⬜︎205⬜︎
二〇五号室のドアノブに手をかけた。今時玄関のドアに使われることのなくなった、手のひらで掴んで捻るタイプの、円筒形のドアノブだ。
健介の頭に花瓶を叩きつけた時、美雪は冷静なつもりでいたが、きっと少しも冷静ではなかったのだろう。健介が動かなくなった後、美雪は彼の息を確かめもせずに、姫子の腕を引いて部屋を飛び出してしまった。辛うじて鞄は持って出たから一晩ホテルに身を寄せるくらいのことはできたものの、通帳もカードも何もかも置きっぱなしの家を捨てて逃げるなんてことはできるはずもなく、結局こうして自宅に舞い戻る羽目になっているのだ。
犯人は現場に戻る、というのは、誰かの格言なのか、常套句なのか、寓話のようなものなのか、あるいは定説なのか。いずれにせよ、誰が言いだしたのか分からないほどに使い古されたフレーズを実演してしまうことに抵抗はあったが、現場が自宅の場合は仕方ないじゃないかと、誰に指を差されたわけでもないのに言い訳をする。
緊張で濡れた手のひらに、氷のように冷えた金属製のドアノブが張りつくのを感じ、美雪は手を離した。制服の上から美雪のコートを羽織った姫子が、不安そうな目でこちらを見上げている。ホテルで待っていなさいと言ったのに、姫子は美雪を心配してついて来てくれた。姫子を恐ろしい目に遭わせた原因は美雪にあるのに、きっと姫子はこの家に戻るのが怖くて仕方ないだろうに、優しい子だ。
「ねえ、やっぱりやめようよ」姫子の声は震えている。「あいつが待ち伏せしてるかもしれないじゃん」
姫子の言う通りだ。このドアを開けてみるまで、健介が生きているのか死んでいるのか分からない。それどころか、生きていた方がいいのか死んでいた方がいいのかすら見当がついていない。たしかそういう猫の話があったはずだと、姫子の気を逸らすために語って聞かせてやろうかと思ったが、自分の頭が見知らぬ猫の物語を正しく暗記している自信がなかったので、すぐに諦めた。
その代わり、美雪は笑顔を作る。口角を上げ、目尻に皺を寄せ、目を少しだけ細める。相手を穏やかな気持ちにさせる、柔らかな笑顔だ。最近隣に越してきた御園家の奥さんは自然にこういう笑い方をする人だったが、美雪のは鍛錬で習得した紛い物だ。
「ごめんね。ママのせいで、荷物を取りに戻らなきゃいけなくなって」手汗に気付かれてしまいそうなので、姫子の手を握るのはやめた。「ママは大丈夫だから、姫ちゃんは外で待ってて。すぐに戻って来るから」
「嫌だ、一緒に行く。あいつが中にいたら、ママ、何されるか分かんないよ。もしかしたら、殺されちゃうかも。そんなのママ一人で行かせられないよ」
殺されちゃう、の部分は消え入るようにか細くて、聞き取るのがやっとだった。
「そう。分かった。じゃあ一緒に行こう。姫ちゃんはママの後ろに隠れてて」
姫子は躊躇いがちに、見逃してしまいそうなほどに小さく頷いた。
美雪はワンピースの裾で手汗を拭い、ドアノブを握り直した。ぐっと力を込めて、ドアを引く。
狭い玄関で靴を脱ぎ、後方でガチャリとドアを閉める音が鳴った直後、部屋の奥からバタバタという足音と共に男が飛び出してきた。
「嘘でしょ! もう帰って来ちゃったの? 話が違うじゃん!」
慌てふためくその男は、健介ではない。
男が向けた銃口と目が合い、美雪は身動きが取れなくなった。
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