壁に耳あり、障子なし

七名菜々

⬜︎205⬜︎

 古い木と木が、互いを傷つけ合うようにキィ、と不快な音を鳴らした。ガサガサという、紙が擦れるような音が続く。その手つきは、不機嫌を主張するように荒々しい。

 チッという舌打ちの後、バン、と乱暴に抽斗を閉める音が聞こえた。舌打ちなんてするのは、この家では健介けんすけだけだろう。正確に言えば住人ではない。ここに住む母娘の、母親の方の恋人だ。最低でも週に一回、彼はこの家を訪れる。

 健介がいると、僕はいつも緊張する。今日はどっちの日だろう。不安な気持ちが高まり、胸の辺りがピキピキと音を立てた。

 ガチャリと玄関が鳴った。ドアが開き、人が入って来る。足音は二人分か。

「あら、健ちゃん。来てたの」

 女の声がした。彼を『健ちゃん』と呼ぶのは母親の美雪みゆきの方だ。

「みーちゃん。おかえり」

 健介は甘えるように高い声を出す。さっきまでの苛立ちは、抽斗の中に仕舞ったのだろうか。

「ただいま。ごめんね、待ってた?」

「ううん。でも、みーちゃんがいなくて寂しかった」

 健介がそう言ったのを合図に、二人は歩み寄り、ペチャペチャと音を立ててキスを交わす。娘が見ていることなどお構いなしだ。

「今日は二人でお出掛け? 珍しいね」

「うん。外で夕飯食べて来たの」

「そっか。給料日だもんね」

「そういえば、健ちゃんは? 今月はちゃんとお給料入った?」

「うーん、あんまり。先月は体調崩して、結構休んじゃったから。今月ちょっとやばいかも」

「そう、大変ね。じゃあ」

 ジーッと金属を引っ掻く音が鳴る。バッグのファスナーを開けたのだろう。

「これ、持って行って。とりあえず一万円あれば、しばらく大丈夫でしょ?」

「そんな。悪いよ」

 健介は毎回そう言うが、美雪から差し出される金銭を受け取らなかったことは一度もない。

「いいから。困った時はお互い様」

「うん、ありがと。みーちゃん、大好きだよ」

 二人が再びキスをしようとするのを遮るようなタイミングで、玄関のドアがガチャリと鳴った。音の主は、娘の姫子ひめこだ。

「姫ちゃん? どこ行くの?」

「どこだっていいでしょ」姫子は低く棘のある声で言う。

「もう暗いから、あんまり遠くに行っちゃ駄目よ」

「うるさい」

「行ってらっしゃい」と美雪が言い終えるのを待たず、ドアはバタンと音を立てた。

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