⬜︎205⬜︎
さくら荘に越してきたばかりの頃は、大型車が近くを走り抜ける度に地震が起きたと勘違いして慌てたものだが、一年住んだ今では随分慣れ、少しの揺れでは動じなくなった。
ほら、今だって揺れている。初めはまたトラックでも通ったのかと思ったが、なかなか揺れが収まらないから地震なのだろう。いや、それにしては、天井からぶら下がる電灯は少しも揺れていない。なんだ、震えているのは大地でもアパートでもなく、自分自身だったのかと、ようやくそこで気が付いた。そんなことも分からなくなるくらいには、姫子は心と身体が分離したような状態になっていた。
「そんなに怯えなくてもいいじゃん。言ったでしょ。俺、兄貴が来るまでは何もしないよ」
窓辺で煙草を吹かす和也が笑う。
来客への対応を終えた和也は、兄貴なる人物との電話を再開した。「兄貴、俺いいこと思いついたよ」と声を弾ませていた。
「なんだよ。どうせ碌でもねえことなんだろうけど、一応聞いてやるよ」
「兄貴、この人たちを置いて行っちゃ駄目って言うんだろ? でもお金は必要。だったら、この人たちを人質にして身代金を要求すればいいんじゃないの?」
はあー、という男の溜め息は、電話口を通してこちらまで聞こえてくる。
「あんなあ和也。おまえにしちゃ頭使った方だけどな、でも駄目だ。身代金目的の立て籠もり犯なんて、大概が失敗すんだよ。逮捕覚悟で派手なことして世間様の注目を集めたいってんならそれも悪かねえけど、俺らみたいな自分の小遣い稼ぎのためだけにやってる犯罪者にとってはこの上ねえ悪手だぞ。捕まるリスクばっかり高くて、要求通りに金が手に入る可能性は限りなく低い」
「えー、良いアイデアだと思ったんだけどなあ。でも、だったらどうしろってんだよ」
「もっとシンプルに考えりゃいいんだよ。いいか、和也。よく聞け。その親子、殺しちまおう」
それから和也たちは、まるでゴミ捨ての相談でもするかのような気安さで、あれよあれよという間に姫子たちを殺害する段取りを決めてしまった。
自分の命が数十分後には消えているということが上手く想像できず、なんだか頭がぼんやりしている。しかし身体の方は己の窮地を理解しているのかしっかりと震えていて、頭より身体の方が賢いんじゃないかと、やはりぼんやり思うのだった。
和也の方に視線を向けた。吐き出された灰色の煙は、目に染みるほどに真っ青な空を曇らせた。大いなる空は煙を吸い込み、すぐに元の青に戻る。彼の顔を曇らせるには、きっと地球上の人類全員が一斉に煙を吐いたって足りないのだろう。
二〇五号室の窓はその役割を果たさず、情けなくも持ち場を外れて和也の侵入を許したばかりか、凍てつく外気を阻むことすらままならなくなっている。せめて暖を取ることができれば、少しは震えも収まるだろうか。
「あの、和也さん」
「あれ、俺自己紹介したっけ?」和也の目が丸くなる。
「いえ。電話、聞こえてたんで」
「ふうん。無理に敬語とか使わなくていいよ。俺、そういうの気にしないから」
「あ、はい」だが姫子は、既に敬語以外の喋り方が分からなくなっていた。「あの。窓、閉めてもらえませんか? 寒くて」
「ああ、これね。さっき見てたでしょ? 上手く嵌まんなくてさ。危ないからやめた」
「じゃあ、毛布か何か、取ってくれませんか。押入れの中にあるので」
「嫌だよ、面倒くさい」
「じゃあ、自分で取るから。これ、解いてください」
「なんでだよ。そんなの余計に面倒くさいじゃんか。漏らされると片付けが面倒だからトイレくらいは行かせてあげるけど、それ以外は知ったこっちゃないよ」
「いいじゃないですか」こんなにも怯えているにも関わらず、姫子はまだ、和也の隙を探ろうとしている。「どうせ殺すつもりなら、最期に少しくらい、自由にしてくれたって」
すると和也は、煙草の煙を弄ぶように天井に向かって息を吐いた。白んだ視界が晴れるのを見届けてから、徐に口を開く。
「あのさ。俺が一番大切にしてるものって、なんだか分かる?」
