1_1章

 防衛師団の詰所の扉を開けた少女の姿は、その場に置いては目を引くものだった。

 仲間達と比べれば小柄な体躯は彼らの平服と同じ意匠ながらも、サイズの違いと言うには不自然な程に露出が少なくだぶついている。

 そして錆色の癖の強い髪に縁取られた表情は固く、孔雀石マラカイト色の目は困惑に揺れていた。

「おうシルニアちゃんじゃねぇの。どうかしたか?」

 遠征任務を終えたばかりだからか詰めている団員は多くない。それぞれが思い思いの過ごす中、入口近くの古びた卓を囲んでいる年配の兵士が彼女に気付いて声をかける。カードゲームに興じているようだが、何かを賭けている様子はなくただの暇潰しだろう。なにせ彼らに賭けられるような物は何もないのだから。

「……団長、どこにいるか知りませんか?」

「あァ、執務室に入ってったのは見たぜ」

「ありがとうございます」

 軽く頭を下げて、シルニアは執務室に歩を進める。

「……どうしたんだありゃ」

「また出撃命令でも来たんスかね?」

「かもなぁ。まだ死んだ連中の弔いも終わってねぇし、落ち込むのもわかるか」

「フクザツな立場っスもんねー」

 背後から聞こえてくる会話に何か返す事もなく、口を噤んで詰所の奥へ向かう。

 最奥の行き止まり、左側にあるのは表札も何もないが団長室。中もそれらしい物はなくただの物置になっている。その反対側、こちらも何も書いていない簡素な扉が執務室。シルニアが探す人物は大抵ここにいる。

 はっきり聞こえるようにノックした後、返事も待たずに中に入る。

「失礼します、団長――あれ?」

 それだけが豪奢などこぞの上流階級から払い下げられた執務机の向こうから、くたびれた笑顔を向けられる。

 やつれているように見えるのはいつものことで、それぐらい見慣れた顔ではあるのだが、彼女の上司ではない。

「お疲れ様です、シルニア副長」

「あぁ、えっと、お疲れ様ですペネルさん」

 執務机で積み上げられた書類に向かい、今も何かをしたためている男は部隊長、つまり副団長であるシルニアの部下にあたる。年はだいたい三十ぐらい、とは本人の弁。年齢に意味がなく、生まれ年すら不明な者も多い奴隷で作られた防衛師団には珍しくもない。

