女は俺の安らぎだった。

 芳恵はいつも俺の話を頷きながら聞いてくれた。


 「へえー、そうだったんだあ。それで杉ちゃんはどう思ったの?」


 俺は自分よりも年下の、芳恵に母性を求めていたのかもしれない。


 おそらく俺は一夫多妻よりも、結婚という関係性その物を否定しているのかもしれない。

 いや、否定しているのだ。


 結婚の意義を簡単に言えば、性秩序の維持と子供に対する養育だ。

 旧約聖書『創世記』が示す、アダムとエヴァから近親性交が繰り返され、人類が進化したと考えざるを得ない。


 太古の人類の骨から検出された骨のゲノム解析によると、その遺伝子情報が残されているという。


 最初に神が男と女を創造し、子供が生まれ、そして本能に基づく近親性交によってコロニーが形成されていった。

 それはファミリーではなく、生活集団だったはずだ。

 やがて言葉が生まれ、文字が生まれた。

 そして宗教が生まれ、家族という概念が生まれた。


 男と女が生殖行為を行い、子供が生まれる。

 男を父と呼び、その女を母と呼んだ。

 両親と子供たちの集まりが、やがて家族となった。


 近親相姦による繁殖行動が、体験的に種の保存の優良性が損なわれることを学んだ祖先はそれを禁止し、なるべく自分の部族と遠い部族同士が家族を形成するように定めた。


 ユダヤ教やキリスト教では一夫一妻制を、そしてイスラム教では一夫多妻が戒律となった。

 そしてイスラムの女子とは、なんと9歳から認められるという。

 ただしそれは婚姻してからの話だ。

 イスラムでは妻が処女ではないと分かった場合はその婚姻は無効になるらしい。



 キリスト教での結婚とは「秘跡」 サクラメントの一つとなる。

 つまり結婚とは「神が与えた見えない恩恵」なのだと。


 日本の法律に基づく婚姻制度は明治時代から始まった。

 100年前は殆どの成人男女は結婚していたそうだ。


 大正時代に行った初めての国勢調査によると、当時の人口は3,340万人しかいなかったらしいが、それが今では1億2千万人にまで増えた。

 それは結婚している割合が多かったことにも起因する。


 当時、結婚していない男女が性行為をすることは禁じられていた。

 それは各宗教に共通している。

 今の世の中に、果たして結婚という制度は必要なのだろうか?


 20代の若者同士の結婚は、幼稚園のおままごと遊びのようなものだ。

 社会の仕組みや秩序をまだ知らない、憧れと性欲だけで簡単に結婚してしまう。

 そしてまだ人間との出会いも少ない。


 「こんなに素敵な人もいるのね?」

 「なんて美人でやさしい人なんだ!」


 一緒に生活するようになると、相手のイヤな部分も見えて来る。

 やがて子供が生まれ、慣れない育児で母親は精神的にも肉体的にも疲弊し、結婚に対しての「疑念」が湧いて来る。

 そして気付けばお互いをあまり意識しなくなっている。

 距離を置くようになる。つかず離れずの関係になるのだ。

 彼らにとって結婚とは「保険」なのだ。



    お互いの生活を保障してくれる保険。



 経済的にも世間的にも、そして老後の暮らしに対する保険なのだ。


 結婚とは生活をするためにするものなのか?

 自分の将来の安心のために結婚するのか?

 ひとりでいるのが寂しいから?

 自分では家事が出来ないから?

 老後の介護のため?


 それでもいいと思う。

 ただし、そこに愛があればの話だ。


 愛のない家族と、愛のある他人。

 理想は「愛のある家族」かもしれない。


 俺は愛があれば、そして経済的にそれを保証出来るのであれば、何人の女と付き合ってもいいのではないかと考える。

 それはもちろん相手の承諾が必要だ。

 そしてそれが得られるのであれば、自分の財力に応じて複数の女と付き合ってもいいのではないだろうか?

 共働きやヒモ男は論外だ。甲斐性のない男にその権利はない。


 自分に経済的余力があるならば、一夫多妻制が認められない日本なら、俺は結婚するべき人間ではないのかもしれない。


 人生は限られている。

 俺の目の前に現れる、魅力ある沢山の女たち。



 他人からすれば「それは間違っている」と言われるだろう。ただの女好きだと思われるかもしれない。

 そしていつまでも相手を幸福に出来るとも限らないと言われるだろう。

 だがそれは誰も同じだ。

 明日のことは誰にも分かりはしないのだから。



 芳恵は俺の前から去って行った。

 俺の考えは彼女には理解されなかった。


 どんな罰を受けてもいい。妻の珠江、直子、祥子、絹世もみんな俺には大切な女たちだ。

 誰が一番で誰が二番でもない。

 一緒にいる時の女が俺の一番なのだ。



 航空機の爆音が響く正月の成田空港を、俺はひとり後にした。



第16話 告白 そして悲恋

 正月は明けたが、杉田と会えない寂しさに、絹世は深く沈んでいた。 



 「専務、昼飯どうします?」


 総務部長の桜井が絹世に声を掛けて来た。


 「あらもうそんな時間? 今日はお蕎麦にしようかしら?」

 「私もご相伴させて下さい」

 「どうぞ。じゃあ運転はお願いね?」

 「よろこんで」



 桜井は取引銀行からの出向で、今年で3年目になる。   

 5年前に離婚して、今はひとり身だった。

 年齢は48才。

 銀行員には珍しく控え目だが、仕事の出来る男で、社長である父からの信頼も厚かった。



 「桜井は中々見所のある男だ。

 出来ればこのままウチにいて貰いたいものだな。

 絹世、お前はどう思う?」


 父の考えは分かっている。

 桜井と結婚して家と会社を継いで欲しいということだった。

 銀行とのパイプも太くなり、会社経営はより安定的になるからだ。



 「いい人だと思うわよ、ウチの会社にとってはね?」

 

 私は父親に釘を刺した。

 そもそも前の結婚を半ば強引に勧めたのは父だった。

 今、私の頭の中は杉田の事でいっぱいだった。





 「今日は温かいお蕎麦にしようかな? 私は山菜蕎麦で」

 「私は天ざるの大盛りを」



 蕎麦が運ばれて来た。


 「オバサンになるとね、お昼はお蕎麦とかが丁度いいのよ」

 「専務はオバサンじゃありませんよ」

 「ありがとう。流石は銀行マンね? お世辞でもうれしいわ」

 「お世辞なんかじゃありません。専務は素敵な人です」


 桜井は勢い良く音を立てて蕎麦を啜った。

 彼の左手の薬指にはまだ結婚指輪の痕が残っている。

 そして私の左手の薬指には、杉田から貰ったプラチナと金であしらわれた#偽の__・__#結婚指輪が光っていた。



 「部長は再婚しないの?」

 「それは相手がいればしたいですよ。ひとりは寂しいですから」

 「沢山いるんでしょ? お付き合いしている人。うふっ」

 「全然ですよ」

 「嘘ばっかり」

 「専務は僕のタイプです」

 「からかわないで頂戴。お蕎麦屋さんで」

 「じゃあ今夜、一緒に飲みに行きましょうよ」


 思い掛けない桜井の突然の誘いに、私は一瞬躊躇った。


 「私なんかとお酒を飲んでもつまらないわよ」

 「そんなことはありません。僕は専務とじっくりお話がしてみたいんです。将来の事も含めて」

 「ごめんなさい。私、今お付き合いしている人がいるの」

 

 私は桜井に指輪を見せた。

 それを見て落胆する桜井の顔がカワイイと思った。

 だが彼は急に明るい顔になり、こう言った。


 「その指輪、前の旦那さんとの未練なのかと思っていました。そうですか? わかりました。ではその男性と破局するのを待ちます」

 「あはははは、ヘンな人。でもそれはないと思う」

 「物事には絶対などありませんよ」


 ふたりは笑って蕎麦を啜った。





 仕事を終えると杉田にLINEを送ったが、中々既読にならなかった。


 「今夜はたくさん甘えたかったのに。ダーリンのバカ」






 自宅マンションに帰り、携帯を持って湯舟に浸かった。

 髪を洗い始めた時、突然携帯が鳴った。

 杉田からだった。


 「今、LINEを見たよ。遅くなってごめんな?」

 「ちょっと待ってて、今、シャンプーしていたところなの。あがったら電話するね?」

 「そうか? じゃあ後で電話をくれ」

 「うん、わかった」


 私は大急ぎで髪を洗い、トリートメントをして入念に身体を洗った。

 久しぶりの杉田の声に、女の部分が少し潤んでいた。




 杉田のお気に入りの下着を着け、脱ぎやすいワンピースに着替えると、私はいつもよりきちんと化粧をした。

 準備を整え、杉田に電話を掛けた。


 「お待たせ。ちょっとでいいから会いたい」

 「ちょっとでいいのか?」

 「もうー、意地悪な人ね?」

 「あと20分くらいで迎えに行くよ。メシは?」

 「私は食べたから大丈夫。あなたは?」

 「俺はさっきまでイヤな連中と不味いメシを食ったから大丈夫だ。あははは」

 「じゃあ、待ってるわね?」

 「ああ、今夜は姫始めだからな?」

 「ばか・・・」




 タクシーに乗ると、すぐに杉田に寄り添った。


 「すごく会いたかったんだから」

 「俺もだよ。悪かったな? 放ったらかしにして」

 「仕方ないわ、それを承知でお付き合いしているんだから」




 その日はシティホテルではなく、ラブホテルに行った。

 ふたりは久しぶりの逢瀬に我を忘れて行為に熱中し、絹世は何度も歓喜の声を上げた。


 私が杉田から頭を掴まれ、フェラチオをしている時、信じられない言葉を浴びせられた。



     「芳恵!」



 杉田はその時確かに「芳恵」と言った。

 私はペニスを口から離した。

 杉田はそれを咎めなかった。


 「芳恵って誰なの! 私がしている時に他の女の名前を呼ぶなんて最低!」

 「すまん、別れた昔の女の名前なんだ」


 杉田はベッドから降りると冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ベッドに腰掛け、喉を鳴らしてビールを飲んだ。



