⬜︎203⬜︎

 いよいよ明日は、御園邸の竣工式だ。

 建て替えが決まってからの二年間のことを思い返すと、新邸の完成に浮かれる気持ちよりも徒労感の方が強い。計画通りに工事が進んでいれば新邸で年末年始を過ごせるはずだったのが、新年早々こんなオンボロアパートに引っ越す羽目になった現状だけを見ても、御園は自分の感覚は正常だと思う。しかし妻の方を見れば浮かれ百パーセントの様子で明日着て行く服を選んでいて、そうですね、僕ももっと浮かれるべきですね、と、白い旗を掲げて踊りだしたくもなった。

 竣工式が終われば、御園たちがさくら荘で過ごす時間は、残り僅かだ。それは本来喜ばしいことなのだが、この部屋で失踪したハムスターが見つからない現状では、複雑な思いもある。彼はもしかして、本当にあの穴の中に入ってしまったのだろうか。こんなことなら壁に穴の空いたオンボロアパートなんかではなく、やはり手入れの行き届いたホテルに居を構えるべきだったかと、悔やんでも悔やみ切れない。

 臨時とはいえ、こんなにも古くて狭い、築五十年以上のアパートを仮住まいに選んだのは、祐子たっての希望を受けてのことだった。彼女が大学生の頃、親元を離れて一人暮らしをする友人のアパートに遊びに行って以来、まるで秘密基地のような狭い部屋に憧れていたのだそうだ。

「それにしても恭一、よくこんなアパート見つけてきたよね」

 あれでもない、これでもない、と衣装ケースをひっくり返しながら、祐子が声をかけてきた。

「ボロくてびっくりしただろ」と御園は応じる。「壁に穴まで空いてるし、いざ来てみたら嫌がるかもと思ったけど」

「まさか!」祐子はくりくりと目を丸くする。「むしろ、わたしの理想通りの完璧な部屋だったからびっくりしちゃった。こんな硬い床にお布団敷いて雑魚寝するなんて、毎日キャンプみたいで楽しいよ」

「それはキャンプを甘く見過ぎだと思うけど」

 そう言いながらも顔が綻んでしまう。彼女が嬉しそうにしていると、ハムスターを逃がしてしまった後悔も忘れてしまいそうになる。

「でも、たったの一ヶ月しか住まないなんて条件じゃ、受け入れてくれるところ探すの大変だったんじゃない?」

「いや、そうでもないよ。ここは違うけど、ウィークリーマンションとか、短期利用者向けの物件は今時たくさんあるからね。候補を見つけるのは難しくなかった」

「でもここは違うんだ?」

「うん。実はここ、ばあちゃんが晩年に住んでたアパートなんだ。祐子に言われて、真っ先に思い浮かんだのがここだった」

「えっ、そうだったの?」祐子が小さな手を口元に当てた。「サチさん、こんな所に住んでたなんて」

「お祖父様が亡くなった後、ばあちゃん、屋敷を出て行っちゃっただろ? ばあちゃんは元々貧しい家の出身らしくて、こういう狭い部屋の方が落ち着くんだって」

 祖母のことを御園が『ばあちゃん』と呼ぶのも、祐子が『サチさん』と呼ぶのも、『おばあさま』と呼ばれるのは堅苦しいと、彼女が嫌がるからだった。

「ここの大家の佐倉さくらさんは、ばあちゃんの古い友人らしくてね。事情を説明したら、二つ返事で快く迎え入れてくれたよ」

「へえ、そうだったの。サチさんが住んでいた所に、数年後にわたしたちが住むなんて。なんだか不思議な感じね」

「ばあちゃんが住んでたのは隣の二〇五号室なんだけどね。でも、さすがにここまでボロいとは思ってなかったな。だってばあちゃん、こんな部屋に現金二千万円も保管してたんだよ。二千万円くらい、貯金としては大した額ではないけどさ、それでも鍵一つ開ければ侵入できてしまうアパートに保管していい額じゃないよ」

「そっか。あの時の二千万円はここから持って来てくれたのね」

「あの時は本当、大変だったよ」

「二千万円って何? 何かあったの?」

 不意に悠一の声がして、御園と祐子は飛び上がった。普段はどちらかといえばお喋りな悠一があまりに静かにしていたので、御園たちは悠一の存在を失念していたのだ。

 悠一の方に視線をやれば、彼は真剣な目つきでひまわりの種を並べているところだった。壁に空いた穴の前から伸びたひまわりの種の列は滑らかな曲線を描き、空になったハムスターのケージの入口へと続いている。失踪したハムスターを呼び戻す罠のつもりだろうか。

 しまったな、と祐子と目配せする。二人揃って、うっかりしていた。この話は悠一の耳には入れないようにしようと、夫婦で取り決めていたのに。

 しかし、ここで下手に隠そうとすると、かえって悠一の好奇心を刺激してしまう可能性が高い。それなら核心には触れずに話してやろうか、と裕子に目で相談すると、そうだねそれがいいね、と言うように彼女はゆっくりと瞬きをした。

「そうか。悠一にはこの話、してなかったんだっけ」

 御園はわざと、昔話をするような芝居がかった口調を作る。すると悠一は、興味津々に目を輝かせた。しかし祐子の方は、なんで話しちゃうのよ、と言いたそうに目を見開いていて、さっきのアイコンタクトは通じてなかったのかよ、と肩を落としそうになる。今更話すのをやめることもできないので、僕に任せて、と伝わらないアイコンタクトを祐子に送った。

「お父さんが仕事でね、取引先に現金で二千万円持って行かなきゃいけないことがあったんだ」

「現金で二千万円? どうして」

「うん、お互いの都合が色々重なってね」

 まさにそこが悠一には隠したいポイントだったので、御園は内心どぎまぎしながら曖昧に濁す。

 取引先が真っ当な企業であれば、二千万円を現金で要求されることなんて、常識的に考えてまずあり得ないだろう。相手は真っ当でなければ常識も通用しない、ついでに言えば『取引先』と表現するのも憚られる、御園たちにとっては『加害者』と呼んだ方がしっくりくる存在だった。

丸山まるやま企画きかく』といえば、一般的にはCMでお馴染みの企業だろう。黒いタンクトップに身を包んだ筋骨隆々の男の群れが画面一杯に並び、テクノビートのBGMに合わせて「まる、さんかく、しかく」とそれぞれの図形を表すポーズを取った後、今度は「まる、やま、きかく」と台詞を変えて同じ振り付けを繰り返しながら、じわじわと画面ににじり寄ってくる。そして、CMの尺のほとんどをその謎の単調な踊りに費やした末に、残りほんの数秒のところでスーツ姿の女性がひょっこりと現れて「警察や行政に相談できない小さな困りごとやご近所トラブル、丸山企画がまるっと解決します!」と捲し立てるような早口で宣伝文句を言い、最後に「『ま』さに、『あ』か『る』い、『く』らし。ま・あ・る・く治める丸山企画!」とキャッチコピーを叫んで締めるのだ。この強烈なCMは地元の地方局でしか放映されていないにも関わらず、一時ネット上で異常な流行を起こし、丸山企画の実態は知られないまま名前だけが広く認知されるようになった。

 かく言う御園も、その知名度の高さに釣られてしまったうちの一人で、今でこそ丸山企画の実態を知っているのは、実際に痛い目に遭ったからだった。よく考えてみれば、キャッチコピーの『まさに明るい暮らし』とはまるで意味が分からないし、もっと警戒すべきだったと後になって思うが、当時はそんなことを気にしていられないくらいにはパニック状態だった。

 御園が丸山企画と関わりを持ったのは、二年前、御園邸の建て替えを発表した頃のことだ。

 建て替えに対して、多少の反対運動が起こることは覚悟していたが、その激しさは御園の想像を遥かに超えるものだった。丁寧に説明すれば理解してもらえるはずだと期待していた御園の方が愚かだったのだろう。蓋を開けてみれば、誹謗中傷は鳴り止まず、覚えのない悪評を立てられ、脅迫めいた手紙が毎日のように郵便受けを埋めていた。御園は対応に疲弊し、いつしか大半は無視を決め込むようになっていたが、その中に一つ、どうしても見過ごせないものがあった。「御園邸の建て替えを撤回しなければ息子を殺す」という内容のものだった。

 御園は慌てて警察に届け出たが、彼らの反応は薄情なもので、一応パトロールの強化だけはしてくれたものの、「悪質な悪戯でしょうね」と言い切り、犯人の検挙には終始消極的な様子だった。

 そんな時に目に入ったのが、例のテレビCMだ。『警察に相談できない困りごと』『まるっと解決』の謳い文句に強烈に惹かれ、気付けば画面に表示された電話番号を押していた。

 丸山企画はその日のうちに面談を取りつけてくれた。事務所を訪れて、御園は驚愕した。出迎えてくれたのが、あのCMに出演していたスーツ姿の女性だったからだ。てっきり彼女は女優か何かだと思っていたのに、まさか社員だったとは。彼女はCMのイメージそのまま、あどけない笑顔で親身に相談に乗ってくれた。御園以上に憤り、「子供に殺害予告なんて、許せないです。そんなことする奴の方が死んじゃえばいいんですよ」なんて言うものだから、御園も調子づいて「全くです。犯人には天罰が下るべきです」と軽率に同意した。しかし、結局その場では方針の提案も依頼料の見積りの提示もなく、「まずは一旦、こちらで調査いたしますね」と言われ、その場は解散になった。

 次に丸山企画と対面したのは、それから一週間も経たないうちだ。ある日の朝、仕事に出ようと支度をしていたところ、例の女性が予告なく我が家の玄関に現れた。前言撤回、彼女はとんだ大物女優だ。CMの笑顔はどこへやらの機械的な表情、事務的な口調で、「ご依頼の件、完了しましたのでご報告にあがりました。明日夕方十七時に、弊社事務所に依頼料二千万円をお持ちください」と言い放った。

 意味が分からなかった。前回の彼女とのやり取りは、相談どころか愚痴を聞いてもらっただけに近く、何も依頼などはしていない。

「御園様のご要望通り、脅迫状の差出人は殺処分いたしました。こちらがその報告書になります」

 差し出された資料を見て、御園は声を失った。ひと目でこの世のものではないと分かる男が、写真の中に横たわっていたからだ。目立った外傷こそないが、開いたままの瞼の奥の瞳に光はなく、肌の下には血流が感じられず、どこか作り物めいていた。

「天罰をご希望とのことでしたので、現実的な範囲で最も天罰に近しいと考えられる、落雷で殺害いたしました」

「嘘だろ」

「ご要望とあれば遺体をお見せすることも可能です」

「あり得ない」

「難しいことではありません。落雷発生地域に運んで手頃なビルの避雷針に縛りつけるのです。あとは運次第ではありますが、今回はさほど時間はかかりませんでした」

「違う!」御園は悲鳴に近い声を上げていた。「僕はこんなこと頼んでない」

「いいえ、確かに仰いました。『犯人には天罰が下るべきだ』と」

「それは君たちに頼んだわけじゃない」

「弊社の事務所でお話しいただいた内容は全てご依頼として扱う決まりになっています」

「そんなの滅茶苦茶だ! 二千万円というのも聞いていない」

「作業内容によって依頼料は大幅に変動しますので、先に料金をご提示することはできないのです」

 嘘だ、違う、あり得ない。と、空虚な音が喉を揺らした。昔から口喧嘩の類はめっぽう弱く、御園が家業の跡を継ぐ時には、両親がその一点をしきりに心配していたことを思い出した。

 やっとのことで、「詐欺だ」と絞り出した。自分の発したその三文字に、背中を押される思いがした。

「そうだ、詐欺だ。僕は契約なんて交わしていない。こんな請求、成立しないはずだ。そうだ、これは詐欺だ。騙されないぞ」

 すると、彼女の鉄の無表情が、ほんの僅かに綻んだ。それも計算だったのかもしれない。御園の背筋を這うものがあった。

「詐欺事件として警察に通報しますか? 『丸山企画に殺人を依頼したら不当に依頼料を請求された』と。それも良いかもしれませんね」

「だからそんな依頼してないって言ってるだろ!」

「誤解しないでいただきたいのですが」と彼女は言った。荒らげた御園の声にもそよ風ほどの反応も見せず、顔は鉄仮面に戻っている。「丸山企画はお客様を大切にする企業です。公正に取引いただけるお客様に対して弊社が危害を加えることは、断じてありません。しかしながら、料金をお支払いいただけない方はお客様ではありませんので、毅然とした対応を取らせていただきます。どうぞそこのところ、ご理解ください、お客様」

 お客様、と御園に呼びかけた女の瞳が、不敵に光った。御園はたじろぎ、何か言い返さねばと口を開く頃には、彼女は既に踵を返していた。やり場をなくした怒りと焦燥を拳に握り、自分の太腿を打った。

