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「困ったねえ」と、あまり焦燥感の感じられないのんびりとした声で、妻は言った。「どこに行っちゃったのかしら。こっちにも見当たらないし」

 まさか、ハムスターが自力でケージをこじ開けて脱走するなんて、思いもよらなかった。杏子色の美しい毛並みの、オスのハムスター。一体どこに行ってしまったのだろう。ヒーターの効いた暖かいケージから出てしまっては、凍えてしまいはしないだろうか。

「うーん、荷物の山の中に入っちゃったのかもしれないな」

 御園みそのは部屋の隅に積まれた段ボールを見遣った。先週ここに越してきたばかりの御園たちは、滞在期間がたったの一ヶ月の予定だということもあって、ろくに荷解きをせずにいた。

「でも、いなくなっちゃったのがお屋敷の中じゃなくてよかったね」

 妻はやはりどこかのんびりと言う。


 地元では知らない人はいないといわれる大きな邸宅、『御園邸』が我々御園家の本来の家だ。初代当主の御園みそのはじめが明治時代に建てた、立派な洋館だった。

 余談だが、御園家の男子は初代にちなみ、皆名前に『一』の字を付ける決まりで、僕の名前は恭一きょういち、息子は悠一ゆういち、ついでに言うと、妻は祐子ゆうこだ。

 御園邸は歴史的建築として価値のある洋館だったが、隠居した両親と相談して、恭一の代で建て替えることを決めた。その歴史の中で何度か大きな地震を経験した洋館は、もうどんな修復工事をしようと、次の大地震には耐えられる見込みがなかったのだ。

 洋館を取り壊すことについて、地元の人たちや学者たちからは、無責任な批判の声が轟々と上がった。

 いや、彼らの気持ちは御園にだって分かる。御園邸への愛着も、歴史を守りたいという思いも、多分誰よりも強く御園自身が持っているはずだ。でも、今生きている人の命より大切なものなんてない。御園には、屋敷に住む愛する家族と、家族同然の使用人たちを、守る責任がある。

 そんな一大決心で建て替えを決めた洋館だったから、新邸の建設途中で下請の施工業者が失踪し、工事の中断を余儀なくされた時には、御園は膝から崩れ落ちそうになった。

「あら、よかったじゃない」と、妻の祐子はその時ものんびりと言った。

 何がよかったんだよ、と御園は泣き叫びそうになったが、彼女はこう続けた。

「もちろん、下請業者の失踪なんてあってはならないことだけど、そんな大変な不祥事を誤魔化そうとせずに直ちに打ち明けてくれた元請の建設会社は、きっと誠実な会社よ。失敗なんて案外、隠さずにいられる人の方が少ないんだから。そういう会社が監督してくれてるなら、御園邸はきっと大丈夫よ」

 正直、祐子の世間知らずの箱入りっぷりには呆れてしまうこともあるのだが、真っ直ぐに人を信じる清らかなところには救われることも多い。実際この時の御園は、彼女の言葉に随分救われた。

 問題の下請業者については怪しげな噂が様々飛び交ってはいたが、社長はじめ幹部たちの消息は不明のまま、御園邸の建設は別の業者に引き継がれた。

 その影響で工事の計画に見直しが発生したことにより、工期は当初の予定より大幅に延長され、かなりの余裕を持って契約していたはずの仮住まいのタワーマンションも、新邸の完成前に退去日を迎えることになった。交渉もあえなく、既に次の契約が入っているとかで、一ヶ月後に予定された新邸の引き渡しまで退去を待ってもらうことはできなかった。一時的に別邸に身を置く案も出たが、悠一の小学校からは少し遠過ぎる。

 そこで緊急の退避先として、我々御園一家は一ヶ月間さくら荘に住むことになったのだ。


「あんな大きなお屋敷の中で迷子になったら、きっと探すの大変だもの」祐子はふわふわとした穏やかな笑顔で言う。「小さなこのお部屋の中なら、きっとすぐに見つかるよ」

 彼女が笑うと、きっとそうだと御園も信じたくなる。だが御園は、「いや、そうとも限らないぞ」と言った。大丈夫だと笑うのが彼女の役割なら、危険を予測して家族を守るのは、御園の役割だからだ。

「ほら、見てみろよ」と御園は壁の方を指差す。「あそこ、壁に穴が空いてるだろ」

 大人の拳も入らないほどの大きさだが、身体の小さなハムスターなら簡単に通れてしまう穴だ。

「あの中に入られたら、もう見つけようがないぞ」

 すると、一生懸命に段ボールの荷物をひっくり返していた悠一の手が止まり、顔が悲しげに歪んだ。

 しまった、間違えた。今は大丈夫だと笑うべき時だった。

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