 長い沈黙の後、杉田が言った。


 「俺を嫌いになったか?」

 

 私は杉田の背中に抱き付き、


 「嫌いになんかなれない。ごめんなさい・・・」

 「俺はこんな男だぞ、そして他の女にも同じようにお前の名前を呼ぶこともある」

 「それはうれしいけど・・・」

 「絹。もしもこの関係が辛くなったらいつでも降りていいからな?」

 「そんなこと言わないで! 私はいいの! ずっとこのままでいいの! だから許して!」

 「俺と結婚出来なくてもか?」

 「そんなの初めから望んでいない! 私はあなたが好き! ただそれだけ!」


 私は杉田の背中に額を押し当て、泣いた。

 杉田は私をやさしく抱き締めた。





 俺は絹世のあどけない寝顔を見ながら、煙草に火を点けた。


 (このままでいいのだろうか?)


 良くないのは分かっている。

 だが、今の俺にはどうすることも出来なかった。

 その時が来るまでは。


 タバコの煙が目に沁みる夜だった。



第17話 戸惑い

 その日、東京にはめずらしく小雪がちらついていた。

 頼りなげに舞い落ちる雪。

 私の気持ちも今日の雪のように揺れて落ちていた。


 やっと杉田に会えたというのに、最悪の「姫初め」になってしまった。

 海辺の渇いた砂の上を歩くようなもどかしさが、私の心を苦しめた。


 (聞こえないふりをすればよかった)


 そう思った。

 杉田には奥さんや他の愛人がいることも承知している。

 それなのにあの日だけは許せなかった。

 生理前でイライラしていたせいなの?

 杉田は私のことを嫌いになってしまったのかもしれない。

 でも、杉田とは別れたくはなかった。

 杉田と一緒にいるだけで、安心出来る自分がいたからだ。




 桜井が声を掛けて来た。


 「どうしたんですか専務? 明日にも地球が破滅しそうな顔をして?」

 「いっそそうなってくれたらどんなにラクか・・・」


 私は深い溜息を吐いた。


 「ようやく僕にもチャンスが巡って来たという訳ですね?

 どうです? 今夜、ディナーでも?

 今夜は僕が奢りますから」


 私は彼の誘いを承諾した。

 このモヤモヤを何とか吹き飛ばしたかったからだ。


 「自分で焼く、煙だらけの串焼の店なんですけどかまいませんか? でもすごく旨いんですよ。おススメです」

 「今日はお洒落な服じゃないから大丈夫よ」

 「じゃあ今夜はそこにしましょう」




 その店は飲み屋街の細い路地の奥にある、入口の狭い縄暖簾の店だった。

 換気扇から香ばしいお醤油の香りと、脂の焦げるいい匂いが漂っていた。



 引戸を開けると中はカウンターが7席と、小上がりには円卓が3つあった。

 仕事帰りのサラリーマンやOLで、店は賑わっていた。



 「こんばんはー」

 「おっ、桜井ちゃん、今日はベッピンさんといっしょかい? じゃんじゃん食べてガンガン飲んでけよな?」

 「ありがとうございます。このカウンター席でいいですか?」

 「おう、今すぐに片付けるから、それまで串を選んでな」

 「わかりました」



 入口近くには様々な串焼きのネタを入れた冷蔵のショーケースがあった。


 「ここで自分の好きな物を取って、自分で焼くんです。

 何がいいですか?」

 「任せるわ。私、好き嫌いはないから」

 「そうですか? では最初は僕の好きな物にしますよ」


 桜井はベーコンで巻いたホタテ串を経木の上に乗せた。


 「これ、すごく旨いんですよ」


 それから豚バラで巻いたエノキ茸、エリンギ、しし唐に

若鳥のネギ間、レバー串。

 そして最後に銀杏を乗せた。


 「僕は銀杏が大好きなんですよ」

 「私も大好き」


 私はその時、前の夫のことを思い出していた。

 新婚の時、せっかく作った茶碗蒸しを前に夫はこう言った。


 「まさか銀杏は入れてないよね?」

 「えっ? 銀杏嫌いなの?」

 「あんなの食べる人間の気持ちが僕には理解出来ないよ」


 彼はその茶碗蒸しに手をつけることはなかった。

 思えばあの時に離婚するべきだったのかもしれない。



 私たちはカウンターに座り、桜井は目の前に置かれた素焼きの長火鉢にホタテベーコンと豚バラエノキを乗せた。



 「お酒は何にしますか?」

 「ビールで」

 「わかりました。すみません、生を2つ下さい」


 この店は大ジョッキしかなかった。



 「大ジョッキなのね?」

 「悦ちゃんと大将だけでやってるので手が回らないんですよ。残ったら私が飲みますから」

 「その心配はいらないと思うけど」

 「では乾杯」

 

 大将は白髪のパンチパーマにねじり鉢巻きをし、眼鏡は燻されて少し曇っていた。


 「ホタテ、もういいぞ」


 私が慌ててそこにあったタレの壺から刷毛を取り出そうとすると、


 「ダメダメ、それじゃない。

 最初は塩で食べてみな? ホタテの甘味をよく感じるから」

 

 私は言われた通り、塩を振って食べてみた。


 「美味しい!」

 「だろう? 次からは俺の特性タレで食べてみな」

 「そうしてみます」

 「ねっ? 美味しいでしょう?」

 「ここへはよく来るの?」

 「月に2回ほどです。街に呑みに出る時はいつもここがスタートなんですよ」

 「ビールもとっても美味しいわ」

 「専務に喜んでもらえて良かった。

 専務にはフレンチとかイタリアンの方が良かったかと後悔していましたから。

 でもやっと僕の夢が叶いました。

 こうして専務とお酒を飲めることが」

 「随分と大袈裟ね?」」

 「専務は「高嶺の華」ですから」


 おそらく10人の女がいれば、桜井を好む女は6人はいるだろう。

 会話も食事も嫌味がない。


 「専務の彼氏さんってどんな人ですか?」

 「私を泥沼から引き上げてくれた恩人よ。

 ぶっきらぼうだけどやさしい人」

 「会ってみたいなあ。専務がそこまで惚れたその男性に」

 

 私は話題を変えた。

 杉田のことを詮索されることが面倒だったからだ。


 「部長はどうしてガールフレンドを作らないの?」

 「妻への謝罪です。離婚して3年間は誰とも付き合わないという、自分へのケジメです。

 僕の浮気が原因で別れましたから」

 「義理堅いのね? イケメン銀行員の割には?」

 「だからずっと我慢して来ました。絹世さんを誘惑することを」


 桜井は私を専務と呼ばず、「絹世さん」と名前で呼んだ。      

 いいタイミングだと思った。



 (女の扱いに慣れている)



 女子行員に囲まれての仕事だから無理もない。


 「別に私じゃなくてもいいでしょう?」


 私はビールを飲んだ。少し温くなり始めていたのでジョッキの3分の1まで飲んだ。


 「僕とお付き合いしてくれませんか? 結婚を前提として」

 「だから私にはお付き合いしている人がいるって・・・」


 桜井から急に手を握られた。

 私はすぐに手を引っ込めた。


 「ダメよ、もう酔ってるの?」

 「酔ってなんかいません!」

 「酔っていないなら頭がおかしいんじゃない?

 恋人がいる女を口説くなんてどうかしてるわ」

 「その男性とは不倫ですよね? 僕にはわかります。

 絹世さん、彼氏さんの話をする時、いつもすごく寂しそうですから」


 私は桜井を睨みつけた。


 「あんたに私の何がわかるの! いいかげんにして!

