2_1章
自室で目覚めたシルニアの頭は、覚醒直後ながら澄み渡って軽く、反比例して気分はいまだ重い。むしろ瞼を開けた瞬間から、昨日よりも沈み込んでいる。
義父と話していて何かが引っかかっていたのだが、時間が経ってようやくその原因に思い至った。
剛力の鬼の剣、キクミヤ――シグレドに伝わる剣技の一つと、郎党の名。
十年前、レーゼに従っていたヒューゴという男の剣が、キクミヤの技と呼ばれていた。
あの日、実際のところ何をしたのか、シルニアは直接見ていない。しかしあの時してみせた事、巨岩を剣一つで断ち割るなどというのが常人の為せる業ではないと、いまならよくわかる。
ブレドなら同じ芸当をしてみせるのは容易いだろう。そう想像するのは易いのに、彼が本気を出すところは見たことがない。だがヒューゴにしても手の内は見ていないに等しいし、あれだって本気を出したわけではないだろう。
そしてエルシャバーズが言うには、ヒューゴよりも格上がシグレドにはいるという。少なくとも長であるイズモ、そして恐らく、シグレド宗家のオウロ。他にもいるかもしれない。
そんな連中と戦うのだ。悩みの種は尽きない。
だが幸いというべきか、開戦まで防衛師団に命じられた任務はない。身分上はある程度制約が課せられるが、自由に過ごすことができる。
最後の時間になる者も多いだろう。思い思いに、未練のないよう一ヶ月を送れる。
ならシルニアにとって、為すべきことは決まっている。
一人でも多く、死なせないように。残された時間を怠けたばかりに、救えたはずの命が零れ落ちてしまっては、死んでも死にきれない。
まあ、シルニアが死ぬことなどないのだけど、気分の問題だ。
「んぐッ……!!」
破城槌が打ち込まれたような音と共に弾き飛ばされる。踵が地面をゴリゴリ削り、大きく後退した後に仰向けに倒れ込みそうになるのを、大盾に思いっきり体重をかけて免れる。辛うじてだが、膝をつかずに済んだ。
「おー、倒れなかったじゃねえか」
圧倒的に無感動な簡単の言葉を漏らしたのは、シルニアに対峙するブレドだ。
詰所の近く、防衛師団に充てがわれた訓練場――といえば聞こえはいいが、単なる広い空き地。シルニアの要望で、スレイドラグ最大の攻撃能力を持つブレドを相手に訓練をしていた。
ここには二人だけで、見物人は一人もいない。普段ならば訓練する者の他にも休憩する者やただ眺める者でまばらに人影もあるのだが、シルニアとブレドの訓練では人払いがされて無人となる。二人の訓練を目にしても、控えめに言って、士気が落ちるだけだから。
「いつも通りの感じで打ち込んだと思ったんだがな。立てるなら、まだ行くぞ」
片手で軽々と肩に担いだ大剣は、まるで冗談のような武器だ。大人になりかけた子供の背丈ほどもある刃渡り、下手な兵士の胸板ほどもある厚み、その胴体ほどの幅。そして今は訓練用に鞘代わりの粗雑な鉄板で刃は覆われているが、手入れという手入れをまるごと放棄してきた鉄肌は、いままで斬り潰してきた血肉がへばりついて腐り乾いて、骸の臭いがする悍ましい黒褐色になっている。
幾万の屍を築いてきたその武具は常人ならば持ち上げるだけでも数人がかりになる。怪物じみた重量なのに剣速は並の剣士よりも早く、一振りで大気が嘶き踏ん張った地面が震えて呻く。一撃、耐えることはできた。しかし吹き飛ばされただけでなく、受けた盾を持っていた腕は痺れて感覚がなく、おそらく骨にヒビも入っている。踏み留まった足も違和感がある。
これでもマシになった。以前は盾が粉々に砕けて腕も千切れ飛んでいたし、自分の臓物を見下ろすハメになったのも一度や二度ではない。
「……はぁ、はァ……」
でも今日になって感覚が掴めてきた。これまで愚直に受け止めていたが、場合によっては流す事も肝要だと学べた。戦場において自分は仲間を守る盾なのだ。自分が倒れてしまっては仲間が敵の攻撃に晒されてしまう。仲間だけでなく自分も守る事がその隙を減らす事に繋がる。無論、受け流す事で守るべき味方が傷ついてはいけないから、使い分けが肝心だ。
「ふぅ……お願いします」
攻撃を受けて生じた身体の不具合はもう治った。傷を負ったところで原型を留める範囲なら、そう時間はかからない。
体勢を立て直して再び大盾を構えたシルニアの身体から、じゃらり、と鉄が擦れる音が幾重にも重なった。
自身が傷を受ける事を厭わないシルニアは戦場では防具を身に着けない軽装だ。その代わり、地面に固定する為の二本のスパイクと支軸を備えた大盾と、長い鎖を繋げた六枚の小盾を身に着けている。攻撃のための武器は持たない。近間では大盾で、中遠距離では小盾を投げつけ時には鎖を活用して、敵の攻撃を妨害する。それが守りを専門とするシルニアの戦い方。
動く度に鎖が音を立てるのは、非戦闘時は身体に巻き付けて運搬しているからだ。尤も今は、戦場に近い感覚でいるためにそうしているが、ブレド相手には何の役にも立たない故だが。
