1_2章

 アクライル皇城の謁見室は国の状況を表すかのように質素で、しかしながら貧寒には見えず、むしろ洗練された荘厳さを感じさせる。

 その謁見室は今、主である彼女によって、張り詰めた空気で満たされている。慣れない者はそれだけで畏怖し、慣れた者でも緊張を抱いてしまう程に。

 だから慣れた者は皆、目を閉じている。玉座の影に静かに冷たく佇む侍女も、玉座に程近くで僅かな階段の下に直立する異国風の装束をまとった少年も、その反対側で位の高い軍服を身に付けた禿頭の初老の男も。

 そしてこの広い部屋の中央に並べられた椅子に座る数名の者達も、彼ら程ではなくとも慣れているのだが、目を閉じるわけにもいかず皇帝の姿を直視しながら、渇く唇を時折湿らせながら強張る声を絞り出す。

「――して、現状は何らかの被害が出ているわけではないのですが、今後を見据え港及び通路の改修をご検討下さればと存じます」

「ふむ」

 黒真珠を梳いたような長い髪がかすかに揺れる。

 美しいものは魅力を持ち人の心を惹きつける。それが高まれば人の心を奪うまでになる。そして極まると、心を支配してしまう。欲しいと思う事さえなく、ただ問答無用でひれ伏す畏敬の対象として。

 平伏する者の身に相応しくなく、脇に並び立つ者としても不釣り合いで、そこだけが正しく在るべき場所として玉座に座る若い女。

 尤も、彼らの声が震え覇気もないのは、いまこの時、その至高の人形めいた美しさだけが原因ではないだろうが。

「漁業の拡大を踏まえ議会でも検案していた事項だ。こちらで手配しよう」

「はっ……ありがとうございます」

「――恐れながら、陛下」

 初老の男が声を挙げ、皇帝と上申していた市長らの視線が向く。

「如何した、ベルグラン将軍」

「次の議会で申し上げるつもりでしたが、港の整備、軍部としては些か賛同しかねます。外部の海洋勢力に我が国へ攻め入る隙となりかねません。特に、スレイドラグ教国は強力な海軍を保有していると聞きます」

 アクライルの土地は東西南を海に囲まれており、いずれも浜はなく切り立った断崖で隔てられている。それでも港はあるにはあるのだが、幾艘かの小船を停められる程度の貧相なもので、そこへ至る通路も崖を削った細いものだ。

 使うには不便な上に危険も伴う。しかしそれは、外敵を阻む強固な砦にもなっているのだ。

「無論、承知している。備えはいるだろう。その際はお前の意見が大いに役立つはずだ」

 ベルグランは皇帝から向けられる視線を真っ向から受け止め、しばし後、元のように目を伏せた。

「出過ぎた事を申しました。皆の者、話の腰を折ってしまいすまなかった。続けてくれ」

 そう促されるも、スレイドラグという名を聞いた皆は目線を下に向け、口ごもった。

 それは皇帝に向ける畏れとは異なる、純粋な恐れだった。

「……では、あの――」

 しばし後、次の市長が口を開こうとした瞬間、異国風の装いの少年が目を開き、僅かに身動ぎした。

 少年、否、わずかに幼く見える顔立ちではあるが、青年と呼んで差し支えない年頃か。体格は大きくない。しかし、開いた前面を重ね合わせて帯で止めたこの国でもスレイドラグでも見られない装いや、背に負った長大でわずかに反った曲剣は目を引く。