 今日は部長の奢りよね? ごちそうさま! これで失礼するわ!」


 私は怒って店を出た。

 すぐに桜井が私の後を追っかけて来た。


 「絹世さん、さっきはすみませんでした。

 なんだかその人に嫉妬してしまって、つい余計な事を・・・」

 「アンタ私とヤリたいだけなんでしょう?」

 「そうなりたいですけど、それだけじゃありません。

 あなたを笑顔にしたいんです。本当の笑顔に」

 「それが本当かどうか試してあげる。ついて来なさい」


 私はスタスタと、近くのホテルへと入って行った。

 桜井も私の後に続いた。



第18話 実らぬ想い

 ホテルの部屋に入ると、絹世はコートを着たままベッドの上に大の字になった。


 「早く脱がせてよ。したいんでしょう? 私とセックス?」


 桜井はソファに腰を降ろした。


 「さっきはすみませんでした」

 「何よ今さら。バカじゃないの?

 やるのやらないの? ただしこれが最初で最後。約束出来る?」

 「僕にはそういう趣味はありません」

 「趣味って無理矢理するわけじゃあるまいし」

 「愛のないセックスはしない主義なんです」

 「愛のないセックスですって? あはははは セックスに愛なんているの? 気持ち良ければそれでいいじゃないの。アンタ何を贅沢な事言ってんのよ。中学生じゃあるまいし」

 「僕は絹世さんにただ好意があるだけじゃないんです。愛しているんです。あなたのことを。

 だから僕を愛してくれない絹世さんを抱くわけにはいかないんです」

 「ねえ、不倫しちゃダメなの?

 好きになった人にたまたま奥さんがいただけじゃないの。バカバカしい。

 この歳になるとね? イイ男はみんな誰かの物になっているものよ。

 だったらその所有者から奪うしかないじゃない。

 でも私は奥さんから彼を奪いたいなんて思わない。

 結婚が何? たかが紙切れ1枚で繋がっているだけの形式じゃないの。死んだら生命保険の受取りや財産が欲しいから? それとも世間体?

 真実の愛があれば結婚なんて必要ないわ!

 私は奥さんよりもずっと彼を愛しているという自負がある。

 それだけでしあわせなのよ!」

 「いつでも会えない関係でもいいんですか? 人目を忍ぶ逢瀬でも?」

 「別に。中々会えないからいいんじゃない。 こっそり会うからスリルが味わえるのよ。

 郷ひろみだって歌っているでしょう?「会えない時間が愛育てるのさ」って。

 私はいいの。永遠の片想いで」

 「本当に好きなんですね? その人のことが」

 

 絹世はベッドから起き上がると、桜井に言った。



 「部長は本当に女を愛したことがある?」

 「そりゃあありますよ。僕にだって」

 「あなたの愛は愛じゃないわ。色恋よ。

 ただ好きなだけ、やりたいだけ。

 恋はね、下に心って書くでしょう? つまり下心。相手に求めることなの。

 でも愛は真ん中に心がある。相手に自分のすべてを捧げ、見返りを求めないのが本当の愛。真実の愛なのよ。

 簡単に言えば奪うのが恋で、与えるのが愛。

 私は彼に何も求めはしない、ただ自分を与え尽くすことで彼が喜ぶのがうれしいだけ」

 「そんなの悲し過ぎます」

 「悲しい? どうして?」

 「だって絹世さんはその男性に自分を与えるだけじゃないですか?」

 「彼も私を愛してくれているわ。苦しみながら悩みながらね。

 それ以上何を望むと言うの?」

 「いつも一緒にいたいと思うのが恋愛じゃないですか?」

 

 絹世は話題を変えた。


 「あなたはどうして奥さんと別れたんだっけ?」

 「だから僕の浮気のせいだと言ったじゃないですか?」

 「部長が私の不倫に拘るのは自分も同じことをしていたからでしょう?

 結局それで奥さんも彼女さんも悲しませた。

 ただそれを認めたくないだけなのよ。

 あなたは不倫を悪い事だと知りながら、奥さんと彼女を欺いた。どっちも欲しかったから。 どっちも手放したくなかった。

 もしもあなたが本当に彼女を愛していたのならそんな惨いことはしなかったはず。

 あなたにとって彼女はただの都合のいい女、セフレだって事よね? 少なくとも彼女はあなたと結婚したかったハズ。

 だってそうでしょう? 好きな男が離婚して一人になったのよ。それなのに彼女はあなたを捨てた。

 それってただ奥さんに悪いと思ったからでしょう?

 彼女と再婚することが。

 自分の不倫を認めたことになるものね?

 でもあなたは奥さんに対して「本当はお前が好きなんだ」ってカッコつけただけじゃない。

 そんな卑怯な男に愛を語る資格なんてないわ。

 そんな男に私は1ミリも人間としての魅力を感じない。

 そして私は銀行員はダメなの。前の夫が銀行員だったから。

 私は二度と同じ間違いをしたくないの。

 夫を勧めたのは私の両親だったけどね」

 

 桜井は黙ってしまった。



 「しないなら帰って。私は今夜はここに泊まっていくから」

 「わかりました。実は私は今年の春の人事異動で御社の出向から銀行に戻り、支店長に内定しています。

 あと2か月ほどですが、今まで通りの関係でお願いします。ではこれで失礼します」

 「そう、わかったわ。じゃあおやすみなさい」

 「おやすみなさい」


 桜井は部屋を出て行った。


 絹世は熱いシャワーを浴びて泣いた。


 それは今夜の桜井との遣り取りに対してではなく、自暴自棄になって杉田を忘れようとした惨めな自分への涙だった。



第19話 Night Harbor

 俺は絹世を食事に誘った。

 先日の件で彼女が落ち込んでいると思ったからだ。


 「もしもし、俺だ。今夜、時間あるか?」

 「私とデートしてくれるの?」

 「ベッドじゃなく、たまには食事デートでもどうかと思ってな?」

 「うれしい! 何をごちそうしてくれるの?」

 「銀座のフレンチを予約した。19時に絹世のマンションに迎えに行くよ」 

 「うん、待ってる! 気を付けて来てね」


 絹世はとても喜んでくれた。

 携帯からもその様子がよく伝わった。


 「じゃあ近くに行ったら電話するよ」

 「うん、わかった」


 絹世は定時になると急いで自宅へ戻り、シャワーを浴びて入念にメイクをして髪を整えた。

 今日の下着は黒にした。




 絹世はロイヤルブルーのワンピースにパールのネックレスをして現れた。

 ピアスもネックレスに合わせてパールにしていた。

 俺は改めて絹世の美しさに魅了された。

 これほどパールの似合う女はいない。

 宝飾品は女を選ぶが、真珠は特にむずかしい。

 よく「豚に真珠」とは言うが、品のない女が真珠を身に着けるとイミテーションに見えてしまう。

 ベンツやロレックスも同じだ。

 物が人を選ぶのだ。




 「そのドレスと真珠、よく似合っているよ」 

 「久しぶりなの、このドレスもパールも」


 絹世はうれしそうに真珠のネックレスに触れた。


 「このお店、前から1度来てみたいと思っていたの。

 こんな高級なお店、よく予約が取れたわね?」

 「この前のお詫びだよ。嫌な想いをさせてすまなかった」

 「ううん、私が聞き逃せば良かったのにね?

 大人気なくてごめんなさい」

 「男として俺は最低だよ」

 「仕方がないわ。あなたはモテるから。うふっ」

 「今夜はゆっくり食事を楽しもう」


 俺は給仕を呼んだ。


 「始めてくれ」

 「かしこまりました。ではただいまソムリエを呼んでまいります」


 身のこなしがスマートな、初老のソムリエが現れた。


 「いらっしゃいませ杉田様。いつもありがとうございます」

 「俺はワインの事はわからねえから彼女と話してくれ」

 「かしこまりました。では本日の白はローヌ産のシャプティエ、エルミタージュ、ブランシャタルエットはいかがでしょう?」


 すると絹世はメニューとワインリストを慎重に見比べると、


 「お魚は平目でおソースはトマトベースね?」

 「左様でございます」

 「では白はいりません、赤だけで」

 「かしこまりました」

 「メインのお肉の牛ヒレは、フォアグラとトリュフも一緒のようだから、このリヴェザルトの1962年はどうですか?」

 「すばらしい選択だと思います」

 「ではそれでお願いします。あと乾杯したいのでシャンパンをお願いします」

 「ブリュットのランソンはいかがでしょう?」

 「それでお願いします」

 「かしこまりました」



 俺たちはシャンパンで乾杯をした。


 「今夜はお姫様にしてくれてありがとう」

 「お前がいてくれて良かったよ。またここに来ような?」

 「また誘ってくれるの?」

 「絹が嫌でなければの話だが」

 「あなたのそういうところ、好きよ。

 さりげなく女が悦びそうなツボを押してくる。ニクイひと」

 

 

 料理が次々と運ばれて来た。

 上品にナイフとフォークを動かす絹世。

 少し歳を重ね、性の悦びも知り始めた絹世には、円熟した女の甘美な色香が漂っていた。



 「大きい声では言えないが、俺はフランス料理を旨いと思ったことがねえんだ。

 高級フレンチやイタリアンを食うなら、『叙々苑』で焼肉でも食った方がいい」

 「あらそう? じゃあ今日は私のためにここへ連れて来てくれたのね? ありがとう、とっても美味しいわ」

 「それは良かった。殆どの日本人は絹と違ってフレンチの良さなんて分かりはしねえ。

 ただ高級フレンチを食べ、ワインを飲んでる自分に酔っているだけだ。

 3,000円のテーブルワインとヴィンテージワインの違いも判らずにな?

