1_4章
白亜の巨大建造物は、祈りを捧げる人々の像で壁一面が埋め尽くされている。天辺付近で祈りを受け止める男か女かわからない像は、なんだか偉そうに見えるのもあって、きっと神様なのだろう。誰かに聞いた事もないので、勝手にそう思うことにする。
いまは長年の雨風に晒されて、清掃の手が届かない高所など、特にあの神様っぽい像のあたりはすっかり色褪せている。
それでもかつては、あの像をはじめ、屋根の上から全ての像の爪の隙間まで目の届かないところも、綺麗に真っ白な姿を保っていたらしい。そのための奴隷を使って毎日隅々まで掃除させて、高所からの落下死者を何度も出しながら。いまは死亡者どころか怪我人も出ないよう安全な範囲でだけ手入れされていて、当時の事などシルニアは伝聞でしか知らないけれど。
スレイドラグ南部第七地区大聖堂。昔はそんな名前の場所がある、という程度の認識だった。見たこともなければどこにあるのかすら知らなかった。見る事も知る事も許される身分ではなかった。
それが今ではこうして、自由に出入り出来るようになるとは、人生何があるかわからないものだ。たかだか十七年の人生でも、シルニアのそれは他の誰も通らぬ道だろうけれど。
身分は昔から変わらず奴隷の身なれど、原則的に奴隷の立ち入りが認められていないこの大聖堂にも、彼女ならば修道衣さえ身に着けていれば入る事が出来る。防衛師団副団長とはいえ個別の家を割り当てられているのもあって、いまの自分が奴隷と呼ぶに適しているとはシルニア自身が思っていない。
大きく開かれた門扉をくぐり、輝いて見えるほど白く磨かれた床を踏み、慣れてきた通路を歩いていく。外から見て想像できるが内部は広く、過剰と思えるほどに彫刻で装飾され、荘厳さのあまり無意識に敬服しそうになる。
奥にある、強制的な敬畏の権化とも言える礼拝堂から、二人の男女が出てくる。一般の信徒と見られる彼らは、大聖堂に入ってきたばかりの彼女に気付くと、両手を組んで頭を深く下げる簡易的な挨拶をした。シルニアも倣って同じ挨拶を返す。
二人が頭を下げる瞬間、その表情は見逃さなかった。相手が誰かに気付いて顔が強張ったのを。
慣れているから今更気にならない。むしろ、かつては道端に転がった汚物を見るような目を向けられていたのだから、今の方がだいぶマシだ。それに、奴隷以外でも普通に接してくれる人も少しはいてくれる。
数秒程度の挨拶を終えたシルニアは、礼拝堂に続く通路の両脇にある階段へ向かう。別に礼拝しに来たわけではないのだ。神様だって、不信心者に祈られても迷惑だろう。
目的地は三階。そこは最上階であり、建物の巨大さを踏まえると階層は少なく見える。その分、一フロアの天井がとても高い。一階は礼拝堂をはじめ一般信者向けの階となっており、二階はこの大聖堂の運営に携わる階、そして三階は南部第七地区の政治を執り仕切る政の中心地となっている。
三階にたどり着くと、見かける人々の雰囲気も変わってくる。厳かな雰囲気をまとっているというか、シルニアも上手く表現できる言葉を見つけられない。歩きながら忙しなく手元の書類に何かを書き込む取り巻きを引き連れた恰幅の良い偉そうな格好の老人が、シルニアに気付くと露骨に不機嫌そうな顔をする。挨拶をしてくるわけでもない。まあシルニアは彼のことを知らないし、実際に偉い立場なのだろうから、気にすることはない。
目的の部屋の前にたどり着くと、警備についている二人の兵士が挨拶してくれるたので、シルニアも同じ挨拶を返す。伸ばした両手の指先を喉元に当てるような、あるいは手の甲を見せつけるような、教国軍隊式の挨拶だ。
右にいるのは、大柄で強面、豊かな髭を伸ばした厳つい中年男。
