⬜︎206⬜︎

「おい婆さん、ちゃんと聞いてくれ。今日は苦情を言いに来たわけじゃねえんだよ。とにかく二〇五号室の様子がおかしいんだ。やべえことになってんだって」

 佐倉への用件を思い出した杉田は、必死の思いで訴えた。妻が呆れた顔でこちらを見上げているが、気にしてなどいられない。

「なんだいうるさいねえ。いちいち唾飛ばすんじゃないよ」佐倉は早口で言いながら、顔の前で空を掻くように手のひらを振った。「あんたまた、得意の妄想癖じゃないだろうね。ほら、あれ覚えてるかい? 二年前にサチさんが孫にお金を貸した時だって、あんた詐欺だって勘違いして警察呼んで、大騒ぎになったじゃないか。まあ、札束抱えて飛び出すサチさんを見た時にゃあたしだって驚いたけどね、本人に確かめもせずにいきなり通報するのはやり過ぎだよ」

「そんな話してる場合じゃねえんだよ! いいか、落ち着け。まずは確認だ」

「落ち着くのはあんただよ。なんなんだい、一体」

「いちいち口を挟むなっつってんだよ!」うるせえのはそっちじゃねえか、と言いたくなる。「先に聞きてえことがあんだ。二〇五号室の今井さんは二人暮らしだって聞いてるが、親子の他に、時々男が出入りしてるだろう。どんな奴か知ってるか?」

「さあね。美雪さんに頼まれて合鍵は作ってやったけどね、本人に会ったことはないよ」

「作っちまったのか!」

 やはり、あのケンスケとかいう男は自由に二〇五号室に出入りできる状態にあったのだ。となると、親子が不在の時だけに聞こえる、まるで家捜しをするかのような物音は。

「おい婆さん。今までに、二〇五号室に空き巣が入ったことなんてねえだろうな?」

「何言ってんだい。こんなボロいアパートに空き巣に入ったって、金目の物なんてありゃしないよ」

 そりゃあそうだ。空き巣だって、どうせ盗みに入るなら、もっと実入りの良さそうな物件を選ぶはずだ。ほとんど貧乏人しか住まないさくら荘を狙う馬鹿なんて、そうはいないだろう。あの物音はケンスケの仕業で間違いない。しかし貧乏人は今井家も同じのはず。ケンスケは一体何を狙って家捜しをしているのか。

 いや、待てよ。こんなオンボロアパートの住人でも、まとまった金が必要になるタイミングが、月に一回あるではないか。

「婆さん。このアパートの家賃の支払いは、手渡しだったよな?」

「なんだい、藪から棒に。あんた、毎月奥さんが家賃納めにうちに来てることも知らないのかい? 振り込みがよけりゃ変えることもできるけどね、どうせ奥さんにやらせるんだから、あんたには関わりないだろう」

「おい。今、振り込みもできるっつったな。今井さんはどっちなんだ」

「あんたさっきから、なんでそんなこと聞くんだい」

「いいから答えろ!」

 はあ、と佐倉が溜め息をつく。「振り込みだよ」

 振り込みだと? それならば、ケンスケの狙いは家賃ではないのか。と思った矢先、佐倉が言葉を継いだ。

「初めは手渡しだったんだけど、封筒に入ってる額が間違ってることが何度か続いてね。もしかしたら、あたしがくすねたんじゃないかと疑われたのかもしれないね。美雪さんに頼まれて、振り込みに変更したんだよ」