 だってそうだろう? フランスにも住んだことがない、フランス語も話せない連中だぞ。

 家では朝メシに納豆と焼魚、味噌汁に糠漬。

 焼酎しか飲まねえオヤジにフレンチなんて分かるわけがねえ」

 「あはは、それもそうかもね?」

 「でもな、矛盾しているかもしれないが、フレンチもワインの味も分からねえ俺でもフレンチは好きだ。

 正確にはフランス料理を優雅に食べているお前を見るのが好きだ。だからまた来たいと思う。絹と一緒に料理とワインを楽しみたい」

 「ありがとう。それじゃあもっと女を磨かないと」

 「綺麗だよ、絹世」

 

 絹世はホワイト・トリュフとフォアグラをフィレ肉に器用に乗せ、それを口に優雅に運んだ。

 俺はベッドで口を半開きにして喘ぐ絹世を思い出していた。


 「私はあなたに認められた、いい女ってワケね?」

 「もちろん。絹は俺にとって最高の女だ。

 食事とは本来、料理よりも「誰と食べるか?」が重要なんだ。

 安い牛丼でも好きな女と食べる牛丼は美味いが、どんなに優れた高級料理でも、イヤな奴と喰うメシは不味い。

 食事とはその空間を味わうことでもあるからな?」

 「私はあなたと一緒なら何でも美味しいわ」

 「うれしいよ、絹にそう言ってもらえて。

 それなのに俺は絹に何もしてやれていない」

 「そんなことないわ。忙しいのにこうしてこんな素敵なお店に連れて来てくれたじゃない。

 私はあなたとこうして一緒にいるだけでしあわせなの。毎日なんて望まない、少しの時間でもいいの。

 たとえ10分でも5分でもいい、1秒でもいい。

 あなたの温もりを感じることが出来るなら」


 絹世はワインを飲んだ。


 「食事の後、晴海埠頭に行ってみないか?」

 「夜の港かあ。素敵ね?」




 俺と絹世はタクシーに乗り、銀座から晴海に向かった。


 

 「寒いわね?」

 「まだ2月だからな?」


 俺は絹世の手を取り、俺のコートのポケットに入れた。

 絹世が俺に寄り添った。


 「冷たい手だな?」

 「あなたの手は温かいわ。そして私の心も温かい」

 

 東京の夜景が暗い海を漂っていた。

 岸壁に打ち付けるさざ波の音が聞こえる。


 「絹世。このままで辛くはないか?」

 「あなたと別れて欲しいってこと?」

 「俺は本当にお前をしあわせにしているのだろうか?」

 「私はしあわせよ、今のままで。

 それ以上何も求めはしない。そしてこれからもそれは変わらないわ。

 しあわせってなる物じゃなくて、感じる物でしょう?」


 俺は絹世を強く抱き締めた。


 「ごめんな・・・、絹」

 「謝らないで、最初にあなたを好きになったのは私の方だから」

 「辛くなったらいつでも降りていいからな?」

 「そんなこと言わないで」

 

 俺と絹世はやさしい大人のキスを交わした。


 2月の冷たい東京湾の海風に晒されて。



第20話 奇妙な晩餐

 華蓮と遥は度々会うようになっていた。

 今日は珈琲ショップで待ち合わせをした。


 「遥もキャラメルマキアートでいい?」

 「自分の分は自分で払うよ」

 「いいからいいから、お姉ちゃんが奢ってあげる。アンタ、大学に入るためにバイトしてんだからさあ」

 「いつもごめんね」

 「じゃあキャラメルマキアート、2つ下さい」

 「かしこまりました。ではそちらでお待ち下さい」



 華蓮と遥は店内のソファーに並んで座った。


 「ごめんね、受験とバイトで忙しいのに呼び出したりして。でもたまには気晴らしも必要よ、大学はどこを受けるか決めたの?」

 「一橋にするつもり」

 「凄いじゃない! 遥、頭いいんだ? 学部は?」

 「法学部」

 「弁護士になりたいの? それとも検事? 裁判官とか?」

 「弁護士。弱い人を救ってあげたいから」

 「そうなんだ。でもどうして一橋なの?」

 「ママが一橋だったから」

 「へえー、遥のママ、一橋なんだあ。それで遥も一橋かあ」

 「いただきます」

 「ああ、飲んで飲んで」


 ふたりは仲良くストローを啜った。

 ひとりっ子の遥は華蓮とこうして会うのが嫌いではなかった。

 あの日以来、華蓮は遥のことを何かと気にかけて、食事やお茶に遥を誘った。


 「華蓮はどこの大学なの?」

 「私は明治よ。文学部」

 「本が好きなの?」

 「私、小説家になりたいの。今も少しずつだけど書いているのよ」

 「凄いじゃない、小説を書くなんて。

 私には無理だなあ」

 「まだ小説と呼ぶには程遠いけどね? 受験勉強はどう? はかどってる?」

 「ぼちぼちね?」

 「他にはどこを受験するの?」

 「私立は無理だから一橋だけ。落ちたらまた来年チャレンジするつもり」

 「遥らしいわね? でも遥なら大丈夫だと思う」

 「どうして?」

 「だって私の妹だから」


 遥はクスっと笑った。華蓮の言葉がうれしかった。


 「ところで遥、いつもアンタ、同じ服ばかり着てるね?」

 「今は我慢だよ」

 「サイズは私と殆ど同じだと思うからさ、よかったら私の服、着てみない? あげるから」

 「えっ? 華蓮の服を私に?」

 「イヤならしょうがないけどさ」

 「イヤだなんてそんな」

 「じゃあこの後、ウチにおいでよ。遥が好きなのあげるから」


 遥は一瞬戸惑った。

 華蓮の家に行くということは杉田の家に行くということだからだ。

 だが遥は思った。

 杉田がどんな家でどんな家族と暮らしているのかを垣間見てみたい気もする。


 「でも、迷惑じゃない? 私が華蓮の家に行くのって?」

 「ママに遭うのが怖い? 大丈夫よ、私の後輩ちゃんだって紹介するから」

 「後輩?」

 「それでもイヤ?」

 「そうじゃないけど・・・」

 「じゃあ決まり! 今日はバイトお休みだったわよね? ついでにご飯も食べて行きなよ」

 「ご飯はいいよ」

 「いいのいいの。でも本当は気になるでしょう? 遥の#パパ__・__#の奥さんがどんな人か?」


 図星だった。

 確かに興味はある。ママと何が違っているのか見てみたい気は否めない。

 何が勝っているのかを。





 華蓮の家は世田谷にあったが、そこは豪邸ではなく、かと言って建売のような家でもなかった。

 小さいが、よく手入れのされた庭があり、もうすぐ訪れる、春を待っているかのような家だった。



 「ここよ。小さいけど素敵な家でしょう? 私が幼稚園の時にお父さんが設計して建てたのよ。

 さあ入って。ただいまー」

 「おかえりなさーい」


 家の奥から女性の声がした。

 華蓮のママ、パパの奥さんだろう。

 遥は心臓が張り裂けそうだった。



 「スリッパはそれを使ってね?」

 「あっ、はい」


 遥はスリッパを履いて、華蓮の後についてリビングに入った。


 「ママー、この子、後輩の遥。

 要らなくなった私の服をあげようと思って家に呼んだの。

 私の部屋で遊んでるからさあ、夕食は遥の分もお願いね?」

 「いらっしゃい、遥ちゃん。

 母の珠江です。何もないけどお夕飯、食べて行って頂戴ね?」


 遥は一瞬、言葉を失ってしまった。

 それは珠江がどことなく、雰囲気や話し方が母に似ていたからだ。


 「は、はじめまして、沢村遥です。

 いつも華蓮さんにはお世話になっています」

 「ゆっくりして行ってね? 後でお茶を持って行ってあげるから」

 「ありがとうママ。行こう、遥」



 階段はリビングにあり、二階とのアクセスは必ずリビングを通るように設計されていた。

 おそらくこれは、杉田が家族とのコミュニケーションを大切にしたいという表れだと思った。

 遥は少し気が重くなった。


 家は整然と片付けられ、華美な置物などはなかったが、油絵の風景画が数点、飾られていた。



 

 華蓮の部屋は白と水色で統一されていた。

 

