1_3章

 皇城の第一談話室ラウンジはどこか謁見室と似た空気を思わせる飾り気の無さで満ちていた。尤も、国の象徴とも言える建造物でありながら絢爛豪華を嫌うような華美さの欠片もない雰囲気は、資源に乏しく贅を忌むアクライルの風土そのものとも言える。

 それでもこの第一談話室――重臣らが会議以外で国政に関わる意見交換を息抜きがてら気軽に行う場は、趣向が凝らされている。どの調度品も瀟洒な素材を用いず華やかな装飾もない、しかし熟練の職人が吟味を重ねた設計で精巧に仕立てた、洗練された機能美に富む逸品ばかりだ。

 オウロがその第一談話室に足を踏み入れた時、一見すると誰もいないように見えた。一定以上の地位のある一部の人間しか立ち入りが許可されていないこの部屋は休憩するのに丁度良く、誰もいないなら都合が良い――一瞬そう思ったのだが、よく見ると部屋の隅の席でひっそりとグラスを傾ける先客がいた。

 気付けなかったのは、彼が普段は威厳として身に纏っている威圧感を脱ぎ去り、先頃まで着ていた鎧を脱いでいたからだろうか。

「ベルグラン将軍、いらしたのですね」

 一休みに来たとはいえ、他の誰かならいざ知らず、先の場に共にいた彼に声をかけないのも野暮というものだ。ベルグランはオウロに気付くと、少し疲れたように見える顔で口角を上げた。

「これはオウロ殿。陛下の護衛の任はよいのですかな?」

「アイネスさんだけで充分だそうで、僕は少し休んでくるよう言い渡されました。その間、ご一緒しても?」

 アイネスとはレーゼの側に控える侍女の名だ。身の回りの世話だけでなく、本職ほどとはいかずとも警護役もこなせる。年齢は確か二十。オウロより二つ、レーゼより一つ上なだけだが、それで皇城の侍従長なのだから相当に優秀な人材だ。

 だがオウロは、知り合って数年になる彼女の事をあまり知らない。アイネスが持つ褐色の肌はアクライルにもシグレドにもおらず、彼女が異国の生まれだろう事は察しがついているが、出生を聞いたことはない。掴みどころがないのだ、アイネスは。それは決して、主の求めに常に完璧に応えつつも、影になると言えるほど存在感を消せて、主とは異なる意味で人形めいて見えるからではない。

「どうぞ。一緒に一杯、いかがです?」

「僕はまだ飲める年齢ではありませんので」

「たしか十八になったばかりでしょう。もう酒を楽しめる年です」

「シグレドでは二十からと定められているんです」

「そうでしたか。それは残念」

 苦笑いしながらベルグランは、琥珀色の液体をまた一口流し込む。

 酒はアクライルでは貴重品だ。材料となる作物のうち食用に適さない物を選別して生産されてはいるものの量はわずかであり、ほとんどは輸入に頼っている。その輸入元は他ならぬスレイドラグであり、宣戦布告したいま交易が制限され希少性に拍車がかかっているが。

 尤も、この場ではあまり関係のない話か。彼が口にしているのは、色と香りからするとその稀少な国産品だろう。アクライル領内にあるシグレドでも酒類は貴重だが、素材も製法もまるで異なり自家生産で賄いきれている。

 そこまで考えたところで、ベルグランの席に歩み寄る足をわずかに止める。彼の対面は空席だが、酒の注がれたグラスが置かれていたのだ。無論、ベルグランがいま手の中で揺らしているものとは別の。

 誰の杯か確認するまでもなかった。オウロはその席を避け、隣側の椅子に腰を下ろした。

「この談話室への立ち入りが許可されてから、幾度も幾度も、数え切れぬほど語り合ってきました。寝泊まりできる部屋ではないというのに、夜通し語らい死んだように寝落ちてしまったことも、両手の指では足りません。他愛のない話から、この国の未来についてまで……文官と武官として、互いの領分に踏み込んだ意見を交わしたことも少なくない。それは思わぬ視点をもたらすこともあって、軍部として彼の存在は非常に大きなものでした。儂が彼の役に立てたのかは、もうわかりませんがね」

