1_5章
「ようこそオウロ様。中でレーゼ皇帝陛下がお待ちです」
侍女に連れられ皇帝私室の前まで来ると、そこで待っていたアイネスが折り目正しく、相も変わらず絡繰仕掛けのように人間味のない仕草でお辞儀する。
同行してきた侍女も一礼して去り、アイネスがノックして開けたドアを通る。
皇帝の私室といえど、城全体と共通して華美な装飾は見当たらない。個人の部屋としては広く作られているとはいえ、侍従達に割り当てられた部屋だと言われても納得できてしまうほどの質素さだ。
その部屋の奥、窓際の小さなテーブルの前で椅子に腰掛けて、レーゼは手元の分厚い冊子に目を落としていた。オウロの入室には気付いているはずだが、ぱら、と爪の整った細い指でページをめくる。
「いやぁなんだかお疲れですねー、オウロさん」
そんな気の抜けた声が聞こえたのは、オウロの背後から。
声の主は、てってっ、と音がしそうな軽い足取りで前方に回り込むと、そよ風に揺れた小振りな花を思わせる会釈をした。
静かな輝きを放つ短めの銀色の髪、琥珀を埋め込んだような山吹色の瞳、そして彼女以外では見たことのない、深く日焼けしたような褐色の肌。
朗らかに振る舞う彼女は誰あろう、今しがたまで人間味のない挙動をしていたアイネスである。
「疲れないわけないでしょう」
「何もしなかったじゃないですかー。サボり魔のくせにー」
「……誰も斬る必要がなくなるならそれが仕事ですよ。仕事、してます」
「それっぽいこと言っちゃって」
「あなたの方が疲れそうですけどね、表向きの感じ」
「疲れますよー? でも陛下が皇位継承してからは人前に出る機会も増えたんで、慣れちゃいました」
まあ、本当なのだろう。疲れているような気配なんて微塵も感じない。
それはそれとして、アイネスと話している間もレーゼはページを捲り続けている。
ぱら、ぱら、ぱら。
五秒に一度は次のページに進んでいる。適当に眺めているわけではなく、これでも彼女はちゃんと読んで内容を理解し、記憶しているのだ。いま読んでいるのも何かの文献だろう。昔から、空いた時間にはそうしている事が多かった。
卓越した速度で蓄積される膨大な知識は、元からよく回る知恵の優れた潤滑剤になる。年老いた大臣達と対等な政治議論を交わすようになったのは十歳頃だったか。
懐かしいものだ。当時の教育係が教えられる事など何もなくプライドが傷付き、図書室の棚を一つ指して翌日までに全て読め、などと無茶苦茶な課題を出していた。レーゼはそれを当然の如くこなした。百冊ほどもある本を指定通り一日で読み終え、全て正確に記憶するばかりか内容も理解し、それぞれに対する己の所感さえ添えていた。何なら議論を交わしても構わないという姿勢の教え子に、教育係がその後どうなったのかオウロは知らない。
アイネスではなくレーゼに向けられる視線に気付いてか、彼女はぱたりと本を閉じる。栞の類は彼女には必要ない。最後に開いていたページを憶えるぐらい当たり前で、そのページを開いた時の紙の厚みさえ指で憶えている。
「いささか不機嫌そうだな、オウロ?」
「なぜ殺したのです」
皇帝が呼び出した用を聞く前に問いを投げかけるのは不敬と取られても仕方のないことだったが、レーゼは気にすることなくオウロをまっすぐ見つめた。
「
「そんなわけ……」
「お前は殺す事に疑問を抱かない方がいい」
確かにその通りではある。突き詰めて言えばオウロの仕事は誰かを殺すことだ。その都度いちいち思い悩んでいては仕事にならない。
尤もそういう意味ではオウロは仕事を為したことはない。レーゼの皇帝即位に伴って守護役を任ぜられてからアクライルは平和であったし、シグレドの戦士としても、敵対関係にあるスレイドラグも南部第七地区とは宣戦布告まで友好的な関係にあり争いが起こった事がなく、他の近隣国家であるダリス共和国はオウロが実戦を許される年齢に至るまでに滅びた。
実践経験はなく、肩書に相応しくなく手は綺麗なまま。それでも手を下す機会があるなら躊躇はない。しかし、
「アキゾルフさんは、お世話になった人ですから」
「私に人の情を期待しているのか? 世話になったと思うなら、墓前に手を合わせてやれ」
「…………」
レーゼは叔父のことを、少なくとも嫌ってなどいないはずだと思っていたが、勝手な思い込みだったのだろうか。それとも本人の言う通り、情を期待すべきではないのか。
「いずれにせよ過ぎたこと。気負いすぎるな」
「あなたみたいにはいられません。ここのところ、あなたのことがわからない」
幼少期から、立場と年齢の近さから共にいる事は多かった。彼女の亡くなった両親を除けば最も同じ時間を共有しているだろうとも思っている。
