狼の名は竜の血にて

春雨らじお

プロローグ1

 青空ほど澄んだものは、きっとこの世にないだろう。

 立てた木の枝にボロ帆を掛けただけのあばら家とも呼べない家屋が点々とあるばかりで、宙には元が何だったかもわからない細かな塵が舞い、饐えて乾いた臭いの立ち込める地上と違って。

 尤も、そんな場所ばかりではないのだろう。彼女には知る由もないが。

「…………」

 廃材を高く組み合わせて梯子を取り付けた、柵も手摺もなく天辺にかろうじて腰をかけられる場所があるだけの見張り台の上で、少女――シルニアはただただ空を見上げる。

 この見張りという仕事すら、必要性はおろか意味があるのかもわからない。この奴隷居住区から目の届く範囲で不届きを働こうとする者など到底いるとは思えないし、いたところで何も出来ない、知らせる手段もない。大声でも挙げれば何とかなるかもしれないが、人類の最底辺で起こる事を気にする者がいるだろうか。それにシルニアには、居住区の外に届くだけの声を出す体力も気力もない。

 だからこそ、彼女に無駄としか言えない仕事を割り当てられたのかもしれない。奴隷の癖にまともな労働も出来ないから、厄介払いとして。

「…………」

 意味なんてないから、シルニアは空を見る。醜く淀んだ地上ではなく、知る限り最も美しい青空を。

 ――遥か昔、地上を支配するのは人ではなく竜だった。覇者として暴虐の限りを尽くした竜は、やがて天に住まう神にも牙を向く。それは神の怒りを買い、神の下僕しもべである天使の軍団が遣わされ、大地が焦土と化す程の戦いの果てに竜は滅びた。そして竜の苛虐と戦争によって荒れ果てた世界を復興する使命を負い、地上に残った天使達が人々の祖である。

 人類の成り立ちがそうらしいとは、何の学もないシルニアも知っていた。この奴隷居住区も教国の一部であり、伝道師達が日々熱心に教えを説いて回るから、覚えの良い者ならば一言一句違わずにそらで言えるだろう。

 神がいる天とは、あの青空の向こうだ。そこはどんな場所なのだろう? 立つ所さえないように思えるけれど、白い雲の上は立てたりするのだろうか?

 空まで行けない人間には知りようもない事だけど、空を飛べる鳥は知っているのかもしれない。だとすれば、名もわからない鳥たちはシルニアよりも物知りだ。

 生まれた時から奴隷だったシルニアは無知だ。この見張り台からでも辛うじて見える、奴隷居住区の外、遥か遠くにある真っ白な石造りの建物の事だって、何も知らない。

 シルニアには知る必要などないのだろうし、きっと知る事もないまま生涯を終えるのだ。

「……うぁ」

 視界がぼやける。鳴る元気もなくなった腹の中が絞られるような感覚。

 最後に食べ物を口にしたのは何日前だったか。

 この奴隷居住区ではただでさえ食料が手に入りにくく、飢え死ぬ者も多い。昼間からそこらの幌の下で寝転がっている者達も、何人かは既に命を枯らしているはずだ。

 数ヶ月前から、こんな場所でも食料の配給がされるようになった。それでも飢餓の苦しみは大きく変わる事はない。行き渡るようになったといえど充分な量とは言えず、腹の満たされない日々を知る者達が蓄えようと、奪うから。

 シルニアのように力無い者は奪われるのみ。

 不思議と、こちらが奪おうと思った事はない。奪えると思わない程度に、正しく自己評価できているだけなのかもしれないが。

 配給制のように、いずれはこの状況も教国が対策を打って終わる日が来るかもしれない。しかし、その時までこの命はもたないだろう。

 ……まあそれも天命、自然の摂理ということか。学はなく、課される労働でもろくに役立つ身ではない。死してなお、畑の肥料にさえ使われまい。

 飢えに寂れた頭で思う。自分がいなくなったとしても、誰かが悲しむでもない。友と呼べる存在すらいないのだ。

 意識が遠のくに任せ、体から力を抜く。

 あるのはただ、感じたことのない、空に浮かぶような感覚だけ。

 この世から消える間際、束の間だけ、鳥になって。

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