 線が細くいつも疲れた風貌をしている彼は戦闘任務に向いていないように見え、事実そうなのだが、頭は切れるしこの身分には珍しくしっかりと読み書きができる。

 故に、この組織に存在しない役職ながら参謀のような立ち位置にあり、書類仕事はもっぱら彼が片付けくれている。

「団長をお探しでしたら、ほら、そこに」

 ペネルが執務室の隅を指差すと、丁度そちらから鼾が聞こえてきた。

 目を向けると、並べた椅子を簡易的なベッドにして、気持ち良さそうに惰眠を貪るダメ上司がいた。

 団長とは名ばかりでろくに仕事をせず、こうして昼寝しているのもいつもの事ではある。

 しかしながら、今日この時ばかりはシルニアの堪忍袋の緒もぷつんと切れた。

「起きろっ……ブレド団長!」

 相手の方が上の立場だとわかっていながら、その肩を思いっ切り蹴り飛ばす。

 しかし相手はびくともせず、

「いっ……たぁ……!」

 逆にシルニアが爪先を押さえて悶えた。

 この男の身体が異常な事ぐらいわかっていたはずなのだ。だが彼に対する日頃の鬱憤と今の気分がそれを忘れさせてしまった。

「んぁ? ……あー、シルかよ。何の用だよ」

 微塵も動じなかったが蹴られた感覚はあったのだろう、ボサボサの鮮赤の髪の隙間で億劫そうに目が開く。

 年はペネルより多少下、シルニアより一回りほど上といったところか。高い背と引き締まった細身は剽悍な印象を受けるが、鉛で出来ているのかと思うほど、その身は重い。

「……伝令です。たまには仕事してください」

「ならお前の仕事だろ」

「貴方の仕事です!」

「興味ねえ。寝る」

「そうやっていつも……」

「文句あるヤツいんなら連れて来いよ。お前以外のな」

「…………」

 押し黙っていると、すぐにまた鼾が聞こえ始める。

 これが、やる気の欠片も見せないブレドが団長たる所以。高い階級に胡座をかく誰もが、正規軍の皆が、奴隷の身である彼に近づく事だけは何があっても拒む。

 もし万が一、彼の機嫌を損なってしまったら――武器になる物を持たず、たとえ手足に枷が嵌められていようとも、命を落とす覚悟をする事になる。

 それを為すのは過ちであり、罰が付き物と言えよう。しかし彼はその程度の過ちを恐れない。彼を止められる人間など、この広いスレイドラグ教国のどこにもいないだろうから。

 尤も、彼の気分を害する事よりも恐ろしい事態が迫っているのだが――

「伝令という事でしたら、ぼくが承りますよ」

「……いつもすみません、ペネルさん」

「適材適所、というやつです。それで?」

 先日防衛師団が教国西部へ派遣された遠征任務の報告書を書いているのだろう。ペネルは手元に目を落としたままペンを走らせ続けている。

 シルニアは執務室内を見渡し、ブレドが並べるために持ってきて余ったと思われる椅子を机の前に移動させて腰を下ろした。

 これを告げるのは勇気がいる。その事実とは別に、個人的な気持ちとして。

「アクライルが宣戦布告してきたそうです」

 ペネルの手がぴたりと止まる。

「……それは本当ですか?」

「あたし達が帰還したのと同じ頃、アクライルからの使節が来たみたいです。一ヶ月後、この南部第七地区を攻撃すると」

 南部第七地区は文字通りスレイドラグ教国の南部地方であり、第七地区はその最南端に位置する。

 アクライル皇国はその更に南にある小さな国だ。細い街道がある北側以外は高い崖と海に囲まれ、教国が布教という名の侵攻を事実上諦めた難攻不落の国。

「なんとも律儀な……しかし事実なら、一ヶ月後が我々の命日になるかもしれませんね」

「…………」

 アクライルは小国なれど強大な兵力を持っている。険しい環境で生きてきた彼らの能力は、非戦闘員の女子供でさえ武器を持てば教国の正規兵に匹敵するとさえ言われているのだ。

 なにより、伝聞でしか知らないが、シグレドと呼ばれる精鋭の戦闘集団を擁している。彼らが動けば防衛師団も紙切れ程度の働きしか出来ないかもしれない。

「アクライルは何故急に……? 期間を空けたのは教国民に逃げる機会を与えるため? それとも別の思惑? そもそも目的は? いや……ぼくが考えるべき事じゃないな」

「……団長がいても厳しいんでしょうか」

 ペンを置いたペネルはしばし考え、視線をブレドに向けてしっかり寝ているのを確認すると、ため息をついた。

「団長は問題ないと言うでしょう。たしか十二年前でしたか、手違いでシグレドと刃を交えた事もあるそうですし。布教が至上命題の教国にとって、アクライルを落とせるなら団長を攻撃部隊に加えればいい。しかし総統閣下はそうせず、アクライルとは穏やかな関係を続けていらっしゃる。勝ち目がないから、或いは勝てても甚大な被害を受ける事になるから。そう考えるのが自然でしょうね」

 彼が出した考えに、シルニアは渋い顔を返す。この第七地区の指導者は辣腕で知られていた。

 その長けた手腕の一つが、戦局を見る目、戦士の能力を見抜く力にある。彼は教国の幹部として多くの国への布教侵攻で指揮を取り、その全てで勝利してきた。

「……まだ一ヶ月あります。ペネルさんは、逃げないんですか?」

 全員が奴隷で構成されるこの南部第七地区防衛師団も、ほとんどが教国の布教に敗れた国の、改宗しなかった者達の成れ果てだ。その時の敵側の指導者だった者が今の指導者となった者も、少なくない。

 それでも、

「エルシャバーズ閣下が応戦を選ぶなら、ぼくは戦いますよ。剣を振るう間もなく死ぬとしても」

 ペネルは微笑んで言う。

「ぼくは、閣下に感謝してるんです」

「……開戦すれば死ぬだろうって、わかってるのに?」

「この国の奴隷は元々、家畜のように生かされて、家畜ほどの価値もなく死ぬだけでした。でも十年前にこの地区の主がエルシャバーズ閣下になってから変わりました。まだ第七地区だけですが、だいぶ人間らしい待遇になりましたし、死に方だって、意味のあるものを選べるようになりました」