「あの人は気が短かったですが、いつも民の生活を第一に考えていました。国の守りを担う軍と、それをまとめるあなたがいなければ、そんな風にはいられなかったでしょう」

「謀反を企てたアキへのその言い草、貴公は儂が思っているより、任に忠実ではないのかもしれませんな」

 長年の友への憂鬱を零すベルグランに、オウロも同調してしまう。彼ほどの付き合いはないし、主へ剣を向けた反逆者であっても、その死を悼む情がある。

「ちょうどこの部屋でしたか。小さい頃、僕が登城するとあの人は手作りのお菓子を振る舞って歓迎してくれました。砂糖も使っていないはずなのにとても甘くて……思えば僕はあのお菓子が好きで、城に来るのを楽しみにしていました」

 酒と同様か、もしくはそれ以上に砂糖は貴重である。砂糖があるなら同量の塩の方が生きるのに必要なぶん喜ばれるし、原料の栽培もそんな余裕があるなら穀物の増作に回した方が腹も膨れる。乏しい分、甘味など普段の食事からほんのわずかに感じられる程度に人々の舌は発達している。故に、アクライルでは甘味料など排斥される贅なのだ。

 だからアキゾルフの作る菓子は、大人になるにつれ社会が見えてくるようになると、如何に絶品だったかと感じる。あれは焼き菓子で、サクサクした食感でとても軽い舌触り、噛んで形が崩れると強い香りと甘みが広がり、それでいてしつこくない。口の中が渇いてしまうが、併せて飲む茶の味を引き立て、それがまた美味なのだ。

 幼い頃から聡明で、教育係が出すどんな問題も簡単に解いて見せたレーゼも、オウロの隣で同じ菓子を食した時は、どうやって作ったのかまるで分からずにいたものだ。

「はは、あやつは子供好きな上、菓子作りが趣味でしたからな。いつか国が豊かになった暁にはレシピ本を出すのだと、口癖のように嘯いておりました」

「……陛下もよくお世話になっていました。お立場もあるでしょうからああいう態度ですが、個人としては好ましく思っていたはずです。だから正直、にわかには信じがたいです。ああも冷酷に処刑されるなど」

 その光景、その瞬間を思い出したのか、ベルグランは目を伏せて口を窄めると、グラスを傾けた。

 レーゼはなぜ、護衛役であり確実に執行できる技量を持つオウロに命じず、自らの手で叔父を葬ったのか。後になって思うと、彼女はわかっていたのだろう。オウロに彼を斬れないかもしれない事を、そして斬れたとしても心に傷を負うだろう事を。

 臣下なのだから、意に介さず命じれば良かったのに。

 皇帝自身の手を汚してでも、斬らねばならなかったのだろうか。

「陛下独断での宣戦布告から、アキゾルフ卿が武力行使に出るかもしれないと、儂も予想はしていました。しかし、あの顛末は……」

 気持ちを切り替えるような、深いため息。

「……開戦に向けての諸々に苦心する事になるでしょうが、軍の士気を保つのが何より苦労するかもしれません」

「あなたはアキゾルフ殿のように、謀反を考えたりはしないのですね」

「軍人として戦場で散るか老いて穏やかに眠るか、死に方はどちらかが望ましいだけです。それに儂は、陛下に個人的な恩がありましてな。決して背かぬと誓っているのです」

「個人的な恩?」

 訊いてみても、ベルグランは酒に口を付けるだけだった。答える気はないらしい。まあ、個人的な話を交わすほど親しい間柄でもないし、きっと知ってどうなるものでもないだろう。

