⬜︎205⬜︎
「やっぱり留守なんじゃありませんか?」と妻が言ったのは、二度目のチャイムを鳴らした後だった。
何故妻がついて来たのかは分からない。多分、単に退屈だったのだろう。杉田は妻と二人、さくら荘二〇五号室の玄関の前に立っていた。
「いや、そんなはずはねえ」杉田は断言する。今井母は、いつも昼間は家にいる。それに。「今だって足音が聞こえてるだろうが。これで留守だとしたら、中にいるのは誰だってんだ。こんなボロアパートに空き巣が入るわけもあるめえし」
「そう言われましてもねえ。わたしには聞こえませんから」
妻が呑気にしていることで、杉田は尚更焦れったくなり、もう一度、ピンポーンとチャイムを鳴らした。
すると、部屋の中からバタバタという足音と共に「はい、はーい」と返事があり、ガチャリとドアが勢いよく開いた。
飛び出した顔を見て、杉田は呆然としてしまう。てっきり今井母が出て来ると思っていたのに、現れたのは見ず知らずの男だったからだ。
そんな杉田の横で、妻は「どうも、こんにちは。一〇五号室の杉田です」とにこやかに挨拶をしている。
そうか、と杉田は気が付いた。以前からたまに、このアパートの敷地内で、住人ではない男の姿を見かけていた。顔はしっかりとは見たことがなかったが、背格好は目の前の男と同じくらいで、明るい褐色に染めた髪色も、丁度こんな具合だった。あれは、今井家に出入りしている男だったのか。
そういうことなら話は早い。「えっと、こんにちは」と戸惑いながらこちらの様子を窺う若い男に向けて、「おい」と杉田はできるだけ低い声を出した。
「おめえ、男か?」
「はい?」男は間抜けな声を上げた。「男か女かって訊かれたら、そりゃ男だけど」
「違えよ! 今井の奥さんの男かって訊いてんだ」
すると何を勘違いしたのか、男は少し考えるような顔をした後、はっと気付いて「あ、違いますよ!」と言った。
「違いますから。俺、不倫相手とかじゃないんで。通報しないでください」
どうして不倫で通報になるんだよ、と呆れて脱力しそうになる自分を蹴飛ばす思いで、「違えよ!」と杉田は再び怒鳴った。
「今井の奥さんが独身なのは知ってんだよ!」
日々の騒音のことで文句を言ってやりたいだけなのに、何故こんなに会話が噛み合わないのか。
その横で、ふふふ、と妻が肩を震わす。
「ごめんなさいね。うちの人、気が短いから。言葉足らずで。『今井の奥さん』って言い方は紛らわしかったかしらね。『今井さん』の奥さんの不倫に怒って殴り込みに来たわけじゃないの。この人はね、あなたが美雪さんとお付き合いしてるのかって聞きたいだけなのよ」
「あっ、あー、なるほどね」男の視線は、まるで季節外れの蚊でも追いかけるかのようにあちこちに泳ぐ。「そう、そうです。俺がそう、その人とお付き合いしてる男です」
男の挙動は不審極まるが、多分、杉田の気迫に動揺しているのだろう。
「あんた、名前はなんていうんだ」
「名前? 名前は、ええと、ケンスケだけど」
どうして下の名前を答えるんだよ、と杉田は頭を抱えたくなった。苦情を伝えるときに相手の名前を呼ぶのは、当事者意識を自覚させるために効果的だと杉田は信じているが、『ケンスケ』と呼んでしまってはまるで親しい友人のようになってしまうではないか。もう面倒なので、名前を呼ぶのは諦めることにする。
「あんた、昨日の晩何してた?」
気を取り直し、杉田はケンスケに詰め寄る。この世の諸悪の根源と対峙するかの如き正義感が漲るが、杉田の目の前にいるのはたかだかご近所の騒音の発生源だ。
「昨日ですか? えー、何してたっけなあ。難しい質問だなあ」
「惚けんじゃねえよ!」杉田は唾を飛ばして叫んだ。ケンスケは声に驚いて縮み上がる。「昨日、この部屋でドタバタ暴れてたろうが。毎晩毎晩うるせえ音立てやがって、こっちは迷惑してんだ! いい加減にしやがれ!」
すると、妻が杉田の腕を掴んだ。「あなた、毎晩は嘘じゃありませんか。もう、こうなると思ったからついて来たんですよ。本当はね、せいぜい週に一回とかなんですよ。本当、大したことないんですから。あまり気にしないでくださいね」
「大したことないわけあるか! うるせえもんはうるせえんだよ!」
「ほら。すぐそうやって頭に血が上る。もう行きましょう。すみませんね」
ご、ごめんなさい。という、ケンスケの困惑気味の謝罪もろくに聞かず、妻は杉田の腕を引っ張って行ってしまった。
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