第3章(最終章)

第14話


 帝国歴565年、12月。

 

 ダルク公国、

 公都ボジェ、公爵館機密室。


 「……この修約は、とても呑めませぬ。」


 ラコニア王にしてダルク公ルイは、若々しい顔を気色ばませながら、

 モーグ教皇庁の密使であるルナ・コロンナ枢機卿を睨みつけた。

 

 実際、呑める内容ではない。

 侵攻として謝罪した上で、

 隣接領地であるダルク公領の半分をダーイー朝に割譲し、

 ラコニア王女としての娘を側室に降嫁させ、

 しかも10年間の賠償金までつけている。

 

 その一つを呑ませるだけでも、

 自らを王冠に推したラコニア貴族を激怒させるに足る内容であり、

 それが四項目もついている。

 

 しかし、ルナ枢機卿は、

 露ほども痛痒を感じぬ涼し気な表情を見せ、

 

 「わが主は、この条件を受け入れなければ、

  一切の支援は行わぬと申しております。」

 

 「……わが主とは、教皇猊下のことでしょうか。

  。」

 

 「詮索は無用。

  わが主は、ただ、わが主にございます。」

 

 ダルク公ルイは、決して気の強い性格ではなかった。

 だから、ロトリン大公を牽制するためだけに、

 選定侯をはじめとする諸侯から組みしやすしと見られて王に推戴された。

 

 少しでも冷静に考えられれば、

 教皇庁がここまで強気に出られる筈がないこと、

 支援を行わなければ、信徒を見捨てたと思われて窮地に陥るのは明らかだと、

 気づくことができただろう。


 しかし、ラコニア王位などまるで考えたこともなく、

 内政向けの顧問官だけを配置していたルイには、

 この程度の外交を捌ける側近もいなかった。

 

 その甘さを、

 老獪な教皇の右腕、ルナ枢機卿に衝かれた。

 

 「ご決断を、陛下。」

 

 ダルク公ルイは、

 短かったラコニア王としての栄誉を確認するように、

 金で縁取られた王の錫杖を二度、握りしめた。


*


 帝国歴565年、12月。

 

 ダーイー朝、

 紅宮、諸王の間。

 

 入念に整えられた庭園から噴き出す水が涼しげに響く中、

 大宰相ハンムードは、敵国の出した修約案に目を疑った。

 実質的な全面降伏である。

 

 罠かと思ったが、そうではないらしい。

 これは、呑まない手はない。

 この内容ならば、スラーマ中の声望は向上し、

 いずれヴァンダ全域の併呑も夢ではなくなる。


 しかし。

 

 「敵は相当、我らを恐れているようだな。」

 

 日に焼けた精悍な肌と、口元を覆い隠すように生える髭。

 ダーイ朝君主、アブド・ムタリ。


 軍事上、彼は天才といってよい。

 一兵卒からヴァンダ最大の大領土を築き上げたアブド・ムタリは、

 寡兵を以てラコニア貴族がひしめく敵陣を奇襲し、

 自ら二十の首を挙げ、敵戦線を分断、覆滅する大戦果を挙げた。


 「当初の交渉でこの和約を出すならば、

  少なくとも、ダルクの地をすべて収めることは叶おうぞ。」


 交渉事は、当初は不可能な案を出すもの。

 擦り合わせの初期段階で、これほど弱腰の条件を出すなら、

 もっと強く押せば、より良い修約を得ることができる。

 

 アブド・ムタリは有能な軍事君主であり、

 彼の、いや、人類の通常の経験に従ったまでのことである。

 

 大宰相ハンムードは、

 その豊富な経験から、僅かに疑いを持ったが、

 自信満々な盟友の機嫌を損ねることはないと言葉を仕舞った。

 

 これが、ダーイ朝の、

 ダラコニアを領したスラマー教徒にとって、

 致命的な分岐点になると、誰が想像できたろうか。


*


 帝国歴566年、1月。

 

 自由都市グリニツィン、

 クリンゲンバウム地区、レ・リュクス。


 「……勝った、な。」

 

 人間は、本当に救いがたい貪欲なものだ。

 ただ、自らが貪欲であるがゆえに、人の貪欲さを憎む。

 それが、自分と違う属性と感じられるものなら、なおさらに。


 「カウカッソス。」

 

 「は。」

 

 「全中原に対する布告文を作成。

  教皇猊下の属僚とよく相談せよ。」

 

 「はっ。」

 

 「グリュン・フォン・グールド。」

 

 「ははっ。」

 

 「全同盟都市、同盟諸国及び協商諸国に布告。

  全海軍を動員し、その八割を以て

  敵方の補給・流通網を完全封鎖せよ。」


 「御意。」


 「ランドルフ・フォン・ブラウフォルツ。」

 

 「はっ。」

 

 「自由都市同盟遠征軍の総司令を命ずる。

  ダーイー領内での徴発を許可する。」

 

 「御意。」

 

 「ベネディクトゥス。」

 

 「はっ。」

 

 「スラーマ教団の分断工作を一任する。

  諸国と協調して異端派を煽りまくれ。」

 

 「御意。」


 「メルルよ。」

 

 「はい。」

 

 「防諜組織を一任する。

  目的成就のためのあらゆる手段を認める。」

 

 「……はい。」

 

 ふぅ。

 ここまできたら、

 華麗に地獄の底まで堕ちてみせようか。


*


 帝国歴566年、2月。

 

 ダーイー朝、

 紅宮、諸王の間。

 

 「援軍が帰った、だと?」

 

 「は、はっ!」

 

 「なぜだ。

  異教徒を撃滅する聖戦だぞ?