 彼の言葉は正しい。シルニアもその変化を、この十年間見てきた。そしてペネルと同じ気持ちでいる者がこの師団に多くいるだろう事も、よく知っている。

「貴女だって、逃げる気はないのでしょう?」

「…………」

 正直な話、逃げたいという気持ちはある。

 どんな強国、どんな強敵だろうと退く気はない。アクライルよりも強大な相手との戦争になろうとも、だ。しかし、アクライルとの戦いだけは、迷ってしまう。

「……ともあれ、各部隊への伝達や戦準備はぼくの方で手配しておきます。副長はこの後、行かなきゃいけない所があるでしょうから」

「そうですね……そろそろ失礼します」

 シルニアの表情に気付いたのか話を打ち切ったペネルの言う通り、これから向かわねばならない所がある。その支度も考えればさほど時間に余裕があるわけでもない。

 席を立ったシルニアに、彼は「あ、そうそう」と書類の山の向こうから何かを差し出した。

 両手に乗るぐらいの大きさで、木の葉に包まれた塊。最近は紙包装も広まっているが、安価な品、特に食べ物は大きな葉で包む事が多い。

「これ、どうぞ」

「?」

「サンドイッチです。仕事の合間にと思って用意したんですが、どうにも食べている暇はなさそうですから。悪くなっても何なので、食べちゃってください」

「ありがとうございます……なんだか、すみません」

「お気になさらず」

 目を伏せて例を伝え、葉包みを受け取る。その手を、ペネルはじっと見つめた。

「……左手」

「はい?」

「大丈夫そうですね」

 彼の言わんとしている事に、ああ、と気が付いた。

「ええ、問題ないです。それじゃ」

 シルニアは改めてペネルに一礼し、ついでに空気を読まず鼾をかき続ける団長を、意味がないと知りながら睨みつけて、執務室を後にする。



 生まれた頃からずっと住んでいるこの奴隷居住区も、この十年で大きく様変わりした。

 人々には生気があり、質素ながらボロ布とは呼べない衣服を身に着け、立ち並ぶ家屋は雨風を凌げる程度ながらきちんと屋根と壁がある。

 そんな居住区の外れ、街に程近い場所にある小さな建物は、他よりもしっかり整えられた造りになっている。シルニアが近づくと、入口の脇でひとり警備にあたっていた人物が、何も言わずわずかに頭を垂れた。

 この居住区に住まう人間ではない。教国の正規軍の人間だ。

 シルニアも同じ仕草を返しながら、ちらりと目をやる。顔も名前も知らないその兵士の表情からは何も読み取れない。ここの警備に就くにあたって心を顔に出してはならないとでも訓練されているのだろう。きっと胸の内では、この任にもこの場所にも、奴隷の身であるシルニアに対しても溢れんばかりの不満を抱いている。

 防衛師団副団長室、とでも言うべきか。恐らく広い教国で唯一の、複雑な立ち位置にいるシルニアの居宅だ。

 中にある、生活水準が向上したとはいえ奴隷には似つかわしくない上質なテーブルもベッドも、随分使っていない。

 シルニアがここに来るのは、せいぜい着替え程度。クローゼットを開けると、買い与えられた服が何着も並んでいる。その中のひとつ、修道服を取り出す。おかしなものだ。スレイドラグの宗教に傅かない奴隷である自分が、深い信心の証であるこの服を着るなんて。

 師団の平服を脱ぎ、畳んでテーブルの上に置く。なんとなく自分の身体から目を逸らしながら。見慣れているのに、つい、そうしてしまう。

 人の身とは思えないから。

 それは決して異形というわけではない。

 焼け、爛れ、無数の深い傷跡、炭のような黒ずみが残り……まるで弄ばれた死体のようであっても、かつては平凡な少女の身体だったのだから。

 修道服の袖を通しながら、左手を見遣ってしまう。

 怪物じみた見た目だが見慣れたものだ。新しい傷跡はない。

 先日派遣された西部での戦いで、部下を庇った際、

 だが、こうして継ぎ目もなく繋がり、そんな事があったのも忘れてしまうぐらい違和感なく、元通りになっている。

 誰が言い出したのだろう、これをだなどと。

 切り刻まれ、叩き潰され、抉り抜かれ、焼き落とされ、何百何千でも死ねるような痛みを飲み込みながら生きる事を。

「……サンドイッチ、食べとこ」

 こんな身体でも腹は減る。もしかしたら餓死はあるのかもしれないが、試した事はない。死ねるとしてもそんな無為な死に方はしたくない。

 ペネルに貰ったサンドイッチも、かつてなら奴隷が口にする事はなかった。手軽ながら、結構美味しいものだ。

 けれど好きな味ではない。今になって思えば、あの日に食べた急拵えのサンドイッチは粗末なもので、いま手にしている物の方が美味なのだが、あれが好きだ。

 だから感傷に耽っても仕方あるまい。彼女と出会ったあの日の事と、アクライルの気狂いじみた宣告を。

「どうしてなの、レーゼ……」

 小さな部屋の中、誰に向けるでもなく、シルニアは友の名を呟いた。

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