「そうだろうか? 私がどんな人間か、最もよく知るのはオウロかアイネスだろう。なにせお前は――」
レーゼは言葉の半ばで、不自然に口を閉ざした。
その目線の先を追うと、アイネスが彼女に向けて唇に指を立てていた。
――そうか、アイネスは知っているのか。表面上であっても、絶対に口にしてはならない事を。四六時中、主の側に仕えているのだから、おかしなことではないが。
「それより陛下、用があるからオウロさん呼んだんでしょ? オウロさんと一緒にいたいならお邪魔虫は消えちゃいますけども」
何を言っているんだ、というのを辛うじて喉元で堪える。
きっと、この女皇、レーゼという人間を前にして揺れ動いてしまうのは、彼女が口にしなかった事を含む複雑な関係と、錯雑した感情のせいなんだろう。
茶化すようなアイネスに、しばしレーゼは黙考して、
「そうだな。オウロ、お前には開戦まで暇を与える。シグレド領に戻っていろ」
「は……? このタイミングでですか? あなたの命を狙う者が他にも現れるかもしれないのに」
「私に刃向かおうなどという、叔父上ほどの気骨を持つ者はそういない。来たところで、アイネスと衛兵で事足りる」
アイネスが己の腰と太腿をぽんぽんと叩く。服に隠れていて見えないが、短剣を仕込んでいるのだろう。少なくとも四本。そういえばシグレド郎党の長の一人、湖の剣儀の首長から学んでいるのだったか。
「……しかし」
「お前は最も優れた守り手だ。だがお前がいないならいないで、私を守る者達がいる。お前も知っているだろう?」
それは暗に、指しているのがアイネスでも衛兵でもないように聞こえた。
「影……ですか」
知っているも何も、そう呼ばれているのはシグレドの者達だ。普段はオウロが担っているレーゼの警護も任務の一つらしい。
「……守護役が不要なのはわかりました。でも暇を出すのを言いつけるだけなら、わざわざ呼び出して直接でなくてもよかったのでは?」
「それで納得するならな。お前への命令権があるのは私かイズモだけ。お前はそれを律儀に守りすぎている」
「…………」
否定できない。たしかに他の者を通して告げられても、こちらが直接その言葉を聞きに行くだろう。
こちらはレーゼがわからなくなったと思ったばかりなのに、向こうはオウロのことをよくわかっているようで、少し悔しい。
「ただ休息を取れと言っているわけでもない。戦までシグレド領で刃を研いでおけ。アクライルの者ではお前の相手にならんだろう」
「お仕事してないんで鈍ってるかもしれませんしねー。オウロさん今日でおサボり百三十七連勤ですし」
「だからサボってないと……鈍ってなんかないですよ。一応、空いている時間は大抵修練に割いてますから」
「シグレドの者とは長らく顔を合わせていないだろう。侵攻にはシグレドにも出てもらう。今のうちに交流しておけ」
休暇が出されるのは決定事項のようだし、それを命令として出された以上、異を唱えるつもりはない。
けれどなんというか、言葉にはしづらいのだが、気のせいではないと思う。
レーゼは自分を遠くに置きたがっているような気がする。オウロが何か粗相をしたとか、彼女の機嫌を損ねたわけではないようだが。
わからない部分もある。けれどこういう小さな部分であっても、やはり意外と彼女のことはわかっているのかもしれない。
「仕方ありません。明日からですか?」
「今からで構わん」
「わかりました……他に御用がなければ、支度がありますので、これで」
まあ、レーゼに警護が不要だというなら、シグレド領に帰るのも吝かではない。実際、ほとんどの人間と数ヶ月会っていないし、なにより彼女の指摘通り鍛錬が捗る。
深く頭を下げて部屋を出ようとすると、
「あ、オウロさんちょっと待って下さい」
アイネスに呼び止められ、振り返る。
主の側に寄った彼女はじっと見つめてくる。貴宝めいた山吹色の瞳で、ただ、じっと。
何か言うでもなく。
「……アイネスさん?」
さすがに不審に思って呼びかけると、彼女はもどかしげにレーゼに目配せする。
しかしその意図は伝わらなかったようで、レーゼは首を傾げた。
「……や、なんでもありません。呼び止めちゃってすみません」
「はあ……」
気にはなる。が、用がないならばと、腑に落ちないものがありつつオウロは退室した。
「今のは何だったんだ?」
オウロが去って二人だけになった私室で、レーゼはアイネスに問いかける。
「陛下、本当はオウロさんと一緒にいたいんじゃないかって、余計な気を利かせてみたんですよ」
「共にいるのはいつもだろう。あいつの任務だからな」
「そーゆー意味じゃないですよぅ」
