第10話


 帝国歴564年、6月。


 自由都市グリニツィン、

 クリンゲンバウム地区、レ・リュクス。

 

 「……クライス、さま。」

 

 「大丈夫。

  大丈夫だよ、メルル。

  

  首筋と肩は浅い。毒も抜いた。

  絶対にきみを死なせはしない。」


 ……許せない。

 絶対に、許せない。

 

 殺しておくべきだった。

 絶対に、殺しておくべきだった。

 殺せるタイミングは、いつでもあったはずなのに。

 

 甘かった。

 甘すぎた。

 父も亡くなり、襲爵した以上、

 もうなにもしてこない、なんてことはなかったのだ。


 「……クライス、さま。

  日々の鍛錬を、おこたった、わたしが、悪い、のです。


  それに、こんなことで、わたしは、死にません。

  わたしは、いつまでも、クライスさまの

  そばに、おりますから。」

 

 あぁ。

 もし、メルルが死んだら、世界中を燃やし尽くしてやろう。

 手始めに、マルルバードを根絶やしに

 

 「閣下。」

 

 あぁ。

 冷静さを取り戻せと。

 分かる。言いたいことは痛いほど分かるが。

 

 「きみのせいでもあるぞ。」

 

 お前が矯正できなかったから、

 お前があの野郎を殺してこなかったから。

 

 「……申し開きもございません。

  どうか、某に死を賜りたく。」

 

 「……。

 

  いや、いい。

  メルルには、最高の医師団を。」

 

 「御意。」

 

 ……

 わかった。

 俺は、俺のやり方でやらせて貰う。


 必ず、あ奴の首を掻き切る。

 使


*


 帝国歴564年、7月。


 グリュンワルド王国、

 王都ルサチア第一王宮、大熊の間。

 

 「……クライスは、なんと?」

 

 グリュンワルド王マルドは、

 ちらりと宰相ヘルドリヒに目をやると、親書の端を手渡した。

 

 「……南中原自由都市同盟との和約と、

  貿易協定の締結、ですか。」

 

 「うむ。」

 

 「ごく普通の親書ですな。

  あの神童が書いたというから、

  どんなものかと思え

  

  ……これ、は。」

 

 「……あ奴は、本気のようじゃ。

  父祖伝来の地を、捨てる覚悟じゃと。」

 

 「ですが、

  これは、このままでは。」

 

 「そうじゃな。

  普通にやれば、アルブレヒト軍務卿あたりが

  文句をつけてくるじゃろうよ。


  だがの。」


 「これを機に、兵制改革に着手するも一興。

  ですな?」

 

 「うむ。」


 中原有数の大国、グリュンワルド王マルドは、

 この末世では相対的に平和主義者だが、

 それは、戦争狂ではない、というだけのことである。


 20年もの間、大きな戦争を避けてきたのは、

 惰弱でも、怯懦でもない。

 内政を維持し、貴族人脈を整理し、王権を確立するため。


 先王ヨッフェンが拡げた広大な領土を、

 この乱世で20余年も保ち続けた時点で、

 君主としてのマルドの力量を察するべきである。


 「クライスを敵に廻すのはよろしからずじゃ。

  あやつに死んでもらっては、

  ラコニアやマルルバードへの抑えも効かんしの。」

 

 愛した女の一粒種だとは、言えるわけがない。

 宰相ヘルドリヒも、そうと知りながら、静かに口を閉ざした。


*


 帝国歴564年、8月。

 

 自由都市メピア。

 共和国宮殿、光の間。

 

 グリュンワルド王国宰相

 ヘルドリヒ・フォン・ベスマイヤー侯爵は、

 自由都市同盟事務局長、

 ランドルフ・フォン・ブラウフォルツ男爵と握手を交わした。

 

 幾つかの文言修正はあったが、

 概ね、クラウス親書の通りに事は進んだ。

 僅か一か月のスピード妥結である。

 

 「この協定文を王都まで運ぶだけでも難儀そうですな。」

 

 王国副使であるレフテンワルド子爵ヨッフェンが口を滑らせる。

 ここに来るまでに、両者への暗殺の試みが三度に渡っていた。

 両国の内部、同盟諸国、ラコニアにマルルバード。

 中原は、この協定を快く思わない者で溢れている。

 

 ただ。

 

 「その件についてですが、宰相閣下。

  わが主より、別してこのようなものを。」

 

 ベスマイヤー侯ヘルドリヒは、長大な文書を受け取ると

 さっと目を通し、思わず苦笑いを浮かべた。

 

 「我らは兄弟喧嘩に巻き込まれておるわけだな。」

 

 ランドルフの笑いは、

 ヘルドリヒに比べ、苦味がより深かった。


*


 帝国歴564年、8月。


 グリュンワルド王国、

 ハビヴィト侯爵領都プラッツ、第一執務室。

 

 「侯爵閣下。」


 軍出身の家宰が、クレーゲを呼び止める。

 