  しかも、勝ち戦だというのに。」

 

 「わ、分かりませぬっ!

  ですが、諸国の兵達も次々と帰還しており、

  我らの兵が孤立無援にっ。」


 「な、なぜだ。

  なぜだっ。」


 その、一か月前。

 宗派に関わらず、ダラコニアの各領主達に、

 ある文書が一斉にばらまかれた。

 

 ダルク公ルイによる衷心からの謝罪と、

 屈辱に満ちた和約案を故なく蹴り、

 ダラコニア全領の無道な併呑を狙う

 ダーイー朝君主、アブド・ムタリの悪行悪心が、

 あらゆる言葉を連ねて糾弾されていた。


 『貪婪飽くことなき禽獣の所業。』

 

 『信仰とは無縁の悪行。

  世界征服を企む今世悪の権化。』


 一兵卒から王朝を築き上げたダーイ朝君主、

 アブド・ムタリの悪行は、確かに存在した。

 

 しかし、卓越した軍事貴族ならば、

 誰もが行う程度の行為や、多少残虐な刑罰が、

 針小棒大だが仔細かつ臨場感を以て書き込まれ、

 否応なく猟奇性、悪魔性を高めていく。

 

 『神の裁きを受く者』


 『神の怒りを受く者』

 

 『涜信の者へ近づくなかれ』

 

 『神意は明らかなり』


 戸惑うダーイー朝主従に対し、

 カリン教皇クレメントⅣ世の名において、

 聖戦の回勅が発せられる。

 

 『公敵』


 『の敵』

 

 『貪欲を、禽獣の輩の非道を許すなかれ』

 

 『世界征服を企む神の敵を、

  神とともに打ち滅ぼせ』


 巧妙に宗教色をぼかした回勅には、

 実利がしっかりと紐づいていた。

 

 『人類の公敵の撃滅に多大なる功ありし者、

  どのような身分であっても、

  我が名を以て一城の領主となさん。

 

                帝冠の守護者たる

    クライス・フォン・ヴァッサー=ハビヴィト』

 

 回勅の最後に付帯された、

 きわめて短い布告に過ぎなかったが、

 人口に膾炙したのはこの短い布告文だった。

 

 あらゆる階層、あらゆる身分、

 あらゆる立場を超えて、

 実利への凄まじい貪欲が吹きあがった。

 

 中原全土から押し寄せた軍は、

 武器を持つ者だけで五万に達した。


 補給路を混乱させずドブリュー指揮に志願者を整除し、

 悪意を持つものを弾き飛ばして各領に収監しつつ、

 精鋭兵となる二万強の軍勢を作り上げ、

 自由都市同盟軍本体一万五千、諸王・諸侯軍総勢三万、

 合わせて六万五千。

 

 中原の歴史上、類例を見ない大軍となったカリン聖戦軍は、

 一万弱のダーイー朝領に、四方八方から襲い掛かった。

 

 しかし。

 

 ダーイ朝君主、アブド・ムタリは、

 確かに、軍事上の天才であり、

 残された軍は自ら選んだ君主を見捨てぬ精鋭兵であった。


 精鋭による防衛戦であれば、

 攻城側に比して、烏合の衆の混ざるカリン聖戦軍にやや足の乱れがある。

 

 着実に周囲を取り囲んでいくカリン聖戦軍は、

 それだけ、補給路が広く、薄くなる。


 アブド・ムタリ率いる親衛軍は、

 その補給路をゲリラ的に突き、

 何度となくカリン聖戦軍を押し返していた。

 

 スラーマ教の年代記作者の立場から見れば、

 頬と髭を鮮血に染めながら異教徒と戦い続けるアブド・ムタリこそ

 今世のシャハダスラマー教徒の英雄そのものだった。

 

 だが。

 

 その声望がスラマー教の一般信徒に届くことはなかった。

 スラマー教の君主たちは、

 開祖の直系と傍系、さらには軍事貴族と法学貴族で分かれており、

 ここに来て、宗派間の対立が沸騰ベネディクトゥスの謀略してしまったのである。

 

 撃滅の回勅が巧妙に宗教色を薄めたことにより、

 全スラマー教徒による聖戦が発動されることはなかった。


 成り上がり者であるアブド・ムタリの外交上の声望の無さ、

 海路、陸路双方の補給路の覆滅もあり、

 華々しい戦術的勝利を重ね続けているにも関わらず、

 半年強に渡る防衛戦は、塗炭の苦しみへと変わっていった。

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