 「ウチのママ、美人でしょう? そこら辺に適当に座って」


 華蓮は大きな紙袋に服をどんどん詰め始めた。

 しかもそれはどれもタグの付いた新品か、クリーニングされてハンガーにかけられている物ばかりだった。


 「そんなに高価な服、要らないよ。華蓮のお古でいいのに」

 「いいからいいから。それから靴下とか下着もあげるね? 胸は遥の方が大きいからブラはダメだけど、パンツは大丈夫でしょ? まだ履いてないからあげる。

 上下お揃いじゃなくなっちゃうけどね? あはははは」

 「もう十分だよ、華蓮」

 「アンタは私の妹なんだから、 私と同じ物を着せてあげたいの。私たち#姉妹__・__#なんだからさ」



 コンコンコン



 珠江がドアをノックした。


 「はーい」

 「お茶を持って来たわよ」

 「ありがとうママ。 遥、お茶にしよう」

 「すみません、ありがとうございます」

 「私ね、お菓子を作るのが大好きなの。

 これ、今日焼いたアップルパイなんだけど、良かったら食べてみて。

 ぜったいに美味しいから。あはははは」


 すると遥は急に泣き出してしまった。


 (こんなにやさしい素敵な親子に、私たち親子はいったい何をしているのかしら)


 「お、おばさん、ごめんなさい。私、沢村直子の娘なんです。ごめんなさい、本当にごめんなさい・・・」

 「どうして遥が謝るの? アンタは何も関係ない、アンタたち親子はたまたまお父さんに命を救ってもらっただけじゃない!」

 

 すると珠江は静かに言った。


 「遥ちゃんが気にすることじゃないわ。 何となくそんな気がしたの、あなたの沢村という苗字を聞いた時に。

 夕食は食べていってね? 今日は中華にしたから。

 お茶が済んだら下に降りてらっしゃい」

 「ママはね、何でも上手なんだよ。

 さあ遥、早く食べよう。ママのアップルパイは最高なんだから」

 「じゃあ下で待ってるわね?」

 「ハーイ。ありがとうママ」


 珠江は階下へと降りて行った。

 珠江のアップルパイは、ママの作ってくれるアップルパイより、少しシナモンの味が強い気がした。


 「どう? ママのアップルパイ、美味しいでしょう?」

 「うん、とっても」

 「気にしなくていいわよ、私たち子供には関係のない話だから。これは大人同士の問題だから。

 だから私と遥は今まで通りでいいの。そう思わない?」


 華蓮は嫌いではない。華蓮は本当の姉のように私を大切にしてくれている。

 やはり華蓮はパパの娘だと思った。


 本当はすぐにでも帰りたかったが、折角の華蓮と珠江に嫌な想いをさせたくはない。

 私は夕食をごちそうになることにした。

 


 「さあ座って頂戴。遥ちゃんは何か嫌いな物とかある?」

 「ありません」

 「そう、じゃあどんどん食べてね? 沢山あるから」


 食卓には色々な中華料理が並び、温かいプーアル茶が用意されていた。


 

 「この小籠包もママが皮から作ったんだよ」

 「すごいですね? 皮からだなんて」


 遥はセイロから箸で慎重に小籠包を挟み、針生姜と赤酢のタレにつけ、それをレンゲに載せて食べた。

 珠江が言った。


 「味わう余裕なんてないわよね? 私たち微妙な関係だから。

 本妻とその娘、そして・・・」

 「愛人の子供ですよね?」

 「そうね? 普通じゃないわよね? そんな三人でこうして食事をするなんて。

 でもね? あなたがどれだけ苦労したのかは主人からも聞いて知っているわ。

 遥ちゃんのお母さんのことは許してはいないけど、仕方のないことだと思っている。

 だって、あの人を大切にしてこなかった私たちにも原因があるし、あの人のそんなやさしいところも嫌いじゃないから。

 だから遠慮しないで食べて、遥ちゃんは華蓮の大切なお友だちでもあるんだから」

 「ありがとう・・・、ございます」

 「ママ、遥は今年、一橋の法学部を受けるんだって。弁護士になりたいそうよ。ねえ遥?」

 「凄いじゃないの。がんばってね?」

 「あ、はい」



 その時、杉田が帰って来た。


 「ただい・・・」


 杉田は遥が自分の家で食事をしていることに驚愕した。



 「お帰りお父さん、私の妹の遥だよ」


 すると遥は慌てて、


 「ごちそうさまでした。失礼します!」


 と言って家を飛び出して行った。


 「あなた、家まで送って行ってあげなさいよ。一人では心細いでしょうから」

 「私も一緒に行く! 折角あげた服も置いてっちゃったし」


 杉田と華蓮はすぐに遥の後を追った。




 「遥、待ってー! 忘れ物だよー! 服、服!」


 遥は立ち止まったが振り向かなかった。

 振り向くことが出来なかった。


 華蓮は遥と手をつないだ。



 「お父さんはそっちの手をつないであげて、遥を真ん中にして」


 杉田は華蓮の提案に従い、遥と手をつないだ。

 遥は泣いていた。


 「遥は泣き虫だね? 私たちが途中まで送って行ってあげる。アンタだけだと私たち、心配だから」

 「ありがとう・・・、パパ。お姉ちゃん・・・」

 「もう一度言って」

 「お姉ちゃん」


 華蓮と杉田も泣いていた。


 三人は駅までの道を並んで歩いた。まるで家族のように。



第21話 揺れる想い

 杉田と母、直子を慕う想いと、杉田の家族への罪悪感に遥の心は揺れていた。

 姉のようにやさしい華蓮。そして杉田の妻、珠江。

 夫の愛人の娘だと言うのに、すべてを受け入れて食事まで振舞ってくれた。

 

 もしも自分が華蓮だったら、とてもあのように親切になんか出来ない。

 華蓮は初め、「お父さんと別れなさいよ!」と言って来た。

 実の娘としては当然だ。

 あの母子が凄く意地悪で嫌な人たちだったら、どれほど気が楽だったことか。

 遥の気持ちは深く沈んでいた。


 

 直子が仕事から帰って来た。


 「遥、ただいまー。お買物していたら遅くなっちゃった。今すぐご飯の支度するね?」

 「おかえり、ママ」

 「どうしたの? 元気ないわね? 学校で何か嫌なことでもあった?」

 「ううん、その逆・・・」

 「それじゃあどうしてそんな暗い顔をしているの?」

 「パパの家族に会って来たの」

 「・・・」


 直子の顔から血の気が引いて行った。


 「どうして?」

 「ママには黙っていたんだけど、2か月くらい前の学校帰りにパパの娘さんに校門で待ち伏せされて、「お父さんを返して!」みたいなことを言われたの」

 「それで? 遥は何て言ったの?」

 「イヤです!って言ったわ。そしてパパが私たち親子を救ってくれた、命の恩人だということを話したの。

 そしたら言われた、「アンタも苦労してるんだね?」って。

 それから仲良くなって、何度か会うようになって、今日もその娘さんから誘われて家について行ったの。

 ママ、ごめんなさい・・・」

 「その子のお母さんにも会ったの?」

 

 遥は首を縦に振った。


 「そして私がいつも同じような服を着ているからと、服も沢山くれた」


 遥は華蓮から貰った大きな紙袋を直子に見せた。


 「こんなの今すぐ返してらっしゃい!」


 めずらしく直子は語気を荒げた。

 無理もない、自分の愛した男の娘のお下がりを娘に寄越されたのだ。これほど惨めな屈辱はなかったからだ。


 「ねえママ。私、大学なんて行かなくてもいい。

 だからママ、もうパパと会うのは辞めにしない?」

 「・・・遥」

 「その娘さん、華蓮って言うんだけどね? すごくいい子で「私はお父さんって呼んでいるから、遥はパパって呼んでもいいよ」って言ってくれるの。ヘンな子でしょう?

 家に誘われた時、最初は断ったわ。でもパパがどんなところに、どんな家族と暮らしているのか見てみたい気持ちもあったの。ごめんなさい、ママ。

 そして期待したの。うんと嫌な奥さんだといいなあって。

 そうなら何も悩まなくても済むと思った。

 でも、その人は私を愛人の娘だと知っても、私を受け入れてやさしく接してくれた」


 直子はスーパーから買って来た食材を冷蔵庫に仕舞いながら遥に訊ねた。


 「それでどんな人だったの? その奥さんは?」

 「普通のおばさんだった。太ったおばさん。

 ステラおばさんみたいな」


 遥は嘘を吐いた。「ママに似た人だった」とは言えなかった。母が傷付くと思ったからだ。


 「そう」

 

 直子は着替えて食事の支度を始めた。

 その日の夕食はもやしが多目の野菜炒めだった。

 会話のない食事だった。

 直子はテレビを点けたが、ふたりともテレビを見ることはなかった。


 「明日、服を返してくるね?」

 「ごめんね遥。そうして頂戴」


 直子は頭の中で、「もうパパと会うのは辞めにしない?」という遥の言葉を反芻はんすうしていた。



第22話 蒼い月

 直子は杉田と会う約束をした。

 杉田から指定されたのは、横浜のロイヤルパークホテルの70階にあるスカイラウンジ、『シリウス』だった。

 眼下にはライトアップされた遊園地の観覧車がとても小さく見えていた。



 「ごめんなさいね? 忙しいのに私から呼び出したりして」

 「こういう場所もたまにはいいだろう? 横浜の夜景も悪くはない。

 俺も直子に話したいことがあったから丁度良かった。じゃあ俺から先に言うよ」

 「はい」

 「俺はお前と別れる気はない。もちろん遥ともだ。

 だがそれが、お前たち親子の幸福に繋がらないというのなら話は別だ。

 そして俺より他に、お前と遥を大切にしてくれるという男がいればの話だ」

 「・・・」

 「同情で言っているのではない。俺は直子と遥が好きだ。しあわせにしてやりたいと思っている」

 「私も遥も杉田さんが好きです。

 でも、このままの関係を続けることは杉田さんのご家族に申し訳ない気がするんです」

 「じゃあ俺と結婚するか?」

 「杉田さんを奥さんから奪いたいとは思いません」

 「俺は結婚には向いていない男だ。

 だから仮に女房と離婚しても俺は誰とも結婚はしねえ。

 同じ結果になるのは目に見えているからだ。

 また不幸な女を増やすだけだからな?