 二千万円が惜しかったわけではない。依頼料を支払うのは、丸山企画に殺人を依頼したことを認めてしまうようで恐ろしかったのだ。そしてそれが次の脅迫の材料にされ、この先半永久的に、事あるごとに丸山企画から強請りをかけられる運命を背負ってしまうことになるのではないかという不安もあった。しかし女の話を真に受けるなら、支払わない方が余程恐ろしいことになりそうではないか。決して気の強くない御園が、これから仕事に向かうはずだった足を銀行に向けたのも、何も不思議ではないだろう。

 そんな事情をまだ小学生の悠一に話せるはずもないので、「とにかく、どうしても二千万円、現金で必要だった」と乱暴な説明で誤魔化す。自分に殺害予告が出された上に、その犯人が返り討ちのような形で殺害されたなんて、きっと耐え難いほどショッキングな出来事だ。知らないままの方がいいだろう。

「ふうん」と当の悠一は鼻で相槌を打った。

「お金は取引の前日から準備してあったんだ。当時家に現金はほとんど置いてなかったからね。銀行から下ろして、一度家に持って帰った。もしかしたら、それが良くなかったのかもしれない」

「何が?」

 僕が勿体ぶると、悠一は焦ったそうに続きを催促してくる。それが可愛くて面白くて、僕は余計に勿体つけたくなる。

「もしかすると、その時に目をつけられたのかも」

「誰に?」

「実はね。取引当日、お父さんが二千万円入った鞄を持って取引先に向かっていたら」

「なになに?」

「その途中で、ひったくりに遭っちゃったんだ!」

「えー!」

 悠一は、漫画のキャラクターのように目をまん丸にして驚いてくれる。祐子に似て、素直な良い子に育ってくれたものだ。

「それでね。お金を盗まれてしまったのは仕方ないにしても、どうしてもその日に二千万円用意しなきゃいけなかったんだよ。でも、その事件が起きた時にはもう、銀行の窓口は閉まっている時間だった。ATMでは二千万円も引き出せないし、さっきも言った通り、家にも現金は置いてなかった」

 息子への殺害予告を受け、相談した相手が勝手にその犯人を殺してしまい、ほとんど脅しのような形で殺人の依頼料を請求され、さらにその依頼料を何者かに盗まれる。泣いているところを蜂に刺された彼も同情するほどの不幸の連鎖が起きていたが、丸山企画が「蜂に刺されたので支払いは待ってください」が通じるような相手ではないことは肌で感じていた。約束の十七時に一秒でも遅れようものなら、次はどんな目に遭うか分かったものではない。御園は予期せぬひったくりに動揺する暇もなく、とにかく時間通りに二千万円を届ける術を探す他なかった。

「分かった! それでサチばあちゃんにお金を借りたんだ」

「そう、正解。サチばあちゃんは銀行を信用していなくて、お屋敷に住んでいた頃から、自分のお金は現金で部屋に隠しておく癖があったんだ。お父さんはそれを思い出して、サチばあちゃんを頼った」

「へえ。じゃあ、サチばあちゃんは救世主だ」

「そうだね。ばあちゃんは救世主だ」

 丸山企画の事務所に二千万円を届けた時の職員たちの反応が、脳裏に焼きついている。一斉に御園の方を振り返り、皆一様に顔の皮膚の下に驚きを滲ませていた。

 何も証拠はないが、きっとあのひったくり犯は丸山企画が寄越した刺客だったのだと思う。メロスが親友との約束を果たすのを妨害しようとした彼の王の如く、御園が支払い期日を守るのを阻止し、後で難癖をつけて更なる要求を上乗せするつもりだったのだろう。

 あの時祖母の協力がなければ、丸山企画に予定通り現金を届けることは不可能だった。彼らとしても、御園が支払いに成功することは予想外だったのかもしれない。約束を果たしたことに免じてか、二千万円の支払いを済ませて以降、丸山企画が御園や家の者たちに接触してきたことは、今のところない。まさに御園たちは祖母に救われたのだ。

 しかし、我らが救世主祖母も、今はもうこの世にいない。今後二度と丸山企画とは関わりたくないが、万が一同じようなトラブルに巻き込まれたときのため、あの事件以降、御園は常に現金一億円は手元に保管するようにしている。