左にいるのも、大柄で強面、豊かな髭を伸ばした厳つい中年男。
聞いたところによると、この二人の警備兵は双子らしい。分厚い唇の歪み方や眉間の皺まで、まるで鏡写しのようにそっくりだ。利き手が逆で腰に差している剣も逆向きなのがまた左右対称になっていて、見ているとなんだか不思議な気分になってくる。極めて無口で声を聞いたことはないし、警備の任に忠実で交流は全くないのだが、なんとなくシルニアには好意的な感じがしている。この部屋の主が二人を気に入っているらしいから、きっとその勘は当たっている。
二人の警備兵は拳を作り、全く同じタイミングでリズムを付けて扉を叩く。どんな来客かでリズムを変えているらしく、この時点で誰の来訪か伝わっているはずだ。
「シルニアか。入ってくれ」
低く渋みを帯びた、よく通る声が扉越しに届く。二人が押し開けた扉を、一礼して中に入る。
広い部屋だ。ここは執務室だが余計な物は徹底的に排除されていて、より広大に見えてしまう。壁際に並ぶ本棚と、隅に置かれた応接用のテーブルとソファ、その対面の角には簡素な仕切りがあり、そこは主の私室、もといベッドとクローゼットがあるだけの小さな空間。
そして部屋の奥に設えられた執務机には、整然と積まれた書類の山があり、初老の男が手紙を書いていた。
「すまない、掛けて待っていてくれ。すぐに済む」
シルニアは従い、応接スペースのソファに腰掛ける。革張りのそれは張りがありながらも腰が沈むほど柔らかく、心地良くはあるのだがここでしか座る機会がなく、少し落ち着かない。
執務机の方に目をやると、言葉通り書き終えてペンを置く。便箋を封筒に仕舞い、赤い蝋燭から溶けた蝋を封筒の口に一雫垂らすと、蝋の上から印璽を捺す。この封蝋というのはシルニアには馴染みのない風習だが、彼のように立場のある人間や商人には重要なことらしい。
「……さて、待たせたな。シルニア、久しぶりだ」
手紙はすぐ出すわけではないらしい。綴じたそれを机の脇にどけると、対面のソファに向かってくる。シルニアはすっと立ち上がり、深く頭を下げた。
「お時間を割いて頂き感謝に堪えません、エルシャバーズ総統閣下」
小さく笑う声が聞こえてきて、あ、と思う。反射的にやってしまったが、これは表向きの接し方だ。顔を上げると苦笑が目に入った。
広い骨格に靭やかな筋肉がついていながら威圧的な体格ではなく、むしろ短く刈り込んだ髪に眼鏡をかけた精悍な顔立ちは小綺麗な印象でありスマートに見える。しかし何より目を引くのは、彼の肌が煙水晶のように黒いことだ。
とてつもなく広い国土と多様な人種を取り込んだスレイドラグにおいても、彼のような特徴を持つ人種はかなり少数だ。何十年も前に征服された西方の小国に住まう民族で、エルシャバーズもその生まれなのだそう。
スレイドラグに敗北した小国では、教国のものとは異なる独自の宗教が根付いていた。改宗など受け入れられないほど根強く。つまり皆、奴隷とされた。
エルシャバーズも幼少期は奴隷として育ったのだそう。それが今では教国で三十五人しかいない大幹部の一人にまで上り詰めた、生ける伝説である。故郷の人々は、もしかしたら裏切り者と思っているかもしれないが。
教国内でも指折りの有名人であるエルシャバーズは、同時に、奇人としても知られている。
「気楽にしなさい。ここにいるのは私たちだけだ。外の二人には聞こえるかもしれんが、どうせ事情は知っているのだから今更気にすることはないさ」
「はい……お久しぶりです。最後にお会いしたのは遠征前だから……一ヶ月半ぐらいぶりでしょうか、お義父さま」
そう、この地区を治める彼は、奴隷に過ぎないシルニアを十年前に引き取って親となった。
