⬛︎204⬛︎
「おうおう壁、また溜め息か?」
一子が僕を気にかけてくれる。愚痴を言う相手がいるというのは、なんてありがたいことなのだろう。
「うん。また二〇五号室の親子が喧嘩しててさ」
「おめえも気苦労が多いなあ。でもまあ、家族なんてのはそんなもんだろ。おれもガキの頃は兄弟としょっちゅう喧嘩してたぜ」
「一子、兄弟いるんだ?」
「おう、十人兄弟だ」
「十人か」
僕はギシギシと笑った。これも一子のわけの分からない冗談だろう。半分の人数の五人兄弟だって、現代ではそうそういないというのに。
「でも今は一人暮らしなんでしょ? 寂しくならない?」
「いやあ、一匹狼は気ままでいいぜ」おれは狼じゃねえけどな。と一子は当然のことを言ってキーキー笑った。「気のいい家族に囲まれるのも悪くはなかったけどよ、滑車を回すだけの人生はもううんざりだ。おれは自由を手に入れたんだ」
「『滑車を回す』だなんて、変な例えだ。普通は『社会の歯車になりたくない』とか、『他人の敷いたレールに乗るのは嫌だ』とか言う」
僕がそう指摘すると一子は、そうかあ? と惚けた声を出した。
「壁、おめえは一人で寂しいのかよ?」
「僕?」そんなこと、考えたこともなかった。「ずっと一人が当たり前だったからなあ。でもそうだな。一子がいなくなったら寂しいかもしれない」
なんの気なしにそう口にしてみると、胸の辺りがミシッと締まる感触があった。もしかしたら、これが寂しいという感情なのだろうか。
「今までおれみてえに話し相手はいなかったんだっけか」
「うん。一子が初めてだよ。今まではずっと、一人で聞いてるだけだった」
「そりゃあなんつうか、退屈そうだなあ」
「退屈っていうか、もどかしいことの方が多いよ。喧嘩の仲裁もできないし、ここに住んでる人が詐欺に遭うのも止めてあげられなかったことがある」
「詐欺だあ? んなことあったのか」
「うん。前の住人のお婆さんが、お金を騙し取られちゃったんだよね。孫を名乗る人から電話が来たみたいで、『そりゃあ大変だ。今すぐ持って行ってやる』なんて言ってさ」
その時彼女が取った行動は、五十余年の僕の人生の中でも群を抜いて衝撃的なものだった。
「僕、お腹の辺りに前の前の住人に蹴られた穴が空いてるんだけど。お婆さん、いつの間にかその中に現金を隠しててね。ごっそり半分くらい引っ張り出して、慌てて家を飛び出して行っちゃったんだ」
「はあ、そりゃあ間違いなく詐欺だなあ」
「うん、間違いない。詐欺だった」
「可哀想になあ。こんなオンボロアパートに住んでる奴なんてみんな貧乏人だろうに」
「ねえ。それ、気になってたんだけど」つい先ほど、姫子にも『オンボロアパート』と罵られたところだ。「僕ってそんなにオンボロなの?」
「は? おめえ知らねえのか? あんなあ、穴が空いてる壁なんてな、ひっでえオンボロだぞ」
そんな。嘘だろ?
ショックで胸がピシッと鳴った。
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