⬜︎206⬜︎

 杉田がチャイムを鳴らすと、隣に立つ妻が「もう、あなた」と顔を顰めた。

「みっともないからやめてください。そんな何度も鳴らしたって変わりませんから」

「いいや、変わるさ。俺は宅配の仕事をしてたから分かるんだ。世の中にはな、何度もチャイムを鳴らしてやらないと出て来ない奴ってのがごまんといるんだ」

「そうかもしれませんけど、佐倉さんは居留守なんてしませんよ」

 杉田は二〇六号室のドアを睨んだ。中から物音は聞こえている。この一大事に、佐倉のばばあは一体何をちんたらしているのか。

 ケンスケとかいう若者への抗議が妻の妨害のせいで不完全燃焼に終わり、熱いお茶で溜飲を飲み下していたところ、杉田はある恐ろしい事実に気付いてしまったのだ。一刻も早く手を打たねば。人の命にも関わる事態かもしれない。

 気の急く思いでもう一度チャイムのボタンに指を当て「ピン」と鳴らすと、「ポーン」を待たずにドアが勢いよく開いた。

「はいはい、うるさいねえ。やっぱりあんたかい。そう何度も鳴らさなくたって聞こえてるよ。人がトイレから出るのも待てないのかい」

 玄関から出てきた皺だらけの顔は、挨拶もなしに早口で文句を垂れた。

 この老婆はさくら荘の大家、佐倉だ。杉田が入居した頃から彼女は紛れもない老人だったが、その容貌は二十年以上経過した今でも少しも変わっていない。それに対して、当時はまだ初老だった杉田の方はすっかり紛れもない老人になっており、自分の方だけ時が進んでいるのではないかと疑いたくなる。

「婆さんの大便を待ってる場合じゃねえんだよ。こっちは一大事なんだ。上の階、二〇五号室から、怪しい音がしてんだ」杉田も負けじと早口で応じる。

「なんだ、結局また騒音の苦情かい。最近聞かなくなったと思ってたのに、あんたも芸がないねえ」

「芸がねえとはなんだ。俺はずっと我慢してやってたんだよ」

「あのねえ、うちのアパートは古いけど、防音については当時なりに気を遣って設計したんだから、そんなに上の階の音が聞こえるはずがないんだよ。その証拠にあんた以外に苦情を寄せてくる住人はいないし、あんただって、二年前にサチさんが倒れた時には少しも気付かなかったじゃないか」

 二年前まで二〇五号室に住んでいた前の住人は、御園サチという老婆だった。佐倉とは古い友人らしく、佐倉が一ヶ月の海外旅行から帰った直後、異臭に気付いて彼女の遺体を発見した時、「音に敏感で苦情ばっかよく言うくせに、こういう時には何も気付かないなんて、役立たずだね」などと、随分恨み言を言われたものだ。

「あの婆さんは忍者みてえに静かだったんだよ」杉田は過去に何度も口にした言い訳を繰り返す。「普段から足音もしねえ、玄関の開け閉めをしても少しも揺れねえ、建て付けの悪いベランダの窓だってするりと開けやがる。きっと死ぬ時だって物音ひとつ立てなかったんだろうよ」

「あんたねえ。そんなこと言って本当は、上の階に人が住むのが気に入らないから追い出したいだけじゃないのかい? サチさんはあたしの友達だからさすがに我慢したんだろうけど、あんたのせいで出て行った住人なんて、何組いるか分からないんだからね」

「そんな真似するわけねえだろうが! あいつら本当にうるさかったんだよ!」

 売り言葉に買い言葉、だ。妻が「あなた。大事な話があるんじゃなかったんですか?」と袖を引いてくれなければ、危うく本題を忘れるところだった。

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