⬜︎205⬜︎

 先週のあの喧嘩以来、美雪は姫子と一度も顔を合わせられていなかった。

 深夜に帰宅し、明け方に眠り、昼間に起き、夕方に出勤する。そんな生活をしている美雪が中学生の姫子と会える時間は、どうしても限られている。客が少なくて早上がりさせられてしまったのは、残り三時間で稼げるはずだった給料のことを思えば喜ばしいことではないが、これは姫子と話せる良い機会だと前向きに捉えることにしようと、美雪は自分に言い聞かせる。

 近頃、姫子の反抗期が激しくなってきている。さくら荘に引っ越してきた頃に始まったそれは、初めこそ不機嫌な空気を身に纏うくらいのささやかなものだったが、次第に美雪との喧嘩に発展することも増えていった。美雪は仕事に出てしまっているので正確には把握できていないが、姫子は夜遅くまで外を出歩いていることもあるようで、美雪が用意した夕食には手をつけないことも多かった。

 しかし、これは本当に反抗期なのだろうかと、美雪は疑問を持たずにはいられない。認めたくないのではない。むしろ反抗期ならそれでいいと思う。だが、美雪には似ず賢く真面目に育ち、幼児期にすら怒りに任せて他人を攻撃することのなかった優しい姫子が、思春期の心境変化如きであそこまでの攻撃性を持てるものなのだろうか。もしかすると姫子の身に、周囲を攻撃せずにはいられないほどに深く傷ついてしまう何かが起こっているのではないかと、美雪は不安でならないのだ。

 姫子と話をしなければならない。美雪はそう思っていた。先日の姫子は、いつにも増して荒れていた。もう彼女は幼子ではないのだから、助けを求められるまでは見守るべきかとも考えたが、これ以上は放っておくべきではないだろう。

 姫子と話をしよう。聞くのが怖い思いもあるが、母が憎いだけなのだと分かれば、その方がいいのだ。

 二〇五号室の玄関のドアを開けた瞬間、その決意は泡となって消えた。


 最初に気付いた異変は、姫子の声だ。むしろどうしてドアを開ける前に気付けなかったのだろう。駄目、嫌、やめて、と、姫子は泣き叫んでいる。

 玄関から入って真っ直ぐ、バスルームとキッチンに挟まれた狭い通路を抜けた先のリビングに、姫子は仰向けに転がっていた。制服のスカートが捲れ上がり、力づくで開かれた姫子の脚の間では、男がまるで暴れ馬にでも乗るかのように荒々しく腰を振っている。男の足元に丸まって落ちているのは、よく見れば姫子のショーツではないか。錯覚だろうか、生臭い体液の臭いが玄関まで届いた気がした。

 この状況は、つまり。ああ、なんてことだ。

 信じられない。信じたくない。

 あれは、あの男は、健介ではないか。

 その瞬間、美雪は全てを悟った。全部、繋がってしまった。姫子の怒りも、夜遊びも、好物の手料理すらも食べてくれなかった理由も。

 憎しみの感情が瞬時に沸き上がってどす黒い氾濫を起こし、どんな仕打ちを受けても消すことのできなかった健介への愛の灯を、いとも簡単に飲み込んだ。冷え切った心が全身の細胞の活動を止め、体温までも下げる。

 美雪は冷静だった。下駄箱の上に置かれた大きな花瓶を手に取ると、腕にずっしりと重みがかかる。だが、これから起こそうとしていることは、花瓶なんかよりもずっと重いことだ。それを分かった上で、美雪は花瓶を持ち上げている。

 店の客から真紅の薔薇の花束を贈られた時、「どうしよう、うちに花瓶ないのに」と戯けてみせたのは、食えもしない花なんかよりも金に換えられるバッグやアクセサリーの方が嬉しいという意味だったのだが、翌日その客は花瓶を持って来店した。骨董品として価値があるわけでもなければ、置くだけで素敵なインテリアになるようなセンスの良さもない、どちらかと言えば怪しい宗教家に売りつけられたと説明された方が納得が行くような、悪趣味な花瓶だ。受け取った時に頭にあったのはゴミの分別方法のことだけだったが、今はあの客に、心から感謝している。

 健介はこちらに背中を向けていて、姫子の悲鳴のせいか、行為に夢中なせいか、美雪が帰ったことには気付かない。

 高く掲げた花瓶を、健介の頭に振り下ろした。硬い物を砕くような感触が手のひらに響く。

 あの花束と同じ色に染まった花瓶は勢い余って床に転がり、ゴン! と大きな音を立てた。

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