 どうして人は結婚に拘るんだろうなあ? 俺には理解出来ねえよ。

 愛しているだけじゃ駄目なのか?」

 「結婚なんて私、望んではいません。

 でも・・・」

 「でも何だ? 遥から言われたのか? 俺と別れた方がいいと?」

 「いえ、私の意志です。私があなたのご家族を苦しめているからです」

 

 杉田はハモンセラーノで巻かれたゴルゴンゾーラを食べ、ソルティドッグを口にした。


 「ソルティドッグもいいもんだなあ。久しぶりに飲んだよ」

 「私はあなたにとって、たまに飲むソルティドッグですものね?」

 「それじゃイヤか? たまに飲むソルティドッグだから痺れる。俺は毎日同じ酒は飲まねえ主義だ。

 それが嫌なら別れてもいい」

 「所詮は不倫じゃないですか? 私たち」

 

 直子は杉田のソルティドッグを飲んだ。


 「どうだ? 不倫の味は?」

 「イヤな言い方をするのね? でも美味しい・・・」

 「しょうがねえだろう? お前といういい女に出会ってしまったんだから。

 愛すべき女が目の前に現れた、だから愛した。

 ただそれだけのことだ。

 だがそれで直子が辛いというのなら、これで終わりにしてもいい」


 直子は自分のワインを一気に飲み干した。


 「私と別れて下さい。お願いします」


 直子は杉田に頭を下げた。


 「わかった。じゃあ最後に一緒に温泉に行かねえか?」

 「温泉に?」

 「遥に言われたんだ、「ママを旅行に連れて行ってあげて」とな?

 今週の土日、熱海にでもどうだ?」


 直子はそれを了承した。


 (最後の温泉旅行・・・)





 直子と杉田は東海道新幹線に乗って、熱海へと向かっていた。


 「直子と新幹線の旅は初めてだな?」


 杉田はショウマイ弁当を広げ、直子の前に置いた。

 

 「ビールのつまみにはこれが一番だ」


 杉田は350mlの缶ビールを開け、直子にそれを渡し、自分はロング缶を開け、喉を鳴らしてそれを飲んだ。


 「いいよなあ、車窓から見る太平洋は」

 「そうですね?」

 

 直子は杉田の手を危うく握りそうになったが、思い留まった。

 直子の心は揺れた。




 直子と杉田は旅館に着くと部屋に荷物を置いて、一緒に海辺を散歩した。

 潮風が肌にべた付き、磯の匂いも強かったがあまり気にはならなかった。

 直子はこうして杉田と海辺を歩くことが嬉しかった。

 だが今日は、いつものように杉田と腕を組むことはしなかった。

 すると杉田の方から直子の手と恋人繋ぎをしてきた。

 それはとても自然な行為だった


 「海っていいよなあ。この海の向こうにアメリカがあるんだぜ」


 直子はその手をそっと握り返した。





 夕食前に部屋の露天風呂に杉田と一緒に入った。

 

 「潮騒の音が聞こえるなあ」


 杉田は椅子に座り、夕暮れの海を眺めながら生ビールを飲んでいた。


 「温泉なんて、遥と三人で飯坂温泉に行った時以来ですね? いい気持ち」


 直子は湯を両手で掬った。


 



 部屋に豪華な料理が運ばれて来た。

 直子は杉田に酌をした。


 「こんな素敵なところに連れて来てくれて、本当にありがとうございました」

 「これが最後だもんな?」

 「ええ、最後です。これで最後」

 「男と女は面倒臭えよなあ。どうしてだろう?」

 「面倒ですよね? 男と女って」


 直子はアワビのステーキを口にした。


 「もしこれが人間と人間ならどうだろう?」

 「人間と人間?」

 「男と女じゃなく、人間と人間と考えたらどうだ?」

 「男と女ではなくですか?」

 「そうだ。人間対人間としてだ。それなら俺たちは別れることもねえんじゃねえのか?」


 直子の箸の動きが止まった。


 「そんなこと、出来ますか?」

 「俺は出来る」

 「私は無理です。女だから」

 「人間として好きならいいじゃねえのか? 色恋じゃなく」

 「それはカラダの関係がなくてもということですか?」

 「そうだ。SEXをせずに付き合うということだ」

 「プラトニックな恋ですか?」

 「俺はそれでも直子が好きだ。男女を越えた、性別を超えた存在として」

 「杉田さん・・・」




 食事を終えて布団が並べて敷かれた。

 杉田は部屋の電気を消した。

 浴衣を着て、ふたりはそれぞれの寝床に就いた。


 「月がとても綺麗ですね?」

 「今夜はブルームーンだな?」


 直子は杉田の布団に自分から入って行った。


 「最後に抱いて・・・」

 「最後にか?」

 「好き。あなたが好き」

 「それはどういう意味でだ?」

 「男性として、そして人間として好き」

 「それで辛くはないのか?」

 「辛いです。でもやっぱり別れられない! 別れたくない! あなたが好きなの!」

 

 杉田は直子を強く抱き締めた。


 「俺もだ。人間として、そして女としてお前が好きだ」

 「あなた!」


 青い月明かりに照らされた、ふたりの愛が交わり、蕩けていった。

 直子の決意は脆くも崩れ去った。

 




 その夜、直子は杉田に女を曝け出した。

 直子は思った。このまま、このままでいいのだと。

 杉田の家族のことは忘れようとした。

 せめてこんな美しい月夜の間だけでも。



 杉田の荒い息遣いと直子の悦楽した喘ぎ声。そして波の音が聞こえていた。


 男と女。それは理屈ではなく、成り行きと言う名の運命なのかもしれない。



第23話 捨て切れぬ愛

 「ただいまー」

 「おかえりママ、・・・パパ。どうして?」

 「俺たちは家族じゃねえか? 金目に伊勢海老、鮑もあるぞ。

 今日は俺が料理長だ。遥、ママのエプロンを取ってくれ」


 遥は椅子に掛けてあった直子のエプロンを杉田に渡した。

 そして杉田に抱き付いて泣いた。


 「パパ・・・」

 「遥、腹減っただろう? すぐにメシにしてやるからな? 今日はごちそうだぞ」


 遥は頷き、杉田は軽く遥の頭を撫でた。自分の娘として。


 「パパ、私も手伝うよ」

 「一緒に作るか?」

 「うん!」

 「じゃあ私は着替えて来るわね?」

 「ああ、任せて置け。俺と遥で今日は料亭だ。なあ遥?」

 

 遥は涙を拭い、自分もエプロンを着けた。

 本当の親子のようにキッチンに立つ遥と杉田を見て、直子も泣いた。



 「遥、冷蔵庫からビールを取ってくれ」


 遥は冷えた缶ビールを取り出し缶を開け、杉田にそれを渡した。


 「パパ、コップは?」

 「缶のまま飲むから大丈夫だ。

 料理はな? 飲みながらするもんだ。つまみ食いしながらな?」

 

 杉田は缶ビールをそのまま旨そうに飲んだ。

 そして発砲スチロールの箱を開け、それを遥に見せた。


 「どうだ? 旨そうだろう?」

 「凄い! 伊勢海老も鮑もまだ動いてる!」

 「折角の伊勢海老だから今日は刺身にしよう。鮑はステーキにして金目鯛は煮付けだ。

 遥はメシを炊いてくれ」

 「了解です! 料理長殿!」


 遥は米を研ぎ始めた。


 「米が上手に炊けて、旨い味噌汁が作れたらいつでも嫁に行けるぞ」

 「じゃあママはいつでもお嫁に行けるね?」


 杉田は横顔で笑った。


 「まずは時間が掛かる金目の煮付けからやるか?

