間章

「あっ、レーゼ!」

 いつもの待ち合わせ場所となったボロボロの見張り塔の下に立っているシルニアの目に、待ち人とその従者の姿が映った。

 レーゼは相変わらず無表情で、それでいながらこの奴隷居住区には似合わず綺麗だ。そしてその後ろにつくヒューゴという大男の、心底嫌そうな顔もなんだか見慣れてしまった。

「息災そうでなによりだ、シルニア」

 レーゼの装いは最初に会った頃より、少しばかりきらびやかになっている。彼女がどんな立場の者なのか一目でわかるようにしなければと、周りに着させられているらしい。いまの服でも最初の服でも、シルニアがうっかり汚してしまってはいけないと思う点は変わらないけれど。

「頭のそれ、なあに?」

 一つ見慣れない物があるので訊いてみた。衣類の一部、という風にも見えるから。

「頭の? ……そうか、これも見たことがないのか。帽子、というんだ。今日は陽射しが強いからな」

「……眩しくないようにするもの!」

「概ねそういうことだ」

 彼女に肯定されて嬉しくなっているシルニアを、うんざりした目でヒューゴが見ている。

「……あのよォ、レーゼさんよ」

「なんだ」

「なんでそのガキはタメ口でよくて、オレぁ敬語じゃなきゃならんの?」

「シルニアは対等な友だが、お前は従者。理由はそれだけだ。だいいちお前の敬語など、ろくに聞いたことがないのだが」

「オレが敬語なんざ使ったら気持ち悪ィだろよ。性に合わねェし」

「私は別に構わんが、イズモの前では猫をかぶれるようにしておけ。外傷を付けずに頭の中身だけ挽き肉にするぐらいのことは平気でするぞ」

「気持ち悪ィ話すんなよ……」

 割といつもそうだが、本当に嫌そうな顔をする人だ。レーゼと一緒にいて嫌だと思うはずがない(と思っている)ので、原因はきっとシルニアなんだろうと思う。

 まあ、レーゼが自分のところに来るのが不服なのもしょうがない。

 奴隷居住区の人々は、基本的に奴隷以外の人間を恐れている。特にヒューゴは見るからに機嫌を損ねてはいけない人間だ。現にいまも、二人が来てから距離を取りながら、戦々恐々とした目でちらちらと見てきている。こんな環境に置かれるのは誰だって不服に違いない。

「それでシルニア、すぐに出ても問題ないか?」

「大丈夫! どこに連れてってくれるの?」

「いくつか候補はあるが、道すがら様子を見ながら考えるとしよう」

 身を翻して元来た道を歩き始めたレーゼの背を、シルニアは追いかけた。



 レーゼと出会ってから一ヶ月程になるか。奴隷としての生活には日時の感覚が薄いから、多少のズレはあるかもしれないけれど。

 でもその期間で、シルニアは明るく活力に満ちた性格に変わっていた。摂れる栄養が乏しく考えることすら億劫になる日々に抑圧されていただけで、本来はそういう娘なのだ。

 友になって以来、レーゼは会う度になにかしら食事を恵んでくれる。奴隷らしい食糧ではなく、平素な日々を送る民としての、だ。南部第七地区の統率がエルシャバーズという人物に変わってから奴隷居住区の食糧事情も日々改善されているが、レーゼが用意する食事はそれより美味しく、活力が湧いてくる。

 それにレーゼと関わっているからか、他の奴隷たちからの扱いも変わった。

 かつては迫害される奴隷の中にあって更に迫害される最底辺の位置付けだったのが、いまは悪く扱うような人間は、奴隷たちの中にはいない。レーゼが見るからに身分の高い人間だからか、ヒューゴが見るからに怖い人だからかは、わからないけれど。

 だからまあ、腫れ物に触れるような扱いではある。決して良いとは言えなくとも、大きなマイナスがゼロに近づいただけ、以前より遥かにマシになった。

 気を遣わせてしまっているのかも、とは思っている。それでもレーゼと出会ってから色んな事が変わったのだ。こうして奴隷居住区の外を出歩くなんて、夢にも思わなかった。

「あっ……おぉー!」

 道中見つけたものに、シルニアは目を輝かせて駆け寄る。通用路だと思っていた道は橋で、欄干の下に通っていた川の綺麗さに目を奪われた。

「水路が珍しいか? 奴隷居住区にも支流が作られていたはずだが」

「水路? ……川のこと、かな。あそこのは、こんなに綺麗じゃなくて」

 レーゼの言う支流は確かにある。けれどとても細く小さなもので、なのに濁って底も見えない。飲み水はおろか、洗濯しようにもあれで汚れを落とせるのは使い古した奴隷の服ぐらいだ。

 それに比べてこの川は、シルニアが両手を広げても十人以上は必要な幅があるし、深さもシルニアが頭まで浸かっても余裕があるだろう。なにより舗装された水路を流れる水は透き通っていて、小さな波の白い照り返しは眩しく、澄んだ匂いがする。