 そこで悠一が、「その後お金はどうしたの? ちゃんとサチばあちゃんに返した?」と尋ねてきた。

 意表をつかれてどきりとしているところに、「悠一、鋭い」と祐子が笑ったのも重なって、御園はつい、言い訳がましい口調になる。

「返すつもりだったんだよ。返すつもりだったし、返そうともした。でも、なんというか」

 御園が口籠もると、悠一が睨むような目つきになった。「お父さん。借りたお金を返さないのは詐欺って言うんだよ」

「違うんだってば」御園は慌てて弁明する。「本当に返そうとしたんだよ。でも受け取ってもらえなかったんだ。『まだ財産は半分残ってるし、老い先短い自分には使い切れないからいらない』なんて言われて、突っぱねられちゃったんだよ」

「お父さん。それはなんと言われても返さなきゃ駄目だよ」

「それは、悠一の言う通りだけど」段々と諭すような口調になる悠一に、御園はつられるように背中を丸めてしまう。

 そんな御園を見て、ふふふ、と祐子が肩を揺らす。「悠一。お父さんをそんなに追い詰めないであげて。あの時のサチさん、本当に頑固だったんだから」

 祐子が出してくれた助け船に、御園は必死の思いでしがみついた。「そうだよ。もう、本当に頑固だったんだ。だから仕方なく、『もしばあちゃんがお金に困ることがあったら必ず頼ってください』とだけ約束して、こっちが引き下がることになった」

「もしかしたらサチさん、自分がそんなに長くないことを悟ってたのかもしれないね。その事件から何ヶ月も経たないうちに、サチさんは亡くなってしまったから」

「そっか。その頃だったんだ。サチばあちゃん、何歳だったんだっけ」

「九十三歳」御園は答える。

「すごいなあ。九十三歳なんて、ほとんど百歳じゃん」

「本当だね」

 そして、百年なんて御園からしたらほとんど永遠に思えるが、実際に生きてみればそれはきっと一日一日の積み重ねでしかなく、振り返ったときにはむしろ一瞬に近いのかもしれないとも思っている。

 そんな百年の時を巡ろうとする御園の思考は、「でも、残りの二千万円は、ほんとどこ行っちゃったのかしらね」という祐子の声で現在に引き戻された。

「残りの二千万円って何?」と悠一が聞き返す。

 そうだ。二年前の一連の事件について話すとき、御園たちはその疑問に触れずにはいられない。

「ほら、サチばあちゃんが言ってたろ? 『まだ財産は半分残ってる』って。つまりあと二千万円、サチばあちゃんは持っていたはずなんだけど、それがどこにも見つからなかったんだ」

「普通に使っちゃったんじゃなくて?」

「あり得なくはないけど、考えにくい。サチばあちゃんは必要最低限しかお金を使わない人だったし、二千万円の価値に相当するものは部屋に遺されていなかったそうだから」

「じゃあ、盗まれたかもしれないってこと?」

「お父さんはそう思ったんだけどね。部屋が荒らされていたわけじゃないから、疑うには根拠が薄過ぎるし、そもそも本当にサチばあちゃんが二千万円持っていた証拠もないから、警察に調べてもらうことはできなかった」

 当時は疑心暗鬼になっていたため、丸山企画に盗まれたのではないか、と勘繰りもしたが、後に祐子と議論した結果、こればかりは丸山企画の仕業ではないのではないかという結論に落ち着いている。これは直感でしかないが、丸山企画は老人の家に空き巣に入るなんて地味な悪事を働くような小悪党ではなく、もっと徹底的に人を不幸に追いやるような巨大な悪に思えるからだ。それに仮に盗みに入るとしても、御園家を出た祖母のアパートなんかよりも、本家を狙った方が遥かに巨額の資産が狙える。丸山企画が祖母を狙う理由が見当たらなかった。

「ふうん。まあ、ぼくは警察に賛成かな。きっとサチばあちゃんは、見栄を張ったんだよ」

 突然、悠一の口調から子供らしさが消え、御園は目を瞬いた。

「見栄?」

「ぼくにはあまり理解できないけど、きっとサチばあちゃんにとって、孫からお金を受け取るなんて、どんな正当な理由があってもしたくないことだったんじゃない? だから本当はお金なんかもうないのに『あと半分ある』なんて嘘をついて、お父さんを追い払ったんだよ」

 時折、悠一はこういう顔を見せる。理路整然と筋の通った意見を並び立てる悠一に、御園はいつも言い負かされてしまうのだ。

「それは、一理あるけど。でも、あの時のばあちゃん、そんな風には見えなかったんだよ」

「どうしてそう思うの?」

「分からないよ。なんとなくだ」御園の口から出るのは、あまりに頼りない主張だ。

「それこそ、根拠がない」悠一は歯を見せ、御園に人差し指を向けた。

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