「それだ!」杉田は思わず叫んだ。「やっぱりそうだ。そうじゃねえかと思ったんだ。合鍵を持った男、家捜しの音、いつの間にか減ってる家賃! 間違いねえ」

 佐倉は一瞬、訝るように眉根を寄せた直後、顔色を変え、瞳を丸くした。

「あんたまさか! 美雪さんの彼氏が家賃を盗んでたって言いたいのかい?」

「それだけじゃねえ。上の階から時々、ドタバタ暴れるような音が聞こえるんだ。ありゃあ男が暴力を振るってる音だぞ」

「まさか。美雪さんがそんなクズ野郎と付き合うわけないだろう」

「いや、間違いねえ。今井さんの男は金を盗んで暴力を振るう、最低な野郎だ。あんた、隣に住んでて何も気付かなかったのか」

「さっきも言ったけどね、このアパートは防音に関しちゃ結構しっかりしてるんだよ。全部あんたの幻聴じゃないのかい」

「だが、あの男は違ったんだ」

「今度はなんの話だよ。あんたさっきから、何が言いたいんだい」

「さっき二〇五号室に苦情を言いに行ったら男が出たんだが、あの男はとてもそんな悪人には見えなかった。せいぜい小悪党がいいところだ。盗みくらいはするかもしれねえが、女に暴力を振るうような極悪人じゃあない」

「あんたねえ。一度会ったくらいでそんなこと分かるわけないだろう」

「分かるさ。それに、足音だって違った」

 すぐにそのことに気付かなかったとは、俺としたことがなんたる不覚だ。あの男の足音は、いつも家捜しをしている男とは別人のものではなかったか。

「あの男、何かを隠してる様子だったんだ。ありゃあ多分、今井さんの新しい男だったんじゃねえか」

 そう口にしてみると、自分の想像が紛れもない真実に思えてくる。

「そうだ、あいつはずっと様子が変だった。『ケンスケ』と名乗ったが、それは多分、いつも今井さんに暴力を振るってた、元恋人の名前なんじゃねえか。本物のケンスケはきっと今頃」

 恐ろしい事実に、杉田は身震いをした。間違いない、あの男が隠していたものは。

「死体だ。あの男が、今井さんのためにケンスケを殺したんだ」

 すると佐倉は、がっはっは、と品のない笑い声を上げた。

「馬鹿なこと言うんじゃないよ。あんた、よくもまあ物音ひとつでそんなでたらめな妄想ができるもんだねえ。推理作家にでもなったらどうだい」

「でたらめなもんか! 間違いねえんだよ」

「でたらめだよ。だっておかしいじゃないか。あんたが二〇五号室で会った男は小悪党だったんだろ? 殺人なんて犯すのは立派な極悪人だよ」

「女に暴力を振るう男と、女を守るために殺人を犯す男なら、前者の方がよっぽど非道だろうが」

「正義のためなら人を殺してもいいなんて思想の方がよっぽど危険だよ」

「とにかく間違いねえんだって」杉田には確信があった。間違いがあったとしても、当たらずとも遠からずだろう。「昨日は特に騒音が酷かったんだ。あれはきっと、本物のケンスケが殺された音だったんだろうよ。なあ、頼むよ佐倉さん。二〇五号室を調べてくれねえか。きっと死体が出てくるはずなんだ」

 縋りつかんばかりの杉田の様子に、はあー、と佐倉が頭を掻いた。

「まったく、あんたの妄想癖には困ったもんだね。まあ、これも大家の仕事かね。そこまで言うなら、来週にでも調べてやるよ」

「おい、なんで来週なんだ! 今すぐ調べるべきだろうが」

「来週、二〇三号室の御園さんが退去したら修繕工事が入るから、ついでに業者に見てもらえばいいと思ってね。実は二〇五号室も、前々から『家鳴りが酷い』って相談受けてたし、その調査ってことにすればちょうどいいだろう」

「ついでなんて、悠長なこと言ってる場合じゃねえだろう!」

「それにだよ。もし万が一、あんたの言うことが本当だったらだ」

 声を荒らげる杉田を前に、佐倉は涼しい顔をしている。

「死体を隠す時間が必要じゃないか。そんなクズ野郎を殺したせいで逮捕されるなんて、馬鹿馬鹿しいだろう?」

 杉田は唖然とした。本物のケンスケよりも、それを殺した男よりも、さくら荘の大家の方が、余程悪い人間なのではないか。

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