漣蒐め

青海⚓︎

四月七日の悪夢

 無彩色の海と空。灰色で覆われた、色のない世界。その中で鮮烈に目に焼き付くのは、そこら中に散らばる人間だったものから零れる、体温と同じ温度をした赤と、穴だらけになった自分の艦体カラダから溢れる、どろどろした黒。血と重油に塗れた体は自分のものじゃないみたいに重たくて。どこもかしこも壊し尽くされて痛いはずなのに、もはやその痛みすら感じなくなっていた。弾薬庫の冷却が効かなくなったのか、体が内側からどんどん熱くなってくる。

──気持ち悪いほどによく覚えている、圧倒的な死の気配。

頭の中で警報が鳴り響いているような気がした。これ以上思い出しちゃいけない、とでも言うように。だけどそれを無視して、非情な再現は続く。

軸は動くけど舵を壊されて、ただ艦首の向いている方向に進むことしかできなくなっても容赦なく敵は追撃を繰り返す。数ノットでしか動けない大型艦なんて、実弾演習の的でしかないから、魚雷も爆弾も向こうからすればおもしろいくらいに当たった。
喉の奥にむせ返るほど濃い血の味がする。左舷側を特に手ひどくやられたせいで、左腕はいつの間にやら吹っ飛ばされていた。左目が見えなくて、触れてみたらべったりと血がついた。
これは夢だ。はっきりとそうわかっているのに、都合よく目は覚めてくれない。悲鳴を上げる精神を無視して、体は…艦体は、勝手にあの時とった動きを正確に模倣していく。
あまりに傾斜がひどくなったから、もう反撃すらままならなくて、ただ諦めたように空を見上げることしかできない。半分に欠けた視界に映るのは、灰色の空に飛び交うたくさんの敵機。死体に群がる小蝿みたいで、気持ち悪い。


──もう嫌だ。これ以上見せないで。そう願っても目を閉じることすらできない。あの時の自分が、目を背けずに空を見ていたから。
そしてそのうちの一機が急降下でもしようとしたのか直上をとった時、体の熱さが最高潮を迎えた。


──死ぬ。

嫌になるくらいはっきり、わかってしまった。

弾薬庫の中の主砲弾、それの中に詰められた火薬が自然発火する。もう止めようがない。連鎖的に他の弾にも火がついて、爆発した。耐え難い激痛が全身を貫いた。体が内側からバラバラに引き千切られる。夢のくせに、ずいぶんと本格的だ。生々しいその感触は間違いなく、あの時味わったもの。噴き上がった火柱に飲み込まれて、トドメを刺す武功を攫おうとしていた敵機が墜ちてきた。

それが、自分が 〝最期に見た〟 景色だった。



 悲鳴を上げながら飛び起きる。呼吸の仕方を忘れてしまったのではないかと思うくらい、息が苦しい。ぐっしょり汗をかいていて、夢の中とは逆に体中が冷たかった。布団を跳ね飛ばして、自分の体を確かめる。
腕も脚も、ちゃんと揃っている。
左目も、見える。
体も、千切れずに繋がっている。
よかった。そう安心した瞬間、喉の奥から血じゃなくてなにか酸っぱいものが迫り上がってくる感覚があった。慌てて手で口を塞いで、部屋から飛び出す。慌ただしく廊下を走って、なんとか駆け込んだ先はトイレ。個室に入ったところでちょうど限界になって、鍵をかけるのも忘れて吐いた。
……毎年、こうだ。毎年、四月七日命日になるとこの夢を見る。悪趣味極まりない、死に様を完璧に模倣した夢を。本当に気持ち悪い。ぐちゃぐちゃに壊された、ほとんど死体みたいな自分の体も。一面に散らばってへばり付く肉塊と血溜まりも。群がる小蝿みたいな敵機も。曇天の、色のない空と海も。そこに広がる、血と重油の混ざったどろどろの重い液体も。こんな記憶を、毎年思い出してしまう自分も。全部、気持ち悪い。
一度吐いただけじゃ収まらなくて、またえずく。もはや夕飯の残骸すら出てこないほどなのに、吐き気はおさまる気配もない。結局うまく吐けなくて咳き込んでしまう。生理的なものなのか、心理的なものなのかわからない涙が零れ落ちる。