「とはいえ、無茶な布告に続いてアキゾルフ卿への仕打ち、さすがに揺れ動きますが」

「……酒のせいか、聞かなかった事にしておきます。あなたまで離反しては、開戦の前にアクライルは自壊してしまいます」

「儂もだいぶ高く買われたものですな」

「ともあれ、陛下はここまでして戦を起こそうとされている。ベルグラン将軍、あなたから見て、戦はどう転ぶでしょうか」

 聞くまでもない事だろう、という予想はついた。その内心は声音に漏れていたし、事実ベルグランは急に酒が不味くなったように顔を顰めた。

「……もし全面戦争になろうものなら、万に一つの勝ち目もないでしょう。我が軍の総力を以て、そしてシグレドが如何に優れていようと。かの国の総兵員は我が国と軽く三桁は違いますからな。数字の差だけ見ても、戦を仕掛けようなどと本来思わぬものです。それにまず衝突することになる南部第七地区には、エルシャバーズの剣と盾がおります」

 その名はオウロも聞いた事があった。南部第七地区の総督であるエルシャバーズの配下、防衛師団に属する二人の兵の名だ。

 剛力無双、ひと薙ぎで何人もの敵を両断しかつては素手で容易く猛獣を屠ったという剣、ブレド。

 金城鉄壁、神の祝福を受け如何なる刃も通さず師団の守り神ともされる盾、シルニア。

 情報として知っているだけで直にその姿を見たことはない。故に如何ほどの実力の持ち主かはわからないが、最大の障害になるであろう二人だ。

「もし南部第七地区を制圧できれば、まだわずかながら望みはあるでしょう。あの地には、麾下となる以前に建てられた対スレイドラグのための要塞が残っていますから……それでも現実的には、多少の延命が出来る、という程度かと。あの国は苛烈ゆえ、一つ奪われれば十の力で奪い返す。疲弊したところを攻められれば、為すすべもなく潰れるのみでしょうな」

「まるで希望の見えない話ですね……間に合うなら、酒をたくさん用意した方がいいかもしれませんね」

「はは、それは妙案ですな。全国民の分を用意できないのが残念です……それに、噂で聞いた程度ですが、現在シグレドではイズモ殿とヒューゴ殿が不在だとか」

「ええ……正直なところ、開戦までに戻られるか、わかりません」

 イズモは異次元の実力を持つシグレドの長であり、オウロの祖母だ。理由は知らされていないが彼女はいまアクライルから離れており、戦には駆けつけるだろうが不在による戦力的不安は大きい。イズモ一人いるだけで戦況が大きく変わるだろうから。

 もう一人の不在者、ヒューゴはあまり期待できない。シグレドで四人しかいない幹部の一人であり実力的にも十二分で申し分ない。しかしイズモが心配だと抜かしてシグレド領を旅立ったが、どうせ放浪癖が疼いただけに違いない。なにせ彼はその直前まで外の世界を漫遊していて、戻ってきた時には既にイズモはいなくなっていたからだ。オウロの知る限り、人生でシグレド領にいた時間の方が圧倒的に少ない。

「……僕もシグレド宗家としての自負はありますが、考えれば考えるほど絶望的だ。本軍を守りながら戦い抜けるとも思えませんし……陛下は何故、戦おうなどと思ったのでしょう」

 ベルグランは、持つ者のいない杯をじっと見つめた。

「わかりません。しかし推察はできます。それについては、儂よりアキの方がよくわかっていたでしょう」

「?」

 戦争に反対した者こそが戦争に至る理由を知っている。どういう事なのか。

「アキゾルフ卿が農業をはじめとして食糧に関わる管理と政策を担っていたのはご存知ですね?」

 オウロは頷く。最終的に皇帝の承認が必要とはいえ、アキゾルフが立てた計画には問題点の指摘と修正を求めたぐらいで、却下した話は聞いたことがない。その点においてレーゼは叔父を信頼していたとも受け取れる。

「アクライルでは不作が続いています。先帝時代より農地の拡大などで対処してきましたが、それでも収穫量は年々減ってきていると、アキはよくぼやいていました。食糧は南部第七地区からの輸入にも頼ってきましたが、あちらも収量が減っているようで値上がりしており、経済的にも痛手になっています……丁度この席でアキが嘆いて頭を抱えていたのは、つい先日のことでした。試算したところ、十年後には現国民の二割、更に十年後は七割以上もの餓死者が出るだろう、と」