 水とはそれだけで美しいのだと初めて知って、知らず吐息が震えるほど感動していた。

 レーゼと出会って、彼女に色々なものを与えてもらった。

 どうしてそうしてくれるのかと、訊いたことがあった。友だから、とレーゼは言っていた。

 友とは何なのだろう。その関係が友と呼ばれることしかわからない。

 どうやって友になるのか。そんな関係を築いた事がないから、わからない。

 でもきっと、友とは楽しく幸せなものなのだろう。

 いまのシルニアがそうなのだから。

 少し強い風が吹く。水が魚の鱗のように陽光を照り返して、

「む」

 レーゼがかぶっている帽子が、ひらりと舞う。彼女の反応は素早く、正確に飛んでゆく帽子へと手を伸ばした。

 けれど幼さの残る腕は短く、足を踏み出してもなお遠く。

 帽子が落ち葉のように水へと落ちていく。

 躊躇はない。

「ん、ほっ!」

 シルニアは咄嗟に欄干に乗り上がって、落ちていく帽子に向かって跳躍する。

「シルニア!?」

 珍しく声を荒げたレーゼと、深々とため息をついたヒューゴ。

 身を投げ出して伸ばした手は帽子を掴み、しっかりと胸に抱き締めた。その代償に、全身を打つ衝撃と、包み込む冷たさ。底に身体が触れることもなく、上から見るより強い水流に揉まれる。

 またひとつ学んだ。

 水は清らかだろうが淀んでいようが、その中では息ができないということ。



「げほッ……えふ……」

 気がついた時には水の中にいた感覚はなくなっていて、喉に入り込んだ水でむせ返る。

「ほんと、めんどくせェガキだ……」

 目を開けると、何故かびっしょり濡れたヒューゴがすぐそばにいた。

 どういう状況なのか、醒めたばかりの頭では飲み込めない。

「ん、意外と早ェじゃねェか」

 ヒューゴが視線を向けた方に咳き込みながら目を向けると、レーゼが駆け足でこちらに向かってきていた。

 いつの間にか、景色が様変わりしていた。つい今しがたまでいた街の風景は遠くに見える巨大な壁だけで、地面は舗装された道から土と背の低い草の荒れた印象になっている。すぐ近くで流れている水も、飛び込んだのは舗装された水路だったのが、剥き出しの溝に水が満たされた川になっていた。

「ずいぶん流されたな。街の外まで出るとは」

「生憎、うちには川遊びの習慣はねェんでな。泳げねェのに助けてやったんだから感謝して欲しいぜ」

「ああ、感謝する」

「あんたがするのかよ」

「命じたのは私だからな」

 汗一つかかず息の乱れもないレーゼは、地面に横たわったシルニアのすぐそばで跪いた。変わるところを見せない表情、それでいて見たことがないほど真摯な目で見つめてくる。

「シルニア、何故飛び込んだ?」

「なぜ? ……あ、帽子、落としちゃったから」

 口にして初めて、いま自分が帽子を後生大事に抱えていることに気付いた。

「そんなもの、また買えばいいだけだ。だがお前はそれを拾うために身を投げた。泳げず、ヒューゴがいなければ命を落としていたかもしれないにも関わらず、だ。お前はまだ、自分は奴隷だからなどと考えているのか?」

「え? うーん……?」

 シルニアが奴隷であることは紛れもない事実だ。それが骨身に染みているのだから、レーゼの言葉を否定はできない。奴隷の子供の命など、彼女が身に着けている物ほどの価値はない、と。

 でも反射的に飛び降りたのはそんな理由ではない。

「ともだちだから、じゃだめ?」

「は?」

 友になろうと誘ったのはレーゼだけれど、結局それが何なのかは教えてもらっていない。でもそれが他人と違うというならば、だ。

「ともだちが困ってたら助けるとか、そういうことするものじゃないの?」

 ほんのかすかな変化だけれど、その時のレーゼの表情は初めて見るものだった。

 目を少し見開いて、引き結んだ唇に隙間が生まれる。端的にそれは、驚嘆の表情だ。

「物好きなもんだ。こんな人間味のねェヤツのどこが好きなんだか」

「…………」

 呆れたようにヒューゴが零す。

「ヒューゴさんは、レーゼのこと好きじゃないの?」

「天地がひっくり返ってもダチにはなりたくねェな」

「……ヒューゴは私のことが嫌いだろうな」

「よくわかってらっしゃる。嫌いだよ」

「一応言っておくと、私はお前のことは嫌いではない。仕事はちゃんとするからな」

「……そういうとこだよ」

 ため息をついて頭をガリガリと掻くヒューゴの横で、シルニアはいまここにいる理由をレーゼに差し出す。

「あの、これ……濡れちゃってるけど」

「……ああ」

 まだぽたぽたと雫の滴る帽子を受け取るレーゼは、その時なにを思っていたのか。

「で、レーゼさんよ。、するか?」

 ヒューゴが注視する先にレーゼが目を向け、シルニアも追って見やる。

 南部第七地区の外らしいこの場所は、街中ほどではないが見晴らしは良くない。川沿いに街道は通っているが、そこから離れた場所は枯れた木立ちが連なり、ところどころ岩場が剥き出しになっているのが、元が荒れた土地なのだと想像するのに難くない。