「――待て」

 彼の動作に目敏く反応した皇帝が、市長達を手で制した。

「は、え?」

「すまないが急用だ。此度の上申会は中断、近日中に臨時で行うから報せを待つように。諸君は速やかに街へ戻りたまえ」

 謁見室の入口を見つめながら告げられた言葉に動揺が広がる。

 やがて、近づいてくる足音が聞こえてくる。物々しく重い、無数の軍靴の音が。

「レーゼ! 貴様なにを考えている!?」

 市長達が退出する間もなく謁見室に踏み込んできた百人近くもの兵士達、その先頭に立つ文官風の中年男が、玉座に向けて声を荒げ一喝する。

「不敬だぞアキゾルフ卿。儂の配下を連れて何をしているのだ」

「ベルグラン、配下の命を預かるお前こそ、そこで何をしている?」

 動じることなく怒りを隠そうともしないアキゾルフに、ベルグランは鋭い睥睨を向ける。

「儂の役目は戦の采配だ。戦そのものの是非を決める事ではない」

「スレイドラグとの戦が始まればどんな策を講じようと同じこと。ならば戦の回避に尽力すべきだろう!」

「ふん」

 ベルグランは鼻を鳴らすと、腰から剣を抜いた。鞘に収めたままの剣を。その切っ先部分を両手で包み、柄の先端をまっすぐ床に打ち付けた。すぐには剣を抜けなくなり杖をつくようなその姿勢は、アクライルにおける敬礼の一つだ。総て皇意のままに。そんな意味の敬礼。

 腑抜けめ、という忌々しげに吐き捨てられた言葉は、小さいながら不思議と謁見室中に響いた。

「それで、欲しいのは私の首と王座か。布告を取り下げるにはそれぐらい必要だからな」

「わかっているなら大人しく差し出せ。この三年、皇位をお前に譲って正解だと思っていた私が愚かだった」

 アキゾルフが手を掲げ号令すると、兵士達が一斉に剣を抜く。部下達のその行動に、ベルグランは嘆息をこぼして。

 玉座に向けられた無数の切っ先は、しかし小さく揺れている。それは皇帝への畏怖よりも、いまは明確に強い恐怖、諦観によって。

「アキゾルフ卿、道を開けよ。各市の代表がたは帰るところだ」

「この期に及んでまだ賢帝ぶるつもりか?」

「私の首を獲ったところで、彼らに危害が及んでみろ。民の血に汚れた玉座は脆くなる。停戦できたとてアクライルは終わるぞ」

 アキゾルフは顔を顰めたが思う所があったのだろう。「通してやれ」と命じ、入口を塞いでいた兵達がまばらに道を作る。まだ不安そうな様子を隠せない市長達は、足早に抜けていった。

「オウロ」

 そして若き女皇、レーゼが名を呼ぶ。

 応じた青年が、レーゼやアキゾルフらの丁度中間あたりまで歩みを進め、背負った大太刀を抜き払う。抜く、という表現は正しくないかもしれない。小柄な人間の背丈ほどもある刀身は長く、鞘の方を放り捨てねば鯉口から引き抜く事は到底できない。鞘には身に付けたまま抜けるよう、峰側が開いて覆いを被せるようになっていた。

 露わになった刀身が照り返す光は濡れているようで、見る者の心に妖しく住み着き、心臓を撫でるように掴み締め上げる。

「皇帝守護役、このシグレド・オウロより先へは進ませない」

 大太刀を構えはしない。道を塞ぐ意思を見せるように、片手で保持したそれを横へ向けるだけ。或いは、積極的に斬る意図を見せないためか、怖気を抱かせる妖しく美しい刃を見せつけるためか。