 料理は下準備が大切だ。仕事も勉強もそうだ、段取り八分とは言うが、段取りが九割だ。

 金目はもちろん刺身でも旨いが、今日は煮付けにする。煮魚を作る時に大切なことは何だと思う?」

 「鱗が残っていないことと、生臭くしない事? それと食感かな?」

 「その通りだ。鱗は魚屋できれいに取ってもらったが、皮の旨さを引き立てるためにはもうひと手間をかける」


 杉田は金目を三枚におろした。

 そしてきちんと血抜きをして丁寧に水で洗い、上から熱湯をかけた。

 それを素早く氷水の中に入れて締めた。


 「魚が本当に旨いのは皮と身の間だ。こうすることでより皮が旨くなり、食感も良くなる。今度は煮汁を作るぞ。  

 水と酒は同量入れる。そして味醂と醤油、俺は生姜は輪切りにして入れる。臭みも取ってくれるし、煮汁が沁みて生姜も旨いからだ。繊維を縦に切るから生姜のしつこい繊維も気にはならなくなる。 

 そして最も重要なのが砂糖だ。

 俺はザラメ砂糖を使う。そして隠し味にハチミツを少し。

 後は弱火でじっくり煮込むだけだ。シシトウを入れてもいいぞ、旨いし彩りもいいからな? 

 そして盛付ける時には白髪ネギをたっぷりかける」

 「早く食べたい!」

 「あはははは」


 杉田は缶ビールを一気に飲み干した。


 「パパって何でも出来るんだね?」

 「何でも出来るということは、何でも#中途半端__・__#だという事でもあるけどな?」


 杉田の顔が曇った。


 「鮑の肝がこれだ。見たことあるか?」

 「この碧色のやつ?」

 「これが凄く旨いんだ。韓国人は鮑の肝となると親とも取り合うほどの好物らしい」


 杉田は醤油とワサビを刺身皿に溶き、鮑の肝を入れた。

 そして鮑を一切れ包丁で切ると、そこに入れて味見をした。


 「うん、美味い! 遥も喰え」

 「うん、食べてみたい!」


 杉田は遥のためにもう一切れ鮑を切った。

 それを同じように口へ運ぶ遥。


 「コリコリして美味しい! 始めて食べた! 鮑のお刺身も肝も最高!」

 「肝の天ぷらも旨いんだぞ、今度、食いに連れて行ってやるからな?」

 「う、うん」


 遥は華蓮の家族が目に浮かんで躊躇した。

 直子が着替えてやって来た。


 「私は何をすればいいのかしら?」

 「直子は酒盛りの準備をしてくれ」

 「はーい」


 直子は大瀧詠一のCDを掛けた。

 『恋するカレン』だった。遥の料理をする手が停まった。


 「ママ、今日はJAZZにしようよ、歌詞のない方がいいから」

 「そう? じゃあピアノジャズにするわね?」


 それはアップテンポの軽快なJAZZピアノだった。


 「よし、ママも来たから伊勢海老の造りと鮑のステーキに取り掛かるとしよう。

 遥、煮魚にはたまに煮汁を掛けてくれ」

 「はーい、ねえパパ、鮑はお刺身で食べたい。ママにも鮑の肝で食べさせてあげたいから」

 「そうか? 実は俺とママは鮑のステーキはもう食って来たんだ。遥がそう言うなら刺身にしよう」


 杉田は鮑に包丁を入れた。




 食卓には豪華な海の幸が並んだ。

 

 「いただきまーす!」

 「たくさん食えよ、遥の為に買って来たんだからな?」


 遥は伊勢海老の造りに箸を付けた。


 「うわーっ、凄く甘くてプルプルしてるう!」

 

 杉田と直子は目を細めて微笑んだ。


 「良かったわね? 遥?」

 「今日は最高の日だよ! パパ、ママ、ありがとう!」




 食事を終えると杉田が帰ろうして席を立ち上がった。


 「遥、来週の日曜日、ママと三人で渋谷に出るか?

 旨い鮑の肝の天ぷらを食わせてやるよ。そして服を買ってやる。

 お前たちにカネを渡しても貯金してしまうからな?」

 「いいよ、パパは忙しいから。

 ママと私は十分しあわせだよ」

 「遠慮すんな。受験、がんばれよ」

 「ありがとうパパ」




 遥と直子が後片付けをしていると、直子が遥に言った。


 「ごめんね遥。やっぱりパパと別れられなかったの」

 「それは私も同じだよ。

 私もやっぱりパパが好きだもん。人としても尊敬している」

 「人としてかあ。私は素敵な男性としてパパが好きだな?」


 遥は何も言わずに皿を洗った。


 先のことはその時考えればいい。遥はそう思った。



第24話 春の日

 月次決算は今月も前年対比15%の利益増だった。

 財務諸表に目を通していると、祥子が珈琲を淹れてやって来た。


 「今月の業績も良かったようですね? 少し休憩されてはいかがですか?

 成績の良い通信簿なんて、どうせ見てもしょうがないじゃないですか?」

 「好事魔多しだよ。好調な時にこそ細心の注意を払う必要がある」


 祥子はそっと珈琲と落雁を置いた。


 「ここから見る千鳥ヶ淵の桜はとても綺麗ですね? お花見に行きたいくらい」

 「珈琲に落雁でか?」

 「意外と合うんですよ、落雁を口に入れてコーヒーを飲むと、すっと溶けて淡い甘さが口に拡がるんです。今日のこの桜のようにふんわりと」

 「今日の珈琲は何だ?」

 「テクニカルウッドの村山さんからのいただき物のブルーマウンテンです。もう少しローストした方がいいとは思いませんか?」

 「俺は祥子のように味覚が鋭敏じゃねえからな?」


 俺は祥子に言われた通り、落雁を一口齧って珈琲を飲んだ。


 「うん、結構合うな? 落雁とブルマン?」

 「この落雁に合うように、珈琲は少し長めに蒸らしました」

 「どうだ? 桜も咲いたし、昼飯に鰻でも食いに行かねえか?」

 「あら、私の念力が社長に通じたのかしら? 今日は鰻の気分だったんです、私」

 「そうか? じゃあ今日は岩倉さんとよく行った『山岡』の鰻でも食いに行くか? 普通の店は花見客で混んでいるだろうからな?」

 「では予約しておきますね?」

 「ああ、13時半に予約しておいてくれ」

 「かしこまりました」



 

 祥子は俺のカラのビジネスバッグを持って会社を出た。

 あくまで俺の秘書としての随行を装うために。

 社用車に乗り込むと運転手の角田に言った。


 「帰りは勝手に帰るから大丈夫だからな?」

 「かしこまりました。お気を付けて」

 

 祥子は角田に小さなブーケを渡した。


 「角田さん、今日は結婚記念日ですよね? これ、奥さんに」

 「いつも気にかけていただいて、ありがとうございます。あやうく忘れるところでした」

 「そうか? 結婚記念日か?」


 俺は財布から1万円札を1枚抜いて角田に渡した。


 「なんだか申し訳ありません、わたくし事ですのに」

 「お前にやるんじゃねえよ、そのままお母ちゃんに渡せよ」

 「ありがとうございます。では遠慮なく」

 

 角田は恭しくそれを受け取った。

 運転手の角田は余計な詮索はしない男だ。



 店にクルマが到着すると、


 「角田さん、少しここで待っていて頂戴ね?」

 「はい、田子倉課長」


 鰻屋に入ると祥子が女将に言った。


 「イワスギホームの田子倉です。

 女将さん、頼んでおいたお弁当、出来ていますか?」

 「いつもありがとうございます。祥子ちゃん。

 特上がおふたつでしたよね? ハイどうぞ」

 「ありがとうございます。社長、角田さんに渡して来ますね?」

 「お前はいつも気が利くな?」

 「角田さんは私たちの大切な#エージェント__・__#ですから。あはははは」


 小走りに店を出て行く祥子。


 


 「角田さん、これ、社長からの結婚記念日のお祝いです。

 奥さんとどうぞ」

 「こんな老舗の『山岡』の鰻まで。課長、いつもすみません。社長にもよろしくお伝え下さい」

 「ご苦労様、気を付けて帰ってね?」

 「お疲れ様です。では失礼いたします」


 仕事が出来るとは気配りが出来ることを言う。

 祥子は秘書としても一流だった。



 「昼飯を食うのに俺の鞄まで持って、用意周到だな? 田子倉課長は?」

 「どこで誰が見ているかわかりませんからね? 鰻屋さんじゃなく、これは業務の一環ですから。うふっ」


 祥子は座敷に俺の鞄と自分のビジネスバッグを置いた。

 中庭のしだれ桜はまだ五分咲きだったが、松や苔、芽吹き始めた新緑の木々が午後の陽射しを浴びて輝いていた。



 「杉田社長、いつもありがとうございます。また今年もお花見の季節になりましたね?」


 女将自らが挨拶にやって来た。


 「取り敢えず生2つ」

 「社長、私はまだお仕事が」

 「そうか? じゃあ俺が2つ飲むからいい。女将、生2つくれ。

 あと何かすぐ出来るやつ。ここの鰻は時間が掛かるからな?」

 「畏れ入ります。ではいくつかおススメをご用意させていただきます」


 女将は静かに襖を閉めた。


 「祥子、もう春だなあ」

 「卒業式に入学式、そして歓送迎会の季節になりましたね?」

 「早いもんだぜ、人生は。この前までは寒い冬だったのにな?」


 女将が声を掛けて襖を開けた。


 「お待ちどうさまでした。菜の花と筍、そして酢漬けのニシンでございます。

 後程、肝焼きと出汁巻きをお持ちいたします。

 杉田社長にはおビールを。祥子ちゃんには私物の鉄観音茶をお持ちしました。美味しいわよ、どうぞ召し上がれ」

 「ありがとう女将さん」

 「菜の花と筍か? 旨そうだ」

 「ありがとうございます。春ですからね?」


 女将が下がると、俺は祥子の前にビールを置いた。


 「今日はこのまま直帰しろ」

 「いいんですか?」

 「社長命令だ。いいから飲め。

 いつもありがとうな? 祥子」

 「どうしたんですか社長? 今日は何かヘンですよ? お昼から鰻なんかに誘ってくれて? そして「いつもありがとう」だなんて?」

 「まあ、いいから飲め」

 「いただきます」


 祥子と俺は生ビールを飲んだ。


 「ああ、美味しい。昼間に飲むビールには罪悪感がありますよね?