 視線の先にあるのは、木々を背に立つ大きな岩のひとつ。

「三人隠れてるな。ガタイは良くねェが武装してる。短剣が二人、斧が一人。顔は見せねェがこっちの様子を窺ってやがる。追い剥ぎくさいな。距離があるから近づくのを待ってんだろ。少しでも遠ざかれば追いかけてくるはずだ」

 ヒューゴの言に素直に驚く。シルニアは誰かがいる事に気付いてすらいなかったのに、姿を見せない相手を分析した手腕は、レーゼが信頼する仕事の為せる業か。

「スレイドラグの人間だったらまずいな。二人抱えて逃げるしかねェ」

「いや、何らかの罪を犯して逃げた者か、ダリスの残党だろう。街で保護を受けられる信者ならば危険を伴う悪事で財を成す理由はないし、奴隷ならば武器の調達が困難だ」

「そうかい。んじゃ、楽な方でやらせてもらうぜ」

 ヒューゴが腰に差していた刀を抜き、追い剥ぎがいるという岩に悠然と歩いていくと、レーゼが帽子でシルニアの視界を塞いだ。

「レーゼ?」

「一応、見ない方がいいかと思ってな」

 何も見えない中、少しの間の後、雷が落ちたような重い音が轟く。

 そして悲鳴と思しき声が挙がったかと思えば一瞬で途切れ、再び重低音が響いた。

 視界を遮っていた帽子がどけられる。その向こうではヒューゴが刀を空に払って赤い雫を飛ばし、鞘に収めているところだった。

 異様だったのは、そこにあったはずの岩塊だ。根本に近いところから切断された跡があり、それより上の部分は元あった場所より奥に、鉄錆の匂いがする土煙をあげて落ちている。

「見せたくねェんだろ。丁度あったんでフタしといたぞ」

「助かる。相変わらずキクミヤの技は特に化け物じみて見えるな」

 驚きはあったが、レーゼの化け物じみているという言葉に実感はなかった。この時は、戦う人間など見たことがなかったから、そういう事ができる人もいる、という程度の認識でしかない。たとえ岩の塊を斬り飛ばすなどという離れ業であっても。

「ヒューゴ、周囲に人の気配はあるか?」

 彼は周囲を見回す。

「ねェな。人も獣も。ガキ一人でのんびり野宿できるぐらい安全だ」

「なら、すまないが少しの間、お前も離れていてくれ。シルニアに話がある」

 その言葉に、ヒューゴもシルニアも訝しげに首を傾げたが、

「あいよ。終わったら街の入口まで来てくれや」

 問い質すことなく、手をひらひら振って街の方へ去っていく。聞かれたくない意図を尊重したのか、興味がなくて面倒だからかはわからないけれど。

「話、って?」

 訊くと、レーゼは答えず、先程渡された帽子をかぶった。

「……まだそれ、濡れてるよ?」

「わかっている」

 シルニアには目を向けず、遠ざかっていくヒューゴの背中を無言で見送る。

 ぽた……ぽた……ぽた、と。

 帽子のつばから雫が七回落ちて、耳が良いのだろうヒューゴにも声が聞こえないぐらい離れてから、ようやく彼女はシルニアに向き直った。

 いつもと変わらない、けれどまっすぐに見つめてくる目は、心臓を射抜いてくるような気がした。

「シルニア、お前に友になろうと誘ったのは、私の目的のための打算だったからだ」

 打算、という言葉の意味を幼く教養のないシルニアは知らなかったが、彼女がレーゼに向ける気持ちほど純粋なものではないというのは、雰囲気で察せられた。

 その事は当然といえば当然だった。レーゼは少なくとも従者を連れ歩く程の身分であり、奴隷の中でも底辺に位置するシルニアと友誼を結ぶなど、酔狂以外の何物でもないから。

「目的を果たすため私は、お前に似た立場の人間の何人かと交流を持っている。それぞれ形は違うが、友人という体裁の者も他にいる」

「そ、そう、なんだ」

 自分以外にも友人がいるのだと、自然な事だろうに少しがっかりして、そういう体裁、つまり偽りなのだと聞いて胸の中に隙間が出来たような気がした。

「だがこの事を話すのは、お前を確かにだと思ったからだ」

「え?」

「……これから話す事は、嫌だと思うなら断ってくれて構わない。もし断ったとしても、お前が失望しないでいてくれるなら、これからも何も変わらない関係でいる事を誓おう」

 まっすぐ胸の中を鷲掴みにする、長い睫毛に縁取られた眼差しに、息が詰まる。

 冷たい雫がまたひとつ、ぽたり、と落ちた。

「シルニア、お前に頼みたい事があるんだ」

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