⬛︎204⬛︎

 僕は息を潜め、耳をそばだてていた。と言っても僕はたまに溜め息をつくくらいで、人間と違って常に呼吸をしているわけではないのだが、物音ひとつ立てまいと身を強張らせている今の状態は、『息を潜める』と表現して差し支えないだろう。

「一子、うるさいよ」さっきから、一子が僕の背中でガリガリガリガリと音を立てているのだ。二〇五号室の音に集中したいのに。「一体何をやっているの?」

「おお、悪い悪い」一子が喋りだすと、ガリガリ音が止まる。「なあ壁。おめえ、痛くねえのか?」

「なんだよ突然。僕がオンボロだって話はもういいから」

「いや、違えんだ。痛くねえならいいんだ。いやあ、ちょっと歯がむずむずしちまってよ。おめえが痛がると悪いと思ってずっと我慢してたんだけど、こっち側なら大丈夫なんだな。最初からこうすりゃよかったなあ」

「何言ってんだよ。今はそれどころじゃないんだ」一子のわけの分からない話になんて付き合っていられない。「二〇五号室が大変なことになってるんだよ」

「まーた二〇五の話かよ。今日は静かだって言ってたじゃねえか。今度はなんだあ? 騒音か? 喧嘩か?」

「そんな話じゃないんだよ。人が殺されちゃうかもしれないんだ」

 昨晩の、ゴン! という一際大きな音を境に続いていた沈黙は、昼頃になって窓から破られた。それからの二〇五号室の状況を説明すると、一子は「はあー」と嘆息を漏らした。

「すげえな。詐欺の次は居直り強盗かよ。おめえ、本当は壁じゃなくて、そっちの部屋の壁に取り憑いてる疫病神とかなんじゃねえか?」

 今はそういうのいいから! と声を荒らげそうになったところで、頭にピシィッと痺れが走った。そうだ、今は前の住人の時とは違う。一子がいるじゃないか。

「ねえ一子。警察に電話してくれないか。僕、今井さんたちを助けたい」

「おれもそうしてやりてえけどなあ。おれ、電話の使い方分かんねえんだよ」

 そんな人いるはずがない、と僕は思ったが、不思議なことに一子は本当に困った様子で、ふざけないでよ、と怒鳴る気にはなれなかった。

「それなら大家さんを呼んで来てよ。二〇六号室にいるはずだから。きっと大家さんならなんとかしてくれる」

「いやあ、おれが行っても無理だと思うぜ? 大家ってのがどんな奴かは知らねえけど、ハムスター語が通じる人間なんて会ったことねえし」

「は? ハムスター?」僕はついに堪え切れなくなり、叫び声を上げてしまう。「一子、いい加減にしてよ! 今は冗談を言ってる場合じゃないんだ」

 その時、二〇五号室の玄関で、ガチャリと音が鳴った。音の主はドタドタと床を鳴らしながらリビングに駆け込み、「おい和也、大変だ!」と叫んだ。

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