「オウロに言ったばかりだぞ。私に人間らしい情を期待するな」
「そうでしょうか?」
レーゼは先まで読んでいた資料に伸ばしかけていた手を引っ込める。空いている時に頭に焼き付けておこうかと思っていたが、急ぎではない。
アイネスの、にまにました顔を見て、軽く息をついてベッドに移動して腰掛ける。
「何を言いたい?」
「最後かもしれないじゃないですか。任務でもなんでも理由をつけて一緒にいられるの。まあ、あの人のことですから呼び出したら飛んできてくれるでしょうけども」
彼女もレーゼの側に寄り、足元に跪いた。
「ハッキリさせるにはいい機会だと思ったんですよ」
「明らかにしたところでどうにもならんぞ」
「どうなるかはどうでもいいんです。そうするのが一番大事っていうのが乙女心ってものです」
乙女なんて言葉が自分ほど似合わない女はそういないだろうな、とレーゼは内心思う。
アイネスは朗らかで優しげな顔をしながら、告げる。
「……サブラの民はサブラの民以外と交わりを禁じています。氏族によって違いますが、その禁を犯せば追放か処刑か、いずれにせよ重い罰が下されます。シグレドももちろんその例に漏れず、史実上は、共にあるアクライルの国民と結ばれたことはありません」
「私はシグレドではない。お前の考えている事の行く先は、オウロが罰されることだ」
「……ええ、あなたはシグレドではありません。このアクライルの皇帝なんですから。でも――」
言葉が途切れたのは、アイネスの唇が塞がれたから。
「すぐ近くでそんな話を今更するのは、待っているという解釈でいいのか?」
喋るのを止めさせるには些か無理があっただろうか、と疑問を抱きながら、すぐ鼻先にあるアイネスの顔を見つめる。
「へへ」と笑いながら、彼女は動揺していない。
「まさか。あなたがしたいだろうなって思ったから、しやすいように来たんですよ」
「……まったく」
否定はできない。止めるためとはいえ唇を重ねたのだから、そう言われると欲求が芽生えていたのだと自覚してしまった。
アイネスを抱きかかえて、そのままベッドに身を投げる。
「やっぱり。オウロさんを誘えばよかったのに」
「なかなかしつこいな、お前は」
まあいいか、と開き直ることにした。アイネスが身体を許すのはその事が誰かに漏れない時だ。誰も見ていないし、誰も聞いていない。
「サブラの掟だけではない。身内と交わるのはどこであろうと禁忌だぞ」
留めた言葉の続きを呟きながら、アイネスの頬に口づけする。
「あくまで己の守護役か、それとも幼馴染のご友人としてか、あるいは男性としてか……弟として接するべきか。複雑すぎるんですよ、あなたの気持ちは。だから少しぐらい、その辺スッキリさせてもいいと思ってるんです」
肌を撫でながら、服を脱がせていく。侍女という割には鍛えられた身体だが、線は細く肌触りも柔らかい。オウロとはまるで違うだろうというのは、触れたことがなくてもわかる。
「お前が女でよかったよ」
「なんでです?」
「男だったらあいつを重ねてしまうだろう。そうなったら、溺れてしまうかもしれない」
「ふふ、女でよかったです」
少しずつ、熱を帯びていくのを感じながら。
「こうするのはいつも、あなたが彼をどう扱うべきか迷って、苦しんでいる時」
「どうしようもあるまいよ。オウロは馴染の守護役、それだけだ。それにあいつには許嫁もいる。水を差すべきじゃない」
「引くべきとわかっているのに引ききれない。結局それって、情のある人ってことですよ」
「……お前にはいつもすまないと思っているよ。こんな、身代わり人形のように」
なすがままにされていたアイネスが手を伸ばし、レーゼの頬を撫でる。
「あたしは嬉しいですよ? あなたを慰められるならこれ以上に喜ばしい事はありません」
「なら……恨んでくれて構わん。全てうまくいけば、私は二度――」
伸ばされた手の親指がレーゼの口を押し留める。そうして感触を確かめるように指の腹で撫でて、アイネスが優しく唇をはんできた。
「話、ちゃんと聞いてます? 本当なんですよ? あたしは、レーゼさんを愛してるんですから」
肌が離れると、彼女の目は潤んでいて、雫が筋を描いて伝っていた。レーゼがそれを指先で拭うもまた溢れ、今度は赤い舌で舐め取る。
「泣くな……重ねて、すまないな。一度目はお前なのだから」
レーゼはそこでようやく、己の衣服に手をかける。いっとき、しがらみを脱ぎ捨てるように。
「最後になるかもしれない。だから教えてくれ、愛情というものを」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます