プロローグ2

 教国の伝道師の誰も口にしたことはなかったが、死後の世界というものはあるらしい。

 それはとても柔らかく、ふかふかに包まれて眠るようで、ちょっといい匂いがする。

 微睡みがのしかかる重い瞼を上げると、天井が目に入った。

 起きて最初に目にするのが天井、という経験はシルニアにはない。いつも朝日に焼ける薄青い空か、ボロボロの汚い幌だから。

「目が醒めたか」

 少女だろうか、かなり年若い声がした……時間をかけてそれが自分に向けられたものだと気付いて、シルニアは声のした方に顔を向け、知らず息を呑んだ。

 年齢はシルニアより少し上、十歳ぐらいだろうか。艶のある長い黒髪を垂らす彼女は、手に持っていた分厚い紙の束……恐らく本と呼ばれる物をテーブルに置いて、こちらに向き直った。

 まだ幼いながら、誰もが目を奪われるだろう、まさしく伝承に出てくる天使のような美貌。

 そして、シルニアはそう表現する言葉を知らないが、天使と呼ぶには氷のような無機質な表情。

 けれど、冷たい心の持ち主という風には、見えない。

「まだ横になっていていい。体力が落ちているようだが、なによりまともに食事を摂っていないようだな。食事の準備を頼んでいるから、しばらく待っていてくれ」

「……えっ、と……?」

 多くの疑念が押し寄せて渋滞する。

 この状況についてわからなすぎる。自分は死んだのではないのかとか、ここはどこなんだとか、貴女は誰なんだとか。あと妙に身体がすっきりしている。水浴びした後みたいだ。そこに気付くと、身に着けているのもいつものボロ切れではなく、簡素ながら奴隷より身分の高い人々が着る服だった。

 わからなすぎて落ち着かない。何なのだ一体。

 けれども思考は、コンコン、というノックの音に中断させられる。

「丁度、だったようだ。よければ一緒に食べようか」

 そう言って少女は、テーブルの上に重ねられた本を端に寄せ、部屋の入口に向かい扉を開ける。

 ……そう、ここはどこかの部屋だ。風の吹き込んでこない空間などシルニアには馴染がなく、いま寝ているのも寝台のようだ。そういう物があると、知識としてだけ知っていた。

「オレ、世話係になった覚えはねェんスけど」

「私がやっても構わんぞ。貴方の首の保証はしないが」

「それが嫌だからこうしてンだろ。イズモのババアが相手じゃ首が落ちても気付けなそうだし」

 少女と話しながら部屋に入ってきた赤毛の大男は、器用に手と前腕に載せていた皿をテーブルに並べていく。

「この辺じゃマシな方だが、場末の安宿だ。あんまイイもんじゃねェぞ」

「普段出されているものは色々と工夫が凝らされているが、庶民の食事の方が体に良い事も多い。この、クロムギを使ったパン一つ取ってもな」

「そうかい。ま、オレぁ外で待ってるからお好きにどーぞ」

 並べ終えた男はそれだけ言うと部屋を出て行った。見たことのない服装をしていたが何者だろう。

「どうした? ……起き上がれるなら、ここへ」

 少女が対面へ促すのを見て、シルニアはゆっくりとベッドから降りる。

 椅子の横まで来ると、テーブルに並べられた、簡素な、それでいてシルニアは見たこともない料理の匂いに、思い出したように強烈な空腹感が襲いかかる。

 あの世でも空いた腹はそのままなのか、と虚ろな頭が思う。なにせ、いまだに状況がさっぱりわからないのだ。

「……あたし、おかねとか、なにも……」

 そう口にしたのはきっと矜持とかではなく、混乱の大きさによるものだったろう。

「不要だ」

「……でも」

「施しは素直に受け取っておけ。君が損する事はないし、拒んだら侮辱と受け取る輩もいる。食べられない理由が何かあるなら仕方ないが」

 対価が求められないのなら、たしかに断る理由はない。シルニアも食べて当然とばかりの少女の態度に、大人しく対面の席についた。

 見様見真似で食器を手に取り、しかし固まる。

「この国では天使という存在が信じられているらしいな。君を見た時、それは本当なのかもしれないと思ったよ。なにせ上から落ちてきたのだから。尤も、言うまでもなく人間だったがね。ヒューゴ……さっきの男だが、あれが咄嗟に受け止めていなければ、死んでいたかもしれないな。そうならずに良かったよ。……どうした?」

 状況を説明してくれたのだろう、少女の少女らしくない口調の饒舌さは、身動き一つしないシルニアの様子を気にしてか途絶えた。

 食器を手にしたのはいいが、使い方がわからない。少女の食べる仕草を見てなんとなく把握はできるのだが、今度はその食べている物がわからない。

 黒褐色の塊は何なのか、たくさんの粒が入っている泥のような色の水は何なのか、中に黄色い玉が入っている白い扁平な物体は何なのか。

 少女が何の躊躇もなく口に運んでいるから食べ物だという事は一応理解できる。けれどシルニアにとって食べ物とは、芋やらの食材を火で焼いただけでそのまま手掴みで食べるのだ。

「なるほど。無知は恥じる事ではないし、私もいま学びを得た。エルシャバーズ殿の尽力が実を結ぶのもこれからだろう。少し待っていろ」

 エルシャバーズって誰だったか、と少し思いを巡らす。確か伝道師の口から聞いたはずだ……最近、この地区の総統に就任した人物の名前だったはず。

 もちろんシルニアが知っているのは名前だけだ。どんな人物なのか、男か女かすらも知らない。奴隷の身では知る術もないし、知ってどうなる事もない。

 少女はシルニアの元から黒褐色の塊を取ると、薄く平たい食器で上下に切り分けた。そこに窪んだ食器で掬った湯気の立つ液体を垂らし、続けて粒々を載せ、白と黄色の物体も載せて最初に切り分けた塊の上部分で挟む。

 そうして出来上がった物を、シルニアに差し出す。

「こうすれば食べやすいだろう。いくらか行儀は悪いが、気にする事もあるまい」

 大人しく受け取ると、少女は自分の分も同じようにし始める。

「これはパン。クロムギを使った庶民の主食だ。こっちはオニオンスープ、具として入っているのはヒヨコ豆だな。それと目玉焼き。鳥類の卵を焼いた簡素な料理だが、広く食べられている」

 手際良く同じ物を作り終えた少女は、いまだ手に持ったままのシルニアを軽く一瞥すると、口元に運んで齧りついた。それなら、食べ方はわかる。

 シルニアも見たままにかぶりつき、また固まる。けれど今度は、驚きで。

 味がする。いままで食べ物にそんなものを感じた事はなかった。いや、あるにはあるのだが、摂食に伴い仕方なく慣れていただけで、なくせるならば舌など不要とさえ思っていたのだ。

 美味い、という感覚を、シルニアは生まれて初めて知った。

 パンと呼ばれた塊は、瞬く間に三分の一が減り、半分になり、気付くと手の中から無くなっていた。

「健啖だな。まだ食べるか?」

 既に皿の上には何もない。少女の手にはまだパンが半分以上残っているが……それとも食べ物を追加で持ってこれるのだろうか。

 いずれにせよ、少し考えたシルニアは首を横に振った。空腹ではあったが、完食して少し落ち着くと眠くなりそうな満腹感がやってきた。

 元々そんなに食べる方ではないし、いま平らげた分ですら、普段の彼女には数日分である。

「……ありがとう、ございます。おいしかった、です」

「美味しい、か。そうか……これも学びだな」

 少女はどうしてか不思議そうにそう言うと、食べかけのパンを手元の皿に置く。

「さて、今更だが自己紹介をしておこうか。私はレーゼ。詳細な身分を明かす事は出来ないが、この国の者ではない。君は?」

「……シルニア。奴隷、です」

「シルニア。先は対価など不要と言ったが、実のところ君と取引をしたい。介抱したのもそれを円滑に進めたいからだ」

 そうか、とだけ思った。

 奴隷とは何かを求める事は許されず、求められる事には常に応じなければならない。

 そんな生き方をしてきたし、その生き方以外に知らない。

「わかりました。あたしの血でも肉でも、何でもお持ちください。他には何も持っていません」

「……そんな物が欲しいなら、落ちてきた時に助けずその場で奪っている。奴隷が皆こうなら深刻だな」

「では、何の労働をすればいいでしょうか?」

 口にしてみた自分の言葉に、はて、と内心首を傾げる。

 実行能力はともあれ現在も課されている労務はある。それをこなすのは奴隷として至上命題だ。

 一方でレーゼと名乗った少女の取引は応じるべき義理があるものの、彼女はこの国の人間ではないという。

 どちらを優先させればいいのだろうか?

「労働、か。ある意味そうかもしれんな」

 そう言ってレーゼは、テーブル越しに手を差し伸べてきた。

「……?」

「私の友人になって欲しい」

「……ゆーじん?」

「友達、と言う方が伝わりやすいかもしれないな」

「……ともだち」

 どちらもシルニアには馴染みのない言葉だ。つまり、何を言っているのかさっぱりだ。

「わからない、か。それもいいだろう。共に学ぼうか。君に学ぶ意思があるなら、この手を握るんだ」

 よくわかっていないけれど、それが求められているのならと、シルニアはその手を握り返す。

 ここにひとつ学びがあったとするならば。

 冷たい印象のあるこの少女も、温かい手をしていたという事だった。

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