腰を低く落としてなるべく大盾の裏に隠れるようにしながら、突撃する。
間合いに入る瞬間にはもう、ブレドが両手で握り込んだ巨剣を横薙ぎに振るい、鋭さの欠片もなくひたすら重い切っ先が迫る。
一撃、捻りを加えた大盾で辛うじて受け流す。腕が持っていかれそうになり、全身の骨が軋む。
二撃、返す刃をなんとか受け止めるが、片膝をついてしまい、盾の取っ手を掴む指が何本か折れる。
三撃、振り下ろしを後退して避けようとするが間に合わない。鉄塊と地面に挟まれた大盾が砕け散り、両腕の肘から先が平パンのように潰される。
「ぁ……ぐ……」
目が霞み息が大きく乱れ、汗が噴き出る。両肘に心臓があるかと錯覚するほど脈打ち、その度に血が噴き出して傷口を炙るような激痛が襲う。
……問題ない。この程度の痛みは戦場で経験している。何十度、何百度も。時間は必要だが潰れた腕だって元通りになる。
とはいえ戦場では、こんな盾も持てぬ無様を晒していては、誰一人守れやしない。
ブレドが剣を地面に立てる。鎚のような先端があまりの重量に地面にめり込み、地鳴りを響かせる。そして、ため息。
「んでよ、オレ相手に訓練してどうすんだ? 攻城兵器からも守りてえってか?」
呆れを隠さない口ぶりに、失血で朦朧とする頭で考える。訓練など必要としないブレドに、毎度無理を言って手合わせを頼み込んでいるのはシルニアだ。面倒だと嫌がる彼を口説き落とすのも、それだけの理由があるから。
「……アクライルは、かつてない強敵、だそうです……は、ッ……特に、シグレドを前にして、いまのままじゃ、どれだけ守れるか、わかりませんから……」
ブレドに匹敵するのなら、あるいは上回る相手なら、この程度で膝を折ってはだめだ。一ヶ月という短い期間に、少しでも――
「シグレド、ねえ。奴ら、言うほど大したもんじゃねえぞ」
心からそう思っている口ぶりでのたまう。
この意見はエルシャバーズと食い違っているところだ。実際に相対したブレドの意見が正しいはずだが、エルシャバーズが読み違えたとも思えない。
昨日、義父のもとから帰ってからペネルに改めて聞いてみた。かつてブレドがシグレドと刃を交わした時のことを。尤も当時はペネルも防衛師団の新人であり、その場にはいなかったから伝聞ではあるそうだが。
十二年前、この南部第七地区の総統はまだエルシャバーズの前任だったが、近隣にあるダリス共和国への侵攻にあたって防衛師団が派遣され、その中にブレドもいた。
滑稽なのは、ダリスはスレイドラグを恐れたがため、対抗する力を手に入れるべくアクライルを手中に収めようと戦争を仕掛けたところだということだ。それは奇しくもスレイドラグからの侵攻と時を同じくしていたために、ダリスを中心とする三つ巴を呈していた。
結果は当然、スレイドラグとアクライルの両者から攻撃を受けたダリスは瞬く間に壊滅した。
その際、遊撃部隊として(といえば聞こえはいいが、実際はエルシャバーズから以外の命令を聞かない)単独行動していたブレドと、どういうわけか布陣から離れていたシグレドの部隊と遭遇したのだという。互いを敵勢力と誤認した両者は交戦し、結果、ブレドは単身でシグレドの部隊を壊滅させた。
その部隊が何故ダリスとの戦場を離れていたのか、誰も知らない。わかっているのは部隊を率いていた男がセイロという名である事だけで、彼も含めて生き残りはいないから。
戦果は確かなのだから、ブレドの言に説得力はあるはずだが……
「あー、だが一人、すげえ女がいたな。うろ覚えだが、細い剣一本でオレの攻撃を三回も防ぎやがった。そこで剣が折れて、次の一撃で死んだけどよ」
頭蓋の中をブラシ掛けし続けているような激痛の中、その言葉には驚愕した。
如何なる盾も鎧も意味を為さず、戦用馬車さえ一薙ぎで粉砕するブレドの巨剣の一撃を、防具ではなく剣で防ぐ……義父から聞いた名では、サイドウだろうか。鉄壁の砦の如き剣術を使う一派だという。
「なあシル、充分だろうよ。数えるのもバカバカしいぐらい斬り潰してきたが、
ブレドは多分、シルニアを気遣って言ったのではなく、単に訓練を続けるのが面倒なんだろう。
痛みが一層激しくなり、意識が飛びそうになる――潰れた腕の感覚が戻ってきて、けれどもまだ癒えずに痛みを訴える部位が増えたから。
十全に機能していないが、元の形に戻りつつある腕の先端、指先をかすかに動かせる。
「団長」
「盾壊れてんぞ。今日はお開きにしようや」
「……まだ小盾が全部残ってます。今度は本気で来てください。防衛師団の副長として、それぐらい防ぎきれなきゃ……」
きっとアクライルからの攻撃から皆を、南部第七地区を守る事はできない。
いつか見たヒューゴの姿が脳裏にちらつく。彼を前にして、一体どれほど守ることができるだろうか?