「………ぅっ…」


また吐き気が込み上げてきた。でも吐くものがないから、ただ不快感が身体中をぐるぐる巡るだけで何もできない。頭がぼーっとしてきて、荒い息を吐きながら個室の壁に寄りかかる。春とは言えど夜はまだ冷えるから、元々薄着だった上に冷や汗で濡れた体から容赦なく温度を奪われる。それが逆に、前の死因だった弾薬庫の過熱を遠ざけてくれるようで、妙にほっとしていた。そのままゆっくり目を閉じる。もう疲れた。部屋に戻る気力もなくて、いっそ朝が来るまでここでじっとしてようかとなげやりに思う。


 しばらくそうしていたら、不意に頬に温かいものが触れた。


「……?」


不思議に思って目を開けたら、心配そうな顔がすぐそばにあった。髪と目の色が違うだけでほとんど自分と瓜二つの容姿、武蔵だった。


「あ、起きた。大丈夫……じゃ、ねぇよな。さすがに」


ほっとしたようにそう呟いて微笑む彼が目の前にいることが、なんだか救いに感じた。前は自分より先に死んでしまったから、今ここにいてくれることに安心したのかも。


「むさし……」


胃酸で荒れた喉からは、ほとんど音にならない掠れた声しか出なかったけれど、彼にはしっかり伝わったらしい。


「ん。大丈夫、俺はここだぞ」


とりあえず飲め、とペットボトルに入った水を手渡される。程よく冷たい水が喉を滑り落ちていく感触が心地よかった。
だんだん頭が冷静になってくる。それと同時にチクリと胸の奥が痛んだ気がした。武蔵の方がもっとたくさん被弾して、もっと長い時間苦しい思いをして沈んだはずなのに、自分ばっかり過去に魘されてこんな醜態を晒しているのが、情けなかった。


「………ごめんね」


思わず呟いた言葉は、さっきより幾分かはっきり出た。自分がこうなった時必ず寄り添ってくれる彼に、毎年呟くお決まりの言葉。


「お前が気にすることじゃねぇだろ」


この返しも、お決まりのもの。別に提携文をなぞっているわけじゃなくて、毎年心からそう言ってくれるのはわかっているけれど。やっぱりどうしても、この負い目は消えなかった。きっと、来年もこう思うんだろう。そう考えたらますます嫌になってくる。
そのままなにも言い出せずに俯いていたら、手を引かれた。


「なあ、こんな寒いとこいたら風邪ひくぜ? てか、俺が風邪ひく!」


差し伸べられた暖かい手に、自分の体がよほど冷えていたことを知る。優しく触れてきたその手に、自己嫌悪で冷え切っていた心も温められたような気がする。


「だから早く、一緒に帰ろうぜ」


あの日見えなかった太陽みたいに、あたたかくて優しい笑顔に安心する。


「そう…だね。うん、帰ろっか」


手を引かれて立ち上がる。いつのまにか、吐き気はおさまっていた。

 きっと来年も、再来年も、そのもっと後も、この記憶は付き纏ってくるだろう。その度に飛び起きて、吐いて、取り乱して……そして武蔵が来てくれて、一緒に帰るんだろう。それに毎年、救われてきた。今までずっと、そうだったから。
だからせめて、彼が辛い思いをした時は、自分が寄り添ってあげられればいいなと思う。頼ってばかりは申し訳ないし、恩返しだってしたいから。



「ねえ武蔵」


「なんだ?」



───いつもありがとう

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漣蒐め 青海⚓︎ @Oumi_sakuramochimochi

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