⬜︎205⬜︎

「おい兄貴! どういうことだよ!」と、目の前の男は電話口に向かって叫んだ。

 状況が掴めないのは彼も姫子たちと同じらしく、男は狭い部屋を右に左に、縦に横にと、縦横無尽に右往左往している。

「うるっせえないきなり叫ぶなよ。なんだよ和也、なんかあったのか?」

 通話相手は男を『和也』と呼んだ。携帯電話のボリュームは大きく、相手の声も丸聞こえだ。

「あったよ、ありまくりだ。それなのに一億円はない!」

 だから一億円ってなんなのよ、と姫子は言いたくなる。先程からこの和也というらしい男が、一億円、一億円としきりに言っているのだ。そんな大金、うちにあるはずがないのに。

 姫子は美雪と共に、拘束されていた。二人背中合わせに座らせられ、腕と胴をガムテープでぐるぐる巻きにされている。空き巣を名乗るこの男の挙動は粗忽で騒がしく、空き巣としては致命的なほどに慎重さに欠けていて、拘束されてしまう前に隙を突いて逃げることも頭を過ったが、黒光りする拳銃の前ではそんな大それたことを実行する勇気は湧かなかった。

「は? どういうことだよ。おい、わけ分かんねえから順を追って説明しろって」スピーカーから声が聞こえる。

「わけ分かんないのはこっちの台詞だって! 話が違うじゃんか。さくら荘に侵入してすぐに住人が帰って来て、鉢合わせちゃったんだよ! おまけに家族構成も話と違う。兄貴、夫婦と一人息子の三人家族だって言ってたのに、今家にいるのは男一人と女二人の、若い男女三人だ。親子なんかじゃない」

「親子ですよ」美雪がすかさず言った。

 姫子が美雪と二人で街を歩いていると、必ずと言っていいほど姉妹に間違われる。実際問題到底親子には見えないのだし放っておけばいいのに、美雪は何故かそこには神経質で、まるで百人一首で『むすめふさほせ』が読まれた時の如く反射速度で、『姉妹』の『し』が発せられた瞬間に「親子ですよ」と訂正するのだ。

「マジ? 親子なの? どれが親でどれが子?」和也が美雪の方を振り返る。

「私が母親で、この子が娘です」

「その男は?」和也は顎で健介の死体を指した。

「あれは私の元彼です。元彼、今他人」

 どうして元彼が部屋にいるのかだとか、どうしてそれが死んでいるのかだとか、追及すべき場面に思えたが、和也は「へえ」とだけ言って電話口の方を向き直った。

「兄貴、親子だってさ。女二人が親子で、男は他人」

「んなこたどうだっていいんだよ。御園家は間違いなく夫婦と息子の三人家族だし、この時間に帰るはずもない。おまえまさか、また部屋を間違えたんじゃねえだろうな?」

「間違えるはずないだろ。ここは下から二番目、右から三番目の二〇三号室だ。ちゃんと数えたんだから」

『御園家』『二〇三号室』と単語が並び、姫子の頭上に光るものがあった。ようやく、このわけの分からない状況の意味が理解できた気がしたのだ。

「あの」と美雪が言う。「ここは二〇五号室ですよ。うちは今井で、御園さんはお隣です」

 そうだ。隣の二〇三号室の住人は、あの御園邸の主らしいじゃないか。和也が目指していたのが御園家の住む部屋なら、一億円くらいあっても不思議ではない。

「は? 嘘でしょ! ここ二〇五なの?」和也が叫ぶ。

「おい、おまえふざけんなよ! 二〇五つったら左から三番目じゃねえか。おまえ左右も分かんねえのかよ」

「分かるに決まってるだろ。ほら、あれだ。人差し指がちょっと短い方が右手だ」

「おまえの基準は知らねえよ。じゃあなんだ、ベランダ側から数えたとか言うんじゃねえだろうな」

「え? ベランダ側から数えたけど」

「はあ? なんでだよ」

「そりゃ、ベランダから入ったからね」

「は? なんでだよ! おまえ、合鍵渡したんだから玄関から入れよ!」

「ベランダから入った方が空き巣らしいだろ。その方が、雰囲気が出る」

「雰囲気なんてどうでもいいんだよ」

「よくないよ」

「それにしたっておまえ、ベランダ側から見たら左右逆になるに決まってんだろ。二〇三は左から三番目だよ」

「はあ? そんなわけないだろ。俺の右手はいつだって俺の右側にある」

「違えよ。おまえ、試しに反対向いてみろ。右手の位置が逆になるだろ」

男はくるりと後ろを向いた。右手を掲げ、嬉しそうに眺める。「兄貴、俺の勝ちだ。右手はちゃんと右にある」

「だから違えっての!」

 なんておかしな人なんだろう。と姫子は唖然としてしまう。

 初めこそ、拳銃の放つ物々しいオーラに惑わされて和也までも恐ろしく見えていたが、彼の言動は分別のつかない悪戯小僧に近く、部屋の真ん中に転がっている健介に比べれば余程善良そうに見えた。彼に上手く取り入れば逃してもらうこともできるのではないかと、期待も膨らんだ。