「……この人数をお前一人でどうにか出来ると?」

 幾分か声音が固まるものの、アキゾルフはそれでも一歩踏み出して、

「シグレドの人間を一人どうにかするのに、この程度の人数で足りると?」

 まるで動じないオウロに、足踏みする。

「……僕もアクライルの人を斬りたくありません。どうかお引き取りください」

「――オウロ、アキゾルフ卿だけ通せ」

 レーゼから投げられた言葉に、を威圧する姿勢を崩さぬままオウロは戸惑った。殺意を向けられているのは彼女もわかっているはずなのに。

「しかし……」

「構わん。は私に用があるのだから」

 迷いは拭えない。だが命令ならばと、空いている左手で手招きする。

 抜き身の剣を提げたアキゾルフが、恐る恐るという風にも取れる、ゆっくりした足取りで進む。

 やがてオウロの真横まで来ると、一度立ち止まった。並びながら真逆の方向を向く彼に、語りかけてくる。

「このまま進めばあの小娘を斬るぞ、守護役」

「主命ですから」

「私も皇族だぞ。こちら側につけ」

「シグレドの主はアクライル皇帝のみ。あなたは皇帝じゃない」

「忠を尽くすのは結構だがな、正しくあるべきだ。正しくない主について、自分まで泥をかぶる事はなかろう」

「……我らの正義は忠節であって、道徳や倫理ではありません」

「くだらぬ犬めが。そうか――」

 アキゾルフは深く嘆息し、再び歩を進めた。

「――お前の父は、恥知らずの盛り狼だったな」

 その言葉に、オウロは顔をかすかに歪ませる。

「それをあなたの口から聞くのが、一番こたえるかもしれません。他の誰よりも」

 数々の視線に晒されながら、凶刃を携えた逆臣が国主に近づいていく。

 ただ一人、そちらに背を向けているオウロに後ろから斬りかかる事はしない。そんな事をしても無駄だとわかっているから。

 オウロが幼い頃から交流があったアキゾルフは、シグレドを除けば数少ない、その実力を知る人間の一人。強さも弱さも知っている。だからアクライルの者も必要ならば斬る覚悟を見せられて、躊躇した。

「アイネス」

 迫る脅威にもひどく冷静に、皇帝は傍らの侍女に呼びかける。

 静かに差し出された武器の鞘を掴み、それを抜くことなく悠然と玉座に座し続ける。その武器は、アクライルの誰もが用いず、本来ならばシグレドのみが扱う、刀と呼ばれるものだった。

「……レーゼ、お前の父は愚帝と蔑まれたが、人としてはこの上なく好ましい人物だった」

 アキゾルフは足を止める。互いの刃が辛うじて届かない、剣が峰の間合いで思いを吐き出す。

「そしてお前は、人の痛みがわからない。痛みも苦しみも、恐れさえも。お前はそれを理解しようとはしているだろう。だがわかっているフリをしているだけだ。それでも賢帝だった。我が姪、年若い小娘ながら舌を巻くほどにな。衰えゆくこの国を立て直すにはお前がなくてはならんと思わせた」

「…………」

「だがな、アクライルは小国だ。いかに鋭い牙を持とうと、所詮は鼠のようなもの。スレイドラグという巨大な虎……いや、竜を食い殺すには、あまりに小さすぎる」

 アキゾルフは剣を振り上げ、間合いの内に踏み込んだ。

「お前はこの国を滅ぼそうとしているのだ――!!」

 咆哮めいた言葉と重なって、鉄と鉄がすれ合う音がした。

 刃がぶつかり合う音としてはとても小さな、あまりにも小さな金属音。

 オウロはその音が何なのかよく知っていた。鞘に収まった片刃剣の鯉口を切った音。そして背を向けていて様子を見ることが叶わずとも、何が起こったかわかってしまう。

 その証左に、石床に重い物が落ちる音がした。それは硬くも表面は柔らかく水気を帯びた、たとえば人の頭が首から離れて落ちたならば、こんな音がするだろう。

「竜、か。たしかに南部第七地区など、竜の爪の一本でしかないだろうな」

 色の変わらないレーゼの声音に動揺が広がる。皇族であり重臣でもあったアキゾルフを皇帝自らの手で、手練れの執行人が如く無情に一太刀で斬首した事に。

 彼が率いてきた兵士達の中には意気消沈して剣を下ろす者もおり、皇帝寄りの立場を示したベルグランでさえ、その事実に目を瞠った。

「…………」

 狼狽は等しくオウロの内にも芽生えていた。しかし抑え込む術は知っている。

 己の役目は戦慄することではなく、忠義を捧ぐこと。主と同じく明朗とした声を張る。

「陛下にあの技を教えたのはこの僕だ。剣を収め、陛下に変わらぬ忠誠を誓うがいい。さもなくば、地面から己の身体を見上げる事になる」

 鍔鳴りの音。レーゼが居合で抜いた刃を鞘に戻し、杖のように床を突いて硬質な音を響かせた。

「我が国が擁する最強の剣士イズモに次ぐ技量の持ち主、オウロに挑む者がいるなら、それもよかろう。だが――」

 それは鼓舞するように。彼女らしくなく、それでいて御伽噺の恐れを振りまく魔女の誘惑のように、耳からするりと心の臓まで絡め取っていく。

 挑むべきではない巨大な国への宣戦布告に一度は抗った者達の心さえも。

「散るならば、ただの敗者となるより、竜に挑んで英雄となる道もあろう? 諸君らはその資格を得たのだ」

 滅びとまで言われた道へ彼女を突き動かすのが何なのか、誰も知らない。

 けれど彼女は知っているのだろう。己がいまや、民草から狂皇と呼ばれている事を。

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