「……そんなに深刻な状況だったんですか」

 率直な驚きが声にも顔にも出てしまう。豊かさとは縁遠くも、節制に長け暮らしてきたのが、そんな薄氷の上に成り立っていただなんて。

「実感を持っているのは農業に携わっている者達ぐらいでしょう。この事を承知している城勤めの者ですら、元より枯れた地なのだからまた乗り越えていけると楽観している者が少なくありません」

「……シグレド領で採れた作物をアクライル本土に分けたりできないんでしょうか」

「それが出来ればありがたいですが、解決には遠いでしょう。シグレドの領地は本土と比べてごく僅か、食用に適するよう加工するのも工夫が要ります。まあ、幸いというべきか断崖絶壁を挟むとはいえ海に囲まれていますから、本格的に漁業を拡大できれば多少の改善は見込めるでしょう。望みは大きくない、とアキは言っていましたが」

「魚か……僕は結構好きなので、増えるなら単純に嬉しいです。特にフグとか、大きくはないので問題解決にはならないでしょうが、増えたらありがたいです」

 そういう状況ではない事は承知しているのに、食糧の話をしていたら腹が減ってきた。いつになるかわからないが、シグレド領に戻ったら焼き魚が食べたい。宗家に勤めている料理人が作るものは、焼き加減から塩加減まで、シンプルなのに絶品なのだ。

「フグですか。あれはまぁ、アクライルではよく穫れる魚ですが、ほとんどシグレドに回していますからね。漁獲量が増えたところで、さして解決には繋がりますまい」

「アクライルの人達は食べないのですか? 美味しいのに」

「気風と合わない、といいますか。儂も詳しくはないですが、下拵えが煩雑な上に、種類によって取り除かねばならぬ部位が違うそうですし、それらは捨てなければいけないのが性に合わんのですな。アキが主導してシグレドから調理技術をアクライルに広めようとしていた事もありましたが、伝えたにも関わらず有毒のワタを食って死ぬ者が相次いだせいで、断念する事になったとか。以来、あの魚は一部のシグレド嫌いを増長させ――」

「――ちょっと、待ってください」

 言葉を途中で遮られたベルグランは怪訝そうにオウロを見て、その真剣な表情に眉間の皺を深くした。

 由々しき言葉を聞いた。その真意を問い質すのは、シグレド宗家の者として為さねばならぬ事だろう。

 厳かに、口を開く。

「フグって……毒があるんですか?」

 ベルグランは数度瞬きすると、息をついて額を押さえた。酒を飲みすぎたのだろうか。

「……オウロ殿は剣術以外に疎いと聞いてはいましたが、ここまでとは」

「もしかしてバカにしてます?」

「滅相もない」

 呆れを見せていた彼は軽く咳払いする。

「まあ、いますぐ影響が出る事ではないものの、食糧問題は喫緊の課題です。その解決策として領土を広げ農地を得るのは自然の成り行きかと……無謀な相手に喧嘩を売ることになろうと、それしか糸口がないのなら、そういう運命だということです」

「…………」

「尤も、ここまでの話は文官でもない儂でも思いつくものです。陛下はもっと、別の何かを見据えているのではないか……そんな予感がしています」

 長く交わした言葉よりも、これが本題だとばかりに真摯な声音。

「別の、何か」

「無論、それが何かは皆目検討もつきません。しかしオウロ殿もよくご存知でしょう。陛下は良くも悪くも狂っておられる。時に、人間と思えぬほど」

 その時、談話室の扉がノックされ「失礼します」の言葉と共に開けられた。

 そこにいたのは一人の侍女。立ち入り許可のない談話室の中には入らず、入口から中を見渡し、オウロを見つけると深々と頭を垂れる。

 アイネスではない。彼女であれば、このお辞儀の動作ひとつ取ってももっと完璧に、そして機械的にこなすだろう。

「シグレド・オウロ様、レーゼ皇帝陛下がお呼びです。私室までいらしてください」

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