「おまえほんといい加減にしろよ。今回ばかりは失敗するとやべえんだよ」電話の向こうの男が騒ぐ。

「何をそんなに慌ててんだよ。失敗なんていつものことだろ」

「やべえんだって。情報料の支払いが遅れるとやべえことになんだよ」

「情報料? 情報なんか買ったのかよ」

「買ったんだよ。馬鹿でも簡単にがっぽり儲けられる仕事はねえかって」

「なんだ兄貴、自分のこと馬鹿だって分かってるんじゃん」

「馬鹿はおめえのことだよ、馬鹿」

「情報料なんて、さっさと払えばいいだろ」

「いいか、和也。よく聞け。情報料は二千万円だ。俺に払えるわけがねえだろ」

「はあ? 二千万なんて、なんでそんな高い情報買ったんだよ」

「あんなあ、これは単純な算数だよ。空き巣に成功すれば、一億円手に入る。おまえに半分やっても五千万円、そっから二千万円支払っても、俺の手元に三千万円残る。充分大儲けだろ」

「あのね兄貴、人生は計算通りには行かないんだよ」

「それは計算ができる奴の台詞だろ。あと計算ミスの元凶が言うな」

「まあ、俺のミスは置いといてさ」

「置いとけねえよ」

「その情報、そもそも信用できるわけ? 兄貴、騙されてるんじゃないの?」

「丸山企画は顧客を大事にすることで有名なんだよ。約束は絶対に守るし、嘘をつくなんてあり得ない」

「丸山企画って、あの、『まる、さんかく、しかく』の? あの会社って、よく知らないけど地域のなんでも屋みたいなもんじゃないの? なんでそれが空き巣の情報なんか」

 まる、さんかく、しかく。と歌いながら、和也は小さく踊った。姫子が小学生の頃に学校でも大流行した、地元企業のCMソングだ。「丸山企画って、やばい会社らしいよ」と、酷く漠然とした風聞が広まったのをきっかけに流行が下火になったことを、よく覚えている。取るに足らない、呆れるほどに馬鹿馬鹿しい思い出ばかりの小学生の頃に起きた、そんな些事をはっきりと記憶しているのは、姫子がその風聞を流した張本人だからだ。

 ある日テレビで例のCMを見かけて、学校で流行っているのはこれだったのか、と姫子は喜んだ。しかし美雪はそんな姫子の様子を見て、「姫ちゃんは何か困ったことがあっても、丸山企画は頼っちゃ駄目よ」と言った。日頃は眉間に皺の一つも作らない美雪が深刻そうな顔をしていた。

 わけを訊ねると、美雪はこれまた困った顔で、「ママにもよくは分からないんだけど」と答えた。

「お店の常連さんに『困りごとがあって丸山企画に相談しに行ったら、CMの女性が対応してくれて驚いた』って話してくれた人がいたんだけど、その人が急にお店に来なくなっちゃったの。連絡もつかないし」

「お金がなくなって来られなくなっちゃったんじゃなくて?」

 美雪の勤め先が、男性客の度を超えた散財が日常的に発生する類の店だということは、姫子もなんとなく把握していた。たったそれだけで常連客の音信不通と丸山企画を結びつけるのは、無理があるというものだ。しかし、次の美雪の言葉を聞いて、姫子は震え上がった。

「うん。それが一人や二人だったら、ママもそう思ってたんだけど」

 姫子はこの話を、丸山企画の話をすると呪われる、というような怪談と捉え、心の底から怯えた。クラスメイトがCMの真似をするのを「怖いからやめて」と言っているうちに、「丸山企画は怖い会社らしい」「やばい会社らしい」と、みるみるうちに変形しながら噂が広まってしまったのだ。