突然何を言いだすのだろう。気の利いた答えも思い浮かばずに硬直してしまったが、特に答えは必要なかったらしく、和也はにかっと笑顔を見せた。
「雰囲気だよ、雰囲気。らしさって言ってもいい」
「はあ」
雰囲気が一番大切とは、妙なことを言う男だ。そんな風に言われたら、雰囲気の方だって戸惑うだろう。
「俺の親父がさ、最低な奴だったんだよね」脈絡が不明な話を、和也はとうとうと語りだす。「ちょっとでも気に入らないことがあると、好き放題散々に暴言を吐いた後、必ず最後に『おまえのために言ってるんだぞ』って恩着せがましく言って、自分を正当化しようとするんだ。本当は相手を自分の思い通りにコントロールしたいだけのくせにさ。俺はそんな親父が大嫌いだった。だから俺は、あんな人間にだけはならないぞって誓ったんだ。俺は親父みたいに、『相手のため』なんて善意を盾に相手を攻撃することなんて、絶対にしない」
「はあ」
そりゃあ立派な御覚悟で。とは思うが、ここまで聞いても和也がこの話を始めた意図がさっぱり理解できない。じゃあ毛布くらい取ってくださいよ、と言いたいところだった。
「俺は悪いことをして生きてるから、俺がやってきたことの被害者はたくさんいるわけだけど、それならせめて、被害者からはちゃんと憎まれてあげるべきだと思うんだよね。『悪人は悪人らしく、悪事は悪意を持って』が俺のポリシーだ。だから被害者の君の前では良い人ぶったりしないし、情けもかけてあげないよ」
「ええ」
どうして! と叫びたくなる。そこは『善意でも押しつけてはいけない』とか、『他人をコントロールしようとすべきではない』とか、道徳的な悟りを得るべきところではないのか。善意で行われる悪行を嘆くのなら、行動を改善すればいいものを、どうして意思の方を合わせに行ってしまうのか。
しかし、ポリシーとは裏腹に、和也の振る舞いは全くもって悪人らしくない。現に、兄貴とやらには『殺しておけ』と指示されたにも関わらず、それに背いて姫子たちを生かしたままにしている。本当は彼は殺人なんてしたくないんじゃないかと、期待したくもなるというものだ。
「でも、あなたはそんなに悪い人じゃないように見えます」姫子は試しに、正直な思いを言ってみた。交渉の糸口を探るつもりだった。
気に障ったらどうしよう、という恐怖もあったが、和也はにこにこと嬉しそうにした。
「それはあれだよ。スタマックエイク症候群」
「え、何? 腹痛?」
「あれ、スタマックエイクじゃなかったっけな。ほら、人質が犯人のこと好きになっちゃう、みたいなやつ」
「ああ」ストックホルム症候群! と訂正する気にもなれない。
「君は多分その、なんとか症候群になってるんだよ。そういう現象が起きちゃうのも、監禁犯らしくて悪くない」
「はあ」
和也が冗談を言っている風ではないことに、胸がざわつく。
「でも、それならどうして、早く殺さないんですか?」
本当は殺したくないんでしょ? そうなんでしょ? そう言ってよ。
「そりゃあ俺は極悪人だからね。嫌がらせだよ」
「嫌がらせ?」誰に対する、どんな嫌がらせだと言うのだ。
「兄貴って、いっつも面倒なこと俺に押しつけるんだよね。兄貴のことは嫌いじゃないけど、そういうところはちょっとムカつく。だから、たまには兄貴にやらせようと思って」
「やらせるって、何を」そんなの、分かり切っているじゃないか。
「殺しだよ。兄貴は死体を回収しに来るだけのつもりでいるけど、君たちのことは、兄貴に殺してもらうよ」
ああ、なんだ。
膨らんでいた期待が、バチンと音を立てて弾けた。
姫子が見誤っていただけだ。思えば和也は最初から、彼なりの悪意に満ちていたのかもしれない。だがそれは、悪意と呼ぶにはあまりにも無邪気で幼くて、姫子は見逃してしまっていた。
今の和也からは、幼子さながらの聞き分けのなさを感じる。もはや彼の意思を変えることは不可能なのかもしれない。
自分の命が指の隙間から零れ落ちていくのを感じた。
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