返ってきたのは、ため息。
「無理だな。お前が相手じゃ、本気は出せねえよ」
「……なんで、ですか」
「お前は戦士じゃない。なにがなんでも守るってのはご立派だろうがよ、目の前の敵を直接殺したことねえだろ、お前」
いまだ膝をついたままのシルニアの目線に合わせるように、ブレドが屈む。近くで見つめてくる目に責める色合いはない。けれど珍しく、言い聞かすようにまっすぐだった。
……返す言葉もない。幾度となく戦場に立ちながら、味方を守り敵を妨害する事はあっても、彼の言う通りこの手で殺したことはない。
殺すのは、嫌なのだ。気分の問題、わがままでしかないとわかってはいるが、敵を屠るための武器を握ったことすらない。武器の代わりに盾を持ち、傷つけるための余力は傷つけないために振るいたいから。
「勝負ってのは単純だ。勝つか、負けるか。負けたくなきゃ、勝つしかねえ。戦いもおんなじだ。殺すか、殺されるか。殺されたくなきゃ、殺すしかねえ」
シルニアよりよほど血の染みた大地を踏んできた男が語るそれは、あまりにも当然で、至極単純で、故に金言だった。
「お前は殺すつもりがない。勝つつもりもない。だが死にゃしねえもんだから負けもしねえ。最初から戦いの場に立ってねえんだよ。そんな奴相手に、どうやって本気で戦えってんだ?」
「…………」
「もしオレとお前が敵同士だったら、お前を適当に潰して動けなくなったら放っておく。それがお前相手にできる精一杯の本気だ」
動くようになってきた指を蠢かせ、拳を形作る。強く、強く、痛み、血が溢れるほど、強く。
作った拳は何のため? 腹の立つ上司をぶん殴るため? 仕合に用いる盾にするため?
……ただ、悔しいのだ。
世間ではブレドと並び称されるに至っても、これほどまでに歴然とした差がある。
せめて本当にブレドほどの実力があったなら、こんな思いをしなくて済むのだろうか。
何度も戦いの場に立ち、何十度も敵味方入り交じる屍山血河を目の当たりにし、何百回と己が死ぬ目に遭ったのだとしても。
勝てなくたっていい。勝ちたいと思ったことはない。一人でも倒れる身近な人たちが減るならば、零れる血が一滴でも減るならば。
それだけでいいのに。
ブレドが立ち上がって、突き立てていた鉄塊を引き抜いて背を向ける。
「あんま無理すんじゃねえ。お前、結構暑苦しいんだからよ」
それは彼なりの、不器用な慰めの言葉だったのかもしれない。
訓練場で一人膝をついたまま少し時間が過ぎると、ブレドに潰された腕は完全に治り、見慣れた醜い傷跡で埋め尽くされた地肌が見える。この身体になってからも、癒えぬまま残る古い跡。
壊れた大盾は訓練用の粗雑な品だからいいが、実戦にも用いている手甲が壊れてしまった。新しいのを調達しなければいけない。
防衛師団の予算を無闇に食い潰すわけにはいかないのだが、訓練を重ねるほどそれは避けられない。何もかも破壊するブレドを相手にするならば尚更だ。
期間も一ヶ月しかない。理想の力を得るには何もかも足りない。
「……理想、か」
エルシャバーズの話しぶりからしてアクライル本隊はなんとかなるのかもしれない。問題はシグレドだ。
彼らの強さとは何だろう。信頼してくれているエルシャバーズが、シルニアの防衛能力をもってしても守りきれないと言い切る状況とはどんなだろうか。
防ぎきれない剛力か、反応の間に合わぬ瞬速か、守備をすり抜ける剣術か……伝聞として聞いていても、直接目にしていない以上、その実態はどうなのかわからない。
もし自分が文字通りの守護神と呼ぶべき力を備えていたとして、未知の勢力を相手取っては守り方もわからず、為す術などないのでは?
エルシャバーズが常勝たり得るのは、戦力を見抜く力が根幹にある。自軍を知り尽くし、敵軍の能力も洞察し、比較して最適な布陣を整えるのだ。
……理想に近づくには、知るしかないか。シグレドを、アクライルを。
そして願わくば、いまのレーゼを。
狼の名は竜の血にて 春雨らじお @Snow_Radio
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