⬜︎205⬜︎

 僕は泣きそうだった。もう勘弁してほしい。

 昨日は例の、一子曰く、乱暴な交尾で大暴れして、何度も僕にぶつかってきたかと思えば、今日は親子喧嘩だ。そっくりな声の二人の喧嘩は一人芝居のようで混乱しそうになるが、よく聞けば怒っているのは娘の方だけのようで、姫子の興奮した声が僕の耳にキンキンと響く。

「ねえママ。あんな男、早く別れなよ」

「どうして?」

 どうして? だ。僕も訊きたい。どうして美雪はヒステリックに叫ぶ娘の前でそんなに穏やかでいられるのか。

「どうしてじゃないよ! なんで分かんないの? ママは利用されてるだけじゃん! あいつはママのことなんか好きでもなんでもないよ。ママがお金くれるから付き合ってるだけ。あんな男に貢ぐためにお祖父ちゃんが遺してくれたマンションまで売っちゃって、こんなオンボロアパートに住まなきゃいけなくなって、惨めだと思わないの? 男に入れ込んでお金騙し取られて、ほんと馬鹿みたい!」

「そんなこと言わないで。健介は本当にお金に困ってるんだから。困ったときはお互い様でしょ?」

「お互い様って。じゃああいつがママに何してくれたの? 一度でもお金返してくれた?」

「そりゃあ、金銭面では頼りにならないけど。健介は心根が優しくて良い人なのよ。私は健介の優しいところに支えられてるんだから」

「あんな奴が良い人なわけないじゃん! ママは男を見る目がないんだよ」

「どうして健介のこと悪く言うの」

「だってあいつ」姫子はそう言いかけて、言葉を詰まらせた。

「健介がどうかしたの?」

「うるさい! 母親が男にデレデレしてるのなんて気持ち悪いに決まってるでしょ」

「それはしょうがないじゃない。私だってまだ二十九歳よ。中学生から見たらおばさんに見えるかもしれないけど、二十代なんてまだまだ恋愛したい年頃なんだから」

「じゃあなんであたしを産んだりなんかしたのよ」姫子の声に涙が混じる。「ママ、あたしと同じくらいの歳の頃にあたしを産んだんでしょ? 父親が誰かも分からないんでしょ? まだ中学生だったのに見ず知らずの男と子供作ったなんて気持ち悪い! 自分の母親がそんな馬鹿なのが許せない!」

「姫ちゃん、そんなこと言わないで。私は姫ちゃんを産んだこと、一度だって後悔したことないのよ」

「その『姫ちゃん』っていうのもやめてよ! なんなの、姫子なんて、だっさい名前」

「それは、お姫様みたいに可愛い女の子だったから」

「そういうところが馬鹿っぽいって言ってんじゃん! 姫子なんて全然可愛くない! 歴史の授業で卑弥呼が出てきた時、『邪馬台国のヒメコ』って散々馬鹿にされたんだから」

「それは酷いね」とそこで初めて、美雪の声に怒りが込もった。「だって卑弥呼ってたしか、男なんでしょ? 姫ちゃんを男扱いするなんて」

「はあ?」姫子の声が裏返る。「女みたいな名前の男は遣隋使の小野妹子、卑弥呼は邪馬台国の女王! そんなことも知らないの? やっぱりママは馬鹿だ。もうこんな母親嫌!」

「ご、ごめんね」自分の間抜けな発言にばつが悪くなったのか、美雪は狼狽えた声を出す。「でも、ママは姫ちゃんのこと大好きよ」

「うるさい!」姫子の声は、ほとんど悲鳴のようだった。「ママにあたしの気持ちなんて分かるわけない! ママの子供なんかに生まれたくなかった!」

 姫子が家を飛び出したのだろう。勢いよく閉められた玄関のドアの振動は、僕にまで伝わってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る