 だから美味しいのか? あはははは」

 「お前たちが一生懸命働いてくれるお陰で、会社も上手く回っている。

 会社が上向きな時に俺もこのイワスギホームを卒業したいと考えているんだ。

 いつまでも偉そうに、ジジイが組織のトップにいちゃいけねえ。

 民自党を見てみろ、パンパースをしたジジイがまだ権力の座にしがみついているじゃねえか? だから組織が腐るんだ。

 俺はイワスギホームを腐らせたくはねえ」

 「駄目ですよ社長。そんなことは私が許しませんからね。社長あってのイワスギホームなんですから。

 社員も私と同じ考えだと思います。まだまだ会社には杉田社長が必要です」

 「祥子、お前、常務になれ」

 「イヤですよ、常務だなんて。誰が社長に美味しいお茶を淹れるんですか?」

 「なって欲しいんだ、お前に。

 そしてアイツらを支えてやってくれ」

 「私は社長を支えたいんです」

 「俺はな? もう休みてえんだよ。今までずっと働いて来たんだぜ。

 そろそろ俺にも休みをくれよ。

 俺には夢があってな? 引退したら鎌倉に『港町食堂』って名前の小さな定食屋をやりてえんだ。そして二階が俺の住まい。

 クルーザーを買って毎日釣りに出掛け、その日に釣れた魚を店で出す。

 近くに畑を借りて野菜も作るんだ。

 店の営業時間は日の出から日没まで。雨の日は休み。本を読んだり音楽を聴いたりしてな?

 晴耕雨読ってやつだ。

 そしてあの宮沢賢治の「アメニモマケズ」みてえな暮らしがしてえんだよ」

 「社長・・・」

 「我儘言って悪りいな?」

 「私もあなたと一緒にやりたい! その『港町食堂』を!」

 「お前はお客だ。いつでも食いに来い。お前は永久にタダで食わせてやるからな。あはははは」

 

 祥子はめずらしく泣いていた。

 泣きながら鰻を食べていた。

 季節はもう春だと言うのに。



最終話 ファミリー

 そして10年が過ぎ、俺は還暦を迎えた。


 遥はカネにもならない生活困窮者のための弁護士をしていた。

 信吾は国交省の官僚になり、舞と結婚して孫の凛も生まれた。

 華蓮は大学を卒業して俺の店を手伝ってくれている。

 そして絹世は3年前に5才年下の稔と見合い結婚をして、たまに旦那を連れて鎌倉へやって来る。



 「土日の鎌倉は人でいっぱいね? あーお腹空いたー。

 華蓮、とりあえず生1つ。

 今日のお勧めは何?」

 「今朝、料理長が自分で釣って来たアジですかね?

 アジフライ&なめろう定食はどうですか? 絹世ママ」

 

 華蓮は絹世のことを「絹世ママ」と呼んでいた。

 絹世は華蓮のことを娘のように可愛がってくれていた。


 「じゃあそれを2つ頂戴」

 「稔おじさんにはウーロン茶でしたよね?」

 「そう、この人、私の運転手さんだから。あはははは」

 「今度は電車で来ようよ。僕もたまには飲みたいからさ」

 「イヤよ、電車は混んで座れないじゃないの」


 稔は絹世に母性を感じており、いつも絹世の言いなりだったが、それがうれしそうでもあった。

 


 俺は鎌倉の商店街に、二階が住居になっている、小さな食堂を始めた。

 営業時間は前から決めていた通り、日の出から日没まで。雨の日が定休日だった。

 人間の暮らしは太陽と月、そして天候に合わせるべきだからだ。



 メニューはその日の気分次第と獲れた魚で決める。

 カウンターが10席と小上がりの座敷が4卓。

 料理人は俺だけだったが、常連客からは「料理長」と呼ばれていた。



 「料理長。今日の『料理長のおすすめ』はヒラメの漬け丼と牛テールカレー、海老シュウマイかあ?

 今日はコンソメはないの?」

 「ブイヨンをもう一晩寝かせた方がいいから明日にしたよ」

 「じゃあ明日も来なくっちゃ。今日は漬け丼で」

 「あいよ」



 そんな我儘な俺の店はいつも常連たちでいっぱいだった。

 観光客やグルメサイトでうちの店に来る客は殆どいない。

 サイトにも載せていないし、そもそもこの店には看板がなかった。

 看板は店の中にあったので、看板の意味をなさない看板だった。

 宣伝しない看板のない店、それが俺の店、『港町食堂』だった。

 店の引戸の壁に、フリージアの一凛差しが活けてあった。

 入口にはほんのりとフリージアの香りがしていた。

 フリージアは女房の珠江が好きな花だった。



 「華蓮ちゃーん、生2つ!」

 「はーい! ただいまー!」

 「この店はカルピスハイとかカシオレとかないの?」

 「ごめんなさいね、お酒とビールしか置いてなくて」

 「あんなの酒じゃねえ。そんなにジュースが飲みてえ「お子ちゃま」は、そこら辺の居酒屋チェーン店へ行けよ」

 「ハイハイ、その方が儲かるのに」

 「俺はカネのためにこの店をやっているんじゃねえ」

 「じゃあ何のためにやっているのさ?」

 「趣味だ」

 「趣味? あはははは。料理長、今日の刺身は何?」

 「昨日アイナメを釣って〆てある。甘味も丁度いい頃だ」

 「獲れたての方が旨いんじゃねえの?」

 「それはテレビのグルメ番組の見過ぎだ。肉も魚も少し熟成させた方が旨い。

 アイナメは「鮎なみに旨い」からアイナメって言うんだぜ」

 「へえー。じゃあそれを下さい」



 土日は直子と珠江、そして遥も手伝いに来てくれた。



 「ナオ、お皿足りないわよー」

 「はあーい、珠江さん、この海老チャーハンは山ちゃんにお願いしまーす!」

 「了解!」

 「華蓮、このビールサーバーのタンク、どうやって交換するのー?」

 「私がやるから遥はご飯炊いて!」

 「わかった」


 こうして2つの家族がいつの間にか1つの家族になっていた。

 家族を越えたファミリーに。




 祥子が店にやって来た。祥子の席はいつもカウンター奥の予約席と決まっていた。


 「あら副社長、今日は何を飲む?」

 

 珠江が祥子に訊いた。


 「ここって食堂でしょう? 居酒屋じゃあるまいし、最初にお酒の注文だもんね?」

 「だって副社長はお酒大好きなくせに? それに唯一のお店の株主様だからさあ」

 「早く定年にならないかしら。そうしたらあなたたちと一緒にここで働くのに」

 「ショコタンには似合わないわよー、プラダを着た悪魔なんだからあ。あはははは」

 「それなら私は料理長の船に乗って漁師になるわ。一級小型船舶のライセンスも持ってるし」

 「じゃあ私もショコタンと一緒に漁師になる!」

 「やろうやろう、華蓮と私の美人漁師コンビ! あはははは」

 「あはははは」



 

 俺はロッキングチェアで目が覚めた。どうやら夢を見ていたらしい。

 女たちが笑っていた。円満な一夫多妻家族だった。

 結婚という概念に縛られず、お互いを尊重し、しあわせも悲しみも共有して助け合って生きるコミュニティー。


 いい人生だったと思う。

 人間の幸福とは好きな人たちと生活を共にすることだ。誰が一番で、誰が上でも下でもない。

 老いも若きも、男も女もみな平等な仲間なのだ。家族なのだ。

 それはカネでは買うことの出来ない、「真実の愛」だ。

 それが愛の理想郷、『シャングリラ』なのだ。

 

 最期に呼ぶ女の名が、自分が最も愛した女の名前だ。

 俺は再びロッキングチェアを揺らし、愛した女たちの名前を口にした。


 「珠江・・・、直子。絹世、芳恵、そして祥子・・・。

 ありがとう、俺の愛した女たち・・・」



 杉田のロッキングチェアの動きが止まった。

 口元が綻んで、笑っているようだった。


 杉田はひとり、誰にも看取られることもなく、静かに息を引き取った。



                      『ダブルファミリー』完




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【完結】ダブルファミリー(作品230717) 菊池昭仁 @landfall0810

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