エルシャバーズは元々妻子持ちだ。とはいえ南部第七地区には単身でいる。以前住んでいたスレイドラグ中央地区に妻は置いてきたそうで、子については聞いたことがないが、きっと母と同じく中央地区に暮らしているのだろう。
シルニアを引き取った理由はわからない。おおかた神の祝福を受けたなどと呼ばれている彼女を利用するためだろうと最初は思っていたのだけど、誰かが言い出したその称号を半ば公認のものとして広めただけで、何らかの目論見は特に見受けられなかった。
むしろ、とてもよくしてくれている。奴隷として生まれ、人の身ながら人として扱われない彼女を、人にしてくれた。それ自体は十年前にエルシャバーズが総統に就いてから全ての奴隷に尽力している事ではあるが、娘として受け入れた彼女には特に、ちゃんとした食事と寝床、身につける機会の無かった知識を与え、何より親子の情を教えてくれた。
尤も、それらを受け入れる下地を作ってくれた者は別にいる。いまは、彼女の事は考えたくないが――
「東部第四地区への遠征、ご苦労だったな。戦果の報告は受けているよ。厳しい戦場だったろうが、活躍したそうじゃないか」
シルニアは密かに唇を噛む。
防衛師団に身を置いているのは、強制されている事ではない。シルニア自身が、エルシャバーズへの恩義を何らかの形で返さねばならないと、渋る彼に無理を言って加入させてもらったのだ。総統の養女とはいえ肩書は奴隷のままである自分が役に立てる事など、身を削ることしか思いつかなかったから。
「活躍だなんて、そんな……何人もの仲間が死にました」
「四十四人だったな。悲しい事だが、それでも戦力を考えれば充分すぎるほど抑えられている。それにあそこの総統は狂信者だ。信仰を示せば獣だろうが虫だろうが敬い愛すべき同胞だが、信仰心のない者はそれ以下、肉の壁か動く道具程度の穢らわしい存在と考えているような奴だ」
エルシャバーズは渋く唇を歪める。幹部同士、当然ながら顔見知りだ。信仰があるからこそ今の立場にいるとはいえ、元が奴隷であり奴隷を厚遇しようとする彼とは思想的に相容れないらしく、犬猿の仲だと聞く。
「教皇の命がなければ、私も派遣したくなかったよ。趨勢的には送り込んだ千人が全滅してもおかしくない、それどころか戦いにかこつけて奴の手勢が防衛師団を潰したとしても不思議ではなかったのだから」
言われて気付く。今回の死者も負傷者も、半分近くは正規軍が放った矢や兵器によるものだ。それ自体は珍しい事ではない。防衛師団は常に最前線に立たされ、巻き込まぬように気を遣いながら攻撃する者は少ない。だが今回はその傾向が強く多くの犠牲を強いられた。それが、当たっても仕方ないという消極的な結果ではなく、積極的に射掛けてきたのだとしたら……
「…………」
唇を噛む力が強くなる。奴隷とは敵ですらなく、ただ踏み潰されるだけの存在とでも言うのだろうか。東部第四地区が極端な例である事は承知しているが、教国全体、特に信心深い者達にはそうした考えが根付いているのも間違いないのだ。
だがそれを、ここで口にするのは憚られた。エルシャバーズがそれを聞けば状況の改善に動き出すだろう。そうすべきだとは思っても、手を煩わせたくない。
「あまり、茶でも飲みながら和やかにしていられる気分でもないか……あ、すまない。立て込んでいたもので茶の用意を忘れていた」
「大丈夫です。実際、お茶を飲んでいる気分ではないですから」
南部第七地区防衛師団は、教国のどこかで戦が起こる度、応援に駆り出される。それは奴隷であるが故の使い勝手の良さだけでなく、戦力を見抜く力に長け戦局の采配に優れたエルシャバーズが揃えた手勢という信頼感も大きい。