「なんでも屋で間違いねえよ」電話の向こうの男が答える。「法に触れないこと以外はなんでもやる、なんでも屋だ」

「ん? 待って、それってどっちだ?」和也が首を傾げた。「『法に触れないこと以外なんでもやる』ってことはつまり、『法に触れることはやらない』ってこと?」

「違えよ、馬鹿。法に触れることしかやらねえんだよ」

「兄貴がまどろっこしい言い方するのが悪いんだろ。分かりやすく説明できない方が馬鹿だ」

「とにかく」電話のスピーカーから鳴る声が大きくなる。「俺は丸山企画から情報を買った。丸山企画は信用できる。あいつらは顧客を裏切らない。一億円は絶対にそのアパートにある。さっさと二〇三に探しに行け」

「よく分かんないけど、そんなにお客さん思いの企業なら、支払いくらい待ってもらえばいいじゃん。俺もう面倒くさくなっちゃったし」

「そんなことできるわけねえだろ! あんなあ和也。丸山企画はやべえんだよ。こっちが客であるうちは、あいつらは絶対に裏切らない。けどな、支払いが遅れるとか、約束を破る客のことを、あいつらは客と認めねえんだ。そうなると、かなりやばい」

「『やばい』ばっかりで何がどうやばいのかさっぱり分かんないよ」

「俺にだって分かんねえんだよ。とにかくやべえんだって。だが一つだけ言えるのは、丸山企画を裏切ったらどうなっちまうのか知ってる奴は、いない」

「それって」さすがの和也も察したようで、目をぱちくりと瞬いた。「殺されちゃうってこと?」

「分かんねえけど、その可能性は高い。だが死んだって話すらも一個も出てこない」

「兄貴、今までありがとう」和也が神妙に言った。

「諦めんなよ、俺の命をよ! おまえが一億持って帰ってくれればなんも問題ねえんだよ!」

 なんてことだろう、と姫子は驚いていた。丸山企画って、やばい会社らしいよ。という、小学生の間で真しやかに囁かれたあの噂は、あながち間違いではなかったのか。

「でもさ、二〇三に行くったって、この人たちはどうしたらいいわけ?」

「ああ、親子と他人だっけか。今どうなってんだ? まさか通報されてねえだろうな」

「うん。すぐに捕まえたから大丈夫」

「じゃあいいんじゃねえか、それくらい放っといて。そいつらの部屋からは何も盗んでねえんだし、『命を助けてやる代わりに警察には黙ってろ』とでも言っとけば見逃してくれるんじゃねえの」

 どうぞそうしてください、と、姫子は激しく頷く思いだ。そもそも部屋の真ん中に死体が転がっている現状では、通報なんてしたら自分たちの方がまずいことになるのだし、和也を警察に突き出すつもりは毛頭ない。

「命を助けるって言っても、一人はもう死んでるんだけどね」

 和也が笑い、通話相手が「は?」と叫んだ。「おまえ、殺したのかよ」

「殺してないよ、人聞きが悪い。最初から死んでた」

「はあ? おまえそういうのは早く言えよ。どういう状況だそれ」

「知らないよ。こっちが聞きたい。どういう状況なの、これ」

「こっちに聞くんじゃねえよ。誰が死んでるんだ?」

「男だよ。他人の男」

「あれか? 心臓発作とかか?」

「いや、花瓶で頭を殴られてるね」

「思いっきり他殺じゃねえか! 誰だよ殺したの」

「誰が殺したの?」和也がこちらを向く。

「私が殺しました」美雪が手を挙げた。

 なに正直に答えてんのよ! と、姫子は叫びたくなった。

「えーっと、親子の、親の方が殺したらしい」和也が電話口に告げる。

「おいおい、殺人犯がそこにいんのかよ」

「ね。びっくりだよ」

「おまえそれ、やべえんじゃねえのか?」

「また『やべえ』だよ。今度は何?」

「和也おまえ、まさか死体には触ってねえだろうな」

「触ったけど」

「なんでだよ! じゃああれだ、凶器には触ってねえよな?」

「触ったね」

「馬鹿野郎! いいか、和也。よく聞け。それじゃあどう見ても、殺人犯はおまえだ」

「嘘だろ? 俺は殺してない」

「よく考えてみろ。これは親子にとっちゃチャンスなんだよ。おまえに殺人罪をなすりつける、千載一遇のチャンスだ。おまえがその部屋を出た後、警察に通報すんだよ。『帰宅したら侵入者の男と鉢合わせて監禁された。部屋では恋人が死んでいた。あの男が殺したに違いない』ってな。そしたらどうだ、警察が詳しく調べてみりゃあ、部屋中におまえの髪の毛が落ちてるわ、凶器からおまえの指紋が出てくるわ、おまえの服にも被害者の血液が付いてるわで、もうおまえが犯人じゃないって可能性を疑う余地はねえぞ。即逮捕、敗訴、最悪死刑だ」

「ええ、嘘だろ?」和也がまたこちらを向いた。「君たち、俺に罪を着せようとしてんの?」

「そんなことするわけないでしょ!」姫子はほとんど叫ぶように言った。自分たちが無事に解放されるチャンスを逃すわけには行かないという、その場凌ぎの思いもあったが、半分は本心でもある。

 正直、和也に殺人罪をなすりつけるというのは魅力的なアイデアだと思った。姫子のために殺人を犯した美雪が、あんな男のために罪に問われるのなんて見たくはなかったし、かといって殺人の証拠を完璧に隠滅する自信もなかったからだ。しかし。

「そんなのが警察に通用するわけないじゃん」と縋る思いで訴える。「死体を調べれば、そいつが死んだのが、あんたがここに来るよりずっと前だってことくらい、簡単に分かっちゃうんだから」

「ほら兄貴、しないってさ」

「馬鹿野郎、本人に訊いたって『しない』って言うに決まってんだろ」

「そうかなあ」

「そんなわけないでしょ!」

「そんなことないって」

「そりゃそう言うに決まってんだろって、馬鹿」

 その時、ピンポーン、と玄関のチャイムが響き、姫子たちは飛び上がった。

「やばい、兄貴。誰か来た」和也が青褪める。

「あ? そんなの放っとけよ」

「出た方がいいですよ」

 背中で美雪の落ち着いた声がした。彼女がどういう表情をしているのか、姫子には想像がつかない。

「出た方がいいってよ」

「なんでだよ。放っとけっての」

「放っとけってよ」

「いえ、絶対に出た方がいいです」

 何を考えて美雪がそう言っているのか分からなかったが、彼女の声色は力強かった。

「私、普段この時間は必ず家にいるんです。居留守を使うこともありません。出なかったら、怪しまれちゃうかも」

「兄貴、大変だ! 出ないと怪しまれちゃうって」

「なんだと! それはまずいな」

「怪しまれたら、通報されちゃうかも」

「兄貴、通報されちゃうって!」

「なんだと! それはやべえな」

「どうしよう!」

「私はこのまま出るわけには行かないですし」美雪はガムテープを巻かれた身体を捻ってみせた。

「そっか。えっと、これ、剥がせばいいの?」

 和也が姫子たちの方へ近づき、身を屈めた。もしかして、美雪は和也に拘束を解かせることを狙っていたのだろうか。姫子はこれまで、健介に金銭を搾取され続ける愚かな母の姿ばかりを見てきたので、彼女がそんな機転を利かせたとは俄には信じられなかった。

 しかしそこで、ピンポーン、と二度目のチャイムが鳴り、和也が弾けるように立ち上がった。

「やばい! もう出なきゃ!」

「おい! おまえが行くのは余計に怪しいだろ!」和也の携帯電話が喚く。

「そうだよ、怪しいって!」

 姫子もそれに同調した。拘束が解かれたところで状況が打開できるかは分からなかったが、それでも縛られているよりかは自由に動けた方がいくらかましなはずだ。

「大丈夫だって、俺に任せて。ほら、そこの男、そいつの振りして出るから」

「無理だってそんなの! 全然似てないし!」

 実際、健介と和也では、背格好と髪色以外は似ても似つかない。健介はさらさらのマッシュヘアに不健康そうな白い肌、ファッションは身の丈に合わないハイブランドを好み、美雪から騙し取った金だけでは到底買えない金額のアイテムを全身に纏っていた。一方和也は、不良少年を絵に描いたような雰囲気で、髪にはドレッドヘアの一歩手前のきついパーマがかかっており、おそらく古着であろう、生地の傷んだスポーツブランドの派手なジャンパーを着ている。二人の外見は、対照的と言ってもいい。

 しかし和也は、もはや話を聞いてはいなかった。「えっと、そいつの名前、なんていうの?」

「健介です」美雪が答える。

「なんで正直に答えちゃうのよ!」姫子は今度は口に出してしまう。

「オッケー、ケンスケね。ケンスケ、ケンスケ」

ピンポーン、と三度目のチャイムが鳴り、和也は「はい、はーい」と、とても空き巣とは思えないバタバタとした足取りで玄関へ飛び出していった。

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