 「なんだ。」


 いまいましい弟への処分が終われば、

 騎兵隊の創設に着手できる。

 

 ただそれだけの話に過ぎぬというのに

 文句をつけてきた前任者の首を落としておいてよかった。

 やはり、口先だけの文官など信用できない。


 不機嫌にひとりごちていたクレーゲは、

 しかし、歴戦の戦士であり、戦闘狂である。

 自身を取り巻く不穏さに、一瞬で気づいた。


 「……貴様。

  なんの真似だ。」


 「大変御見それ致しました閣下。

  その身の処し方が、政にも生かされていれば、

  このような末路にはならなかったでしょうに。」

 

 口答え一つしない自らの家宰が、

 やけに長い口上を述べたかと思えば、

 

 「?

  メッサー伯ではないか。」

 

 第一騎士団長。

 王国で三人しかいない将軍位にある人物であり、

 軍政上は、上司に当たる。


 しかし、歴史ある大貴族家のプライドに凝り固まったクレーゲにとっては、

 爵位が全てであった。


 そして、この一言が、

 宮中における自らの最大の庇護者を喪わしめた。


 メッサー伯は、クレーゲに対する全ての説諭と、

 国王への嘆願、翻意を求めるすべての言葉を、

 脳裏の中から消し去った。

 

 「本日より、

  ハビヴィト侯爵家の所領は王領となる。

  これは王の意思である。」

 

 クレーゲは、まだ、意味が分からなかった。

 あの惰弱王が、定められた領主継承権をはく奪し、

 全貴族を敵に廻す暴政に踏み切る胆力があるなど、

 到底思えなかったからである。

 

 それは、メッサー伯も同様であった。

 しかし、そのメッサー伯こそが、

 

 「罪状は、反逆罪である。

  貴殿には、敵国であるロトリン大公国と密かに取引を行い、

  国王陛下を暗殺せんとした重大な嫌疑が掛かっておる。」


 クレーゲは、思わず叫んだ。


 「ありえぬ。

  ありえるわけがない。

  どうして、惰弱王なぞを、態々、この俺が」


 「……国王侮辱罪に当たる発言だな。

  誠に残念だが、しかと記録したぞ。

 

  連れていけ。」


 「はっ!」


*


 帝国歴564年、9月。


 自由都市グリニツィン、

 クリンゲンバウム地区、レ・リュクス。

 

 「……ロトリンとの和約締結前に、

  アルルの暗殺団と接触を持った意味を、

  まったく分かっていなかったな。」

 

 他の諸侯と並び、ロトリン大公カルルは、

 グリュンワルド王国を混乱させる一手として、

 かつ、和約を成立させない手段として、

 グリュンワルド王マルドの暗殺を企図し、

 密かにアルルの暗殺団に依頼を行っていた。

 

 そして、敵国暗殺団への依頼を、

 と、書き換えてしまえば。


 「……

  さて、ランドルフ。」

 

 「は。」

 

 「は叶ったわけだな。」

 

 「は。」

 

 「……いや、いい。

  こうしたくなかったために、

  危うく、大切なものを喪うところだった。」

  

 「君主とは、大量の錐の山中、

  極薄の絹一枚で覆っただけの道を

  素足にて歩まされ続けるものにございます。」

 

 ベルガ僭主の喩話か。

 

 「……だからバカ兄に

  喜んで譲ってやったっていうのに。

  

  ……いや、もういい。

  これでも立派な犯罪者だ。

  同族殺しに兄殺し。詐術による処刑。

  地獄行きだな。カリンの守護者がわらけてくる。」

 

 「然り。

  地獄の果てまでお供致しまする。」



  「わたしも参ります。」


 

 「……メルル。」

 

 「……クライスさま。

  これは、ただの、正当防衛にございます。

  ずっと狙い続けていたのは、あのクソ野郎ですから。」

 

 ぶっ。

 

 「本当はキン〇〇を刳り貫いて、

  血を流し続けたまま殺してもよかったくらいです。」

 

 め、メルル?

 

 「ご存知でしたか? クライスさま。

  わたし、スラムの奥底で育ったんです。

  言葉づかいも、心も、汚いんですよ。

  

  だから、わたし、地獄におともできます。

  ご安心ください。

  クライスさまを、絶対にお一人には致しません。」


 は。

 はは。

 ……ははは。

 

 「ときに。

  今日のおやつは何かな? メルル。」

 

 「……はい。

  今日は、レフテンワルドのトラオベ葡萄をあしらった

  少し大人のトルテにございますよ。」

 

 ほほぅ。

 確かに、少し渋みのある甘味だなぁ。

 複雑な味わいだけど。っていうか。

 

 「レフテンワルドにトルテ?」


 この世界のグリュンワルドで

 チョコレートなど栽培してたっけな。


 「大和約と貿易協定の成果ですな。」

 

 ……あはは。

 この世界の生産物の地理が変わるかもだなぁ。

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