当然、シルニアも多くの戦場に赴いた。防衛師団に身を置いてからは、遠征の前後にはこうして親子の時間を作っている。皆の盾となって生きようと決めてからは数少なくなってしまった時間だ。
「まあ、何を話したいかは、聞くまでもないか」
「……アクライルが宣戦布告してきたと聞きました。その事で、色々と訊きたくて」
ただでさえ多忙の上、かの国が行った宣言で忙殺極まっているはずだ。その中でほんのわずかな憩いの時かもしれないのに、この話題で潰してしまうのは気が引けてしまうところだが。
とはいえエルシャバーズは、シルニアにとってアクライル皇帝であるレーゼがどんな存在であるか承知している。きっと、理解は示してくれる。
「率直に……アクライルは、あたしが今まで戦いに参加したどの国より強いと聞きます。攻めてくるアクライルを退ける事はできるのでしょうか」
「無論、彼我の戦力差は覆しようもない。かの国が勝利する道理などないさ。教国としてはな」
「教国としては?」
「教国が適切な戦略を組み総力で応ずるならば、アクライルという国を滅ぼすのに被害は二割程度……南部全域程度で済むだろう。そこには、ここ南部第七地区も含まれる」
「ということは……」
「最初に交戦する事になるここが敗れるのは疑いようもない。他の地区から応援をかき集めたところで焼け石に水だな」
「そんな……いまなら団長も第七地区にいます。あの人は性格とか色々アレですけど……それでも、ですか?」
エルシャバーズは静かに首を振る。
「奴の有無は極めて大きいだろう。だが結果は変わらん。この地区を守り切るなら、ブレドと同格の戦士が少なくとも五人は必要になる」
防衛師団の要とも言えるブレドは、人格的にはともかく能力はシルニアも否定しようがない。中央地区で見世物として設えられた闘技場で剣奴として過ごしていた彼を、当時第七地区に赴任する前だったエルシャバーズが才覚を見抜き、手を回して配下に引き入れた。こと戦闘能力において彼は誰よりブレドを信頼していて、事実この広い教国でも指折りの実力者なのに。
「なら……法的には問題ありそうですけど、団長を将として取り立てれば……」
「それはないな。適材適所……あれは兵としてなら敵国を滅ぼせるだけの力があるが、将としては自国を滅ぼしかねん。それに問題はアクライル国軍ではない。彼らは確かに精強だが、中央地区防衛に当たっている神宮騎士団と同程度だ。脅威なのはシグレド。最強の手札であるブレドをもってしても、シグレド宗家はおろか郎党の長に敵うかもわからん」
「団長でも、そんなに……!?」
エルシャバーズの評に愕然とする。ブレドの戦い様を最も目にしていると自負しているのはシルニアだ。
常人なら持ち上げるだけで何人がかりにもなる巨大な剣を気怠げに片手で軽々と振るい、まるで埃でも払うように何人もの敵兵をまとめて両断する。単純に強いと評するのも違うと感じてしまう、現実離れしたその姿は味方を奮い立たせ、同時に得も言われぬ恐怖を植え付ける。
そのブレドすら、アクライルの、否シグレドの大将クラスどころかその取り巻きに及ばないという。
「シルニアは、シグレドの事をどの程度知っているかな?」
「……ほとんど知りません。彼らがサブラの民だというぐらいしか」
「なら、サブラの民については?」
シルニアは小さく頷く。エルシャバーズに引き取られて受けた教育の中で、基礎教養として学ばせてもらっている。
「世界各地で氏族ごとに小集団を作って生活する少数民族。彼らは各自の掟に従って生き、他と交わらず、どの国にも属さない」
