⬛︎204⬛︎
僕が物思いに耽っていると、キーキーという高い音が背中で鳴った。
その音は一度僕の耳を通り抜けたものの、ふと反芻してみれば「おい壁、今度はなんだあ? おめえ溜め息ばっかだな」と言っていたような気がして、少し考えて一子の声だと気付いた。
「ああ、一子。ごめん。僕、溜め息ついてた?」僕は慌てて答える。
「なんだあぼーっとしちまって。そりゃあもう、びゅうびゅう言ってたぞ」
「一子。それ、溜め息じゃなくて隙間風だ」僕は一子を笑ってやろうとしたが、腹の辺りが情けなくキシキシと軋んだだけだった。
そんな僕を、一子は心配してくれる。「おめえ、元気ねえな。どうかしたのか? またそっちの部屋の奴の騒音か?」
「ううん。昨日はほら、また例の音で酷い騒ぎだったけど、今日は静かだよ。物音ひとつしない」むしろ静か過ぎて気味が悪いくらいだ。「ちょっと、考えごとしてただけだよ」
「考えごとっつうよりかは、悩みごとみてえに見えたけどな」
その通りだなと僕は思った。僕と一子が出会ってからまだ一月も経たないというのに、五十年以上僕として生きている僕よりも、一子の方がよっぽど僕を理解しているような気がする。
あれはいつのことだったか。もう名前も忘れてしまったが、何十年も前に二〇五号室に住んでいた若い夫婦の会話を思い出した。今の僕たちと同じように、妻の溜め息をきっかけにその会話は始まったと思う。
「何? 溜め息なんかついて」
「うん。ちょっと考えごと」
彼女が何を考えているのか、まずは話を聞いてやればいいのに、そうはせずに夫は講釈を垂れ始めた。相手を蔑むことで相対的に自分の地位が上がるとでも思っているかのような、尊大な口調だった。
「君のそういうところ、僕は良くないと思うよ。だって君がしているのはいつも、考えているんじゃなくて悩んでいるだけだ。いいかい、『考える』のと『悩む』のじゃ全然違うんだよ。『考える』っていうのは、ある問題に対して、筋道立てて解決策を導く作業だ。一方で『悩む』ってのはどうだい。問題の前でぐるぐるぐるぐると、不安や後悔なんていう考えても意味のないことに思考を巡らせているだけじゃないか。頭を働かせると一仕事した気分になるんだろうけど、『悩む』だけでは問題は一向に解決しない、時間の無駄だ。君は悩んでいる自分に酔いしれて、人生に於ける貴重な時間を浪費しているに過ぎないんだよ」
そんな言い方をしなくてもいいじゃないかと、僕はミシミシと音を立てて憤ったものだ。
だが妻の方は冷静だった。それどころか、夫の言葉に感銘を受けたようですらあった。
「そうだね。あなたの言う通りだ。私もう、ぐだぐだ悩むのはやめにする」
多分、彼女は何か重要なことが書かれた書類を取り出したのだと思う。カサカサという乾燥した摩擦音の後、ペラリと薄いものが翻るような音がした。そこに書かれている内容は夫にとっては望ましくないものだったようで、「おい、これは」と言った彼の声は強張っていた。
「今月中に、それにサインしてほしいの」
『これ』とか『それ』とか、まるで名前を口にするのすらおぞましいもののように指示語で呼ばれた書類が『離婚届』なるものだと理解したのは、妻がさくら荘を出て行く支度が整った頃だった。
あの男のあまりの感じの悪さに僕はすっかり聞く耳を失っていたが、改めて思い返してみれば、彼の話の内容自体には一理あったようにも思える。彼の定義に従えば、今僕がしているのは『考えごと』ではなく『悩みごと』だ。考えても無駄でしかないことに思考を巡らせ、無意味に落ち込んでいるだけだということは、僕も自覚していた。もちろん、それを見抜いた一子のキーキーした声には、あの男のような感じの悪い響きは含まれていなかったが。
「実は僕、自分がオンボロだって知って、ちょっと落ち込んでるんだよね」
僕が悩みを打ち明けると、「げっ」と一子が言った。一子の高い声で言うと、げっ、という濁った音も、キュッ、と可愛らしく響く。
「おれのせいだったのかよ。ごめんな壁。まさかおめえが自分のことオンボロだって知らないなんて思わなくてよ、つい無神経なこと言っちまったな。自分がオンボロだったのがそんなにショックだったのか? でもなあ、おれが謝ったところで、おめえがオンボロなことは変わらねえもんな。ごめんな壁、黙っといてやればよかったな。どうしよう、もう取り返しつかねえよな。おれどうすりゃいいんだろう」
一子は焦った様子の早口で謝ってくれるが、彼女が放つ言葉のひとつひとつがガリガリと僕の背中を削っていくようだった。
それでも僕は、「違うんだよ、一子」と平静を装う。
「君にオンボロって言われたことは、もういいんだよ。怒ってるわけじゃない。ただ、僕は自分のこと、まだまだ若いと思ってたから、ちょっと驚いたんだ」
「若いっておめえ、もう五十過ぎなんだろ? 壁の寿命がどれくらいかは知らねえけど、五十なんて人間だったらもうおっさんだぞ」
「でも、人間って百歳くらいまで生きるじゃない。五十歳はおじさんかもしれないけど、死ぬのにはまだ若いはずだ。前に二〇五号室に住んでたおばあさんも九十三歳まで生きたから、僕も当たり前に百年くらいは生きるものだと思ってたんだ。なんなら、たくさんの臓器が複雑に組み合わさってできた人間なんかよりも、板一枚の壁の方がきっと頑丈だろうから、もしかしたら僕は何百年も生きるのかもしれないとすら思ってた。なのに、まだ五十年しか生きてないのに、もうオンボロだなんて」
「はあ、そうかあ。それで落ち込んでんのか。おれからしたら、百歳も五十歳も永遠に生きてんのとおんなじようなもんだけどなあ」
「一子、二歳だもんね」僕はキシキシと、覇気のない冗談を言った。「僕、まだまだ生きるつもりだったから。もしかしたら意外に寿命は近いのかもと思ったら、なんだか暗い気分になっちゃったんだ」
「にしても、壁が死ぬっつうのはどういうことなんだろうな。心臓が止まるわけでもあるめえし」
「さあ、分からない」
僕自身も、自分が生きているという自覚だけははっきりとあるものの、自分がどういう仕組みで生きているのかについてはさっぱり分かっていなかった。
「分からないけど、多分、さくら荘が取り壊される時には僕も一緒に死ぬんじゃないかな」
「そりゃあそうかもなあ。アパートが壊れてんのに壁一枚だけ生きてたら、ちょっと気味悪いもんな」
キーキーという一子の笑い声を聞いて、あることが僕の頭を過った。こんなことを言ってもいいだろうか、一子を困らせてしまうんじゃないかと逡巡するが、結局僕は、口に出す。
「もしさ。もし、だよ。もしもそう遠くないうちに、僕が死ぬ時が来るんだとしたら」
僕は言葉に詰まった。ここまで言っておいて、何を躊躇っているのだろう。緊張でピキピキと声が震える。
「その時は、一子に看取ってほしいな」
すると、一子はいつものキーキーという声で笑った。
「そりゃあどうだろうな。おれだって、あと一年も生きられりゃあいい方だからな」
「何言ってんだよ。まだ二歳のくせに」
「いやあ、二歳だって長生きな方だぞ。三歳まで生きりゃあ大往生だ」
「やめてよ」
縁起でもない冗談なのに、僕は一子につられてギシギシ笑ってしまう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます