⬛︎204⬛︎
「はあー」
よかった。今日は穏やかな方の日だ。僕はほっと胸を撫で下ろした。
と言っても、『撫で下ろす』というのは比喩表現で、僕には胸を撫でるための手はないし、そもそも胸がどこかも定かじゃない。でも、腕の生えた人間だって、本当に胸を撫でているわけではないんじゃないかと、僕は想像している。
「壁、どうした? 溜め息なんかついちまって」
僕は壁だ。このアパート『さくら荘』の、二〇五号室と二〇四号室の間の壁。美雪たち
「僕、今の二〇五の住人、ちょっと嫌なんだよね」
「二〇五? どんな奴が住んでるんだっけか」
「今井さんだよ」お隣さんくらい覚えなよ、と僕は思う。「多分母親と娘の二人暮らしなんだけど、時々男が来るんだ」
「多分ってなんだよ。おめえ四六時中そっちの部屋のこと見てるんじゃねえのか」
「見てないよ。聞いてるだけ。『壁に耳あり障子に目あり』って言うでしょ? 僕は壁だから、耳しかないんだ」そしてワンルームのこのアパートには、障子なんて物はない。「人間の言葉の意味は分かるけど、声の違いまではよく分からないんだよね。ほら、人間だって、鳥の声を聞いても『鳥の声だ』としか思わないでしょ? 詳しい人なら種類くらいは分かるんだろうけど、それでも声だけで個体を識別するのは難しいはずだ。人間の場合、声の高さで男か女かくらいはなんとなく区別できるけど、誰が部屋にいるのか声だけで言い当てるのは、僕には少し難しい」
「へえ、そういうもんなんだな。じゃあ、おれの声も他の奴と同じように聞こえてんのか?」
こんな言葉遣いな上に一人称も『おれ』だが、一子というからにはこの人は女性なのだろう。声も高くて可愛らしいので、甲高い声の男よりかは、男勝りな女の子と言われた方が納得が行く。十年以上前、今井家の前の前に二〇五号室に住んでいた子供も、男みたいな口調だったが女の子だった。人間の性別とは、言葉遣いだけで判別できるものではないらしい。
一子との出会いは、数日前に遡る。
あの時僕は「ひゃあ!」と叫んだのではなかったか。今までに感じたことのないくすぐったい感触が、僕の背中を駆け抜けたからだ。そして一子の方も「うおっ」と驚きの声を上げていた。
「なんだ? 誰かいんのか?」キーキーと高い声が背中の方から聞こえた。これまで聞いたどの人間よりも高い声だ。
「えっ? 何? 僕の言葉が分かるの?」僕は驚き、身体中の木材がピシピシと音を立てた。「僕は壁だよ。この部屋の壁」
「壁だあ? 壁が喋るのかよ」ただでさえ高い声が一層高くなる。
「喋るんだよ。壁だって生きてるんだから。でも僕と話せる人なんて初めてだ」
「はあ、壁も生きてるのかあ。知らなかったなあ。悪いな、おれ、世間知らずなもんでよ」
すごい。今僕は、人と話している。生まれて初めて成立する会話に興奮し、僕はミシミシと身体を震わせた。
「君は? 二〇四に越してきた人?」
「二〇四かどうかは知らねえが、最近ここに来たのは間違いねえな」
「知らないってのはどういうことだよ。自分の部屋のことだろ」
「おれには関係ねえからなあ」
「何言ってんだよ。よく分からないけど、二〇五の隣なんだから二〇四に決まってる」
実のところ僕自身も生まれてこの方ずっと部屋の中にいるので、他の部屋の番号のことは定かではないのだが、少なくとも僕の顔が向いている方の部屋が二〇五号室なのは間違いない。ニー・マル・ゴ。つまり二百五。さくら荘の二百五番目の部屋なのだろう。何故真ん中のゼロを『マル』と読むのかは分からないが、きっと単にそういう慣習なのだ。アメリカでは年号の四桁の数字を二桁ずつに分けて、例えば二〇二四年ならトゥエンティ・トゥエンティフォーという具合に読むそうだし、数字の読み方に関する慣習というのは色々あるのかもしれない。
そして僕の反対側の壁の向こうは、大家さんの住む二〇六号室だと聞いたことがある。五と隣り合うのは四と六だ。あちらが六なら、僕の背中側の部屋は二〇四号室で間違いない。
「二〇三号室にもつい最近越してきて、おっとりした感じの女の人が挨拶に来たけど、二〇四に人が来たのは知らなかったな。というか、二〇四に人が入ったのは生まれて初めてだ。五十年以上ずっと空室だったのに、どうして急に使うことにしたんだろう」
「おめえ、五十年も生きてんのか?」背中で鳴る可愛らしい声は、感心したように言った。「すげえな。二歳のおれには想像もつかねえほど長え時間だ」
「二歳なわけがない」
僕はギシギシと音を立てて笑った。くだらない冗談だ。こんなによく喋る二歳児がいたら、不気味でしょうがない。
「ねえ、ところで君の名前はなんていうの?」
「おれかあ? おれは一子だ」
漢数字の『一』に子供の『子』だと説明してくれる。尤も僕には目がないので、それがどんな文字なのか、そもそも文字とはどういうものなのか、上手くは想像できないのだが。
「漢字なんておれにはどうでもいいんだけどよ。名付け親にはこだわりがあるらしいから、まあ一応な」
「どうでもいいことはないでしょう」一子の言い草が可笑しく、僕はまた笑った。
一子の声の可愛らしさと喋り方の男っぽさのちぐはぐ具合に実は少し混乱していたのだが、名前を聞いて、やっぱり女の子だったのかと納得した。
「一子か。良い名前だね。名字は?」
「なんだ? 名字ってのは」
「何言ってんだよ」さっきから、変なことを言う人だ。でも僕は真面目に答えてしまう。「一子っていうのは君だけの名前でしょ? そうじゃなくて、君の家族、親兄弟と揃いの名前があるはずだ」
「ああ、そういうことか。それなら
「『の』はいらないよ。
「でもよ、おれその名前で呼ばれるのはあんま好きじゃねえんだ。なんかよそよそしくてさ。だから気安く『一子』って呼んでくれよ」
「分かった。一子、よろしくね」
「おう。で、おれはおめえのことなんて呼べばいいんだ?」
「さあ。名前なんてないからな」
「じゃあ壁だな。おめえは壁だ」
「そのままじゃないか」
ギシギシ、キーキーと、僕らは笑い合った。それが僕と一子の出会いだ。
「一子の声は特別高いから分かりやすいよ。他の女の人と比べても、全然違う」僕は一子の質問に答える。「でも、今井親子の声はそっくりで、さっぱり区別がつかないんだ。最初は一人で喋ってるのかと思ったくらいだよ」
「へえ、そうなのか」一子はそう言い、話を本題に戻してくれる。「それで、どうしてその親子が嫌なんだよ」
「親子仲が悪いみたいで、喧嘩がすごく多いんだよね。それに、今日は仲良くしてくれてるけど、健介ともしょっちゅう喧嘩してる」
「健介? ああ、時々来る男ってやつか」
「うん。多分、母親の美雪さんの方の彼氏だと思うんだけど。二人きりになると『駄目、嫌、やめて』っていう女の人の悲鳴と、床でドタバタ暴れる音が聞こえるんだ。僕に思い切りぶつかってきて痛いこともあるし。もう勘弁してほしいよ」
「あんなあ壁。無粋なことは言うもんじゃねえよ。そいつは喧嘩じゃなくて交尾だ」
「こっ」
声がひっくり返った。交尾とは、もう少しましな言い方ができないものか。しかしどう言い換えても下衆なニュアンスが含まれてしまうような気がして、結局一子の言葉をそのまま使った。
「交尾って」
「人間の交尾ってのはうるせえもんなんだよ。『駄目、嫌、やめて』ってのは交尾中の女の常套句だろうが」
「でも、僕だって交尾の音くらい聞いたことあるけど、今井さんたちのはそんな雰囲気じゃなかった」
前の前の住人は、毎晩のようにそういうことをしていた。娘の乱暴な言葉遣いを、娘そっくりの口調で叱りつけていた母親が、夜には猫のように可愛らしい甘え声を出すのだから、僕は初めは混乱したが、とにかくそういうことはああいう甘い雰囲気でするものじゃないのか。
「あんなあ、雰囲気なんてのは人それぞれなんだよ。暴力を振るうみたいに交尾をするのが好きな奴だっているんだ。おれがガキの頃に住んでた家の奴らはそうだった」
「ええ、嘘だろ? 信じられない」
だって、女の方の声は本当に嫌がっているようにしか聞こえなかったし、それどころか泣いてもいた。性行為とは男女の愛情表現の一つだと思っていたが、あれが愛だとしたら、人間の愛とはあまりに難解過ぎないか。
しかし、人間の生活を傍で聞いているだけの僕よりも、人間の当事者である一子の方が、きっと人間のことをよく分かっているのだろう。一子は自分のことを世間知らずだと言ったが、ずっとこの部屋の中で生きてきた僕と比べたら、やはり物知りに違いない。
かれこれ五十年以上、僕は何組もの家族をここで見守っている。ここで生まれる人も、ここで死ぬ人も見届けてきたが、未だに人間については分からないことだらけだ。
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