「そうだ。その一つであるシグレドはアクライルに属しているように見えるが、あくまでアクライル皇帝に忠誠を誓っている氏族で、配下ではあっても国の一部ではない。領土の一部をシグレド領として借り本土とも交流がある一方、アクライルの法には縛られない。同じ主を戴く別の国とも言えるな。さて少し話が逸れたが、サブラの民には他にも共通項がある。それは?」
「……別々に暮らしていながら、共通するサブラの民独自の文化を持っていること。それと、身体能力が非常に高いこと。これは特に戦闘技能に直結していて、教国が屈服させられない理由の大半を占めています」
「よろしい、教えたことはちゃんと覚えているな。偉いぞ」
エルシャバーズは満足げに頷く。子供扱いされている気がするが、名実ともに子供で間違いはないので何も言えない。
「基礎ばかりでシグレドの事は教える機会もなかったな。私の知る限り、シグレドはサブラの民の中でも特に優れた戦闘能力と鍛冶技術を持っている。実戦部隊は百人程度だが、それだけでも南部第七地区を制圧するには充分すぎる戦力を備えている」
息を呑む。強いと聞いていたが漠然としたイメージしかなかった。防衛師団も、平均すれば正規軍に及ばない能力ながら数だけなら十倍以上いる。正規軍も加えるなら桁が更に一つ増える。にも関わらず、エルシャバーズは迷いなく断言した。
「シグレドにはその名を冠する宗家と、それぞれが異なる流派の剣を使う四つの郎党がいる。剛力の鬼の剣、キクミヤ。神速の嵐の剣、ランブ。流水の湖の剣、コヌマ。鉄壁の砦の剣、サイドウ。そしてこれら四つの郎党の長から各流派の指南を受けた最優の一族、宗家シグレド。この宗家は、長であるイズモと、その孫であり皇帝守護役に就いているオウロの二名だけだが……イズモが出陣すれば、一人だけでもこの地区を落とすぐらいなら容易いだろうな。直接会った事もあるが、あれは化け物中の化け物だ」
「たった……一人で」
「イズモではないが、剣術の稽古風景も見せてもらった事がある。実戦ではない稽古であの凄まじさはまるで、魔術でも見せられている気分だったよ」
魔術、という言葉を反芻する。
その単語は知らない者も多いだろう。むしろ、ほとんどの人間は知らないはずだ。シルニアだって教育とは別にエルシャバーズから伝え聞いた事があるだけだ。
それは伝承上の竜が用いる超常現象を引き起こすものである――と、一説で唱えられているらしい。伝説の中では竜は灼熱の息吹を吐くが、それも魔術と呼ばれる現象の一つだという。
竜の存在は眉唾とも思えるが、教国の上層部や一部の研究者は、かつて存在していた事を信じている。エルシャバーズもその一人であり、南部第七地区の大図書館には竜に関するという関連書物が集められ、その研究を命じられた機関もあるらしい。それを管轄し主導する彼は竜研究の第一人者とも言える。
尤も、未来の益に与しない故にその点だけはエルシャバーズが評価されていない部分だが。魔術という説もマイナーなため、竜自体の知名度に反して知る者は極めて少ない。
「まあ、どれだけ人間離れしていようとシグレドも人間だ。非効率だが、疲労を癒す暇も与えない人海戦術で畳み掛けるのが、アクライルを倒す効果的な手段になるだろうな」
「でもその代わり、南部第七地区は……撤退は考えないんですか」
「考えるだけならいくらでもするさ。だが、シルニアも知っているだろう? 布教活動は教国民の義務、アクライルはそれを保留していたに過ぎない。どんなに絶望的な相手だろうと、尻尾を巻けば待っているのは処刑だ。敵を迎え撃って討ち死にするか、味方に不名誉な刑に処されるか、どちらがマシだと思う?」
シルニアは俯く。神に祝福された身だ、自分は生き残れるかもしれない。でも他に誰も生き残らなかったら? アクライルで捕虜になるのだろうか。敵として戦った者達の中で生きるのか?
レーゼの下で。もはや友人ではなく、敵となった者として――
「――そもそもアクライルは、何故宣戦布告をしてきたんでしょうか。いずれ負けるだろうって、わかってるはずなのに」
「理由、か。推測ならできるな。第七地区からの輸出が増加傾向にある事から、アクライルは厳しい食糧難のはずだ。資源もな。向こうとしては、ここを手に入れられすれば当分戦う理由は失われるはず――」
エルシャバーズが語るそれは真実なのだろう。けれどそれを聞いているシルニアの頭の中で、何かが繋がったような気がした。
魔術という言葉を聞いたから。
「――竜聖堂が目的なんじゃないでしょうか。アクライル……いえ、レーゼは」
エルシャバーズが口を噤み、かすかに目を見開く。
「あそこに何を求めているのかはわかりません。でも彼女は――」
「宣戦布告の理由など些末な事だし、敵側の事情を知ったところで出来る事はない。ここを攻めると予告してきた。それが全てだ」
有無を言わさぬ厳しさが、低い声に込められていた。話を聞く度量を持ち合わせ、常にそうしてきた彼から聞くのは初めての声音。
「それにシルニア、その場所の事は本来知っていていい身分じゃない。わかっているな?」
「……はい。すみませんでした」
実際、口にはしたもののそれがレーゼの目的だと示せる論理的な根拠は持ち合わせていない。
「すまないな。ひと月あるとはいえ戦が控えているのだから、父としては娘の励みになる言葉をかけるべきなんだろうが」
いえ、と発した声は、ノックの音に重なってかき消えた。
リズムに乗った音の意味はシルニアにはわからない。しかし義父は深くため息をつく。
「会議の時間が近いようだ。支度をせねば」
「…………」
「アクライルとの交戦については準備を進めておく。防衛師団には追って伝を寄越すから、それまで待機するように」
そしてエルシャバーズは、いつものように親らしい、柔和な笑みを浮かべる。
「今日はもう戻りなさい。こちらが良ければ、部屋を用意させるが」
「……大丈夫です。色々と仕事もありますし、師団の皆と過ごしたいですから」
「……そうか」
シルニアは立ち上がって頭を下げ、執務室を出ていく。
部屋の前で相変わらず無表情で警備している二人にも頭を下げると、向こうも小さく会釈を返してくれる。良くも悪くも、強面の無表情のまま。
彼らには中の話は聞こえていなかったのだろうか。だとしたら、平和なものだ。
あるいは聞こえていたのだろうか。だとしたら、こうも変わらないのは心の強さだろうか。
それか、聞くまでもなく戦争の予見など知っているか。いずれにせよ、羨ましいと思う。
シルニアが退室した後、エルシャバーズは執務机まで移動し、そこで腰を下ろさないままじっと入口を見つめた。
アクライルへの対応に関する会議の支度もせねばならないが、その前にしておく事がある。
シルニアが離れただろう頃を見計らって、机の上の手紙を手に取る。彼女が入室した頃まで書いていたものだ。
既に封蝋してあるそれを別の封筒の中に収めると、懐から出した鍵で机の引き出しを開け、中にある重要な文具を掻き分けて二重底を開ける。そこから取り出したのは、白い蝋の塊と、手紙に捺したのとは別の印璽。
先に使った赤い蝋燭を手にして傾け、白い塊に火を当てて封筒に蝋を落とす。そして新たに取り出した印璽で改めて綴じる。
二重に綴じたそれを手に取り、執務机のすぐ後ろにある窓に歩み寄ると、ガラスを叩く。ノックのように拳を使うのではなく、指の第二関節で音が大きくならないように。
たっぷり十秒ほどかけて不規則な韻を刻んだ後、窓を開ける。
そこから見えるのは南部第七地区の町並みだ。ここから見える景色に見える人々は遠く、ほとんどが豆粒のように見える。
三階とはいえ高い位置にあるこの場所に、人影はもちろん物音もない。しかし、合図を出してから気配だけはひしひしと感じられた。
相変わらず恐ろしい連中だと、エルシャバーズは内心思う。
「早馬で中央地区の本部へ応援を要請している。私も明朝までにここを発ち、要請が通るよう説き伏せてくる」
エルシャバーズは目の前の虚空に向けて、手紙の内容をかい摘んで言葉にする。
「先行部隊として一万、開戦日には必ず用意する。伝えておいてくれ」
そう言って、手紙を窓の外に放り投げる。
それは地に落ちることなく、風に飛ばされていくこともなく、ただ、かき消えた。
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